マタイの福音書 12章

旧約聖書を解釈する方法として、歴史的にはいくつかの方法があった。一つは、契約の書として理解するものであり、またこれを道義的に、いわゆる規範の書として理解する方法もあった。しかしイエスは、旧約聖書を律法の書として受け止め、これを愛の視点から再解釈して教えたというのが、イエスの在り方であったように思う。
これはパウロも同じであって、パウロは、律法を福音の光に照らして、徹底して再解釈を施していると言える。50年代初期の手紙ローマ書、ガラテヤ書も、晩年60年代のテモテへの手紙においても一貫してそうであって、律法はよいものであり、霊的なものであると理解を示しながら、それは、福音の光を通してこそよいものになるとみなしている。つまり、律法にいのちはない。律法は罪を示し、人を絶望に陥れるが、福音があればこそ、それはいのちの希望へと向かわせる動力となる、と律法を単に守るものではなく、律法によって促されることの重要さを教えているのである。
で、イエスは、これを権威を持って教えた。そういう意味でこの12章からは、イエスが律法学者との対立がはっきりしてくるところである。イエスは、ご自分の権威を主張している。まず、イエスは、自分が「宮よりも大きな者がいる」(6節)という言い方をしたが、それは、自分がどの祭司よりも権威があるということを言っている。さらに「ヨナよりもまさった者」(41節)というのは、どの預言者よりも権威があるということだろう。そして「ソロモンよりもまさった者」(42節)というのは、どの王にも勝る権威を持っている、ということだろう。つまり、イエスはこの地上のどの祭司よりも、どの預言者よりも、どの王よりも勝る権威なのであり、それ故彼の教えには耳を傾けなければならない、ということではないか。そして「人の子は安息日の主です」(8節)という言い方に注意しなくてはいけない。それは、イエスがご自身を神に等しい者であると宣言しているからである。
イエスは、地上のすべてに勝る権威をもって、また神の権威をもって、律法の再解釈を試みられたのであり、それは愛に基づく律法理解である。安息日に好まれるのは、いけにえよりも、あわれみである。表面的な誠実さよりも、内的な誠実さである。つまり、律法に従って、表面的に安息日を守ることが人々の聖さを実現するのではない。真の正しさ、聖さというのは、内側から生じるものであり、それは神につながる、神のいのちに預かるところに生じるのである。
 そう言う意味で、手の萎えた人を癒す奇跡は興味深い。以前、大学病院で働いていた時であるが、手の萎えた人のリハビリに携わった経験を思い起こす。脳卒中片麻痺によって、手が麻痺した人々のリハビリである。そのような人々は、手を伸ばそうとしても延びきらないのである。手が内側からぐーんと伸びて欲しい、そんなつぶやきを何度か聞いたことを思い出す。
確かに人間の心もそうである。「できない」と思った心を内側から伸ばすことはできない。外側から引っ張りあげようとしても「できない」となってしまうことが往々にしてある。つまり、神の力を受けて、霊感されて、内側から突き動かされなければ決して、人間の心も自由にはなれない。
イエスは手の萎えた人に言われた。「手を伸ばしなさい」。すると、もう一方の手のように元通りよくなった、という。この人物は、そう言われてもなあと、戸惑いつつも、手を突っ張ってみたのではあるまいか。「伸びっこないよ、この手は」と。しかし、彼の手は内側からまっすぐ伸びたのである。そして元通りによくなったとある。彼が、この出来事で感じたのは、この内側から手を伸ばす力だったことだろう。神の聖霊の働きに与るということはそういうことである。人間が自分の力の中で物事を行っていては、なされないことが、なされていく。手を伸ばす力は、その人のうちに存在していたのではなく、イエスに与えられたものである。心を伸す力も同様だろう。萎えた心を癒し、まっすぐにするのは、やはり神の力以外にはない。どんなに、自分に言い聞かせ、納得させようと、曲がった心がまっすぐになることはない。
 大切なのは、神と交わる中で、自分自身を生かす力に出会うことだろう。地上のあらゆる権威にまさに、またご自分を神に等しいとされたイエスとの出会う中で、そのイエスの力を受けていく時に、私たちは、律法が教えるように、神の御旨に従って歩むことができるのである。神の生ける力に与ることもなく、律法を守るというのは、いのちのない、あわれみのない、体裁をつくろうだけの在り方に堕してしまうだけである。
主の力を内側に受けて、内側から伸す力に与って、今日も神のみこころの内に歩ませていただこう。

マタイの福音書 11章

 マタイはイエスからバプテスマのヨハネへと話題を切り替えている。バプテスマのヨハネは獄中にいた。それは、ヨハネが国主ヘロデ・アンテパスとヘロデヤの結婚を不法であるとし、ヘロデの悪事を糾弾したからである。おそらく、ヨハネからバプテスマを受けたパリサイ人、サドカイ人、つまりイスラエルの指導者たちは、バプテスマのヨハネを救おうとしたのだろう。しかし彼は依然として獄中にいた。そんなバプテスマのヨハネが、イエスにこう伝えた「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか」
処刑の日が刻々と近づきつつあることに、バプテスマのヨハネは、イエスのことをどう考えて良いかわからなくなったのかもしれない。バプテスマのヨハネは、イエスを「神の小羊」として指し示し、この方こそ、神に遣わされた神の救い主であると皆に紹介した人物である。そしてバプテスマを授ける中で「これは私の愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という天来の声をイエスとともに耳にした人物である。しかしながら、イエスは、自分を救おうとはされない。イエスには力があるのかないのか。イエスは、本当に、我が救い主として信頼するに足る人物なのか。
そんな疑心暗鬼になっているヨハネにイエスが答える「盲人が見、足なえが歩き、重い皮膚病の人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられている。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」(5節)これは、旧約聖書の中のイザヤの預言の引用である。旧約に預言されたメシヤの働きが実現していることをイエスは語っている。つまりイエスは自分が旧約聖書で語られたメシヤであることを認めているのである。
ヨハネはこのことばをどのように受け止めたであろうか。自分が救われない状況にありながら、しかしメシヤは来ているという。メシヤが来ているならなぜ自分は救われないのか。私たちも考えるところではないか。神がおられるならなぜ自分は報われないのか、自分は助け出されないのか。なぜ神の主権が現されるように物事は動いていかないのか。「誰でもわたしにつまずかない者は幸いです」(6節)。私たちが思うようには物事は動いていかない。それは、神が無力なのではなく、神の主権によってこの世のすべての営みが、導かれているからであり、私たちはそれを悟り得ないからだと考えるべきなのだろう。
イエスはヨハネについて弁護する。「実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです」(14節)。それは単にヨハネが偉大な預言者だと言っているのではなくて、マラキ書に預言された、メシヤの道ぞなえをする者、つまり救済の歴史が動いている確かな証拠であることを語っているのだろう。
人類の歴史は単に、人類の業績の積み重ねではなく、神の救済を目的とする歴史の積み重ねであることを考える時に、私たちの我欲に基づくあれやこれやが実現しないという拘りは小さなことと考えざるを得ない。しかし私たちには小さなことが大きなことであり、本来考えるべきことが、取るに足りないことである。ヨハネの使命は、キリストをメシヤとして証することであった。その使命が完遂されることが、彼にとっては大きなことであり、彼の平安であったはずである。しかし、自分のいのちを惜しみ始めた時に、彼にとってはその大きなことが小さくなっていったのだろう。ヨハネほどの偉大な人物がそのように迷うならば、私たち凡人はなおさらと言わねばならない。
コラジン、ベツサイダ、カペナウムは、当時、豪華な会堂のあった豊かな町で知られた土地である。ベツサイダは、ピリポ、アンデレ、ペテロの出身地であったが、世と世にあるものを愛し、イエスの話しに耳を貸そうとはしない者たちで溢れかえっていた町でもある。現代も同じようにイエスのことばに耳を傾けようとしない、頑なな心があるだろう。イエスの語っている救済など、今の自分には何の価値もない、そう思ってしまう心がある。むしろ、目先の物やお金の方が、ずっと今の心の平安には役立つと思う心があったりする。
しかしいずれ時が、私たちが持っているものの価値を明らかにする。ヨハネの生涯はその後、「何一つしるしを行わなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった」(ヨハネ10:41)と称賛され、多くの人々をイエスに導く結果をもたらした。ヨハネに与えられた使命は大きく果たされたのである。神の使命に立ち続けることは、ある意味で、くびきを負うことかもしれない。ある時にはそれは不自由を感じさせ、また重く思わされることもあるだろう。しかし、必ずしや、そのくびきは軽いものであったこと、大きな実りをもたらすものであることを味わい知るであろうというのがイエスの約束である。人生においてくびきを負うというのであるならば、イエスのくびきをこそ負うべきであろう。世のくびきはその時は報酬をもたらすものであるかもしれないが、それで終わってしまうことも確かなのである。しかしイエスのくびきは、やがて大きな成果をもたらし、心に平安と安らぎをもたらすものである。神のご計画を覚え、その中で自分が何をすべきなのか、神の使命に立って歩むところに、私たちの最大の祝福と平安があることを覚えて歩ませていただきたいものである。

マタイの福音書 10章

 「イエスは12弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。」王国の倫理を教え、王の権威を語った後に、マタイは、王のしもべたち、働き手について語る。すでに、「収穫の主に、収穫のための働き手を送ってくださるように祈れ」(9:38)とマタイはイエスのことばを記録しているのだが、その働き手は何をするのか、どういうものなのかを説明する。
彼らの使命は、まず何よりも、「汚れた霊どもを制する権威をお授けになり、霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいや」(1節)し、「天の御国が近づいた」(7節)と宣言することにあった。明らかにこのしもべたちの使命は、霊的な事柄にあり、終末を意識したものである。使徒の働きはまさにその働き手たちの活動の記録というべきだろう。選ばれた12人は、漁師、取税人、熱心党員と背景は様々であるが、イエスの弟子であるということで一つなのである。
そこでまず彼らは働きの考え方を説明されている「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」この働きは奪う働きではない。自己利益を追求する働きではない。与えるものであり、祝福を祈るものである。イエスの弟子になり、働き人になるということは、完全にこの世的な発想から抜け出さない限り、何をやっているのかわからなくなるようなところがあるのではないか。神が与えてくださる。その恵みを分かち合う。それが原則である。
そして与えるに豊かな神は、常にご自身の働き人の必要を満たしてくださるお方である。神が私たちの後方支援となってくださる、ということだろう。そういう感覚がないと、福音宣教の働きを続けることはできない。つまり、神があらゆる必要を満たしてくださる、ことを信じることによって出来る働きである。
また第二に、この働きは祝福を与える働きではあるが、人のよさが売り物の働きではない。「蛇のようにさとく、鳩のようにすなおでありなさい」(16節)「人々には用心しなさい」(17節)とあるように、弁えを必要とする働きである。確かにすでにイエスは、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」(6節)と警告している。私たちは、「狼の中の羊」(16節)にたとえられ、私たちのなすことは、「剣をもたらすこと」(34節)、「十字架を負うこと」(37節)にたとえられている。イエスの弟子であるということは、安易に考えてはならないのだろう。それなりの覚悟をもって、またそれなりの意識を持って臨まなくてはならない働きである。
最後に、神は、そのような働きに携わるに、恐れる必要はない、と語る。確かに与えられる働きであるのだから、どのような事態においても、神は知恵をも、必要な物をも、また必要な人間関係をもつなげてくれるだろう。神を畏れていさえいれば、何事も畏れるには足りない。神はご自身を畏れる者を、ちゃんと心にとどめていてくださる。神が私たちを「たくさんの雀よりもすぐれた者」とみなし、今日も配慮と導きを与えてくださることを覚えて歩ませていただこう。

マタイの福音書 09章

 キリスト教の神は、天地と人をお造りになった、あらゆる創造の源となったお方である。だから天地を支配し、これをしかりつけ、治められるばかりか、人の病をいやし、悪霊すら追い出すことができる、というのが、8章であった。9章では、さらに罪の問題が語られる。人の病が癒され、また死人がよみがえるというのは、大変な奇跡であるが、人がその罪を赦されて、新しい人生を歩むことができるということほど大きな奇跡はないだろう。
 一人の中風の人が運ばれてきた。病のために寝たきりの人生であったのだろう。その人にイエスは、罪の赦しを宣言された。病気が罪の結果だと言っているわけではない。ただその人の最大の必要が罪の赦しにあった、ということなのだろう。大切なのは、私たちの神は、単に身体的な問題を解決するためにこの地上に御子を遣わした方ではない、ということではないか。
 ある老人が、脊髄損傷で、四肢麻痺となって、数か月たった時に、身体はもう不自由になるばかりであったからもう回復が望めないことはよいが、身体が動かない分、心の問題が大きく感じられ、そういうものから救われたいと思うようになった、と語ってくれたことがある。そういう意味で、聖書は究極的な解決を与えてくれるのだろう。罪の許しを宣言し、平安のない心に神の平安を与えてくださるのだから。「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」と語ってくださるのだから。
 聖書というのは、自分に対する約束、語りかけとして受け止めていかないと、力にはなってこない。当時、イエスの弟子たちは、旧約聖書について、様々な受け止め方をした。たとえば彼らは旧約聖書を預言集として受け止めた。ペテロはヨエル書や詩編を引用して、聖霊降臨の際に、イエスの復活・昇天・高挙を語ったのである。また同時に彼らはこれを契約集としても受け止めている。その後の歴史においては、例話集、寓話集として受け止める読み方もあったが、基本的には古い契約という受け止め方がなされたのである。
今の私たちにとって聖書は、新しい契約であり、新しい神の約束として受け止められなくてはならないものである。当時の人々に語られた約束は、私たちに対しても語られる約束である。私たちは、イエスが「地上で罪を赦す権威を持っている」お方であることを受け止め、私たちにも、「起きなさい」と語られるお方であるということを理解する必要があるだろう。また、「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」(22節)とも、「あなたがたの信仰のとおりになれ」(29節)とも語ってくださるお方であると受け止めていく必要がある。
 そのように、神のみことばに対する信仰をしっかり持つことで、「こんなことは、イスラエルでいまだかつて見たことがない」(33節)ということが起こってくるのである。信仰のないところに、何事かが起こるとは期待することはできない。キリスト者にとっての根本は、信仰を持つことのみならず、信仰において成長することである。人間は基本的に神を信じない者であり、不信仰である。信仰もまた賜物というべきもので、私たちの生来の性質だけでは起こり得ない。神に信仰を与えていただき、その信仰を増し加えてくださるように、私たちは祈り、求めていく必要がある。そして成長することによって、収穫のための働き手になっていくことも必要なのである。いつまでも養われている者、いつまでも手をひかれている者ではなく、手を引く者となっていく。支えていき、養う者となるように成長することが求められている(38節)。今日、収穫のための働き手となりうるほどに、信仰の成長が達成されるように、自らが信仰に強くなれるように祈らせていただくこととしよう。

マタイの福音書 08章

マタイは、5-7章でイエスのメッセージを取り上げる。それは、王国の倫理である。8-9章においては、イエスの業(奇跡)を取り上げる。王の力を示すものである。8章では、イエスの5つの業が手早くスケッチされている。
 まず、何よりも注意を向けられるのは、この偉大な王は、ご自分の民一人一人と向かい合われる、ということではないか。ご自分の王国の民を十把一絡げに扱われるのではなく、一人一人と向かい合われ、その必要に耳を傾け、その必要を満たそうとする。
 だから「多くの群衆がイエスに従った」(1節)という状況の中で、ツァラアトに冒された人がみもとに来てひれ伏して言うと、これに耳を傾け、その必要に応えられようとするのである。またカペナウムに入り、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願すると、その声に耳を傾け、その願いを聞かれるのである。さらに、ご自分の弟子のしゅうとめが熱病に伏しているとなれば、その家で、病人を癒されるのである。
 マタイは、これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった、という。つまり、イエスが旧約聖書に約束されたメシヤであることを、示している。だからイエスは、単なる魔術師としてではなく、「風や湖までが言うことをきく」(27節)人として描かれる。また、「まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか」(29節)と悪霊に語らせているように、終末においてサタンの業を打ち滅ぼす「神の子」(29節)として紹介されるのである。イエスには、単に素晴らしい力、恐るべき力があるというのではない。イエスは神の子であり、ご自分の被造物を支配し、また人間の力の及ばない目に見えない霊の世界をも、また神の永遠の時の流れからすれば一時である今の時のすべてを握っておられる、いわゆる万物の支配者であり保持者であることが語られている。
 だからこそ、この方に対する信仰は、究極的な解決になるのであり、この方の前に信仰を持って進み出る者は、その解決を得る、ということなのだろう。
百人隊長は、13節。「あなたの信じたとおりになるように」と語られている。信仰というのは、神の言葉に対する信仰である。神の約束を信じる信仰である。神を信じたって何もならない、信仰を持ちながらそう思うこともあることだろう。しかし、そのようなときには、私たちは、神の約束のことばを忘れている。「おことばを下さい」(8節)という神の言葉への率直さを失っている時である。ある人には明らかに信仰がない。また信仰が薄い、と言われるような人もいる。しかし、信仰がないというのも薄いというのも変わらない。大切なのは、神の約束のことばを確かとみなし、これにより頼む信仰を持つことである。それがたとえ小さなものであれ、神はこれを偉大とみなされる。試練にある時にこそ、私たちは信仰を働かせなくてはいけない。いや、そんな時でなければいつ信仰を働かせる機会があるだろうか。もうだめだ、もうどうしようもない、そんな風に思える時にこそ、信仰は、究極の解決手段として選択されるものとなる。
私たちの人生は、しばしば順風であって、毎週日曜日に礼拝に通うだけで、特に不足することもなく、心配事もなく、人生を歩んでいけるということがあるかもしれない。いわゆる迫りのない人生というものがあるかもしれない。しかしそれでは、「あなたの信じたとおりになるように」ということばも迫ってはこないだろう。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」という神に対する迫りもありえないだろう。神を信じていくということは、私たちの生活の場で何事かが起こってくるということである。今日も神に対する信頼を明らかにする、そんな歩みを導いていただこう。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします