ローマ人への手紙16章

ローマ人への手紙16章 挨拶
1.ローマの人々への挨拶(16:1-16)
いよいよ最後の章となりました。この16章は手紙の一部ではなく、手紙(1-15章)に、添えられたフィベの推薦状であったと言われているものです。フィベは、ケンクレヤにある教会のメンバーで、ローマにこの手紙を運んだ女性執事と考えられています。彼女はパウロのみならず、多くの働き人を支援してきた人でした(2節)。3節以降、パウロが26人の個人、そして五つの家族の名前を数え上げて、挨拶を送っているのは、そのフィベをローマの教会の兄弟姉妹に紹介し、温かく迎えてくれることを期待していたためでもあるのでしょう。
しかし、実際のところパウロは、まだ一度もローマを訪れていませんでした。それなのに、どうしてこれほどの人を知っていたのか、疑問視する声もあります。そこでこれがローマではなく、エペソに宛てて書かれた別の手紙であった、と考える者もいます。しかしここにあげられた名前の研究からすると、やはりローマ説が有力のようです。ともあれ、パウロの交友関係について言えば、それは、浅く広くでも、深く狭くでもなく、広く深い付き合いと思わされるものです。そんなお付き合いなどできるものなのだろうか?と思われるかもしれません。けれども、理屈から言えば、キリスト者のお付き合いはそのようなものかもしれません。というのもキリスト者の人間関係は、自分を取るに足らない罪人だ、と認めるところから出発しているからです。自分を飾りもせず、背伸びもしない人間関係、ありのままに自分を語り、相手を認め、受け入れあっていく、そうであれば自然に深い関係も育っていくものでしょう。そのような意味では、何年も教会に通い続けながら、当たり障りのない会話をして帰るだけ、の教会生活では、実にもったいないと思うところです。パウロは、宣教するだけが能ではありませんでした。パウロは、キリスト者たちとの交友関係を楽しんだのです。教会は神の家族であることを忘れてはなりません。そして教会は、イエスを証しすることを目的とした同労者の集まりでもあります。13節のルフォスの父は、イエスの十字架を背負ったクレネ人シモンであったのではないか、と考えられています(マルコ15:21)。つまり、それを機会として彼の家族は、イエスの復活のいのちを証しするため、パウロと親しく働いたドラマがあったというわけです。今日、日本のキリスト教会に求められているのは、こうした宣教のためのつながりでしょう。歳を取りつつ思うことは、自分が満たされることだけを考える人生は、虚しさを免れ得ないということです。自分の飽くなき要求に愛想が付くのです。人は、人の力になる、あるいは神を喜ぶ人生を生きるのでない限り、決して心満たされることはありません。
2.警告と頌栄(16:17-27)
17節から20節までは、聖書の教えではないものを教え教会を混乱させる者たちへの警告となっています。教会には、様々な人がいるのも事実です。天使のような人ばかり集まっているかと言えば、そうではない、パウロが言うように、キリスト者とは名ばかり、表向きだけで、中身は俗人と思われる人もいるものです。しかし、そのような人は神様にお任せする、それが教会です(20節)。人がとやかく言わなくても、神が取り除いてくださいます。
21節からは、パウロの同労者からの挨拶、そして頌栄で締めくくられます。頌栄の部分は、福音の要約というべきものでしょう。大切なのは、私たちを強くする神です。生きて私たちを祝される神がおられる、その信仰に立つ時に、人生に失望はありません。では今日もよき一日であるように祈ります。

クイズコーナーです。最初に昨日のクイズですが、「パウロが訪問を計画していたイスパニアは、どこを指していたでしょうか?」答えは①スペインでした。では、今日の聖書クイズです。テモテがパウロの同労者となったのは、パウロの三回の伝道旅行の内、何回目の伝道旅行であったでしょうか?①第一回、②第二回、③第三回、答えはまた明日!よき一日となりますように祈ります。