エレミヤ書16章

神はエレミヤに未婚のままでいるように、と命じられる。それは、パウロが、危急の時には妻をめとらないように、と勧めているのと同じで(1コリント7:25-33)、神の裁きの緊急性を示しているのだろう。葬儀や宴席に連なることは空しい、神の悲惨な裁きが差し迫っている、という。「見よ。わたしは、この所から、あなたがたの目の前で、あなたがたが生きているうちに、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。」(9節)。

確かにその後のエレミヤの生涯を見るなら、エレミヤは、ネブカデネザルに解放されるまで、ゼデキヤ王によって牢獄に閉じ込められていたし(39章)、その後も、植民地政府立て直しの動乱に巻き込まれ、エジプトに連行されていくのである(43章)。まさに、神は、先を見る方、知らせる方である。神の命令に従うことが最善である。

ともあれ、神はエレミヤのとりなしにもかかわらず、その御心を変えることはなかった。アブラハムのとりなしにもかかわらず、ソドムとゴモラが滅ぼされたように、エルサレムの町も、もはや、神の目にさばきを受ける他はなかったのである。で、その理由が示される。それは、先祖と彼らが神と律法を捨てて、他の神々に仕えたためである(12節)。その結果は、捕囚の運命である(13節)。しかし、神は、全くエルサレムを捨て去ったわけではない。後にこれを回復させられると約束する。つまり新しい出エジプト、捕囚からの帰還があることを約束される(14、15節)。神は永遠に変わらない。神は、常に偉大な業を繰り返しなされる。神の奇跡は昔話ではない。だから新しい出来事を持って、神の力を讃えることになる。

彼らは自らの罪のために国を失い、捕囚の苦難にあう、いわゆる二倍の報復を受ける。それは論理的な帰結である。因果応報的な結論である。しかし、彼らは神の怒りを受けて、倍返しを受けて終わりではない。神は回復を約束される。そこには論理的な飛躍がある。滅ぼされたものが、再び神の祝福を受けるいわれはないのである。

敢えて、理由を見出すとすれば、それは、神の不合理な愛によって、神ご自身の存在が認められるためなのだろう。「主よ。私の力、私のとりで、苦難の日の私の逃げ場よ」(19節)とイスラエルのみならず、諸国民も皆が、真に知るべき神を覚えるためである。

多くの人々は、現代の人々同様に、先祖から受け継いだ、偶像を拝んでいた。石や、金銀で造られた神々を拝んでいた。しかしそれらは、真の神ではない。人間が造った神は神ではない。真の神は力ある、生ける神である。もはや誰の目にも滅ぶことが明らかで、救いようがなく、確かに滅びてしまい、その後は何も残らないと思うことがあっても、その無の状況から再びご自身の愛する民を再生する力を持つ神である。無から有を生み出すお方。不可能から可能を引き出すお方。その主を知ることが、私たちの人生における最大の祝福なのである。私たちの人生には神の裁きを受けた、滅びと恥辱と、無の中にあると思わされることはあるかもしれない。しかしそれで終わりではない。死せる人生にいのちを与えてくださる、主を認め、主の力を知る歩みをさせていただこう。

エレミヤ書15章

エレミヤと神の問答が続く。神はもはや、モーセやサムエルといった偉人がとりなすことがあっても、それを聞くことはないとされる。モーセは律法の代表、サムエルは預言者の代表である。かつて彼らは罪深いイスラエルのためにとりなした者たちである(出エジプト32:11-14、1サムエル7:5-9)。しかしもはや、それはありえない、という神の堅い決意が語られる。それほどに、神の怒りは激しく、神の心は、「おまえに立ち直る機会を与えるのには、もう疲れた。」(6節:リビングバイブル訳)によく言いつくされている。

イスラエル人の心は、固い石のようで、一貫して神を拒み続けたので、神は、もはや手放す決意をした、という。見捨てられたユダヤ人の運命が語られる。3節には、四つの死。神に見捨てられ、帰るところをもたない者たちは、ただ肉として滅びる以外にはない。8、9節は、戦争の悲惨さの中で、無援の敗北を味わうことが語られる。七人の子を儲けることは、女にとって祝福を意味するが、その女も打ちしおれる。神に見捨てられたら終わりである。しかしそれは、人間の心の頑なさのためである。

10節からは、エレミヤの個人的な告白になっている。預言者エレミヤとしては、なぜに自分はモーセのように、サムエルのようにとりなしに成功しえないか、という痛みもあったことだろう。とりなしに成功しえぬばかりか、彼はその証言の故に、疎まれ、のろわれ、孤立し、さらには陰謀を企てられているのである。神も「もう疲れた」のかもしれないが、エレミヤも「もう疲れた」のである。エレミヤは人間であって神ではない。神に疲れはない。あくまでもそれは人間にわかることばで神の心を表現したまでに過ぎない。しかし、人間であるエレミヤは本当に疲れ切ってしまった。神の使命のために、真っ直ぐ生きることに疲れ切ってしまった。こんなことだったら生まれなかった方がよかった(10節)、神は私を「欺く者」(18節)だと非難するまでに至っている。パレスチナにおいて雨期だけ水が流れる「当てにならない小川」は、夏の水が欲しい時には何の役にも立たない。まさにあなたはそのように期待はさせるが、あてにならない、というわけである。

しかし、不満たらたらのエレミヤに対する神の愛と励ましが力強い。11節「必ずわたしはあなたを解き放ってしあわせにする。」エレミヤに敵となった者たちが、とりなしを頼むようになるという。12節。「北からの鉄」は、バビロニヤ軍の攻撃を想定しているのだろう。ユダの軍備ではこれを迎撃することができない。結果、ユダの民は捕囚の恥と悲しみの中に落とされるのである。

また重ねて神は言う。疲れきって、倒れ伏し、そのまま塵となって消え去ることはない。エレミヤは、確かに神の代弁者として立ち続けることができる、という(19節)。諦めて迎合せず、毅然として神の側に立ち続けることだ。「お前が彼らに影響を与えるべきであって、逆に彼らの影響を受けてはならない」(19節)というわけだ。預言者の職務は、神の御言葉を浸透させていくことである。牧師もまた然りである。神は、勝利と守りを約束される。神の力ある業に与るには、信仰と忍耐が必要である。

 

エレミヤ書14章

神はエレミヤに国家が日照りに襲われることを警告する(1-6節)。パレスチナはしばしば干ばつに襲われることがあったが、それは、神の呪いの契約の一部である、とする。ただ今回の日照りは、貧しい者のみならず、貴人たちにも、そして国土全体に及ぶ、極めて危機的な状況である。民の嘆きの激しさに、エレミヤは、神の民としてのイスラエルを見捨てないようにと願うのである(7-9節)。

7節の主語は、「私たち」である。普通なら、民の祈りと受け止めるべきところであるが、これは実際に民が神殿で祈った祈りを収録したというよりは、エレミヤが民に代わって祈っている、と理解すべきなのだろう。民の苦境の激しさを思い、敢えてエレミヤは神に訴えるのである。しかし神はこのとりなしの祈りを拒否された。神の怒りは激しく、イスラエルのためにとりなすエレミヤに対して、「彼らのために幸いを祈ってはならない」(11節)と語り、神の報復が、日照りに加えて「剣とききんと疫病」であることを明言される(10-12節)。そこへ執拗にエレミヤが食い下がり、民の赦しのためにとりなしていく。

預言者たちは、平安と祝福を約束しているではないかと。しかし神は、彼らが偽預言者であり、遣わしたこともないし、自分が語るように命じたことを語ったわけではないのだ、という。確かに、日照りの災いに対して、雨が降れば万事が解決するわけではない。神が求めておられるのは、関係の回復であって、取引ではない。しかし人はいつも取引を考えている。神がしてくださることに関心があるだけで、神が良くして下さってもそれを忘れてしまうものである。人は神を愛するのではなく、神の富を愛しているのである。  17、18節は、エレミヤの涙の哀願となっている。しかしこれは、「幸いを祈ってはならない」と命じた神がエレミヤに、こう哀願せよと教えたものである。17、18節を読み味わう時に、なぜ幸いを祈ってはならないのか、なぜ神がとりなしの祈りを拒否されたのか、神の積み重ねられた深い痛みを教えられるところである。ただ神が痛みを感じているのは、民に対する愛の故である。神はその本質において愛であり、暖かい。エレミヤは再び、この神の愛に感じ、自らのことばでとりなしをする(19-22節)

創世記のアブラハムのとりなしの祈りを(18:19-33)思い出させるところである。とりなす、とはよく言われることであるが、日々の祈りの中に、どれほど、主にある兄弟姉妹の霊性のために祈ることがあるだろうか。祈りはしても、真にとりなすことの乏しさがあるものだろう。とりなしもただ人の幸いを願うとりなしではなく、神の痛みを覚えながら、神の側に立ってとりなすことを学びたいものである。ただ、神に何かをねだるだけの信仰からは卒業したいものだ。神を友とし、イエスを兄と呼ぶ、神の家族の一員として行動する在り方がある。祈りにおいて、神と心を重ねる時がある。神の沈黙のもとに、静かに神の応答を待ち望む時がある。神も人格なれば、しばし心を交わしあう時が必要である。神の人格を認めた祈り、交わり、期待が寄せられる。

エレミヤ書13章

13章は、神の御前に悔い改めようとしないユダの頑なさに対する警告の続きとなる。エレミヤは二つの実物教育をもって、これをわからせようとする。

一つは、ユーフラテス川に隠した新しい帯を腐らせるものだ。地理がわからないと何気に読み流してしまいがちなところであるが、ユーフラテス川は遠い。実際にエレミヤはそこまで二度も足を運ぶのは考えられないとして、これを近隣の小さな川、ベラース川と考える説もある(新英訳)。けれども、エレミヤの約50年に渡る長い預言活動からすれば、遠くまで出かける余裕はあったと考えてもおかしくはない。ともあれこの実物教育の要点は、9-11節の主ご自身の解説にあり、神がユダとエルサレムを腰の帯のように自分の腰に巻き付けたが、もはやそのようにはできなくなったことにある。心打つのは、神が、ただユダの滅びを語るのではなく、ユダあっての自分も失われると言っている点である(11節)。失われるのは、ユダの名、栄誉、栄ではなく、ユダと共にある神の名、栄誉、栄えである。

続くもう一つの行動預言は、酒で壺を満たすものである(12-14節)。引用された諺は、酒がふんだんに振舞われる祭りの際に、酒好きのユダヤ人が自分を酒壺に例えて「すべての酒壺に酒が満たされる」と語る戯言である。神はこの戯言を取り上げ、すべての全住民に神の怒りの強い酒を満たし、それによって互いに争い事が起こるようにし、自滅させるようにする、という。これらの行動預言の意図は、このような決定的な裁きがなされる前に、つまり具体的にバビロン捕囚が起こる前に、悔い改めを求めることである。

そういうわけで、15節からはユダに対する警告となっているが、記述は詩文形式となっている。「王と王母」(18節)は、具体的に、エホヤキン王とその母ネフシュタを指すのだろう。エホヤキンは18歳で王位に就いたが、わずか3か月で母ネフシェタと共に、バビロニヤに人質として連れ去れた悲劇の王である(2列王24:8-15)。「ネゲブの町々が閉ざされる」とは、南への退路を断たれることを意味する。敵は「北」から攻めてくるのである。結局、北のアッシリヤに対抗するために、同じ北の勢力であるバビロニヤと友好関係を結んだのが誤算であった。アッシリヤに代わってバビロニヤが攻めてくるのだから(21節)。

なぜこんなことが起こったのか、それはユダが悔改めないためであるという(22節)。ただここで指摘されているのは、人間の心の頑なさである。そうやすやすとは悔い改めることができない人間の罪の深さである。それはまさに、「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を、変えることができない」ようなものであって、ある意味で不可能に等しい事柄である。人の人格と性格は、そんなに簡単に変えることができない。それなのに、なぜ神は悔改めを要求されるのか。人間に不可能なことを求め、その罪の責任を問うのかとも思われる。しかし、そうではない。神は、罪の責任を問うと同時に、悔い改めるものに、恵みを注ぎ、罪から立ち直る道を備えてくださる。神は責めるだけではない、人間を我が子のように愛し助けてくださるのだ。それは十字架による罪の赦しと癒しがあるのと同じである。神に心を開き、根深い罪を取り扱っていただき、真の悔い改めに導かれ、新しい人生へと歩ませていただこう。

エレミヤ書12章

エレミヤの祈りは実に率直だ。11章のアナトテの人々の陰謀の出来事をきっかけとした祈りである。明らかな敵意を向けられて、彼は祈らざるを無い。「なぜ、悪者の道は栄、裏切り者を働く者がみな安らかなのか」(1節)。というのも、悪者は、まるで神様が保護し、祝福しているかのようにあらゆることに成功していく。しかも、彼らも、口では「神様感謝します」と言うが、その心は神様を信じているわけではない(2節)。脅かされている状況で、エレミヤは言う。あなたは私の状況をよく御存じです。彼らは、私をほふり場に引かれていく子羊のように扱いました(11:19)。そういう彼らを、それこそ「ほふられる羊のように引きずり出して、虐殺してくれませんか」(3節)と。実に率直だ。4節「彼は私たちの最期を見ない」ギリシャ語の七十人訳聖書では、彼を神と解している。神は私たち(貧しい者たち)を見捨てている、の意味なのだろう。こんな思いを抱くのはエレミヤだけではない。いつの時代にも起こりうる問題だ。ヨブもそうであったし(ヨブ記21:7)、またアサフもそうであった(詩篇73篇)。

5,6節は神の答えである。これまでの疑問、苦しみ、悩みは、徒歩競争のようなものだ。これからは騎馬競争になる。つまりほんの序の口だ、故郷のアナトテで不平を言っているような状況では、これからのエルサレム炎上ではどんなことになるのか、という。確かに、歴史は、悪者に向けられた神の裁きが、エレミヤの想像を絶していたことを証している。

7-13節を、エレミヤの嘆きと取るか、神の嘆きと取るか、難しいところである。新改訳は漢字の一人称を当て「私」としているから、エレミヤの嘆きと解している。つまり6節の「信じてはならない」に対して、エレミヤが応答し、アナトテの同胞と相続地を見捨てる歌を歌ったと解釈するわけだ。しかし、7節には「私の心の愛するものを、敵の手中に渡した」、10節には「多くの牧者が、私のぶどう畑を荒らし」とある。これは、エレミヤが自分の個人的な関係や、自分の所有地を取り上げて嘆いた、とするよりも、ユダとエルサレムについての嘆きと理解することもできる。つまり、6、7節で、さらに恐ろしい裁きが起こり、貪欲な権力者も大参事の瀬戸際にいる、と語る、神の嘆きそのものが語られていると読んだ方がよい。

神は裁かれないというのではない。むしろ「根こぎに滅ぼしてしまおう」(17節)と明言される。悪者に対する神の態度は一貫している。14節「悪い隣国の民」は、アラム、ペリシテ、アモン、モアブ、エドムのことである。アモスの預言と重なり(1-2章)、ユダもその隣国も、バビロンに捕囚の民として、根扱ぎに連れ去れると語っている。しかし15節、ユダは神のあわれみのうちに、捕囚から連れ戻されると語られる。その際に残される、あるいは救われるのは「道を良く学び、『主は生きておられる』」と誓う、信仰のある正しい者である。神は決して正しい者をないがしろにはされない。エレミヤの不平に応える神のことばの確かさに信頼することとしよう。

 

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします