カテゴリー別アーカイブ: エレミヤ書

エレミヤ書52章

最後の章は、エレミヤの預言が真実であったことを、史実をもって紹介している。51:64には「ここまでが、エレミヤのことばである」とある。また、エホヤキンの恩赦は、ネブカデレザルの死後のこと、もはやエレミヤが生きていたとは思えない時代に起っている。明らかに52章は、エレミヤ以外の誰かが加筆したものなのだろう。内容は、39章(2列王記24、25章に平行する)の繰り返しのようであるが、祭儀用の器物、いわゆるイスラエルの財宝が皆神殿から運び出され持ち去られたこと、また、捕囚の民の人数、ゼデキヤ王、エホヤキン王の結末など新たな情報も加えられている。

1節、ゼデキヤの母は、リブナの出のエレミヤの娘であるとされるが、このエレミヤは、預言者エレミヤとは別人である。ゼデキヤはネブカデレザルに反逆を計り、失敗し、結果的にエレミヤが預言したとおりの惨事に見舞われた。また、三度に渡って、総数4,600人の捕囚民がバビロンに連れ去られた、とされるが、ここで述べられている人数は、同じ出来事を記した2列王24:14,16とは随分異なっている。それは恐らく、エレミヤ書は、成人男子の実数を書いたものなので、人数が食い違っているのかもしれない。

ともあれ、「エルサレムとユダにこのようなことが起こったのは、主の怒りによるもので、ついに主は彼らを御前から投げ捨てられたのである」(3節)という。つまりイスラエルが反逆したのは、ネブカデレザルに対してではない。単に同時代の勢力均衡を崩す、暴挙に出たからではない。まさに、目に見えざる天地の造り主、かつてイスラエルに格別の憐れみを注ぎ、エジプトから救い出した神に反逆したためである。

エルサレムの城壁も神殿も破壊し尽くされ、町は丸裸にされた。恐らくこの後に、ネヘミヤ書、エズラ書が来れば、それがいかに壊滅的で、絶望的なものであったかがよく理解される。聖書が神のことばである、というのは、やはりこういう神のことばの確かさを語るところである。それは、歴史に働き、歴史を導いておられる神が明らかにおられることを、示している。この神を覚えることなしに私たちの存在もありえない。

また最後の章は、エホヤキンの恩赦に後半焦点を合わせ、イスラエルに回復の希望を与える書き方となっている。神は物事を裁いて終わりにするお方ではない。そういう意味では、エレミヤの預言は、エルサレム崩壊の時代を生きた人々にとっては耳痛いものであったが、実際に崩壊後の70年の捕囚期を生き抜いた人たちにとっては、慰めと励まし、また希望を与えるものであった。今日、私たちがこの書を同じように、耳痛いものとして読むのか、あるいは、慰めと励まし、また希望を与えるものとして読むのか。それは私たちの魂が神の前にどうあるかにかかっている。旧約聖書は、どうも耳痛い、心を責められてかなわないと言う人は多い。しかし、置かれた状況にあっては、それは慰めと励まし、また希望を与える書である。まさに、遜り、砕かれた魂にとっては、ということである。聖書を本当に愛せる書として読んでいくことが望まれる。

エレミヤ書50章

バビロンに対する宣告。イスラエルを打つ神の道具として用いられたバビロンが、一瞬にして滅ぼされることを伝える預言である。しかしすでにエレミヤは、バビロンのくびきがもうまもなく打ち砕かれる、と語った偽預言者のことばに反対して、降伏すべきこと、残された民はユダヤに安住すべき事を語っていた。ここでは、そのバビロンが、もうまもなく、打ち砕かれる事を語っている。

この預言については、どうも後代のもの、つまりバビロン帝国末期(BC538年頃)に未知の預言者が、エレミヤ風に加筆したものではないか、と考えられてきた。しかし、そのように理解しなくてはならない、という決定的な根拠はない。むしろ、エレミヤは、預言者として超自然的に神によって知らされた、さらに先の幻を語り伝えたのだと理解しても差し支えない。実際、エレミヤはすでに25章において、バビロンの滅亡を語っている(12、26)。46章以降、ユダに打撃を与えた数々の小国に対する裁きを述べた後に、致命傷を負わせた大国バビロンの裁きを明瞭に語ることは自然な流れである。

2節「ベル」は、バビロンの守護神、「メロダク」は、マルドゥクとも呼ばれる最高位にある神である。しかしその神々も、バビロンと運命を共にして、北からの敵によって滅ぼされる、と語る。神はバビロンを、イスラエルの裁きの道具とされたが、だからといってバビロンの在り方が正当化されるわけではない。神の前に正しく歩むことがなければ、神はその罪を見過ごしにはされない。神は公正に正しいことをなさるお方である。

また、バビロンの勢いを考えた時に、当時誰が、その勢いに終わりがあると考えることができただろうか。目に見えるところだけで生きていたら、決してそのように考えることはできないものではないか。この預言は国家レベルのものではあるが、私たちの身近な事柄においても、一体どのようにしてこの勢いを逆転させることができるものか、と思うことがあったりするものだろう。圧倒的な勢いに飲み込まれ、倒されてしまった自分の人生がどのように、逆回転するのか、救われるのか、と思うことはあるものだ。

しかし、「高ぶる者よ。見よ。わたしはあなたを責める。あなたの日、わたしがあなたを罰する時が来たからだ」(31節)。「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主」(34節)「見よ。獅子がヨルダンの密林から水の絶えず流れる牧場に上って来るように、わたしは一瞬にして彼らをそこから追い出そう」(44節)。目には見えないが、確かに生きておられる神がおられる、その方が語っておられることに耳を傾けよ、ということではないか。

時を興した神は、時を終わらせる。どんなに永続しそうな勢いがあっても、神はそれを一瞬にして取り去られる。そんな神に対する信仰をもって、私たちは人間として遜った誠実な歩みをすることが大切である。いついかなる時も、たとえ不本意な境遇に置かれることがあっても、その勢いに飲み尽くされることもなく、ただ、神の時を待ち、なすべきことをなさせていただく。これを今日の最善であると考えて歩ませていただこう。

 

 

エレミヤ書49章

イスラエル周辺諸国に対する裁きがまとめられて語られる。まずアモン人であるが。アモン人はロトの子孫であり、イスラエルとは親族関係にある(創世記19章)。カナン侵入の頃、首都ラバ(現在のヨルダンの首都アンマン)を中心に居住していた。1節「彼らの王」(新改訳)は、新共同訳では、「ミルコム」と訳される。欄外中には、70人訳で「ミルコム」と訳されていることが注記され、新共同訳はこれに倣ったのだろう。新改訳では、ヘブル語本文どおり「マルカム」つまり「彼らの王」と訳したようである。つまり、ここは、アモン人の民族神であり、モレクという名でも知られていた偶像礼拝が非難されていると考えられる所である。「アモン人のあの忌むべきミルコム」あるいは「モレク」は、旧約聖書の中に繰り返されている。それは幼児を犠牲として献げる宗教であり、イスラエルにはソロモン時代に政略結婚とともに入ってきたものである。後にヨシヤ王が、宗教改革を行ってこれを取り除いた。ともあれ、神はアモン人に対するさばきを告げられる。しかし、同時にアモン人の繁栄を回復されることを約束される(6節)。

次にエドム人。エドム人はエサウの子孫であり、パレスチナ南東部に住んでいた。「テマン」はエサウの孫であるが、ここでは地名として用いられている。その住民は知恵によって知られ、「岩の住みか、丘の頂き」(16節)と自然の力を信頼する民であった。彼らは四方を囲まれて安心して生きていた。しかしどんなに四方が確かであっても、その滅びは上からやってきたのである。神はそのエドム人をも徹底して裁かれると語られる。エドムに対しては再興のメッセージはない。

23節、ダマスコ。神の裁きのメッセージは南から北へと向けられる。アモン、モアブ、エドムは、パレスチナの南部に当たり、「ハマテとアルパデ」は北部にあるシリヤの二つの小都市である。ハマテはダマスコの北オロンテス河畔の町、アルパデはさらに北にある町である。28節のケダルはパレスチナの東の町、シリヤ・アラビヤ砂漠に住んでいる遊牧民、つまりベドゥイン族を指す。ハツォルは、パレスチナ北部の町。34節のエラムはパレスチナから遠く離れている。バビロンの東、ペルシャ湾に面する町である。エレミヤの預言は実に広範囲になされている。神は、全ての国々の運命を握っておられるのだ。

その神があわれみをもって、ユダヤ人、モアブ人(48:47)、アモン人(49:6)、エラム人(49:39)に元の繁栄を約束された。しかし、それらの国々がバビロンに滅ぼされて後、イスラエルが捕囚から帰還したように回復されたことはない。エレミヤの預言に終末的な要素が含まれていると思わされる点である。キリストが再臨される時に、キリストの王国が完成される時に、彼らもまた回復されるのだろう。神の裁きが淡々と語られる。しかし神はただ人を滅ぼし尽くそうとしているわけではない。四方が確かであっても神の裁きが上から来るように、また四方八方に窮していても神の救いが上から来るように、神ご自身の存在が、私たちの有り様を確かなものとする。神を恐れて歩むことがすべてである。

エレミヤ書48章

エジプト、ペリシテ、そして48章はモアブに対する裁きのメッセージとなる。モアブは、民族的には、創世記に出て来るアブラハムの甥ロトの子孫であるから、イスラエルとは非常に近い関係にある。ダビデの家系に加えられたルツもこの民族の出身である。しかしモアブは、イスラエルとはそれほど友好な関係にあるわけではなかった。出エジプト後、ルベン族が、その土地を自分たちのものと主張して以来イスラエルとモアブは闘い続けた。エホヤキムの時代、モアブはバビロニヤの同盟軍となり、ユダに対抗したが、ネブカデレザルによって滅ぼされている。モアブが滅びることはアモス(2:1-3)とイザヤ(15、16章)によって既に預言されていたが、エレミヤもこれを繰り返す形になっている。

エレミヤ書は希望を与えることばもあるが、どうも通読してみると、裁きのメッセージが長い。神の怒りと報復のメッセージが続くと、どうも早く読み飛ばして、先へ進みたいような気もしてくる。しかし、このように語られる時代の特徴もあったと言うべきだろう。来る日も来る日も、何か希望がないようなことはあるもので、ただ時が過ぎゆくのを、上手に待たねばならないことがある。しかしどのように、苦しい時を過ごすかは、その人の考え方次第、受け止め方次第である。ただ希望がないと思い続けて生きていくのか、それとも、希望がないはずの所に、これらすべてが終わらない限り、次のステップには進めないのだ、と達観し、前向きに過ごしていくのか、大きな違いである。どうせ、そのような時を過ごさねばならないとしたら、その期間は信仰的に過ごすのが得策である。

ともあれ聖書のメッセージは単純であるが、いつも人生の核心をついている。モアブは、神ではなく、ものに頼ったが故に、足をすくわれた(7節)。モアブは、高ぶったが故に、低められた(29節)。ある意味で普遍的な真理であって、確かに拝金主義、物質主義は、いつ足をすくわれるかわからないような脆弱な人生基盤である。お金があれば、ものがあれば安心する私たちであるが、そういうものは、私たちに本当の永続的な平安はもたらさない。また、高ぶる者は低くされる。結局人間は謙虚に生きる時に最も安定している。

モアブはワイン酒造でよく知られていた。「それゆえ、見よ、その日が来る。その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く」(12節)。モアブが自ら自分を低くしていれば、神によって砕かれることもなかったことだろう。神の御前ではだれも誇らせない、神のみが栄光の主であることを、私たちは心しなくてはならないのである。結局、私たちが人間というものはどういうものなのか、ということをいつも問い、苦難にあってどう生きるべきか、順境にあって、高ぶりをよしと思わされるような時に、どうあるか、神が造られた人間のあるべき姿を、よく理解して歩むことが大切なのだ。人間であるからこそ、こう歩んでいくという自分なりの哲学をもっていく、というべきか。今日も神の前での高ぶりを捨て、遜って神の時を過ごす、そして神の御業が進められることを願う者であろう。

エレミヤ書47章

ペリシテに対する預言である。ペリシテ人は、ヤフォとガザの間にある地中海沿岸の平野に住み着いていた。パレスチナという名前は、このペリシテということばから来ている。

エレミヤは、ペリシテ人に、バビロンの攻撃があることを語り伝える。表題には、「パロがまだガザを打たないうちに」とあり、これがいつの時であったかが問題とされる。おそらくネブカデレザルがガザを攻撃したのはBC604年の春と考えられている。その時、ペリシテはエジプトに援助を求めている。エジプトはこれに応じることができず、パロが勢いを回復しネブカデレザルに打撃を与え、ガザを取り戻したのはその後のBC601年のことである。「パロがまだガザを打たないうちに」というのは、この時のことなのだろう。

バビロンは北から起こる水にたとえられ(3節)、フェニキヤからの援軍もペリシテを助けることができないという(4節)。「カフトル」は、「クレテ島」のことで、もともとペリシテ人はそこからやってきた。彼らの根城までことごとく、バビロンに攻撃される、ということだ。ガザは「頭をそられた」これは嘆きを象徴する。ガザの北にあるアシュケロンも廃墟とされる。ペリシテの町々が、バビロンによってことごとく壊滅状態に追いやられる、という。絶望的な記述である。そこにエレミヤのことば、祈りが挿入されている。「ああ。主の剣よ。いつまで、おまえは休まないのか。さやに納まり、静かに休め」(6節)。エレミヤは、「北から起こる水」を「主の剣」と言い換えた。悲惨な歴史的な出来事を、それは単なる帝国主義の横暴ではなく、神の裁きの道具としてバビロンが用いられたものであることを語っている。

神は確かに正義を行われる。力が正義なのではなく、正義が力なのである。しかし、その神の正義によってことごとく討ち滅ぼされ、悲しみのどん底に置かれる状況もある。確かにこれは神の裁きであると思ってみても、失われたものは大きく、傷跡も嘆きも深すぎて、希望を失うことがあるだろう。主よ、あなたの御手を止めてください、と思わされることがあるだろう。

しかし、たとえ神の裁きは激しいものであっても、神は、あわれみ深く、思い直される方でもある(42:10)。私たちに対する深い愛情を持ち、悔い改める者に配慮してくださるお方である。だからいのち続く限り、希望があると考えるべきなのだ。神は正しいことをなさるのだろうが、その裁きによって自分は深く傷ついた、悲しんだ、自分にはもう希望がない、やり直しすらできないと思うことがあっても、いのちある限り私たちには明日があると考えたい。だからいつまでも自分は裁かれた、終わりであると落ち込んでいてはならない。むしろ、神が残してくださった、神が、なおも生きるようにしてくださった、ことの中に、神の大いなる回復と恵みと祝福を期待したい。そして神の恵みによって、日々新しい歩みをしたい。裁かれた余韻に浸り悲しみ沈む人生ではなく、裁きが終わり、復興の気運に力づけられる人生を歩ませていただこう。