ヨエル書1章

著者のヨエルについては、「ベトエルの子ヨエルにあった主のことば」(1節)とある以外、ほとんど何もわかっていない。また活躍した年代についても、王の名や政治的な問題など決定的な論拠がないので、よくわかっていない。ただ二つの説がある。一つは、この書で描かれたユダの敵がアッシリヤ人、カルデヤ人ではなく、捕囚以前のペリシテ人とフェニキヤ人(3:4)、エジプト人とエドム人(3:19)であることから、捕囚以前の時代と考える説である。一方最近の研究では、北王国イスラエルへの言及がないこと、エルサレム陥落が暗示されていること(3:1-3、17)などから、捕囚以降の時代であるとされるが、今の処、BC830年頃のヨアシュの時代とする前者の伝統説が有力である。

そこで1章。いなごによって農作物が皆食べ尽くされる恐ろしい災害が描写されている。「かみつくいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、ばったが食い、ばったが残した物は、食い荒らすいなごが食った」(4節)。ヘブル語では、いなごに4種類のことばが使われている。バルバロ訳はこれらを音訳しているが、実際、それらがいなごの種類を示すのか、成長過程の一状態を示すのかはわかっていない。また4種類のいなごが一度に襲ったのか、いなごの災害が四度立て続けに起こったのかもわからない。

しかしながら、何百万ものいなごの大群が、アラビヤ砂漠の風によってパレスチナに運ばれ、日食のように太陽を暗くし、青草や木立の一切を食い尽くしてしまう前代未聞の災害が起こっていた(2節)。それは酔っぱらいたちが目を覚まされ(5節)、祭司たちが、穀物とそそぎのぶどう酒を献げられなくなり(9節)、国民と家畜は食糧と水不足で死に直面し(20節)、国土が荒廃する出来事であった。

このような状況でヨエルは、ユダに向かって、四つのことを語っている。第一に、「聞け」(2節)、神のことばに「耳を貸せ」(2節)という。私たちの人生に何かが起こった時に、私たちは真っ先に、まず神のことばに耳を貸さねばならない。というのも、この世のあらゆる事柄を支配しているのは、聖書の神ではないか。天地創造の神ではないか。

続いて、「目を覚ませ」(5節)という。この世の事柄に流されるままに生きている私たちに、目を覚ませという。深さもなく、流されるように生きている現実が私たちにはある。とりあえず周りと同じことをしていれば、人間として安心というような生き方がある。しかし、酒飲みも美食もレジャーも断って、立ち止まって考えてみるがよい。果たしてこの人生の先に何があるのか、と。直視する恐怖を乗り越えて、しっかり自分の人生を考えてみたいものだ。今私たちを楽しませているもの、私たちを喜ばせているものが、取り去れる時に、私たちは果たしてどんな生き方をするのか?考えたいものである。

だから「泣き悲しめ」とヨエルは言う(8節)。収穫を奪われた農夫のように、(11節)、また、ささげものを奪われた祭司たちのように(13節)。徹底して砕かれて、自分が無であることを悟ることがなければ、私たちは、ただただ浅はかな人生を積み重ねるのみである。しかし、自分が全く無であることを悟り、神の前に遜る時に、私たちはヨエルが言うように、「主を呼び求める」(19節)ことができるようになる。主があっての自分であることを、私たちは悟らなくてはならない。人間は、創造主である主を認める時にのみ自分の存在意義を悟ることができる。主を呼び求めずに、自分の悟りに頼って歩んでいた自分を悲しまなくてはならない。真に悔い改め、神を呼び求めて生きる時に、そこに神の癒しがあり、神の回復がある。今日も主を心から呼び求め、主に従って歩ませて頂こう。

ホセア書14章

ホセア書は、1-3章までが、背信のゴメルを受け入れるホセアの個人的な物語であった。その考えられないホセアの行動は、この14章において神のイスラエルに対する愛を物語る導入となっていた。「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。~わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」(1,4節)。やはり、神でなければこうは言えない。人は、自分を裏切る者に対して、「立ち返れ」ということも難しいし、まして「喜んでこれを愛する」とも言い難い。頭ではわかっていても、感情が邪魔をして受け入れることができないものだろう。その逆もそうではないか。関係を回復したいと思っても、なかなか素直に謝っていくことができない。重たい腰を上げることができない。そもそも、相手が自分を受け入れてくれるだろうかと逡巡してしまう。しかし、神は実にさばさばしている。怒るがからっとしている。そして「喜んでこれを愛する」と態度は明確だ。その神の愛があればこそ、やり直せそうもないものも、やり直していける。

「あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え」(2節)。形式的にではなく、自分の決意の覚悟を決めて、良く準備して、腹をくくって、ということなのだろう。「私たちはくちびるの果実をささげます」(2節)。欄外注を見ると、「七十人訳による、ヘブル語では雄牛」とある。ヘブル語のギリシャ語訳聖書である七十人訳では、「果実」となっているが、ヘブル語原文では「雄牛」だという。直訳は、私たちは雄牛、(つまり)私たちのくちびるをささげます」である。つまり誓願をする時には、いけにえとして雄牛をささげるのであるが、そうではなくて、くちびる、つまりは、悔い改め、信仰の告白を心から神にささげます、ということだろう。

事実、大切な告白は、「すべての不義を赦し、良いものを受け入れてください」である。罪が赦されるだけではなく、神への従順というよい実を結ばせていただくことを祈ることだ(申命6:18)。それは「アッシリヤは私たちを救えません。馬にも乗らず、自分たちの手で造った物に『私たちの神』とは言いません」(3節)という具体的な告白につながる。つまり、もはや目に見える外国勢力への信頼と偶像崇拝から決別していくことだ。お金でも、業績でも、肩書きでもなく、さらには、あの運勢でもこの運勢でも、ただ、目に見えない、まことの天地万物の造り主にのみ信頼を置くことである。神は、ご自身に対する真っ直ぐな心を喜ばれる。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」そんな者に対する神の祝福のことばに、耳を傾けよう。

「わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる」ゆりは、純潔の象徴。オリーブは勝利のしるし、祝福の象徴である。レバノンは、不動の象徴、つまりは、神の祝福がゆるがないことを意味する。神は、私たちがアッシリヤや偶像に願い求めていたものを、満たしてくださることを約束している。「知恵ある者はだれか。悟りある者はだれか」(9節)神の呼びかけに応答し、神に真っ直ぐ心を向ける歩みをさせていただこう。主の道は平だ。主が世話をしてくださる。偶像ではなく、主が実を結ばせ、私たちを豊かにする、という(8節)。

ホセア13章

エフライムの偶像崇拝の罪が裁かれる。人はなぜ偶像を造るのか。人が手でこしらえたものに、どんな救いの力があるというのか。それにいけにえをささげるほどに心を傾ける狂信的な熱心さはどこから来るのか。「いけにえをささげる者は子牛に口づけせよ(2節)」は、「(人を)いけにとしてささげる者は、子牛に口づけする(偶像崇拝)ことと同じだ」、と理解される。神を必要とする人間が、まことの神を認めようとしない結末は、何とも愚かしく悲惨である。しかしこれは、聖書の神を知らない人々に語られたことばではない。4節「わたしは、エジプトの国にいたときから、あなたの神、主である。あなたはわたしのほかに神を知らない。」とあるように、イスラエルはまことの神について聞かされ、また教えられていた。にもかかわらず偶像崇拝に走った。今日のキリスト者にも同じ問題があろうかと思う。イエスの十字架も、神の愛も聞かされている。しかし、神はいないと考える。神は私に対しては全く無力であり、助けにならないと考える。礼拝も自分の都合に合わせて通うだけ、神あっての信仰生活ではない。それは、偶像崇拝者と何も変わらない。心において、信仰において神を否定しているのであれば、積極的に偶像を奉って拝むのと何ら変わらない。

そんな、エフライム(イスラエル)の罪に、神は憤り、獅子(7節)、ひょう(7節)、雌熊(9節)、雌獅子(9節)のように立ち向かわれるという。エフライムは、「朝もや」「露」「もみがら」「煙」のように滅ぼされてしまった。しかし、それは元を正せば、身から出た錆である。5節、私たちには何もなかった。私たちはまさに、荒野で、かわいた地に置かれていた者であった。そこから、食べ物を与えられ、生きる術を教えられ、着るものを与えられ、財を与えられ、すべてを備えられた。しかし、それがいつのまにか、その神の愛を忘れて、備えてくださる神ではなく、神が備えてくださったものに頼る心を持つようになった。神が裁かれるのも理由なきことではない。

14節、「私はよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう」これを、反語的に神の裁きと理解すべきか、それとも、そのことばのまま、裁かれ、国家を滅ぼされ、死に至らせられたイスラエルに対する救いを語ることばと理解すべきか。議論の分かれるところである。パウロは、コリント人への手紙15:54で、これをキリストにある者の死に対する勝利の凱旋として語り、救いの意味に適用しているが、ホセアは、あくまでも反語的に、もはや救いの余地は残されていないと語っているようである。

神を拒み続けた報いを人は受けなければならない。しかし、パウロがこのことばを、新約の光の中で、救いのことばとして理解したように、悔い改めるところに希望はあると考えるべきだろう。どんなに、もう終わりである。神の裁きによって徹底的に痛めつけられ、再生の余地はない、としても、悔い改めるところに、希望はあると考えるべきであろう。神の憐れみは、私たちの想像を超えた深さを持つ。神の憐れみは尽きないからである。

今日も謙虚に、自らが何も持たない者であることを覚えて歩ませていただきたい。そして今日も主の憐れみがいよいよ豊かに現されるようにと祈る者であろう。

ホセア書12章

「エフライムは、風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている」(1節)風は空しさを暗示する。東風はアラビア砂漠から吹き付け作物を枯らす、破滅の象徴である。イスラエルは、アッシリヤと契約を結んだり、エジプトに貢ぎ物を納めたりしてきた(1節)。しかしその外交政策は、空しく、破滅を身にもたらすものである、という。新共同訳は、「エフライムは、風の牧者となり」と訳す。ヘブル語のローエーが持つ意味の幅からそのように訳されるが、この方が絵画的にイメージされる。イスラエルは羊の群れを追い、羊を増やす牧者ではなく、空しさと破滅を牧し、まやかしと暴虐に巻き込まれる者たちである、と。2列王17:1-6の歴史的な記録を思い出すところである。

11章では、イスラエルの歴史が振り返られた。この12章ではヤコブを例に、イスラエルの問題が語られる。2節「主は、ヤコブを罰する」とある。ヤコブの問題は、人を押しのけてまで自分を通そうとするところにあった。ヤコブは、神と戦って、その我の強さを示し、神に譲ろうとしなかった。しかし、最終的には、我を張っても生きていくことはできない。神の守りと助けが無ければ生きていけない現実に彼は直面せざるを得なかった。大切なのは、そこでヤコブが、「泣いて、これに願った」(4節)点である。

御しがたい性質が悪いのではない。そのような性質に気づいて、神に譲って、神のあわれみを受ける者となることが勧められている。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(6節)。

7節から、イスラエルのもう一つの問題が取り上げられる。イスラエルは、富のために、人を欺き(7節)、貧しい者を圧迫するようになった。「私のすべての勤労の実は罪となるような不義を私にもたらさない」(8節)どうも理解しにくい訳である。共同訳では、「この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい。」である。富は神の祝福の象徴とされた。つまり神に祝福されているのだから、そこに不義があるわけがない。だれも気づくまい、というわけである。イスラエルは神の祝福に胡坐をかいてしまったのである。そんな彼らが罰せられないはずがない。神は富を与えてくださるが、それによって不正を重ね、貧しい者を圧迫するのであれば、これを黙認することはない。神は、不法の罪をそのままに見過ごされるお方ではないのである(11節)。

そこで主のためではなく、妻のために働いたヤコブが再び取り上げられる。彼は妻のために働くだけの人生を生きた。兄を騙して、アラムの野に逃げ、さらに我欲を追及するだけの人生を送ったのである。そこに、一人の預言者、つまりエジプトからイスラエルを連れ上ったモーセが対比される。神を信頼し、神に聴き従ったモーセ、彼は、同じ逃亡者ではあったが、妻を得るだけではなく、多くの命を救った、という(13節)。

逃亡者となり、負け犬のような人生を送っている、と思うことがあっても、神に立ち返るならば、可能性はある。誠実と公義を守り、絶えず、神を待ち望むように、ホセアは呼びかける。神の裁きが確実であるなら、神の祝福も同じである。だから、神の愛に期待したい。跪いて、神の懐の深さを味わい知る者でありたい。

ホセア書11章

「エフライムは、風を食べて生き、いつも東風を追い、まやかしと暴虐とを増し加えている」(1節)風は空しさを暗示する。東風はアラビア砂漠から吹き付け作物を枯らす、破滅の象徴である。イスラエルは、アッシリヤと契約を結んだり、エジプトに貢ぎ物を納めたりしてきた(1節)。しかしその外交政策は、空しく、破滅を身にもたらすものである、という。新共同訳は、「エフライムは、風の牧者となり」と訳す。ヘブル語のローエーが持つ意味の幅からそのように訳されるが、この方が絵画的にイメージされる。イスラエルは羊の群れを追い、羊を増やす牧者ではなく、空しさと破滅を牧し、まやかしと暴虐に巻き込まれる者たちである、と。2列王17:1-6の歴史的な記録を思い出すところである。

11章では、イスラエルの歴史が振り返られた。この12章ではヤコブを例に、イスラエルの問題が語られる。2節「主は、ヤコブを罰する」とある。ヤコブの問題は、人を押しのけてまで自分を通そうとするところにあった。ヤコブは、神と戦って、その我の強さを示し、神に譲ろうとしなかった。しかし、最終的には、我を張っても生きていくことはできない。神の守りと助けが無ければ生きていけない現実に彼は直面せざるを得なかった。大切なのは、そこでヤコブが、「泣いて、これに願った」(4節)点である。

御しがたい性質が悪いのではない。そのような性質に気づいて、神に譲って、神のあわれみを受ける者となることが勧められている。「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(6節)。

7節から、イスラエルのもう一つの問題が取り上げられる。イスラエルは、富のために、人を欺き(7節)、貧しい者を圧迫するようになった。「私のすべての勤労の実は罪となるような不義を私にもたらさない」(8節)どうも理解しにくい訳である。共同訳では、「この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとは、だれも気づくまい。」である。富は神の祝福の象徴とされた。つまり神に祝福されているのだから、そこに不義があるわけがない。だれも気づくまい、というわけである。イスラエルは神の祝福に胡坐をかいてしまったのである。そんな彼らが罰せられないはずがない。神は富を与えてくださるが、それによって不正を重ね、貧しい者を圧迫するのであれば、これを黙認することはない。神は、不法の罪をそのままに見過ごされるお方ではないのである(11節)。

そこで主のためではなく、妻のために働いたヤコブが再び取り上げられる。彼は妻のために働くだけの人生を生きた。兄を騙して、アラムの野に逃げ、さらに我欲を追及するだけの人生を送ったのである。そこに、一人の預言者、つまりエジプトからイスラエルを連れ上ったモーセが対比される。神を信頼し、神に聴き従ったモーセ、彼は、同じ逃亡者ではあったが、妻を得るだけではなく、多くの命を救った、という(13節)。

逃亡者となり、負け犬のような人生を送っている、と思うことがあっても、神に立ち返るならば、可能性はある。誠実と公義を守り、絶えず、神を待ち望むように、ホセアは呼びかける。神の裁きが確実であるなら、神の祝福も同じである。だから、神の愛に期待したい。跪いて、神の懐の深さを味わい知る者でありたい。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします