ローマ人への手紙 12章

<朝のディボーション>
12章からは、1-8章の教理的な内容を受けた、実践的な勧めになっている。初めに教理的な内容を議論し、それに基づいて実践的な義務について語る、これがパウロの手紙の書き方である。しかし先にも説明したように、9-11章が、1-8章の内容の確証だとすれば、12章は1-11章の内容を受けた実践編となっているということだろう。
私たちが信じるところは、私たちがどのように行動するかを決定する。パウロの教理的な説明を理解するだけでは十分とはいえない。私たちが学んだことを生活化していかなくてはいけないのであるし、神のことばを信頼していることを日々の生活によって示さなくてはいけないのである。
そこでパウロは、開口一番にこう語る。「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(1節)」
 かつてイスラムの国を訪れて思わされたことは、日本人には彼らのような「礼拝」の感覚はないということだろう。毎日7度繰り返される、祈りの呼びかけに応じて、熱心なイスラム教徒は、敷物を広げると、そこでひれ伏して礼拝を始める。思うことは、私たちがこのとおりに、所かまわず、実際にするかどうかは別として、神の前にひれ伏する姿勢や態度を持って生きているかどうかである。パウロが言っていることも、礼拝というのは、心身ともに、聖い、生きた供え物として自分自身をささげて生きているということであって、毎週日曜日に教会で費やす1~2時間の出来事ではない、ということだ。だからそれが毎日7度の行為に変わったとしても、それで礼拝ができているというわけではなく、自分の生き方そのものが礼拝的、つまり神にささげられたものであるかどうかが問題なのだと思う。
 そこで礼拝的な生活、つまり神にささげられた生活の特徴がいくつか述べられている。
一つは、この節において「ささげなさい」という動詞は「一度限り、完全にささげなさい」という意味で使われている。ちょうど花婿と花嫁が結婚式においてお互いをささげあったように、主に対して一度確実に自分自身を捧げることを命じている。
二つ目にそれは、この世と調子を合わせない生き方を命じている(2節)。ギリシア語の言語では確か、鋳型で形作られるという意味のことばが使われている。つまり、夏場にチョコレートが解けて、容器の形に変形しているようなもので、聖書的な価値観で生み出されたクリスチャンがこの世の熱に溶かされてこの世の価値観に模られてしまうようなものだろう。結局は、聖書的な価値観をどこか持ちながらも、やることなすことは聖書を読まない人と同じという生き方になってしまう。それは、礼拝的な生活ではないのだ、というわけだ。
 神は私たちの心を変え、みことばを用いて、霊的な心を整えられていく。神のことばを瞑想し、記憶し、それを自らの内なる人の一部としていくことに時間を費やしていくならば、私たちの心はますます霊的なものとされていく。大切なのは、そのように、神に自分自身を明け渡していくことである。「私の思いではなく、主よあなたのみこころをなしてください」と、すべてのことについて、神の導きを祈り、神の導きに生きようとすることが大切である。
こうして聖書通読ブログも、もう、5年目になろうとしているが、実際にはブログが始まる前のメール配信の時代を合わせれば、もう14年になるだろうか。ともあれ、朝はまず、自分自身を神におささげすることから一日一日をはじめる。そしてみことばに養われる時を費やし、神が私の心を変え、新しい一日のために備えてくださるようにと求めていく。祈り、その日の計画を神に明け渡していく。そして神の目に最も良いと思われるように私たちの人生に働いていただくことを求めていく。こういうことをいよいよ大切にしていきたいものではないか。
<夜のディボーション>
さて、パウロは、次に一種の教会論を述べている。信仰者にはそれぞれ賜物が与えられている。それは、私たちが互いにキリストの体の一部として助け合って、キリストの体を建て上げ、教会を完成させていくためである。だからクリスチャンはそれぞれ、自分の霊的な賜物が何であり、地域教会でなすべき働きがどんなものであるかを知らなくてはならない。私たちが持っている賜物というのは、神様の恵みによって与えられたものである。それは信仰によって受け止められ、用いられなくてはならない。
 「奨励(励まし)」は、説教や教えと同じぐらい霊的な働きである。哀れみを示したり、与えたりすることもまた大切な賜物。ある人々に神は、治め、教会の様々な機能を管理する能力を与えられるだろう。賜物が何であれ、神に献身し、教会全体の福祉のためにそれを用いていくことが大切である。神はそうした賜物を地域の教会がバランスよく成長できるようにするために与えてくださっているからだ。
