エゼキエル書20章

「第七年の第五の月の十日」BC591年の7-8月の頃であろう、長老たちは、捕囚後のこと、あるいは捕囚の期間について、神のことばを聞こうとしてやってきた。彼らは「主に尋ねるために来て」エゼキエルの前に座った。

エゼキエルが答えた神のことばは、イスラエルの背教の歴史を振り返るものである(5-32節)。出エジプト(5-9節)、荒野(10-26節)、カナン入植(27-29節)、エゼキエルの時代(30-32節)に至るまで、イスラエルはずっと偶像礼拝と神への反逆を繰り返してきた、と。しかしその背教のイスラエルに、神は、真実を尽してこられたのである。

たとえば神は、イスラエルがエジプトで奴隷であった時に、憐みを持って、イスラエルを選び、その苦難から導きだされた。神はヤコブとの契約に忠実であったからだ(5節)。だからイスラエルが神に背き、エジプトの偶像を捨てようとせず、神のあわれみを積極的に拒否しても、神は、約束を守って、彼らを救い出すことに専念した(9節)。

続いて荒野の時代、神は律法の戒めを与えられた。それはその律法を行うことによって、神を愛し、神に従う人生を全うさせるためである。神はイスラエルに養育者たろうとしたのである。しかしイスラエルは、相変わらず偶像を慕った。神はそのようなイスラエルを滅ぼすこともできたが、神の深い憐みを示し、主の契約を、滅ぶべき世代の子らへと受け継がせていく(17節)。

カナン入植時代はどうか。イスラエルは、異教カナン人の宗教、習わしに従ったという。つまり、主の契約を新しく受け継いだ荒野の世代の子らも、その父と同じ不信仰と背教の道を歩んだのである。しかし神はまたしても契約に忠実となりあわれみを示された。神は、確かに捕囚の鞭を通してそのような反逆者を滅ぼされたのであるが(33-39節)、真の民を回復されようとした(40-44節)。

だから捕囚は、第二の出エジプトとされる(35-36節)。神に反逆する者たちが荒野の経験によって振り分けられたように、再び、捕囚のふるいによって、真の民がふるい分けられていく。もし私たちが神の戒めに従って、神の栄光を現わすのでなければ、私たちは、神の懲らしめに服することによって、神の栄光を現わすことになる。というのも、神は私たちを滅ぼそうと願っておられるのではない。私たちが悔い改め、神の民とされることを望んでおられるのである。ならば、神の裁きは切り捨てることではなくて、懲らしめ、立ち返らせることにある。神は私たちに敵対するのではなくて、私たちと共にあろうとする。

私は、あなたを選んだ(5節)、私が連れ出した(5節)、私が誓った(5節)、私が導き入れた(10節)、私が教えた(11節)、私が知るようにした(12節)、私が絶やさなかった(17節)、私が与えた(25節)、私が必ず治める(33節)、私が集める(34節)、私がさばく(36節)、私が契約を結ぶ(37節)、私がえり分ける(38節)、私が喜んで受け入れる(41節)。神は木や石で出来た、意思することも、動くこともできない偶像ではない。神は、私たちに関わろうとされる。私たちの罪の目は神を見ることができず、罪の耳は神の声を聞き分けることができず、罪の心は神を感じることもできないでいるかもしれない。しかし、確かに、私たちに向かい合っておられる神がおられる。その神が、私たちに対してまことの神を認めて「生きよ」と語りかけていることを覚えたいものである。あらゆる偶像を捨てて、ただまことの神だけを信じ、従う者であろう。

 

 

エゼキエル書19章

これまでずっと散文形式でつづられてきた預言書であるが、この箇所だけは詩文形式になっている。おそらくここだけが独立した哀歌とされたのだろう。エルサレムの滅亡について、二つのたとえによって悲しみが綴られている。解釈のポイントは、それぞれ何をたとえているのかを理解することにある。

第一のたとえ(19:1-14)であるが、「雌獅子」はユダの国、「子獅子」は王たちのことで、第一の子獅子はBC609年に3か月間王であったエホアハズ(2列王23:30b-34)、第二の子獅子はエホヤキムかエホヤキンかゼデキヤである。つまり、ユダの国は、雄獅子に例えられる力と威力を振る近隣諸国に囲まれていた、そのような状況の中で、エホアハズやエホヤキンという王様が起こされたというわけである。

