カテゴリー別アーカイブ: ホセア書

ホセア書14章

ホセア書は、1-3章までが、背信のゴメルを受け入れるホセアの個人的な物語であった。その考えられないホセアの行動は、この14章において神のイスラエルに対する愛を物語る導入となっていた。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。~わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」(1,4節)。やはり、神でなければこうは言えない。人は、自分を裏切る者に対して、「立ち返れ」ということも難しいし、まして「喜んでこれを愛する」とも言い難い。頭ではわかっていても、感情が邪魔をして受け入れることができないものだろう。その逆もそうではないか。関係を回復したいと思っても、なかなか素直に謝っていくことができない。重たい腰を上げることができない。そもそも、相手が自分を受け入れてくれるだろうかと逡巡してしまう。しかし、神は実にさばさばしている。怒るがからっとしている。そして「喜んでこれを愛する」と態度は明確だ。その神の愛があればこそ、やり直せそうもないものも、やり直していける。

「あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え」(2節)。形式的にではなく、自分の決意の覚悟を決めて、良く準備して、腹をくくって、ということなのだろう。「私たちはくちびるの果実をささげます」(2節)。欄外注を見ると、「七十人訳による、ヘブル語では雄牛」とある。ヘブル語のギリシャ語訳聖書である七十人訳では、「果実」となっているが、ヘブル語原文では「雄牛」だという。直訳は、私たちは雄牛、(つまり)私たちのくちびるをささげます」である。つまり誓願をする時には、いけにえとして雄牛をささげるのであるが、そうではなくて、くちびる、つまりは、悔い改め、信仰の告白を心から神にささげます、ということだろう。

事実、大切な告白は、「すべての不義を赦し、良いものを受け入れてください」である。罪が赦されるだけではなく、神への従順というよい実を結ばせていただくことを祈ることだ(申命6:18)。それは「アッシリヤは私たちを救えません。馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません」(3節)という具体的な告白につながる。つまり、もはや目に見える外国勢力への信頼と偶像崇拝から決別していくことだ。お金でも、業績でも、肩書きでもなく、さらには、あの運勢でもこの運勢でも、ただ、目に見えない、まことの天地万物の造り主にのみ信頼を置くことである。神は、ご自身に対する真っ直ぐな心を喜ばれる。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」そんな者に対する神の祝福のことばに、耳を傾けよう。

「わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる」ゆりは、純潔の象徴。オリーブは勝利のしるし、祝福の象徴である。レバノンは、不動の象徴、つまりは、神の祝福がゆるがないことを意味する。神は、私たちがアッシリヤや偶像に願い求めていたものを、満たしてくださることを約束している。「知恵ある者はだれか。悟りある者はだれか」(9節)神の呼びかけに応答し、神に真っ直ぐ心を向ける歩みをさせていただこう。主の道は平だ。主が世話をしてくださる。偶像ではなく、主が実を結ばせ、私たちを豊かにする、という(8節)。

ホセア13章

エフライムの偶像崇拝の罪が裁かれる。人はなぜ偶像を造るのか。人が手でこしらえたものに、どんな救いの力があるというのか。それにいけにえをささげるほどに心を傾ける狂信的な熱心さはどこから来るのか。「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ(2節)」は、「(人を)いけにとしてささげる者は、子牛に口づけする(偶像崇拝)ことと同じだ」、と理解される。神を必要とする人間が、まことの神を認めようとしない結末は、何とも愚かしく悲惨である。しかしこれは、聖書の神を知らない人々に語られたことばではない。4節「わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。」とあるように、イスラエルはまことの神について聞かされ、また教えられていた。にもかかわらず偶像崇拝に走った。今日のキリスト者にも同じ問題があろうかと思う。イエスの十字架も、神の愛も聞かされている。しかし、神はいないと考える。神は私に対しては全く無力であり、助けにならないと考える。礼拝も自分の都合に合わせて通うだけ、神あっての信仰生活ではない。それは、偶像崇拝者と何も変わらない。心において、信仰において神を否定しているのであれば、積極的に偶像を奉って拝むのと何ら変わらない。

そんな、エフライム(イスラエル)の罪に、神は憤り、獅子(7節)、ひょう(7節)、雌熊(9節)、雌獅子(9節)のように立ち向かわれるという。エフライムは、「朝もや」「露」「もみがら」「煙」のように滅ぼされてしまった。しかし、それは元を正せば、身から出た錆である。5節、私たちには何もなかった。私たちはまさに、荒野で、かわいた地に置かれていた者であった。そこから、食べ物を与えられ、生きる術を教えられ、着るものを与えられ、財を与えられ、すべてを備えられた。しかし、それがいつのまにか、その神の愛を忘れて、備えてくださる神ではなく、神が備えてくださったものに頼る心を持つようになった。神が裁かれるのも理由なきことではない。

14節、「私はよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう」これを、反語的に神の裁きと理解すべきか、それとも、そのことばのまま、裁かれ、国家を滅ぼされ、死に至らせられたイスラエルに対する救いを語ることばと理解すべきか。議論の分かれるところである。パウロは、コリント人への手紙15:54で、これをキリストにある者の死に対する勝利の凱旋として語り、救いの意味に適用しているが、ホセアは、あくまでも反語的に、もはや救いの余地は残されていないと語っているようである。

神を拒み続けた報いを人は受けなければならない。しかし、パウロがこのことばを、新約の光の中で、救いのことばとして理解したように、悔い改めるところに希望はあると考えるべきだろう。どんなに、もう終わりである。神の裁きによって徹底的に痛めつけられ、再生の余地はない、としても、悔い改めるところに、希望はあると考えるべきであろう。神の憐れみは、私たちの想像を超えた深さを持つ。神の憐れみは尽きないからである。

今日も謙虚に、自らが何も持たない者であることを覚えて歩ませていただきたい。そして今日も主の憐れみがいよいよ豊かに現されるようにと祈る者であろう。

ホセア書12章

「エフライムは、風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている」(1節)風は空しさを暗示する。東風はアラビア砂漠から吹き付け作物を枯らす、破滅の象徴である。イスラエルは、アッシリヤと契約を結んだり、エジプトに貢ぎ物を納めたりしてきた(1節)。しかしその外交政策は、空しく、破滅を身にもたらすものである、という。新共同訳は、「エフライムは、風の牧者となり」と訳す。ヘブル語のローエーが持つ意味の幅からそのように訳されるが、この方が絵画的にイメージされる。イスラエルは羊の群れを追い、羊を増やす牧者ではなく、空しさと破滅を牧し、まやかしと暴虐に巻き込まれる者たちである、と。2列王17:1-6の歴史的な記録を思い出すところである。

11章では、イスラエルの歴史が振り返られた。この12章ではヤコブを例に、イスラエルの問題が語られる。2節「主は、ヤコブを罰する」とある。ヤコブの問題は、人を押しのけてまで自分を通そうとするところにあった。ヤコブは、神と戦って、その我の強さを示し、神に譲ろうとしなかった。しかし、最終的には、我を張っても生きていくことはできない。神の守りと助けが無ければ生きていけない現実に彼は直面せざるを得なかった。大切なのは、そこでヤコブが、「泣いて、これに願った」(4節)点である。

御しがたい性質が悪いのではない。そのような性質に気づいて、神に譲って、神のあわれみを受ける者となることが勧められている。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(6節)。

7節から、イスラエルのもう一つの問題が取り上げられる。イスラエルは、富のために、人を欺き(7節)、貧しい者を圧迫するようになった。「私のすべての勤労の実は罪となるような不義を私にもたらさない」(8節)どうも理解しにくい訳である。共同訳では、「この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい。」である。富は神の祝福の象徴とされた。つまり神に祝福されているのだから、そこに不義があるわけがない。だれも気づくまい、というわけである。イスラエルは神の祝福に胡坐をかいてしまったのである。そんな彼らが罰せられないはずがない。神は富を与えてくださるが、それによって不正を重ね、貧しい者を圧迫するのであれば、これを黙認することはない。神は、不法の罪をそのままに見過ごされるお方ではないのである(11節)。

そこで主のためではなく、妻のために働いたヤコブが再び取り上げられる。彼は妻のために働くだけの人生を生きた。兄を騙して、アラムの野に逃げ、さらに我欲を追及するだけの人生を送ったのである。そこに、一人の預言者、つまりエジプトからイスラエルを連れ上ったモーセが対比される。神を信頼し、神に聴き従ったモーセ、彼は、同じ逃亡者ではあったが、妻を得るだけではなく、多くの命を救った、という(13節)。

逃亡者となり、負け犬のような人生を送っている、と思うことがあっても、神に立ち返るならば、可能性はある。誠実と公義を守り、絶えず、神を待ち望むように、ホセアは呼びかける。神の裁きが確実であるなら、神の祝福も同じである。だから、神の愛に期待したい。跪いて、神の懐の深さを味わい知る者でありたい。

ホセア書11章

「エフライムは、風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている」(1節)風は空しさを暗示する。東風はアラビア砂漠から吹き付け作物を枯らす、破滅の象徴である。イスラエルは、アッシリヤと契約を結んだり、エジプトに貢ぎ物を納めたりしてきた(1節)。しかしその外交政策は、空しく、破滅を身にもたらすものである、という。新共同訳は、「エフライムは、風の牧者となり」と訳す。ヘブル語のローエーが持つ意味の幅からそのように訳されるが、この方が絵画的にイメージされる。イスラエルは羊の群れを追い、羊を増やす牧者ではなく、空しさと破滅を牧し、まやかしと暴虐に巻き込まれる者たちである、と。2列王17:1-6の歴史的な記録を思い出すところである。

11章では、イスラエルの歴史が振り返られた。この12章ではヤコブを例に、イスラエルの問題が語られる。2節「主は、ヤコブを罰する」とある。ヤコブの問題は、人を押しのけてまで自分を通そうとするところにあった。ヤコブは、神と戦って、その我の強さを示し、神に譲ろうとしなかった。しかし、最終的には、我を張っても生きていくことはできない。神の守りと助けが無ければ生きていけない現実に彼は直面せざるを得なかった。大切なのは、そこでヤコブが、「泣いて、これに願った」(4節)点である。

御しがたい性質が悪いのではない。そのような性質に気づいて、神に譲って、神のあわれみを受ける者となることが勧められている。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(6節)。

7節から、イスラエルのもう一つの問題が取り上げられる。イスラエルは、富のために、人を欺き(7節)、貧しい者を圧迫するようになった。「私のすべての勤労の実は罪となるような不義を私にもたらさない」(8節)どうも理解しにくい訳である。共同訳では、「この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい。」である。富は神の祝福の象徴とされた。つまり神に祝福されているのだから、そこに不義があるわけがない。だれも気づくまい、というわけである。イスラエルは神の祝福に胡坐をかいてしまったのである。そんな彼らが罰せられないはずがない。神は富を与えてくださるが、それによって不正を重ね、貧しい者を圧迫するのであれば、これを黙認することはない。神は、不法の罪をそのままに見過ごされるお方ではないのである(11節)。

そこで主のためではなく、妻のために働いたヤコブが再び取り上げられる。彼は妻のために働くだけの人生を生きた。兄を騙して、アラムの野に逃げ、さらに我欲を追及するだけの人生を送ったのである。そこに、一人の預言者、つまりエジプトからイスラエルを連れ上ったモーセが対比される。神を信頼し、神に聴き従ったモーセ、彼は、同じ逃亡者ではあったが、妻を得るだけではなく、多くの命を救った、という(13節)。

逃亡者となり、負け犬のような人生を送っている、と思うことがあっても、神に立ち返るならば、可能性はある。誠実と公義を守り、絶えず、神を待ち望むように、ホセアは呼びかける。神の裁きが確実であるなら、神の祝福も同じである。だから、神の愛に期待したい。跪いて、神の懐の深さを味わい知る者でありたい。

ホセア書10章

1節「イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多く実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。」何もかも自分の思い通りに行く時には、神など求めない。神とは何物だ、とすら思うものではないか。しかし、人間がひと度何も持たない、無力な造られた者に過ぎないことを謙遜に自覚させられるなら、神に心の目が注がれる。「悲しむ者は幸いです、その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)とあるように、苦しみは災いではなく、永遠の神を見いだすことにおいて、幸いなのである。

ホセアがこの言葉を語ったのは、物質的には豊かではあったが、宗教的な堕落がひどい時代であった。ホセアは言う。「彼らの心は二心だ」(2節)世の楽しみに浸り、真にその楽しみを与えてくださるお方が忘れられてしまった時代である。神は私たちが楽しむように、と世にあるものを造られた。大切なのは世にあるものではなく、備えてくださる神である。神をないがしろにして、私たちの幸せもない。それがわからないようであれば、神はこれを取り去る以外にない。またこの時代は、王の暗殺が相次ぎ、政治的にも不安定な時代であった。おそらく、ペカ王が暗殺された北王国末期のことなのだろう。だから、3節、「私たちには王がない」という民の声が取り上げられる。結局、主を認め恐れることがなかったために、日常の安定を保障するはずの国家体制も揺るがされていたのだ。有能な指導者が必要だ、と言われるが、指導者を立ててくださるのも神である。

神を覚えず、偶像に走るイスラエルの民にさばきが語られる。5節、「サマリヤの住民は、ベテ・アベンの子牛のためにおののく」彼らが拠り所としていた偶像が、彼らの災いとなる。

9節以降、ホセアは、イスラエルの民に馴染み深い歴史的な事件、ギブアの罪を取り上げる。それは士師記19章に描かれている、ちょうど、「イスラエルに王がなかった時代」の出来事である。彼らは「イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない」(士師19:30)と悪を取り除こうとした。神の裁きも同じであるとする。

神の期待は、「正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。」に要約される。パウロは、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。善を行うのに飽いてはいけません。失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。」(ガラテヤ6:5-8)と語った。

大切なのは、日々、自分の生活の中に、豊かに備え、祝福してくださる神を認めていくかである。神を恐れ、正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れるならば、神が、報いてくださる。神が環境を整え、私たちを引き揚げてくださる。主を覚えて歩ませていただこう。