 9節からは、細々とした勧めが列挙される。しかし、霊的礼拝の生活の諸相であると理解すれば一つ一つが、まとまりをもった勧めでもある。「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」というのは、他の人を自分自身よりも重要な存在と考えて接する」ということである。また、パウロは、自分の読者に霊的な熱意を保つようにと忠告する。というのも人に仕えているのではなく、主に仕えているからだ、というわけだ。人生に困難が起こると、クリスチャンは信仰の熱意をいとも簡単に冷えさせてしまうことがある。しかし、私たちは目に見えるところではなく、見えないものへの信仰によって生きている。だから「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」(ローマ12:12)となるのだろう。
 またパウロは、人々の気持ちを受け止めることを語っている。クリスチャンの交わりというのは、肩をたたいたり、握手を交わしたりすること以上のものである。重荷を負いあい、他の人々を祝福することであり、それによって私たちは互いに成長し、主の栄光をあらわすのである。もしクリスチャンが一緒にうまくやっていくことができないのならば、どのようにして敵に立ち向かうのだろか。謙遜に喜んで分かち合う心は、キリストの体を真に建て上げるクリスチャンの特徴である。
 最後に、パウロは、平和を保つように語る。神に従うことを求める信仰者には、敵ができるものだろう。私たちの主が地上で働いておられた時に、イエスにも敵ができた。パウロや他の使徒たちが宣教のために出て行くところどこにでも、彼らの働きに立ちはだかる者たちがいた。イエスは、弟子たちに彼らの最大の敵は、家庭に現れるかもしれないと警告した(マタイ10:36)。実際には、忠実な証人であることよりも、愛と忍耐に欠けているがために、敵を作っているということもあるだろう。しかしどのような状況にあっても、悪に対して悪を報いるというようなことがあってはならない。悪に対して悪を報い、善に対して善を報いる。これは誰もがすることである。しかしクリスチャンはもっと高い次元で、つまり悪に善を報いる生き方をすべきだろう。もちろん、こうした生き方のためには愛を必要とする。というのも、私たちには争う傾向があるからだ。また信仰を必要とする。つまり神は私たちの生活と私たちを傷つける者たちの生活の内に働き、ご自身のみこころを成し遂げることができると信じることである。また私たちは神の怒りに委ねなくてはならない。もし私たちが自らを守ろうとするならば、主が私たちを守ることはできないだろう。神の御手にゆだねるのである。
しかしそんな私たちは利用されるだけではないだろうか。いやむしろ一層憎まれるようになるのではないか。しかし主は何が正しいかを知っている。私たちの務めは、自分自身を守ることではない。主に従い、結果を主にゆだねることである。神の子として、私たちは高い次元に生きなくてはならない。悪に対して善を報いる生き方である。悪を克服する唯一の方法は、善を持って対処することだと聖書は教える。そしてたとえ敵が悔い改めることがなくても、私たちは神の愛を心の内に経験し、恵みにおいて成長することだろう。深い霊性を養われて歩ませていただきたいものである。

ローマ人への手紙 11章

<朝のディボーション>
パウロのユダヤ人に関する思いについての区切りとなる章である。パウロは、9章においてユダヤ人に対する深い思いを語っている。そして救いはユダヤ人のものであることを、強調するのだが、救いというのは選ばれた者のものであること、霊的なものであるから、ユダヤ人の血筋にあるからといって自動的にその救いに与れるわけではないことを語っている。そこに福音宣教の必要性がある、つまり聞かなくてどうして信じることができるだろうか、という補足を加えるのである。10章においては、ユダヤ人に救われて欲しいのだが、ユダヤ人は律法を行うことによって救われると考え、そのことに非常に熱心だ。しかし熱心であってもわかっていない。大切なのは、どんなによい行いを重ねたからと言って救われるわけではない。私はこれだけ立派に生きているという誇りを身に着けるだけで救いにはつながらない。神が救いのために備えてくださった方法は信仰による。イエス・キリストの十字架を自分の罪の赦しと新生のためだと信じることなのだ、と言うわけである。というわけで、救いは自己流の救いに満足し耳を傾けようとしない、ユダヤ人から、これを熱心に求める異邦人のものとなってしまった。とすれば、ユダヤ人はもう神から見放されてしまったのか、捨てられてしまったのか、というのが11章の問題であり、ここに実は、1-8章にまで展開された救いの理解がさらに深められる要素があるのだ。
 パウロは言う。「すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。絶対にそんなことはありません(1節)・・・恵みの選びによって残された者がいます。(5節)もし恵みによるのであれば、もはや行いによるのではありません。もしそうでなかったら、恵みが恵みでなくなります。(6節)」
 ユダヤ人は、神の救いの方法を拒否するからといって見放されたわけではない。恵みに応じる者が救われるという原則は変わらない。そもそも救いは行いではない。神に敵対し、神に逆らったとしても、神が提供される救いの方法を拒否し、自己流の方法を主張して神にたてついたとしても、神の恵みは取り去られない。神は恵みの神であり、悔い改め、神を求める者は拒まれない。
 重要なのは、旧約聖書の異邦人に対する約束が、イスラエルの「回復」、つまりイスラエルが御国の約束に与ることに結び付けられていると理解することだ。イザヤ11章や60章の預言は、異邦人がイスラエルの王国をユダヤ人と共に分かち合うことを明確にしている。しかしイスラエルは「回復」されるどころか「失敗」してしまった。そこで神は、新しい展開、つまりユダヤ人に代わって教会を「回復」の手段として用いられることを語る。エペソ3章においてパウロは、この新しい展開を「奥義」、いわば聖なる秘密であると語っている。つまり旧約聖書には十分明らかになっていなかったことであるという。
パウロは、「彼らの完成」(12節)あるいは「彼らが受け入れられること」(15節)という言い方をしている。今日のイスラエルは霊的に堕落している。しかしキリストが再臨される時に、回復される。今日のイスラエルは神に見捨てられている。しかし、やがて彼らは再び受け入れられる。神は決してご自身の約束を破られることはない。
 といことは、7章で、パウロが語っている「私は自分のしていることがわかりません。したいと思っていることができずしたくないことをしている。つまり聖書の言うとおりに歩むことが人間として正しいことであることがわかっているけど、なかなかそのとおりに歩むことができない」という問題に対して、パウロはユダヤ人の救いの問題を絡めて、「大丈夫!」と語っている、ということになるだろう。神は恵み深い方であるから、どんなに自分の罪に悩まされることがあっても、また人に罪を指摘され責められることがあっても、あなたに対する神の恵みは変わらないし、祝福も取り去れらないのだ、と言うわけである。
 頑ななユダヤ人が神に決して見捨てられないのと同様に、頑なな心を持つ者も、神を呼び求める以上決して見捨てられない。ユダヤ人は、神の愛が決して取り去れることのない例証なのである。こうして私たちの救いは、永遠の祝福なのだ、と確認することができる。
<夜のディボーション>
パウロは、神がユダヤ人を見限ったわけではないことを二つの例話で示している。一つは、粉の塊(16節)である。これは民数記15:17-21からの引用だ。収穫された麦の粉の最初の部分は、神様に捧げられるのだが、それは、粉の塊全体が神様に属するものであることを象徴している。つまり、神が一部を受け入れられるということは、全体を聖別することになる、というわけだ。 神はイスラエルの父であるアブラハムを受け入れられた。そして彼の子孫もまた選び分けてくださった。また神は他の族長、イサクやヤコブをその罪や失敗にもかかわらず受け入れてくださった。それは、神が「残りの粉の塊」を、つまりイスラエルの民を受け入れてくださることに違いないことを意味している。
次にオリーブの木(16-24節)これは、イスラエルの民の象徴である。木を支えているのは木の根っこである。これもまた、イスラエルの民を形成した族長たちの象徴となっている。神はアブラハム、イサク、ヤコブと契約を交わされた。そしてその契約に否定も変更もない。イスラエルが今日も守られているのは、この神のアブラハムとの約束のためなのである。
 ユダヤ人の多くは信じようとしなかった。パウロは、彼らを木から折り取られた枝として描いている。しかしそこで驚くべきことが起こったのだとしている。他の枝がその木の命を受け継ぐように接木されたという。つまり異邦人の枝である。パウロは、この「接木」は「性質に反したもの」であるという(24節)。普通は栽培種の枝が野生種の枝に良い実を結ぶように接がれる。しかし、よい木に「野生種」つまり異邦人の枝が接木されている。救いはユダヤ人のものだった、というわけだ。オリーブの木について言えば、その接木された枝を教会に当てはめて理解するのは間違っている。教会においては、「何の差異もなく」信仰者は「皆キリストにあって一つ」だからである。神はキリストの体のメンバーを眺めて、ユダヤ人であるとか異邦人であるとか区別されるお方ではない。オリーブの木のたとえは、神のご計画の中でのユダヤ人と異邦人の関係について語っている。「折り取られた枝」は、ユダヤ人の「躓き」(11節)、「失敗12節)、そして「捨て去られた」こと(15節)について語っている。そして、パウロは、異邦人がイスラエル人に支えられていると警告している。つまり彼らは自分たちの新しい霊的な立場を誇るようなことがあってはならないのである(18-21節)。
そしてイスラエルが盲目にされたことは、一時的なことである。それは「異邦人の完成のなる時まで」(25節)である。異邦人が完成される時がある。今日、神は異邦人を訪れ、彼らをご自身の御名のためにお召しになっている(使徒15:12-14)。この時代が過ぎ去り、異邦人の完成がなるようになると、神は再びイスラエルの国を召されるということである。神はご自身の民をお救いになると約束し、その約束を守られるのである。
こうして「イスラエルはみな救われる」とパウロは言う。つまり、神が恵みを注ぎ、それに応えようとする者は皆救われる、というわけである。なんと感謝なことではないか。神の恵みにより頼む限り、誰も、救われない、見捨てられるということはない。
「主であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6)。「神は人間ではなく偽りを言うことがない。人の子ではなく、悔いることがない」(民数23:19)。イスラエルに対する神の賜物も、イスラエルを神が召しだしておられることも、決して変わることのないものである。神はご自身の完全な性質から真実であり続けられる。イスラエルが自分の賜物を楽しむことがないという事実があっても、あるいは、選ばれた民として自分に与えられた特権を生きようとしなくても、この事実には何ら影響がない。神は人がいかようであれ、変わらずご自身のことばに真実であり続けられる。
 イスラエルには未来がある。イスラエルがその失敗から回復され、その完成に導かれる時に、この世界はいまだかつて経験したことのない神の恵みの豊かさを味わうことになる。イエス・キリストが再臨し、ご自身の王国を統治されるためにダビデの王座に着座される時に、イスラエルは回復され、受け入れられるというわけである。そこに神のはかりがたい知恵がある。
イスラエルの失敗を異邦人の救いへと転化され、なおもイスラエルを愛し、その回復を期待される、主の恵みにどこまでもよりすがって歩む者でありたい。今日の新しい一日が平安に満ちた一日であるように。

ローマ人への手紙 10章

<朝のディボーション>
 パウロは、ユダヤ人の問題を続けて取り上げている。彼らは熱心だ。しかし熱心だけどわかっていない、という。新興宗教に凝り固まってしまったばかりに、家族の関係がどんどん破壊されていく、これまでそんな家族を何度か見てきた。本人は至って真面目、純粋に信じている。しかし、その純粋さの故に、家族関係が失われていく。何を信じていくか、ということは非常に重要であると思う。人は信じるものによって行動が変わり、生活が変わり、人間関係が変わっていくからだ。そういえば、ウィーンの町を歩いていた時に「ファシズムと戦争を戒める碑」というものがあった。一つの思想に傾倒していくあまりに、何かが狂っていく。ということがある。
日本人は、一つの立場に立つことを嫌う国民性があるという。家に仏壇と神棚が混在しているのはまさにその象徴だろう。しかしそんな日本人がなぜ戦争時代あのような皇国思想に傾倒していったのかと思う。ただそれは、赤信号皆で渡れば怖くないというような全体主義に依存する日本人のあり方で説明できるのかもしれない。要するに日本人はバランス感覚があるというよりは、皆と一緒であればよしという全体主義の感覚のほうが強いのかもしれない。新興宗教を信じる日本人の心のからくりもそうなのかもしれない。その思想がどうのというよりも、はからずもその集団に居場所を見つけてしまった人が、そこから抜け出せなくなってしまう。家族は脱会させようとするが、それは自分の居場所をなくすことだから、そんなことは絶対できない。脱会させようとする人は皆敵になってしまうというわけだ。ともあれ、そこにあるのは熱心さだけである。その宗教がわかっているわけではない。新興宗教の信者が脱会する時というのはそういう時であると思う。家族に居場所はなかったと思っていたのが、脱会騒動をきっかけに、自分の家族での居場所を再確認することによって気持ちが和らいでいく、そして、考えてみれば、何でこんな教理を真面目に信じていたのだろうか、ということになるのではないだろうか。
ともあれ、パウロは、ユダヤ人は律法を守ることに熱心だが、わかっていない、と語る。なぜなら、律法を守ることでは人は救われない。ただ自分の誇りを増し加えるだけではないか、というわけである。私は神の戒めを守っている。こんなに立派に生きている、なのにあいつは何だ。そんな意識が律法を守るところから生じてくる。だから私は天国に行けるが、あいつらは行けない、そんなことを思い描く尊大な人間になる可能性だってある。(10:6)しかしそれは、自分を神の立場に置くことと同じである。
救いというのは、行いによるのではない、信仰によるのだ、すべて主を呼び求める者は救われる、とパウロは繰り返す(10:14)
<夜のディボーション>
 イスラエルが自分たちのメシヤを拒絶した時に、神はその福音を異邦人の救いのために異邦人に送られた。これは、申命32:21においてすでにモーセによって預言されていたことである。神が福音を異邦人に送られた一つの理由は、ユダヤ人にねたみを引き起こさせるためであった(19節、11:11)。それはユダヤ人に対しても異邦人に対しても、双方に対する恵みの行為だったのである。預言者のイザヤもまた、異邦人の救いについて預言している(イザヤ65:1)。
 新約聖書を学ぶならば、「まずユダヤ人が始め」が宣教の原則であったことがわかる。イエスはまずユダヤ人の中からご自身の働きを始められた。イエスは弟子たちを始めて宣教に使わした際に、異邦人やサマリヤ人の所へ行って宣教することを禁じられた(マタイ10:1-6)。復活の後に、エルサレムで待ち、自分たちの働きを開始する時を待つように命じられた(ルカ24:46-49、使徒1:8)。使徒の働きの最初の7章は、ユダヤ人とユダヤ教に改宗した異邦人に対する働きである。しかしユダヤ人がステパノを石打にし、迫害が起こると、神は福音をサマリヤ(使徒8:1-8)、そして異邦人たちへ(使徒10)と広められたのである。
 ユダヤ人の信仰者はペテロの事件をきっかけに、ユダヤ人も異邦人も同じように救われるものであることを悟っていく。しかし律法主義的なユダヤ人は反対し、それがあまりにも大きな問題となったために、教会はこの問題の解決のために会議を開かなくてはならなかった。この会議についての記録は使徒15章にある。そこでの結論は、ユダヤ人も異邦人も皆、キリストに対する信仰によって救われるというもので、異邦人はクリスチャンになるためにユダヤ教に改宗する必要もないということであった。
「朝から晩まで」パウロは、聖書を彼らに示し、イエスがメシヤであることを確信させようとした(使徒28:23)。パウロを通して神は不従順な民にご自身の愛の御手をのばし、彼らが立ち返るように求めたのである。神が異邦人を愛することでユダヤ人に対する愛が変わるということはなかった。
神は、ユダヤ人にも異邦人にもいずれにも福音を分かち合うよう、私たちを用いられようとされている。神はパウロの手と足を用いられたように、私たちをも用いようとされている。イエス・キリストの十字架は、ユダヤ人と異邦人双方のために喜んで命をささげるものであった。「どんな者も罰せられないため、むしろすべての者が悔い改めるためでした(Ⅱペテロ3:9)。
このような素晴らしい救いを人々が知るには、やはり宣べ伝える人がいなくてはならない。宣教あっての救いである。イエスは、「あなたがたは全世界へ出て行って」(マルコ16:15)と宣教を勧められた。また、「私たちのところに来て助けてください」(使徒16:9)という外からの求めもある。さらに、「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(2コリント5:14)という確信は、私たちを宣教へと押し出さざるを得ない。そして何よりも、異邦人もユダヤ人も皆一つとされるという祝福を覚える時に、私たちは、語らざるを得ないということだろう。主が私たちのあらゆる動機づけを祝福してくださって、宣教を進ませてくださるように。

ローマ人への手紙 09章

<朝のディボーション>
 これまで、パウロは人間の罪の問題(1-3章)と信仰による救いとその例証(4章)、そして、信仰による救いの利点と根拠(5章)、救いの性質について、いわゆる罪に死ぬこと、御霊に生きることなどを経験的に語ってきた(6-8章)。ところが、9章に至り、突然、ユダヤ人の救いの問題について触れていく。これは11章まで続き、12章からまた8章の続きであるかのように今度は信仰の実践について語っていくのである。これをどう考えたらよいのか。パウロの脱線と考えたらよいのか。そう解説している注解書も多い。そう考えた方が、区分がすっきりしていて説明もしやすい。しかし、この9-11章の挿入の3章は、脱線どころか、1-8章の恵みによる救いの教理をさらに説得力のある内容にするものである。
 というのも初めパウロは、ユダヤ人には、反逆者と見られていた。異邦人に仕え、モーセの律法から解放されることを教えていた。パウロが福音を語る度に、問題が起こり、おそらく彼の怪しい評判についてローマ在住のユダヤ人信仰者も耳にしていたことだろう。そこでパウロは、個人的な理由からイスラエル民族に対する自身の愛とその救いに対する思いを語ったと言える。
 しかしながら、さらに文脈に沿った教理的な理解が重要である。パウロは、ローマ8章において信仰者はイエス・キリストにあって平安を持ち、神の選びは揺るがされることがないことを語っている(28節)。しかしこういう疑問もあったことだろう。「神に選ばれたというユダヤ人はどうなのか?ユダヤ人は退けられ、新に、教会が選ばれたのではないか。神はイスラエルに対する約束を守られなかったのではないか?」つまり神がユダヤ人に忠実でないとしたら、私たちの教会に対してもどうして忠実であると言えるのか?ということである。
 ローマ9章における強調は、イスラエルが過去に選ばれたことにある。ローマ10章においては、イスラエルが現在拒絶されていること、そしてローマ11章においては、イスラエルが未来に回復されることが強調されている。イスラエルは、過去、現在、未来と見れば、一貫して神に選ばれ守られているのであり、神は態度を変えておられるわけではない、ということである。救いは依然としてユダヤ人のものである。「子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。」(4節)
メシヤが現れた時に、イスラエルの民は拒絶し、十字架につけてしまった。パウロはその先鋒であった。しかしそれでも、神の約束は取り消されないし、神のみことばも無効とされたわけではない。神は人間がご自身のことばにどう応じようが、忠実なお方である。
そこで、パウロは、イスラエルの選びの根拠について説明していく。
まず選びは、世襲制ではない(7節)。アブラハムには二人の息子がいた。ハガルによるイシュマエルとサラによるイサクである。イシュマエルは長子であったから、イシュマエルが選ばれるべきであった。しかし神に選ばれたのはイサクである。イサクとリベカには双子が与えられた。エサウとヤコブである。長子としてエサウが選ばれるべきであったが、神に選ばれたのは弟のヤコブである。エサウとヤコブは、同じ父と母から生まれ、イシュマエルとイサクのように父は同じでも母は違うということはない。つまり神の選びは、民族的なものに基礎を置くのではない。だからイスラエル、つまりアブラハムの民族的な子孫が神のことばを拒絶しても、神の選びの目的を全く無効にすることはないのである。
次に、選びは人間の義や努力に基づくものではない(16節)神はヤコブを生まれる前から選んでおられた。二人の子どもが悪いことや良いことをする前に(11節)、というわけだから、神の選びは彼らの性質や行いにも基礎を置くのではない、ということになる。彼らの不従順が神の選びの目的を無効にすることはないのである。神はご自身の民が不忠実であった時も忠実なお方である。
 つまるところ大切なのは、神の一方的な恵みであり、あわれみであるということだ。神が主権的に人を選び、人に恵みを施される。祝福を約束し、祝福を実現される。そしてその神の目的は妨げられることもなく、必ず遂げられるというわけである。では、それは神の差別ではないか、という人もいるかもしれない(18節)。しかし、そうではない。というのも実際、私たちにふさわしいのは、神のあわれみではなく、神の責めであり、裁きである。そんな私たちが選ばれるのだから、そこに神の主権を働かせてくださるのだから、神の選びに何を言えるだろうか(20節)。実際、すべての者が文句なしに救われるのであれば、神の聖さは否定されてしまうことだろう。しかしもしすべての者が失われるならば、神の愛が否定されてしまう。だから神の主権による選びということが、この問題を解決することになる。神の主権を認めていきたいものである。
<夜のディボーション>
 しかしながら、神がおられるのなら、なぜこの世の中にはこんなに悲しいこと、苦しいことづくめなのか。なぜ無実のものが苦しみ、悪者が栄えるのか。このようなことを許す神こそ罪深いとも言えるのではないか。
 私たちは、神は完全に正しいお方であると信じている。神が不公正な目的を持ち、不公正に物事を行うなど考えられないことである。しかししばしば、神はあまりにも不公正であるかのように思われることがある。神はモーセに哀れみを示し、パロを裁かれた。これは公正なことだろうか。神はイスラエルを選び、他の国々を退けられた。これもどうなのだろうか。
パウロはこの疑問に答えている。
第一に、神は陶器師で私たちは作品の器である。神は私たちよりも知恵あるお方で、私たちが神に論争をしかけたり、敵対したりすることは愚かなことであるという。人がモーセになるか、パロになるかを決めるのは神である。誰も、自分の両親や、遺伝子構造、誕生する時代と場所を選ぶことはできない。これらは神の手にゆだねられているものである。だからといって私たちの責任が軽減され、言い訳できるというわけではない。
実際第二に、神は、パロにまことの神を知り、悔い改める機会を与え、堪え忍ばれていたのである。神はモーセに語られた。「主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」(出エジプト3:7)神が長い間苦しまれたということは、パロに救いの機会を与えておられたということである(2ペテロ3:9)。そこに神の正しさがある。
さらに第三に、パウロは、旧約聖書を引用しながら、神がある者を救い、ある者をお裁きになるというのは、幾世紀も昔に与えられた旧約聖書の預言が成就する事であると語る。もし神がご自身の約束を守らなかったのならば、不正な者となることだろう。いやそれ以上にそれらの預言は神の選びが異邦人の救いを可能にしたことを告げている。出エジプトにおいて、神は異邦人を退け、ユダヤ人を選ばれた。そしてユダヤ人を通して、異邦人を救おうとなさった。しかしユダヤ人はその神のみこころを理解することもなかった。彼らは、キリストを拒否し、その石に躓いてしまったのである。しかし彼らの躓きは、神の恵みによって異邦人の救いを可能にしたのである。つまり神のユダヤ人の選びは、最終的に全人類によい結果をもたらしたということなのだろう。
 神に選ばれたユダヤ人は、よい行いや品性により頼む正しさを主張した。しかし、神が予め定められた正しさは、救いのためにキリストの恵みにより頼むことである。神は私たちを生まれつきの何かや行いに基づいてお救いになるわけではない。神は「恵みによって、信仰によって」私たちをお救いになる(エペソ2:8-9)。神が差別しているわけではないことは、祝福の約束に応答する者にはだれにでもその恵みをくださる、ということから明らかである。問題は神が定められた方法で応答するか否かである。ユダヤ人は律法を守るということで神の祝福に到達しようとした。しかし、神の定められた方法は、キリストの十字架の罪の赦しを信じるということである。キリストによって神の恵みを受ける、という方法である(31,32節)。
 私たちが、神の定めた信仰によって神の祝福に応じる、という生き方をすれば、私たちもアブラハムに連なる者と言うことができる。神の恵みに対する素直さが問われているように思う。今日も素直に、神に呼びかけてみようではないか。

ローマ人への手紙 08章

<朝のディボーション>
クリスチャンは失敗もするし、過ちも犯す。そして罪も犯すこともある。アブラハムは妻のことで嘘を言ったのであるし、ダビデは姦淫の罪を犯した。ペテロは二振りの剣で人を殺そうとした。大切なことは、彼らが自分の罪のために苦しんだとしても、それをことさら責められることはなかったということである。律法は私たちを責めることだろう。しかし信仰者は、律法と新しい関係にある。つまり私たちは律法に死んでいる(ローマ7:4)。私たちはもはや、律法から自由になっている(ローマ8:2)だから責められることがない。
 しかしなぜそんなことが起こるのか。それはキリストが十字架の上であなたのための律法の責めをすでに負ってくださったからである。イエスは十字架で私たちの罪を負われたのだ。司法には、人が同じ罪で二度裁かれてはならないという原則がある。イエス・キリストはあなたの罪のために罰を受けてくださったのだから、あなたはキリストにあることによって、もはや神に責められることはないのである。
そして信仰者は、今や「いのちの御霊の原理」に生きている。律法は、聖さを生み出す力を持っていない。それはただ罪を暴露し、責め立てる。しかし内住の聖霊は、神のみこころに従順な歩みを可能とする。神が律法において要求される義は、聖霊の力を通してもたらされるものなのである。聖霊にあってあなたにはいのちと自由がある(ローマ8:2)。
 律法主義者は、自分の力で神に従おうとします。そして神が要求される義に到達することができないでいる。聖霊に導かれたクリスチャンは、主に願い求める時に、聖霊の聖めの働きを経験することになる
 5節からパウロが比較しているのは、二種類のクリスチャン、つまり肉的なクリスチャンと霊的なクリスチャン、についてではない。救われている人とそうでない人の比較である。
 まず、救われていない人というのは、神の聖霊を持っていない(ローマ8:9)。だから肉に生き、肉のために生きる。肉を満たすことに心は集中している。しかしクリスチャンは神の聖霊を持っているのだから、全く新しい、異なった次元に生きることができる。聖霊に心が集中させられているからである。これは救われていない人が全くよいことができない、と言っているのではない。あるいは救われた人が全く悪いことをしない、と言っているわけでもない。ただ、両者の生活の方向性や傾向は異なっているということである。
 また、救われていない人は、物的に生きて、霊的に死んでいる。その心の内側は、神に対しては死んでおり、聖霊に応じることができない。道徳的であり、宗教的であっても、霊的命を欠いている。救われていない人は、依然として神との戦いの中にある。しかし、キリストに信頼している者は、「神との平和」を喜んでいる(ローマ5:1)。
それは、救われていない人が、自分を喜ばせるために生きているからであり、神を喜ばせることについて考えることはまずないからである。罪の根は自己中心である。一方神を信じる人は、聖霊を所有するばかりか、神に支配される事を喜ぶ。聖霊が私たちの生活に働き、私たちの体の肉の行いを死に至らせることを喜ぶのである。聖霊は、私たちと私たちの内にキリストの死と復活をもたらしてくださるのだから、聖霊にある新しい人生を喜ぶのである。それは、聖霊に導かれて歩むことを意味する(ローマ8:14)。この箇所にある動詞は「喜んで導かれる」を意味している。私たちが聖霊に明け渡す時に、聖霊はみことばをもって日々導かれる。いのちの御霊は力を与えてくださる。そして子としてくださる御霊は、信仰者を富ませ神のみこころに導くのである。
<夜のディボーション>
 神が創造を終えられた時に、それははなはだしくよいものであった(創世記1:31)。しかし、今日神の被造物はうめき苦しんでいる。苦しみと死があり、痛みがあるが、それらはみなアダムの罪の故である。被造物の問題ではない。パウロが被造物の苦境を描くために用いたことばに注目しよう。苦しみ(ローマ8:18)、虚無(ローマ8:20)、束縛(ローマ8:21)、滅び(ローマ8:21)、そして痛み(ローマ8:22)である。しかしながらこれらのうめきは、無駄なうめきなのではない。パウロは、これを女性の産みの苦しみにたとえている。痛みがありますが、その痛みは子どもが生まれると終わるものである。いつの日か被造物は解放され、うめきにある被造物は栄光の被造物と変えられる。信仰者は今日の苦しみにばかり目を奪われていてはいけない。明日の栄光を望み見なくてはならないのである。
また、信仰者がうめくのは、「御霊の実」を得るためで、来るべき栄光の前味というものだ。キリストが再臨される時に、私たちは相続すべきものを完全に受けることになる。最高のものはこれからである。信仰者はこの世の苦しみや痛みによって打ち負かされることはない。というのも、この苦しみは一時的で、いつの日か永遠の栄光へと入れられることを知っているからである。
 大切なのは、私たちがうめく時に、聖霊も私たちとともにうめき、私たちの弱さや苦しみを重荷としているということだ。そして聖霊はうめく以上のことをしてくださる。私たちのためにうめきをもって祈り、神の御心の中に導かれるようにしてくださる。私たちはいつも神のみこころを知っているとは限らない。いつもどのように祈ったらよいのかわかっているわけではない。しかし聖霊がとりなしてくださり、苦しみの中にあっても神の御心に生きることができるようにしてくださる。聖霊が重荷を共に担ってくださるのである。
 だから信仰者は、苦しみの時、試練の時に決してうろたえることがあってはならない。神がこの世に働いておられるからである(28節)。そして神は完全なご計画をもっておられる(29節)。神はその計画において二つの目的を持っておられる。私たちの善と神の栄光である。究極的に、神は私たちにイエス・キリストを形作ろうとされておられる。そして神の計画は必ず実現する。永遠の昔から、神がキリストにおいて私たちを選んでくださった時から始まった計画である(エペソ1:4-5)。神は、いつの日か私たちが御子と似たものとなることをあらかじめ定められておられる。このように、私たちが既に神の栄光を分かち会われているとするならば、私たちは失望したり、フラストレーションに陥ったりする必要はないのである。私たちが味わう苦しみは、イエス・キリストの再臨の時に尚一層の栄光が現されることを保障するものに過ぎない。
 私たちは決して裁かれることがない。神の義を分かち合っており、律法はもはや私たちを裁かないからである。肉に対する何の義務もない。神の聖霊を所有し、神の聖霊は肉を克服し、神のために生きることを可能にしてくださるからである。フラストレーションに陥ることもない。神の栄光を与えられ、キリストが再臨する望みを持っているからである。神から見捨てられることもない。
この最後の部分におけるパウロの強調は、信仰者の平安の根拠だろう。私たちは、過去も現在も未来も恐れる必要はない。キリストの愛の中に守られているからである。
確かに神は私たちのためにすべてのことを働かせてくださっている(28節)。しばしば私たちの人生には、ヤコブが語ったように「不幸なことがみな私にふりかかってくる」(創世記46:32)と悲しむことがあるかもしれない。しかし実際には、すべては私たちのために動いているのである。信仰者は、朝ごとに落胆すべきではなく、むしろ、朝ごとに神が自分のためにおられることを理解しながら、新しい朝を迎える必要がある。恐れることはない。
イエスも同じように語られた。神は鳥や羊を養われ、さらには野の百合にですら配慮してくださる。なおさらのこと私たちのことを心配してくださらないわけがない。
 そして私たちには二重のとりなしがある。聖霊のとりなし(26-27節)と神の御子によるとりなしである(34節)。私たちのために死んでくださった同じ救い主が、今天において私たちのためにとりなしてくださっている。キリストは私たちの擁護者となり、罪を赦し、神との交わりを回復してくださる(1ヨハネ1:9-2:2)。そして私たちは、神に見捨てられることはない。私たちが神を見捨てることはあるだろう。何か大きな試練や誘惑がやってきた時に、私たちは神を見捨ててしまうものである。しかし、たとえそういう不誠実なものであっても、イエス・キリストの愛から私たちを引き離すものは何もない、というのは素晴らしい恵みである。
 だから人生における苦難にあっても、勝利する力を与えてくださるキリストを信頼する必要がある(37節)。私たちは「圧倒的な勝利者となる」と信じなくてはならない。恐れる必要はない。命も、死も、今あるものも後に来るものも。イエス・キリストが私たちを愛し、勝利を与えてくださるからである。これは条件付の約束ではない。「もしあなたがこれこれのことをすれば、神はあなたにこうしてくださる」というようなものではない。もし神が私たちの味方になってくださるのならば、誰が私に敵対できるだろうか。勝利を与えてくださる神を信じて歩ませていただこう。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします