マタイの福音書16章

12章ではパリサイ人、15章ではパリサイ人と律法学者、ここでは、パリサイ人とサドカイ人がイエスに応じている。この両者は、本来ありえない組み合わせで、イエスを罠にかけるための奇妙な同盟と思われるものだ。実際、既に彼らは12:38においてもメシヤの証拠である「天からのしるし」を求めている。つまりイエスに対する敵対は、より強固に、そして頑迷になった、ということだ。実際サドカイ人は、政治的な集団であり、思想的にはリベラルで、奇跡を信じることはなかった。そんな彼らが、しるしを求めている。
イエスは先と同様に「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない(4節)」と同様に答えておられるが、ここではさらに、空模様の見分け方を知っていながら、時のしるしを見分けられない彼らの問題点を率直に指摘している。イエスの現れそのものが、新しい時代のしるしであり、天の御国がまさに近づいたことの空模様であるが、彼らはそれに気づこうとしない。イエスにおいて神のみこころはすべての人に明らかに示され、イエスのことばに耳を傾けるならば、時が近づいていることはわかるはずなのに。人間は、空模様を見分け、景気変動すら見極める知恵を持つ。しかし、霊的な真理については、全くそれを見抜く力がない。そこに人間の霊的な暗さがある。
イエスは彼らを残して立ち去った。そして弟子たちには彼らの教えには注意せよと教える。それは、この世で生きるための教えで、永遠のいのちを見いだす教えではないから、ということなのだろう。パン種は、少しでもあれば、粉の塊全体を膨らませる。だからそういう考え方には、よくよく注意し、一欠けらも持ち込まないように、ということだろう。では、そのパン種とは何のか。パリサイ人たちとサドカイ人共通の教え、と言えば、もはや、イエスを認めまい、抹殺しようとする考え方に他ならない。イエスを抜きにしたキリスト教はありえない。しかし、イエス不在の異端的な異教はいくらでもあるのが現実だ。それは現代でも同じである。キリスト教信仰と実践におけるイエス中心性を再確認したいところである。
 ではそこまで言う、イエスは一体何物なのか、ということになるが、イエスは、弟子たちに直截に問いかけている。すでにイエスはご自分が、地上のあらゆる祭司よりも、王よりも、預言者よりも権威のある者であると語っている(12:6、41、42)。このような発言をどう捉えるのか、私たちは結論を出さざるを得ない。当時の人々はイエスを、バプテスマのヨハネの生まれ変わり、旧約の偉大な預言者エリヤやエレミヤの再来、と見た。それは、イエスを何らかの意味で、メシヤの先駆者的存在と考えた、しかしメシヤそのものとは考えなかったことを意味する。そういう中で、ペテロは「あなたは、生ける神の御子キリストです」(16節)と、イエスが来たるべきメシヤであり、また神であることをはっきりと認める告白をした。イエスの語ることは単に正しい、ためになる、役立つという以上に、人に永遠のいのちを与える神のことばである、という。
 イエスは、そのような告白がペテロ自身から出たことではなく、神の聖霊の働きによるものである、と指摘する。大切な点である。しばしば信仰を持つことは、商品を選ぶのと同じで、キリスト教が他の宗教よりもよいと自分で思ったから、それを選んだ、と考えている人がいる。しかしそれは大きな勘違いである。もし神が現臨しておられるとしたら、選ぶのは神であって、私たちではない。私たちはただ神のあわれみのゆえに、神の臨在に目を開かされ、気づかされたに過ぎない。神が私たちを哀れんで選んでくださった、という事実をわからなくてはいけない。
そしてそのような神の臨在、神の力、神のあわれみの上に、キリストを主と告白する信仰の群れ、つまり教会が建てあげられるならば、それは、ハデスの門も打ち勝てない存在となる。ハデス、簡単に地獄と考えてもよいだろう。地獄の門をくぐったら、まずこの世に戻ることはない。それは死者を飲み込んだら二度とはき出すことのない固く閉じられた門である。しかし、神のいのちの力はその固さよりも強いということだ。教会にはそれほどの強さ、いのちがある、ということだ。というのも、キリストに一切の権威があり、支配があるからだ。地上の教会は、その権威を委ねられている。教会は地にあって神の国のインパクトを及ぼす機関なのである。
このペテロの告白後、イエスはご自分が受ける苦難について語り始められた。イエスの栄光は、十字架を担うことによって達成されるということである。弟子たちはまだその意味を理解できないでいた。それが分かったのは、イエスが実際に、十字架にかかり、予告したとおりに復活の主とお会いした時である。人間の理解力の限界があった。ともあれ、イエスは、イエスの弟子であろうとするならば、自分の足跡に従うように、と語る。イエスの真の弟子は、どうあるべきかを語る。イエスに良いことを求める人は多い。日本人の信仰は、基本的にご利益主義、現世主義、幸福主義であるという。キリスト教信仰をもっても、その本質はなかなか変わらない。だから祈願や感謝を生活の基本として生きるキリスト者は多いが、悔い改めや神のみことばへの従順、献身に生活の基本を置くキリスト者は極めて少ない。ただイエスの足跡に従う者が少ないのは日本人ばかりではない。イエスは、ご自分に従う道には、報いがあると語る。この予告は、ダニエル7:13-14の幻に基づいて語られている。それは、復活したイエスが、神の右の座に着いて、裁き主となる時に実現するものであり、一人一人の地上で絵の告白に応じて、イエスが右と左に、救いと滅びに人類を分けられることを語っている。既に、イエスの十字架と復活は実現し、その後2000年の歴史的経緯の中で、キリスト教会は全世界に建てられ、イエスを主と告白する信仰が証されている。となればこのイエスの終末的予告も必ずしや、その通りになる時が来るだろう。苦難の先に神の栄光のご計画がある。弟子は師に優ることはない。だが喜んで師と同じ道を進む者でありたい。

マタイの福音書15章

1節、「そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムから」とある。彼らはガリラヤで活躍するイエスの噂を聞いた。すでに、11章から見て来たように、イエスに対する様々な反応があった。そしてイエスを認め、イエスに本気で付き従う者たちも多くなった。彼らは、本格的にイエスの働きを評価するために来たのだろう。いや、もっと緊迫感のある状況、いわゆる新しく起こりつつある宗教的な熱狂について弾圧する意図もあったのだと思われる。ともあれ彼らはイエスの弟子たちが「長老たちの言い伝え」、つまり旧約聖書とは別に口伝で言い伝えられてきた律法を、犯していることを問題にした。
福音派の伝統としては、新約聖書の背景を知ろうとしたら、旧約聖書が重要であるとなるだろう。しかし、1世紀のイエスの時代のユダヤ教の実態は、旧約聖書だけでは説明のつかない部分がある。つまり彼らが旧約聖書に関連して築き上げ、後にラビ文書(ミシュナ、タルムード)として完成されたものや偽典(第二神殿期ユダヤ教文書群)、さらにミドラシュ(ラビによる旧約聖書注解)と呼ばれるものがあり、それらが、旧約聖書以上に彼らの信仰に拘束力を持つようになってきていた事実がある。つまり彼らが問題にしていたのは、旧約聖書の教えを犯していることよりも、当時のユダヤ教最高議会サンヘドリンの長老たちの言い伝えに反する「反教会的態度」であった。
だからイエスの反応は、「言い伝え」の権威そのものを問題にした。「言い伝え」のために「神の戒め」を犠牲にしてはならない、と。4節の二つの戒めは、それぞれ出エジプト20:12、21:17からの引用であるが、神のことばを隠れ蓑とし、人間の罪を助長するような「言い伝え」に権威を置いてはいけないのである。聖書だけが、信仰と生活の唯一の権威であり、規範なのである。
11節よりイエスは、真のきよめが何であるかを語ろうとする。心と腹は別ものである。人が汚れているか否かは、口から何を入れるかの問題によらない。洗わない手で食べるか否かではない。むしろ、その人が既に持っている心の問題だ。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりが心にあるなら、それ自体が人を汚していく。実際それは口に出、手に出、足に出、目に出るからだ。実に、人が聖いか汚れているかどうか、ということは、私たちが神の前でどのような心の真実さをもって歩んでいるかにかかわっている。心の中に、真実に神を愛し従う心があれば、いずれその霊性は、まことの光を放つようになる。霊性は、日々の日常性の中にこそ現されるものであり、よい考え、愛、誠実さ、与えること、励ますこと、そういった内面が口や足や手、そして目に現れることである。
 21節からマタイは、一人の異邦人の女の信仰を取り上げている。マタイらしく、ここでも奇跡のエピソードは簡略に記されるのみで、対話部分が大きく取り上げられる。異邦人の女は、悪霊にとりつかれた娘のいやしをイエスに願ったのであるが、イエスは、自分の働きの焦点はユダヤ人にあって、異邦人にはないことを告げている。「犬」は、当時のユダヤ人のことばでは異邦人をののしることばであったが、態度までそうであったかはわからない。イエスは自分の使命ではないことを示されたのだと思われるし、また、ほとんどおどけて、そういう言い方をしたのかもしれない。あるいは女の反応を見ようとしたのかもしれない。ともあれ、異邦人の女は、そのようなイエスのことばを意に介さなかった。むしろ、イエスの前にひれ伏して、ユダヤ人に対する異邦人の立場を弁えて、自分は「犬」のようなものであるかもしれないが、「犬の分」だけは受け取らせてほしいと寄りすがるのである。イエスは、その神に向かう信仰の姿勢を認められた。神はからし種の信仰を認められるお方である。
 この異邦人は神により頼むことを知っていた。一方先のパリサイ人は神を求めているようでありながら、そうではなかった。彼らは神のことばよりも、人の言い伝えに囚われて生きていたのである。続く七つのパンと魚の奇跡は、2度目の給食の奇跡であるが、イエスがパリサイ人や律法学者たちとはいかに違うものであるかを明確にするものである。イエスはただ神により頼むことを教えた。イエスは、神が恵みであることを教えた。その恵みは異邦人にすら及ぶ豊かなものであることを教えた。キリスト教信仰は、教えられたことを守ることが中心なのではない。神が恵みであることを教えられ、そこに期待し、その恵みに応じて行動するようになることが中心である。しかし、すでに第三サイクルで見たように、旧約聖書そのものが、神が恵みであることを伝えている。旧約信仰は、実は、律法ではなく契約が中心であり、契約は神の一方的な恵みとして結ばれているものである。それは新約の新しいイエスの契約においても変わらない。神の恵みに応答し、神の御言葉に従い生きることが信仰生活の基本である。

マタイの福音書14章

マタイは、イエスに対する反応の一つとして、ヘロデ・アンティパスのそれを加える。ただエピソードは回顧的に描かれている。国主ヘロデは、2:1のヘロデ大王とは違う人物である。彼は最初の妻を離別して、異母兄弟ピリポの妻と結婚することになったのだが、それは律法を破ることであった(レビ18:16)。ヨハネの抗議は、ユダヤにおけるアンティパスの信望を傷つけることになったのである。アンティパスは自分の不名誉を感じつつも、ヨハネの正しさや高潔な人柄を認めざるを得ず、躊躇するところもあったのだろうが、最終的には自分の意に反する形で、またこれもユダヤの律法に反する形で(裁判もなされずに)ヨハネを処刑してしまうことになる。ヨハネの死はイエスに報告された。
イエスは、それを聞くと、寂しい所に行かれたという。神の子であるイエスが、世の横暴とその不条理を思い知らされた時であろう。ヨハネとイエスの母たちは親交があり、あるいは、幼い頃は遊んだ時もあったのかもしれない。そのヨハネがヘロデの娘の気まぐれに殺されていくのである。それはイエスの傷心を癒す旅であり、神と語らう時であったのかもしれない。ただこれ以降、イエスは、「ツロとシドンとの地方(15:21)、「ピリポ・カイザリヤの地方」(16:13)へと出ていくのである。もはやイエスはヘロデの領地を離れ、兄弟ピリポの領地へと出ていく。ヨハネの死後、イエスに弟子入りしたヨハネの弟子たちの不安を静め、弟子たちにいよいよ本格的な信仰の訓練を与えるには、ちょうどよい場所であったとも言える。
ところが、そんなイエスを群衆がさらに追いかけていく。ただただ、目が見えるようになりたい、不自由な手足が動くようになりたい、重い皮膚病が癒されたい、そんな御利益的な要求をつきつけて、イエスに群がった。にもかかわらずイエスは彼らを深くあわれんで、彼らの病気を治されたという。その心のエネルギーや、いったいどこから来たのであろうかと、イエスの強靱さに驚くばかりである。しかし、祈りにこそイエスの秘密があったというべきなのだろう。乗り越えがたい出来事を乗り越えるためには、神の力に触れる以外にない。
 また15節、5000人の給食の出来事は、確かに、イエスの驚くべき奇跡であり、それは荒野のマナの奇跡に等しい。信仰はただ霊的な慰め、励ましを意味するのではない、それは、日毎の糧を満たす手段であると考えて間違いはない。精神も物資も、神は確かに満たしてくださるお方で、期待を持って祈るべきである。ただ、このエピソードには、イエスのメシヤ性を認める内容があることにも注意すべきだろう。旧約においてエリシャという預言者は、20個のパンで、100人の人を養う奇跡を起こしている(2列王4:42-44)。つまり、群衆にもヘロデにも拒絶され、否定されたイエスが旧約の預言者に等しい存在であることを示している。またヨハネの福音書では、既に述べたように神がイスラエルを養った荒野のマナ(出エジプト16章)を想起させるのみならず、聖餐を象徴する物語として語られている。つまりこの奇跡は明らかに「メシヤの祝宴」の象徴として語られている。散らされた者たちをキリストのもとに一つに集め、祝されることの象徴的な出来事である。イエスは、パンを「取り」「祝福し」「裂き」これを「与え」られた。終末における世の終わりにあって、メシヤであるイエスは、全人類の家長となり、あらゆる民族、国語、人種の者たちの集まりを迎え、祝されるのである。
続く湖上の嵐の出来事は、この5000人の給食の奇跡と密接に結びついている。マタイはここに、他の福音書にはない、ペテロが水の上を歩きたいと語った独自のエピソードを加えているが、それは弟子たちに信仰を教える実践教育となっている。信仰を糧として歩むことは、ある意味で、常識的な人生を超えた歩みをすることである。全く望み得なき所に、望みを抱いてなおも先へ進む歩みをすることである。それは、風を見て怖くなるような、様々な惑わしがある中で、ただ私たちの家長であるイエスを注視することによって可能となる歩みである。問題は、この信仰を現実に働かせることを、私たちが意思するかどうかである。教会にあってこの世にないもの、それは信仰である。信仰を用いることこそ、神の子の特権であり、祝福である。今日も一切の必要を満たされる神に、大いなる期待を持って歩ませていただくこととしよう。

マタイの福音書13章

 バプテスマのヨハネの反応(11章)、パリサイ人の反応(12:1-45)、イエスの家族の反応(12:46-50)、そして13章は、後半で、イエスの郷里の人々の反応が語られている。前半は御国についてのたとえがまとめられている箇所である。全部で8つのたとえがあり、その内の3つに解説がつけられている。全体の構成からすれば、山上の説教(5-7章)、宣教の教え(10章)、そしてこの御国の教え(13章)となるイエスの大きな説教集の三番目にあたる。しかも、この章では、語る対象が区別されている。種まきのたとえは「大勢の群集」に向かって語られたが、その解き明かしは弟子たちにのみ語られた。また続くたとえも「群衆」に向かって語られたが、その解説と残りのたとえは、群衆と別れて家に入り、弟子たちにのみ語られている。イエスは、ここで明らかにただの聴衆と弟子を区別している。
まず、種まきのたとえ。蒔き方は同じで、四種類の土壌に落ちた結果が違うことに注目させられる。最初に道ばたに落ちた種。それは、踏み固められた道のように堅い心、みことばを悟らない人をたとえている。土の薄い岩地に落ちた種。それは、みことばを喜んで受け入れても、土が浅いため、根が育たず困難や迫害が起ると、すぐにつまずいてしまう人をたとえている。茨の中に落ちた種。肉と霊の相克の心を象徴し、結果的に肉の思いが勝って霊の実を結ぶことができない人のことを言う。良い地に落ちた種は、みことばを聞いて悟る心をたとえる。大切なのは、このたとえは、12章最後のイエスの家族の応答につながっていることだ。イエスのまことの家族は、「父のみこころを行う者」つまり正しい心でイエスのことばに耳を傾け、それを行おうとする人である。イエスのことばには人それぞれが応答する、しかし、正しい応答をし、豊かな実を結ぶ人こそ、神の家族である。たとえで語られた説き明かしまで求め、イエスのことばに耳を傾けた弟子たちは、まさに神の家族であった。
続いてイエスは、成長をテーマとする3つのたとえを語られる。毒麦のたとえ(24-30)、からし種のたとえ(31-32)、パン種のたとえ(33節)である。毒麦のたとえは、しばしば、「畑」を「教会」として理解されることが多い。しかしイエスの時代にはまだそのような状況はなかった。ここは「世界」として理解すべきところだろう。世界中に主の福音の種が蒔かれ主の民が起こされていくのではあるが、真の主の民が区別され明らかにされるのは、神の御国が完成する時である。からし種のたとえにしても、パン種にしても、主の働きは小さく始まり大きく完成することを伝えている。イエスの働きは、いきなりパリサイ人に反対されることになり、その始まりはおぼつかなくすら見えたかもしれないが、また、どれほど大きな反対や障害にあおうとも、その完成は確実であることを伝えている。興味深いことにこれらのたとえは皆11章以降の人々の反応と結びついて語られていることだ。イエスの働きを認めてエールを送ったヨハネの反応、イエスとイエスの弟子を問題にし、拒絶するパリサイ人の反応、そして、どっちつかずと困惑の中にいるイエスの家族の反応、それらに結び付いている内容である。
さてイエスは群衆と別れて家に入られると、弟子たちに、毒麦のたとえを解説し、さらなる3つのたとえを教えられる。第一に宝のたとえ(44節)。天の御国を見つける喜びは素晴らしい。弟子に犠牲感はない。むしろ利己的ともいうべき喜びから、持ち物を全部売り払い、主に従うのである。犠牲感に囚われた心は、イエスの弟子のそれではない。真珠のたとえ(45-46)も同じ、動機付けを語っている。第3の網のたとえ(47-50)は、毒麦のたとえの結論(49-50)を繰り返すものである。網は、選り分けのために用いるものであろう。終末的なたとえでもあり、「そのとき、あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる」(マラキ3:18)と語るマラキの諭にもつながる。イエスの教えは決して新しいものではない。それは旧約の完成なのである。
最後の51-53は、結論となるたとえであり、要点は、イエスと共に家に入り、たとえの意味を教えられ、理解を深めた弟子たちは、御国学についての学位を取った学者のような者なのだから、これを、他の人々に教えるように、ということである。聖書は読んでわかった面白いで終わるものではない。聖霊の働きによって真にその意味を悟らされた者は、これを語らずにはいられないものだ。その神の無尽蔵の恵みの素晴らしさの故に。キリスト者として歩むことは、よい品性が養われるだけではなく、主のみ教えを喜び、それを分かち合い、実を結ぶ人生を歩むことを意味するのである。

マタイの福音書12章

 主権を示したイエスに対する第二の反応として、パリサイ人のそれがあげられる。既に11:28-29では、イエスのくびきは負いやすいと言われたが、パリサイ人のそれは逆である。それが、二つの安息日物語によって具体的に教えられる。
まず、ある安息日に、イエスの弟子たちが空腹であったので、通りがかりの麦畑の穂を摘み、手でもみながら食べていたことが問題となった(1-8節)。盗んだというのではない、安息日にしてはならないことをした、という宗教的な罪が問題にされた。ユダヤ人にとって安息日は、単なる祝日でも、儀礼的な日でもなかった。それは、神が創造者であることを覚え、神とイスラエルが特別な契約関係にあることを確認し、イスラエルが神の聖めと祝福に与る特別な日であった。しかし、パリサイ人は、安息日を特別な儀礼的な日とし、その守り方についての細則を定め、それを忠義に行うことをよしとしたのである。イエスは、緊急措置として臨在のパンを食したダビデ(4節)と安息日に合法的に宮仕えする祭司(5節)の例をあげて、弟子の立場を弁護したように見える。しかしここでの論点は、旧約律法やパリサイ人の規定に違反したことにあるのではない。むしろ問題になったのは、「イエス」の弟子たちが行ったことであり、そもそも「イエス」とは何者か、である。「イエス」がダビデに匹敵するのか、「イエス」の弟子たちが公職の祭司に相当するのか、である。そこがわかれば、イエスがご自身を宮よりも大いなるもの、安息日の主であると主張することのつながりが見えて来る。つまり、宮は神の臨在される安息の場、しかしその宮よりも大いなる者が今ここにいる。イエスは、ご自分が、一人の律法学者ではなく神ご自身であることを示されているのであり、さらには、イエスの弟子たちは、そのイエスを認めて従っている者たちであり、安息日ごとに形ばかりのいけにえをささげるのではなく、神に真実の愛をささげるまことの祭司であると語っている。だから、ホセア6:6のことばを理解し、弟子たちを尊敬したに違いない、というわけだ(7節)。そして、イエスは、ご自分が安息日の主であられることを明言されるのである。
パリサイ人との次の衝突は、片手のなえた人のいやしであった(9-21節)。ユダヤ人の掟集ともいうべきミシュナーによれば、瀕死の人だけが安息日でも手当を許されていた。しかしこの人は、手が麻痺した人、いわゆる病気ではなく障害を抱えた人である。となればわざわざ安息に癒されなくてもよい人である。そこでパリサイ人はイエスを罠にはめるためにこの人を利用したというわけである。イエスは、再びホセア6:6の引用を敷衍している。安息日にはよいことをすべきである、と。しかし、ここでの争点も、安息日規定を守るか否かではない。むしろ安息日の主を、どのように迎えるか、ということで、パリサイ人は、イエスを決定的に拒絶した、と言うことに過ぎない。パリサイ人はイエスを滅ぼそうと考えるようになった(14節)。
 そう考えると、マタイが旧約聖書イザヤ書から引用し(18-21節)、イエスを約束のメシヤと確認すること、群衆に「もしかするとこの人がダビデの子なのではないだろうか」(23節)と言わしめたことの意味が理解できる。先に11章でヨハネは、イエスの正体を認めた。ここ12章では、パリサイ人は徹底してそのヨハネの評価を却下している、と言えるだろう。 
22節からは、パリサイ人のイエスの働きに対する解釈が語られている。すでにイエスは、多くの人々を癒されていた。ここでも悪霊に憑かれた人を癒しているのだが、パリサイ人は、イエスを悪霊のかしらとみなしたのである。イエスは二つの点を指摘する。悪霊が組織や秩序を持ち、なおかつ仲間割れすることがあるだろうか。だから一歩譲って自分がベルゼブルによって悪霊を追い出したとするなら、今あなたがたがしている悪霊の追い出しは誰によってなされているのか、というわけである。イエスは明言する。私は神の御霊によって悪霊を追い出し、それは神の国が来ている証拠である、と。そして、イエスにおいて神の御霊の働きを認めないならば、それは許されない神に対する冒涜であるという。パリサイ人の軽率なことばに、イエスはそれが根のある言葉であると指摘する(34節)。
 38節からいよいよ、表面的な安息日議論を超えて、核心的な議論に入っている。つまり、律法学者やパリサイ人は、イエスがメシヤであることの「しるし」を求めているのである。そこでイエスは、自分が、宮よりも(6節)、預言者よりも(41節)、王よりも(42節)勝ることを明言する。実に大胆な発言である。この発言をほぼ狂人のものとみなすか、それとも、まことの神のものとみなすか、まさに決断を迫られるところなのだろう。イエスは、それを空き家の例として、語られる。安息日の主、まことの神を心の中心に向かえることを勧めているのである(43-45節)。そしてイエスを主として迎えた者たちがまことの神の家族というべきものたちなのである(46-50節)。

マタイの福音書11章

 イエスと12弟子たちの秘密裡の会合は終わった(10章)。今や弟子たちはイエスの心を自分たちの心とし共に宣教へと出ていくのである。メシヤとしてご自身を現され、その主権を示したイエスに対する様々な反応が綴られていく。大まかにこの反応は、16:13-20のペテロの信仰告白にまで続くと考えてよいだろう。新しい区分として読むことができる。
まずバプテスマのヨハネ。彼は、死海東岸のマケルスの獄吏に閉じ込められていた。国主ヘロデ・アンティパスとヘロデヤの結婚を不法であるとし、様々な悪事を糾弾したからである。神の前に正しいことをして彼は、不正な力にねじ伏せられていた。その彼が、自分の弟子たちを遣わし、イエスの正体について確認している(3節)。素直に読めば、ここはそう読めてしまう部分である。
だが、かつて彼は、イエスを「神の小羊」として指し示し、この方こそ、神に遣わされた神の救い主であると皆に紹介した。そしてバプテスマを授ける中で「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天来の声をイエスとともに耳にした人物である。ヨハネの信仰がぐらついたと理解すべきなのか。いや、ここは疑問文ではなく力強い肯定・断定として読むべきところなのだろう。つまり、「おいでになるはずの方は、あなたですかそれとも、別の方を待つべきでしょうか。(いやあなたこそそうです)」というわけである。ヨハネは獄吏にありながら、イエスの働きを認め、その働きの祝福を、弟子たちを通して伝えているのである。だからその後のイエスのことばは、エールを返している、と読むことができる。互いに互いの働きを認め、働きの継承を確認しあっている、というわけだ。
だからイエスは、ヨハネの働きを評価し、ヨハネを偉大な預言者として認めた。彼は単に時の声となった預言者ではない。マラキ3:1で預言された、あの「使者」である。つまりヨハネはイエスの先導者、きたるべきエリヤなのだ(14節)。神のご計画の中では最も重要な位置に配置された預言者である(11節)。
こうしてイエスと弟子たちも一体であったように、イエスとヨハネも一体なのであり、連続している。そのイエスとヨハネに対する反応が語られる(16-19節)。イエスやヨハネに対して、彼らは市場に座っているあまのじゃくな子どものように受け入れようとしなかった。コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、当時、豪華な会堂のあった豊かな町で知られた土地であった。ベツサイダは、ピリポ、アンデレ、ペテロの出身地であったが、その土地の人々は、イエスの力ある業に直接触れていながら、イエスのメッセージに耳を貸そうとはしなかった。
イエスを誤解し、拒否する者たちが多くいる中で、イエスの使命を正しく理解し、受け入れる者たちがあることが指摘される(25節)。「賢い者や知恵のある者」ではなく、「幼子」たちである。前者は宗教的な指導者の事を言うのであろう。後者は、卑しく学問のない単純な人たちである。しかしそれは、人間の側の努力や感性によるものではなく、神の一方的なあわれみとして起こる出来事でもある。「子が父を知らせようと心に定めた人」とあるように、神の子とされる恵みは神の賜物として、人々が全く予期せぬ人たちに、神のみこころによって与えられる。
28-30節、最後の招きのことばは、旧約外典ベン・シラ(51:23-27、6:24-31)の招きのことばを反映している、と言われる。イエスもその書を知っていたというわけである。とすればイエスは、それをもじってご自分のこととして語り、ご自分の業として語った、というのは大いにありうる。当時の教養の範囲であればそうなのだと思われるが、もちろん、イエスは、ご自分の権威をもってこれを語られたことに間違いはない。イエスは「来なさい」と言い「休ませてあげる」と語った。そして「学びなさい」そうすれば「安らぎを得る」と言った。イエスのもとに来て、心通うよき時を持つのである。ここにまさに聖書通読の奥義がある。聖書をただ知的に読むのではない、キリストのマインドを感じ、わかろうとするように、読んでいく時に、あるいはその足元で耳を傾け、教えを乞うならば、そこにたましいの安らぎがあり、祝福がある。神を信じることは、一見厳しい覚悟をさせられるようであるが(10章)、それは、本質的に神の中に安らぐ人生なのだ。

マタイの福音書10章

 イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。それは、これまでの8-9章で示されたイエスの権威であるが、宣教のための権威であり、組織運営のためのものではなかった(1節)。10章では、12弟子が選ばれ、神の国の宣教のための重要な原則が教えられていく。 
第一に、伝道の方法について(5-15節)、後には弟子たちは、異邦人世界を含めて全世界に派遣されるようになるのだが、この段階では、「イスラエルの家の失われた羊たち」を優先とするように命じられる(6節)。それは、今の私たちからすれば、かつてキリストを信じた教会に通ったものの、今、不幸にして落伍者になっている人への宣教を優先させることに他ならない。また、8節。「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい。」「ただ」と訳されたことばは元々「全くの贈り物として」を意味する意訳である。つまり受け流しをせよ、ということに他ならない。伝道牧会がただということはない。「私は、あなたがたのたましいのために、大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう」(2コリント12:15)がその真意だろう。またそれは緊急性を要する(9-10節)。主が備えてくださるものに信頼し、任せて、なすべきものである。神の働きであるなら、神が備えてくださらないはずがない。伝道者は主の備えに信頼し、その働きに専心すべきだ、ということである。そして実際には、まず、平安を祈ることから始めるようにと勧められる。そして相応しい人を訪ねるようにという。これを思う人や家を選んで教育をする。しかし拒絶するような人には、「聖なるものを犬に与えてはいけない」と戒められているように、縁なきことと思い、次の相応しい人を求めて宣教を進めることである。
そこでイエスは、迫害の問題を率直に取り上げる。つまりここから伝道者の心構え、その忍耐と勇気について(16-33節)教えていく。そこで迫害にどのように対処するか。一つは、賢くあること。具体的に、空気を読んで、自ら災いに飛び込まないことだ(17節)。「迫害されたら逃げなさい」(23節)と教えられている。真理の戦士として戦うことだけが能ではない。そして純粋であることだ。不幸にも捕らえられた時には、ずる賢く器用に立ち回ろうとせず、純真で素直に従い、主に語るべきことを委ねることだ(23節)。誠実さは誰の目にも明らかであり、主の助けがあるだろう。イエスの教育は、行動や考え方を教えるだけではない、姿勢や態度を教える。忍耐を持って伝道を大いに進めよ、ということだ。
迫害があっても、恐れることなく、積極的に伝道を進めることである。イエスは言う。弟子は師の代理である。だから、イエスが受けた同じ不評を受けることも覚悟しなければいけない(25節)。弟子と師の心は一体である。恐れることはないし、師の心はすっかりみな話せという。先に、イエスは主の祈りにおいて、私たちに「父よ」と呼ぶことを許された。それは、父と子の親密さの中に、私たちが加わってもよいことを許可するものであった。今一度、イエスは、私たちに自分の立ち位置を明確にさせる(32-39節)。私たちがイエスと父に連帯するのか、それとも、世における形ばかりのつながりを大切にするのか、どちらであるかを迫っている。イエスの弟子になるということは、神に生きることであり、神の御国の民としての旗印を明らかにすることである。福音を恥としない、決意が求められる。
最後に、伝道の目的、つまりどんな信徒を作るのかを語る(34-42節)。それは一言で言えば、「自分の十字架を負い、イエスに従う者」である。そのような歩みには誤解を受けて、親しい者、つまり家族ですら敵となってしまうこともあるだろう(35-37節)。もちろん、キリスト教は「あなたの父と母を敬え」と教えているのだから、信仰のために父や母を敵とせよということではない。孝道を重んじながらも、罪人が認めたがらぬ神を認め、神に生きる人生に何等かの衝突は避けられない。しかし、神の存在は現実のことだから、忍耐と愛を持って、自分を救うためではない他人を救うために腹をくくるなら、それなりの手ごたえのある人生を歩むことになる。つまり受け入れてくれる人もいるだろう。それは神を受け入れることであり、その人も同じ報いを受けることになる。神の恵みの福音を、忍耐を持って、いのちをささげる覚悟で、必要に応じて語る者でありたい。

マタイの福音書9章

 マタイは、8:18からイエスの三つの権威を示している。嵐も海も全被造物を従わせる権威(8:18-27)、悪霊を追い出す権威(8:28-32)、そして今日読む9:1-8に書かれた、地上で罪を赦す権威である。マタイはマルコのように、中風の人が天井の穴からつり降ろされたエピソードを省略し、ただ、イエスと中風の人との対話のみに注目を向けさせている。また、この人が癒されたことよりも、イエスの権威のもう一つの側面、罪赦す権威へと読者の関心を向ける。そして三つのグループとの対話が、記録される。
第一に、律法学者との対話。ルカによれば、この律法学者は、たまたまそこに居合わせた者たちではない。イエスの噂を聞き付けて、イエスを危険分子とし訴えるために監視していた者たちである。その彼等が、人の罪を赦す権威は神にしかない、と考えていた点は正しかった。しかし、イエスをその当事者であり、神であると認めることはできなかったのである。だがイエスは彼等と真っ向から対立し、ご自身がそのようなものであることを明確に示された。イエスは、ご自身が単なる教師でも預言者でもなく、救い主、メシヤであることを示された。実際イエスは、十字架により全人類の罪の赦しのための尊い犠牲となられた。イエスは、まことに神の子であり、救い主であったのである。
次に、パリサイ人との対話。彼らは、心の中で思うのみならず、実際に、イエスの交際について聞こえよがしに批判した。マタイはカペナウムの収税所で働く通行税を徴収する取税人であったと考えられている。彼はその仕事柄、異邦人と接触し宗教的な汚れを受けるとも、また、非愛国者とも見なされ、疎まれる存在であった。だからそのような取税人や罪人と共に食事をするなら、そこに当然食物に関する宗教的な規定に違反するものがあり、汚れを受け、イエスのやっていることは正しくないとなるだろう。しかしイエスは、これが単なる懇親の時ではなく、宣教目的の機会である、と語る。イエスが引用したホセアの預言(13節)は、魂の抜けた、形骸化し形式的になったパリサイ人の信仰に対する批判である。イエスは罪人を救う熱意を示された。そして、神が何よりも罪人にあわれみを示す神であることを明確にしている。
 第三に、ヨハネの弟子たちが、イエスの敬虔さに疑問を発した。これまでの流れは、山上の垂訓を思い起こさせるところである。つまり律法学者に優る義(5章)、パリサイ人にまさる義(6章)、そしてキリスト者の義(7章)というように、ここでも、イエスの弟子である者はどのように生きるか、ということがヨハネの弟子たちとの対話の焦点となっているからである。彼らは、イエスの弟子たちが断食をしないことを問題にした。しかし、イエスは敬虔さよりも、信仰の喜びを重視した。そして古い慣習を惰性的に続けることよりも、新しい神のいのちに生きることが大事である、と諭していく。新しいいのちは常に新しい革袋を必要とする。キリスト者の生活は、救いの喜びを基調とし、神の新しいいのちに積極的に生きていくものである。
 18節以降、次々と奇跡が簡略に書き留められている。会堂管理者の娘の奇跡、12年の間長血を患っている女の癒し、二人の盲人の奇跡、悪霊につかれて口のきけない人の癒しである。これらの奇跡について、マタイは、マルコのように詳細な記録をしない。ただ、イエスに助けを求める者たちの信仰に注意を向けさせている。会堂管理者は言った「娘がいま死にました。でも、~御手を置いてやってください。そうすれば娘は生き返ります」(18節)。12年の間長血を患っている女は考えた「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」(21節)。「わたしにそんなことができると信じるのか、と言われると、彼らはそうです。主よ、と言った」(28節)。イエスは、「あなたの信仰があなたを直した」と、助けを求める者の信仰を祝された。私たちに必要とされるのは、率直で素直な、神の力に対する信頼である。あわれみ深い主を認める信仰である。
35節は4:23節の繰り返しであり、ここがまた一つの区切りとあっている。イエスがご自身の権威を、弟子たちに分け与えた10章についてはまた明日見ることとしよう。

マタイの福音書8章

 マタイは、5-7章でイエスのメッセージを取り上げる。それはイエスの権威を明らかにした(7:28-29)。続く8-9章においては、イエスの業(奇跡)が取り上げられる。権威を裏付ける業である。イエスの5つの業がメモ書きのように綴られる。
 まず、一人のツァラアトに冒された人の癒し。旧約聖書では、ツァラアトは、病気というよりも神に対する汚れとして定められていた。それは、医学的衛生的に不潔というのではなく、宗教的に汚れているものであった。だからツァラアトの人は神殿礼拝の特権を得ることもなかった。しかし、新約聖書の時代に至るまでの間、その認識に変化が起こり、ツァラアトは、重大な極悪罪を犯したために受ける重い刑罰と見なされるようになった。そして律法学者たちは彼らに冷たい視線を向け、関わろうとはしなかった。それなのに、彼はイエスを求めて群衆に紛れ込んでいたのでる(1節)。そこにこの人の、イエスの人柄を信頼し、イエスの力に期待する心を見ることができる。事実、イエスは、当時の律法学者であれば近づくこの男に、憎々しげに石を投げたであろうものの、むしろ、そのただれた皮膚に思いやりを持って触り、「きよくなれ」と宣言し、神に対する汚れを取り除かれたのである。ここに律法学者に優る義と実践をするお方がいた。このお方に私たちの希望がある。
 次の百人隊長の奇跡。彼は、ヘロデ・アンティパスの指揮下にある下級将校であった。彼の部隊は、非ユダヤ人によって編成され、彼自身も異邦人のようである。つまり彼もツァラアトに冒された人同様に、本来神に近づくことを許されない人であった。だから彼は、友人を介してイエスの下に来たが(ルカ7:3-5)、大事な点は、神に受け入れられない身でありながら神を求めた点である。注目されるのは、イエスがこの異邦人の信仰を認められ、それがイスラエル人のいかなる信仰よりも勝っていることに驚かれた点である。イエスが称賛されたのは、百人隊長が、ご自分の権威を認め、その権威に信頼した姿である。イエスは、このエピソードに、御国の祝宴のイメージを書き加えている。イエスの権威は、アブラハムの子孫に、異邦人を加える。しかも、世界中からの異邦人が加えられる。やがてイエスが君臨され、天において完成される御国のイメージがはっきりと伝えられる(黙示録7:9)。それは、イエスの権威を認め、イエスの権威に服し、信頼する者たちの集まりである。信仰を持って主の言葉を受け入れる者の群れである。
第三に癒されたのは女性、ペテロのしゅうとめであった(14-17)。マタイはこれが預言者イザヤを通して言われたことの成就であると、ここで一区切りをつけている。つまり三つの奇蹟の出来事は、イエスのメシヤ性を認めるものであったと明言しているのである。イザヤ書では「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った」とある。病そのものも、宗教的偏見や差別で虐げられた者も、皆キリストに望みを見出した。誰もがイエスに新しい時代の訪れを感じたことだろう。ともあれ、イエスに従う者が、自然に起こされていく(19節)。しかしメシヤとしての権威を示されたイエスに従うことは、安定と繁栄の道ではない(20節)。それは十字架への道であった。そしてイエスに従うことは、絶対的な急務である(22節)。
 8章後半から、力の奇蹟が記録される。嵐を静める奇跡、そしてガダラ人の地での悪霊を追い出す奇跡である。マルコやルカの平行記事を読み比べることでもわかることであるが、マタイはここでもイエスの権威に関心を抱いている。彼の権威は、人に対するだけのものではない、自然に対しても、また超自然的な力対しても及ぶのである。悪霊に憑かれた人は、イエスを「神の子」と呼んだ。イエスを信じることは、イエスの神の子としての権威を認めることに他ならない。イエスを確かに信頼して歩む者であろう。

マタイの福音書7章

5章、6章の流れと7章は続いている。つまり、どうしてもクリスチャンの生き方は人目に付きやすい。そうすると逆に、その粗が批判の対象となる。あの人は「こんなことを言っていた」とか「こんなことを言われた」とか、教会に裁き合いが生じるのだ。他人に問題を感じる時に、自分の事を棚に上げ、さらには事実関係をよく確かめもせず推測や想像で、中傷悪口を言ってはならない。「梁を取り除く」は、イエスの大工の経験から出たユーモラスなたとえであるが、物事を落ち着いて、よく理解しようとし、同じ人間としての弱さを覚える力のあるところに、足を引っ張り合うような裁き合いは抑えられることだろう。
ただ注意すべきことは、イエスの愛に生きる教会では、他人に対して何の評価も判断も下してはならない、ということではない。教会は赦しが大事なのだからと何も言えない雰囲気になっているのもおかしい。ここでイエスははっきりと犬や豚の様な人、偽善者をさばいている。つまり誤ったさばきと正しいさばきがある、ことに注意すべきなのだろう。ここで言う犬や豚は、文脈からすれば信者になり切れぬ人、信者らしからぬ人のことだ。そういう人にいつまでも、聖なるものを提供していてはいけない、と言う。結局、神のみことばや福音にどういう態度を持った人であるかが、神のみことばとどう向かい合って生きているかが、教会では判断の基準として大事にされなければいけないということだろう。人の性質、振る舞い、言動など、教会でその一部しか知ることのできない事柄について問題を感じて、推測で悪口中傷を言う愚かさとは区別される部分である。
となると、そういう目で、犬や豚を探すと、実はそれは私自身ではないか、と思う人もいるはずだ。確かに私たちは罪人の頭というべきものである。しかし、聖書はいつも慰めと希望を与える。「求めよ、そうすれば与えられる」と言うのです。自分の救いの達成を願い、神に結び付いた信仰を持つ謙虚な魂を神が祝されないわけがない。
12節は、黄金律と呼ばれ親しまれてきたものであるが、これまでのさばきのテーマと無関係ではない。というのも、余計な裁きは、結局、人にしてほしいことを要求するばかりで、自分のすべきことには全く無頓着であるところに生じるからだ。「こうして欲しい」「ああして欲しい」「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言っていないで、自分から愛を持ってみ言葉を実践すべきではないか、となるわけだ。まさに、人からしてもらいたい、と思うことは、あなたが、率先してすべきことだ、となるだろう。そうすれば、律法と預言者、つまり聖書のスピリットに生きることになる、と。
13節からは一連の対比がある。「いのちに至る門」と「滅びに至る門」(13-14節)、「良い木」と「悪い木」(15-20節)、「主よ、主よと言うだけの者」と「父のみこころを行う者」(21-23節)、「岩の上に建てられた家」と「砂の上に建てられた家」(24-27節)。いずれも偽物と本物を取り上げ、本物は実行を伴うものとして語られている。つまり、キリストの弟子にとって重要なのは、本物であること、見せかけではなくて、本当に生活の中で、みことばをしっかり実践していくことだ。本当に神と深くつながり、神を喜ぶ信仰、神を愛する信仰を大事にしていくことだ。「狭い門から入りなさい」「偽預言者たちに用心しなさい」「岩の上に自分の家を建てなさい」地味な観点である。しかし、その人の日常生活に真に、信仰的な営みがあるかどうかが大事なのだ。
玉川教会では、コンサート、バザーをいつしか止めてしまった。あまりにも伝道と称して人集めのイベント事に多くの時間が取られていたばかりか、こういう奉仕を熱心にすることがキリスト者なのだ、という勘違いがあったように思う。今それらがなくなることで問われているのは、日々の信仰実践である。確かにどんなに素晴らしいイベントをして集客が出来た所で、私たちの霊性に魅力がなければ、集められた人が信仰を持ちたいと思うことはなく、教会に続けて来ることもないだろう。たとえ人間として不完全であっても、その人が日々神の御言葉に取り組み、神のいのちに生かされ、育ちゆく光を輝かせているなら、それ自体が宣教である。そして本当に人を神の下へ導く力ともなるのだ。