エホアハズは、23歳で王位につき、3ヶ月という短期間ではあったが王権を自由にした。それはまさに「獲物を引き裂くことを習い人を食べた」(3節)姿である。しかし主の目の前に悪を行った(2列王23:32)彼は、その後、エジプトの王パロ・ネコによって捉えられ、BC608年エジプトに移された(2列王23:31-25)(4節)。5節の雌獅子は、2節と同様ユダを指している。ユダはもはや王国再建の希望を失い、次の王を立てたのであるが、それを誰と理解するかが微妙である。バビロンに連れて行かれた、という記述がポイントのようでもあるが、実際の所、この後に起った王様は、皆バビロンに連行されている。エホアハズの兄弟エルヤキム(エホヤキム)は、BC597 年、ネブカデネザルによってバビロンに連れ去られている(2歴代36:6)。その子エホヤキンも(2列王24:8-16)、またその兄弟のゼデキヤも(2列王25:6-7)同じである。ただ詩文形式でイメージが揃えられているとしたら、同じようにBC598年末から3か月という短期間王位についたエホヤキンのことを指しているに違いない(2列王24:8-17)。

第二のたとえ(19:10-14)は、別の角度からユダの国最後の王の運命を語っている。だから「水のほとりに植えられたぶどうの木」は、明らかにユダの国のこと、その「強い枝」は、ゼデキヤのことである。1-9節が過去の王たち、こちらは現在の王について、しかもその行く末のことを哀歌の形で述べている。「東風」(12節)は、主に5月と10月に砂漠から吹いて来て植物を枯らす熱風で、神のさばきをたとえることが多いが(イザヤ27:8、エレミヤ4:11-12)、ここでは、それが吹いて来る方角「荒野と砂漠」(13節)によってバビロンを象徴する。よって12節はネブカデネザルによる攻撃を、13節はバビロンへの捕囚を意味している。ゼデキヤのバビロン反逆の故に、ゼデキヤの子は皆虐殺され(2列王25:7)、まさに「火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もうそれには、王の杖となる強い枝がなくなった」(14節)という状況が生じた。自らが原因で神の裁きを招きダビデの子孫による王制が終焉する状況を物語っている。「これは悲しみの歌、哀歌となった」(14節)。イスラエルの国の歴史は終わった。だから悲しみの歌、哀歌となる。

だが、神の救済の歴史はまだ続く。バビロンに捕らえ移されたエホヤキン(マタイ1:11ではエコニヤ)によって、イエスへと向かう歴史が導かれていく。主の契約は、来るべきダビデの子において成就する。捕囚の民が抱いた現政権への望みは砕かれるが、主の契約の真実は,彼らの思いをはるかに超えた形で主イエスにある御国を確立する。

聖書は、救済史的に読まなければ、そのメッセージは見えてこない。さらに終末史的に読まなくては悲しみの歌を乗り越えることができない。ただ単に日常生活の心の必要を満たすように読むのではなく、救済史的に、また終末史的に読むのである。つまり、既に実現した救済の恵みを覚え、未だ完成していない終末の祝福を待望しながら読む時に、聖書の神は裁くお方ではなく、本質的に祝福されるお方として受け止められる。

 

エゼキエル書18章

2節「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」とは面白い諺であるが、エレミヤもこれを取り上げていることから(エレミヤ31:29)、当時広く知れ渡っていたものなのだろう。部族生活における連帯責任を覚えさせるための諺であったようだが、ここでは、エルサレムが裁かれ罰せられているのは、自分たちの犯した罪の報いではなく、自分たちの先祖が神に背いた罪によるものである、という意味で使われている(出エジプト20:5)。つまり神の審判を受けて捕囚の身となりバビロニヤに連れ去られた自分たちの不幸は、先祖たちの罪の故で、自分たちの問題ではないのだ、というわけである。

しかし、3節。「わたしは誓って言う」神の考えは違う。「罪を犯した者は、その者が死ぬ」(4節)。神はいくつかの例を示されて個人的責任を問われる。

一つは正しい者が、善を行い、悪を行わないなら、その正しい者は自分の正しさの故に生きことになる。彼は人間としての弱さを持っているかもしれない。失敗するような者であるかもしれない。しかし、まことをもって神の定めを守り行うのであれば、彼は自分の正しい歩みのために生きるのである(9節)。

また、正しい人の次の世代、つまり正しい人の息子が罪を犯し、悪を行うなら、父親とは無関係に、その息子は罪の責任を問われることになる(10節)。「その血の責任は彼自身に帰する」(13節)。たとい、父親が信仰深く熱心であったとしても、それによって子が救われるわけではない。

14節、悪い息子の息子、つまり5-9節の正しい人の孫にあたる者の場合はどうか。これもその人個人の責任が問われる。父親の悪にも関わらず、子が正しい生き方をするのであれば、彼はその正しさの故に生きると。彼は父の罪の責任を問われるのでもなく、祖父の善行の故に生かされるわけでもない。彼自身が神の前にどうであるかが問われる。

以上は、従順な王ヨタム(2歴代27章)、不従順で邪悪な息子アハズ(2歴代28章)、従順で改革者となる孫ヒゼキヤ(2歴代29-32章)、に例証されるものである。

親子3代の例をあげて、個人に対する神の裁きの原則を語った後で、エゼキエルは、21節後半から、悪者に対する福音を語る。悪者は悪者としての報いを受ける。これが原則である。しかし、悪者であっても、自分の非を悟り、罪を悔い改め、正しい人となって公議と正義を行うなら、彼は必ず生きて死ぬことはない、という。彼はその正しさのために生きる、という。逆に24節、正しい人が、その正しさを捨てて、神への反逆を重ねるのならば、彼は生きることができない、と。神の報復は個人に対するものであるが、個人の姿勢いかんによっては、変更可能である、ということだ。つまり、人は先祖の罪から自由であるばかりか、自分の過去からも自由になれるのだ。主は悪者の死を喜ばず、彼が悔い改めて生きることを喜ぶのだ。

実に素晴らしい約束である。イエスの弟子たちが、ある盲人の前で、この人が盲目に生まれついたのは、この人が罪を犯したからか、それとも先祖が罪を犯したからか、と尋ねたことがある。それに対してイエスが語ったことは、この人でも先祖でもなく、神の栄光が現れるためである、であった。神のみこころは、一人一人が、神を認めて生きることにある。悔い改めが必要であれば、悔い改めて正しきに生きることである(30節)。そして新しい心と新しい霊を得ることにある(31節)。そのようにして、個人が神の前にあって正される時に、神の民全体の生活も高められることになる。

以上の悔い改めは、捕虜として連れ去られて来て生きながらえている人々に向けて語られた。今の自分に悔い改めなど必要はないとすら考えている者に向けて語られた。神に心探られ、神の正しさにこそ生きていく者であろう。

 

エゼキエル書17章

神はこれをたとえである、とする。つまり歴史的には、ゼデキヤ王のバビロン反逆について預言している箇所である。エゼキエルは、なぞかけをした。二羽の大鷲について語る。

一つはバビロンの王、ネブカデネザルを意味する(3-6節)。彼は、強大な軍事力をもってユダ(レバノン)にやってきて、エルサレムの王朝(杉のこずえ)を支配した。「その若枝の先」(4節)は、18歳で王位に付いたエホヤキン王のことで彼がバビロンへ捕らえ移されたことを言っている。「商業の地、商人の町」(4節)は、バビロンのことである。彼はついで、「その地の種も取って」(5節)つまりエホヤキンのおじゼデキヤを、「肥えた土地」(5節)つまりエルサレムに傀儡政権として立てたのだ(2列王24:10-17)。彼はエルサレムで栄えたが、それはあくまでも「たけの低い、よくはびこるぶどうの木」(6節)つまり、限られた力と影響力しか持たない存在に過ぎなかった。そして、いつでも「鷲の方に向き、鷲の下に根を張る」(6節)、つまりはバビロンに依存する政権であった。

エゼキエルは続いて、もう一つの鷲、エジプトのパロについて語る(7-11節)。先のぶどうの木(ゼデキヤ)は、バビロンの保護のもと、エルサレムで十分に栄えていたに関わらず、この鷲、つまりエジプトの方に根を這わせ、枝を向けていく(7、8節、2列王24:20)。しかしそこには何の実りも期待できない。神が、その根を抜き取り、実を摘み取り、若枝をことごとく枯らしてしまうからである(9節)。バビロンの好意を受けながら、バビロンに忠誠心を見せかけ、実はエジプトと関係を深めようとする不誠実さが、裁かれるのだ。

11節からエゼキエルは、この謎解きをする。12節は具体的に、BC597年の第二回捕囚の際に(3-4節)、バビロンの王ネブカデネザルがエルサレムに攻めてきて、エホヤキン王を初め、国家の指導者や技術者達を捕虜として連れ去ったことを語っている。「王族のひとり」(13節)は、ゼデキヤのことであり、ネブカデネザルによってエルサレムの王とされた(5-6節)。ところが彼は、BC588年夏、バビロンに反抗しようと、エジプトのプサメティコス2世に使者を送り、援助を求めた。エジプトは、これに応じて軍隊を送ったので、バビロンはその年1月に始めていたエルサレムの包囲を一時的に解除する(2列王25:1)。しかし、バビロンの包囲はすぐに再開され、BC587年1月、エルサレムはバビロンの制裁を受け、ついに陥落するのである(17節)。契約を破った不誠実なエルサレムに対する決定的な報いが語られる。大切なのは、これが主のことばである、ことだ。8:1の日付(BC590年)と20:1の日付(それから11ヶ月後)からすれば、このことばは、おそらくBC590年頃に、つまりエルサレムの崩壊前に語られている。謎かけをし、謎を解き明かす神が、予め、自らの計画と意思を語り伝えているというわけである。

22節からはもう一つの別のたとえが語られる。二羽の大鷲の出来事の後、つまり捕囚の出来事の後、神は、捕囚の民の中に残れる者を興し、エルサレムに連れ戻すという。エルサレムの滅亡という悲惨な出来事から再びエルサレムを回復する預言である。

「高い杉のこずえ」(22節)は3節の「杉のこずえ」を受け、「若枝の先」は4節の「若枝の先」を受けている。つまり先にはバビロンの王がそれを摘み取り、商業の地に植えたが、ここでは主が「高くてりっぱな山(シオンの山)」に植えられる。するとその杉は本来の姿を回復し、その使命を果すというわけだ(23節)。「あらゆる種類の鳥が住みつき」は、イエスに語られた神の御国の完成の姿をイメージさせる(マタイ13:32)。

バビロンによる征服という絶望的な預言が史実であればこそ、この22節以降の将来に起こる希望の預言も確かなものと受け止めざるを得ない。大切なのは、すべて、私たちの身に起こることが神から出たものであるという信仰である。そうすれば、逆境にあっても動揺せずに、神に低められているその時を思い、神が解き放つ時を待てばよい、ということにもなる。

エゼキエル書16章

先にエゼキエルは、エルサレムは全く価値のないものであり、ただ神の裁きを受け、滅亡しなければならないことを語った(15章)。16章は同じことを、不真実な女のたとえで語っている。これは聖書の中でも最も長いたとえである。生れてすぐに捨てられた女の子を引き取って育てることと、育った子が姦淫に身をゆだねてしまうたとえ話によって、主とユダ王国の関係が歴史的に語られる。
「あなたの父はエモリ人、あなたの母はヘテ人であった」(3節)。もともと、イスラエルの先祖は、神の特別な選びによって召し出されて、カルデヤのウルから渡ってきた者であり、最初はヘブル人(「渡って来た者」の意味)と呼ばれた。一方エモリ人とヘテ人はカナンの地に住む代表的な人種である。だからここで言われているのは、エルサレムが、人種的にというよりは、道徳的にカナン的な者だ、ということで、本来忌み嫌われるべき者たちであったが、神の一方的なあわれみによって愛される者となった、ということを語ろうとしている。
続く4節、生まれと遺棄のたとえは、その思想を明確にする。当時、助産師は子どものへその緒が切られるとすぐに、子どもの全身に塩と水と油を塗り、七日間布できつく巻いた。その後、子どもを洗いきよめ、また子どもを布で包み、40日目にほどくのが習慣であった(4節)。しかしエルサレムにはそのようにしてくれる助産師はいなかった。古代においては、女児の出産は余り喜ばれず、しばしば死ぬまで放置されたという。エルサレムも、見捨てられ、嫌われ、遺棄された女児であったという。象徴的にはエジプトで奴隷であった状況を回顧している。「あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して『生きよ』と言った」(6節)。心痛むことばである。救い出す者がいない、全く絶望的な状況の中で、神がこれに目を留め救い出したという。望み得ない所で望み得るのは、あわれみ深い神がいればこそである。全く駄目だ、と見捨てられるような者を神は助け出してくださる。
再び、旅人にたとえられた神が、成長した女児のもとを訪れた(8節)。自分の助けた捨て子は、結婚できる年齢になっていた。すると神は、「水で洗い、血を洗い落とし、油を塗った」という。なんと。女児は、命を助け出されたが、その外見は助け出された時のままで、相変わらず、手を掛けられることもなかったのだ。そんな女児に、神は再び手をかけ、着物や装身具を贈り、着飾らせ、自分の花嫁としてくださったという。誰も見向きしないような、価値なき者に、深い愛情を注ぐ、実に物好きな神が描かれている。しかしその物好きさの故に、今の私たちも救われているのである。
だが花嫁は、神を裏切り、姦淫の罪、つまりは偶像崇拝の罪に陥ったことが指摘される。その堕落は、ソドムやサマリヤよりもひどいものであること(47節)、従って彼らよりも厳しい裁きを受けなければならないとする(52節)。
ここまでは普通のお話である。しかしこのたとえ話は続く。「わたしが、あなたの行ったすべて事について、あなたを赦すとき」(63節)。本来見捨てられるべき者をあわれむ者はいるかもしれない。助けた者が未だに不憫な状況であればさらに手をかける者もいるかもしれない。しかしそれらの恩を仇で返すような愚か者に、怒りを燃やしながらもなおも、愛情を注ぎ、最初の思いを変えずに、助けの手を差し伸べる者はいるだろうか。53-63節では、主の恵みによる回復が語られる。赦しがたきところを赦し、さらに祝福を考えてくださる神があればこそ、私たちの人生にも望みがある。神の愛に甘えるしかない望み無き状況にあっては、素直にその神の愛を受けるべきである。神に寄りすがって、もう一度立ち上がるべきである。神を信じて、踏みだそう。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします