ヨハネの福音書 05章

 「その後、ユダヤ人の祭りがあって」という。いったい何の祭りのことか。おそらく、3月に行われた、プリムの祭りではないかと考えられている。すでに、バプテスマのヨハネの出来事は思い出話になっているから(35節)、おそらく、イエスの公の生涯の2年目のことで、過ぎ越の祭りの直前であったのだろう(6:4)。ただ、この祭りが9月に行われたラッパの祭りの可能性もあることが指摘されている。
 場所は、エルサレムの羊の門の近くのベテスダの池。現在のエルサレムの北にある聖アンナ教会の北西30メートルで発見された南北2つの池がそれであると考えられている。大きく二つの池(男子と女子の巡礼の沐浴用)に分かれ、その池を囲むように5つの回廊があった。欄外注を見ると、その池には神のあわれみによって病気がいやされるいう迷信があったらしい。アラム語で「あわれみの家」という意味を持つベテスダと呼ばれるようになったのは、そういうわけなのだろう。
 そこに38年も病気で苦しんでいる男がいたという。長いこと苦しんできたその男に、イエスは、「よくなりたいか」と声をかけた。それに対する男の答えは「もうあきらめていますよ」というものだった。自分の病など治りっこない、このまま朽ち果てていくのだ、そんな思いだったのだろう。確かに38年の病に希望を持つことはできない思いであったことは理解される。38年も長く曲がっていたものを真っ直ぐにすることは人間には不可能なことである。しかし、神にとって全く問題ではない。たとえ38年もの間、慢性化し、固定化されてしまったものであっても問題にはならない。ここに、私たちの希望がある。イエスは命じられた。「たってふとんをたたんで家に帰りなさい」イエスが言われたことばにこの男の病気はたちまち癒されたという。
 何か不思議な話である。イエスの奇跡といえばそれまでであるが、一つ興味深いことがある。ギリシャ語では、病気の訳語に3つの言葉が使われる。一つは病気全般を総称するものとしてのノソス。次に一時的な病気を意味するものとしてマラキアが多く用いられている。この箇所で用いられている第三の語は,アスセネイアであり,その意味は、普通に生活はできるが、長期の疾病状態にあり弱くなっている状況をさす。
 例えば、ガラテヤ4:13「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、肉体が弱かったためでした」の「肉体の弱さ」という原語がアスセネイアである。パウロはこの時、マラリヤにかかって高熱で苦しんでいたといわれるが、当時の医療を考えれば、よい治療法がない、心身ともに大変なダメージを受ける病気であった。期間が長くかかる、なおりにくい、闘病生活といった雰囲気の感じられる病気。しかも、手足が動かなく、日常生活はまったくできないというのでもない。問題はそういったしつこいトラブルの中に置かれているという状況である。
 また、Ⅰコリント 15:43「卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ」の「弱い」の原語が、アスセネイアである。人間の腐敗した心、自分の力ではどうすることもできないかたくなな心、わかっていてもやめられない式にずるずると罪深い生活を繰り返す愚かな心を表現している。これは、もう身体的病気とは関係のない、心理的トラブルそのものである。ある注解者は「腐敗に抗することのできない死体の状態のこと」と説明しているが、それほどに重いトラブルを背負い込んで生活している状態が表されている。
 このように、アスセネイアは、聖書では主に、2種類の訳語「病気」、「肉の弱さ」で用いられているが、その本質的な意味は、普通に生活できていながら、身体的あるいは、心理的など様々なトラブルを抱え込み、長い葛藤の中に置かれ続けていること、しいては弱くなっている、無力となっているというところにある。
 となれば、この病人の問題は、大方が意志の問題であったのかもしれない。イエスが「もう罪を犯してはなりません」(14節)で忠告されたのも、この人がだらしなく、考えの足りない人であったことを意味していたのかもしれない。ともあれ、私たちが肉の弱さに自分を放置してしまうということはあるものだ。感情に流されるまま、気分に流されるまま、そんな癖に、私たちは神のことばをもって楔を打ち込まねばならないのである。
19節以降は、ユダヤ人との論争になる。キリストは,既に,言葉ではなく業を持って注目すべき主張をしている。38年もの間病にあった男の癒しは、キリストが神であることを主張するのに十分なものであった。しかし、盲目なユダヤ人たちは、その奇跡に含められたメッセージを読み取れず、むしろ、安息日に奇跡が行われた事実につまづき(9-17)、怒りをイエスに向けるのである。こうしたパリサイ人の痛烈な批判に答えて、イエスは、驚くべき主張を展開する。一つは、キリストはご自分と神とが特別な関係にあることを示された。イエスは神を「私たちの父」とは呼ばず、「私の父」あるいは「父」と呼んでいる(17,19節)。イエスは、自分を神と等しい関係にあるとするばかりか、同じ働きを分かちあっていると主張したのである19-20)。
また、イエスは、ご自分が人に命を与える存在であることを語る(21,26)。これは 1:4からこの福音書の根本に流れている思想の繰り返しであり、11章のラザロのよみがえりで具体的に語られることである。今日多くの宗教や多くの霊能力者が、癒しの力を主張するが、死人にいのちを与えることができるのは、キリストをおいて他にない。人は、病める者に薬を与えることができる。飢えた者に食べ物を、弱き者には望みを、孤独な者には慰めを与えることができるだろう。しかし、死がやって来た時には、人はただ同情とあわれみを持って接する以外に何もできない。命を与えることは決してできない。それは神の領域だからである。イエスはこの力を持っていると主張した。イエスはこのようにしてご自分を神であると主張したのである。
 さらにイエスは、自分が裁き主であることを主張した。(22,23)大方の人は、父なる神が最後の裁きを人類にもたらすと信じている。しかしそれは誤りである。最後の審判に関わるのは父なる神ではなく、イエスキリストである。キリストは救い主であると同時に裁き主なのである。そして同時に、その裁きにおいて、罪を赦し、免じる権威があることを主張される。「まことに、まことに、あまたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死から命に移っているのです(24)。」
 キリストは、命を与えると同時に裁きをもたらすお方である。また裁きにおいて赦しを宣言する権威のある方である。このキリストの言葉が真実であるとするならば、私たちはどうするべきであろうか。イエスは言う。「もっとも、あなたがたが信じられないのも、むりはない。互いにほめたり、ほめられたりすることは喜んでも、ただ一人の神様からほめていただくことなど、まるで関心がないのだから」(44節)あまりにも目に見えるところだけで生きているがゆえに、神に望みを抱くことができない、ことがある。目を天に向けよ。神がいる。神にはいのちと希望がある。その神が遣わされたイエスを認めよ。これが聖書のメッセージである。今日もこの神に望みを抱いて、自らの思いを神にすべて打ち明け、神の働きが成される事を願いつつ、始めることとしよう。

ヨハネの福音書 04章

 ヨハネが取り上げる第二のエピソードは、「サマリヤ人の女」のそれである。イエスは、ユダヤを去り、ガリラヤ地方へと出かけるのであるが、その途中サマリヤを通っていかなければならなかったとされる。「ならなければならなかった」というのは論理的な必然性があった、ことを意味する。しかし、イエスがサマリヤへ向かうことのできる道は他にもあった。となれば、それは地理的な必然性を意味するのではなく、さまよっているサマリヤ人の女を捜し当てて救いだそうとする神の意志的な必然性があった、ということなのだろう。神が、失われた魂に対する関心を持っておられるということは、自分が誰にも顧みられないと思う様な時にこそ励ましになることである。
サマリヤのスカルという村にさしかかったのは、第六時の頃。かんかんと日の照りつける、ちょうど正午ごろであった。イエスが井戸のそばで休んでいると、サマリヤ人の女性が水を汲みにやってきたとある。しかし誰も水を汲にくるような時間ではなかった。おそらく女は、村では評判が悪く、他の女たちが水を汲に来ないような時間帯を選んで来たのだろう。実際、この女性は先のニコデモとは正反対である。彼女はサマリヤ人であり、無学な罪深い女性であった。また身分が高く、社会の尊敬を集めたニコデモに対して、彼女は貧しく、社会ののけ者に近い者であった。そして救いの道を探求するところもなく、イエスには全く無関心であったのである。そんな女にイエスが語りかけられる。「わたしに水を飲ませてください」(7節)女は親切に応じたが、イエスを冷やかすことを忘れないでいた。「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水を求めるのですか」(9節)長年の民族的な対立に基づく棘のある冷やかしであった。しかしイエスはその冷やかしを受け止めて、神の意志的必然性に基づく、救いを語る機会とされるのである。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(18節)
 イエスは象徴的に語っている。人間の喉が渇くように、心にも渇きがある。夏の日照りの暑さに、喉が潤される冷たい水があるように、心の日照りを潤す、すがすがしい水が欲しいと思うことがある。身も心もリフレッシュされるという言い方があるように、心が全く新しくされることを望む、そんな思いが人間にはある。しかしその思いを一時的な安っぽい、喜びで代用しているのが私たちの現実のありようである。人との刹那的な快楽の時、あるいは、お金や物を得る喜びでごまかそうとしている。しかし、そういう喜びというのは、また喉が渇くように渇く喜びである。大切なのは、人には「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」という心の水があるとイエスは言う。
 先のニコデモの話でもあったが、イエスは、「神の御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」と語った。永遠のいのちというのは、単に長いいのちではない。むしろ、質的ないのち、質的に高い今を生きるいのちである。ニコデモの例でもそうだが、どんな人であっても、人は自分の内にある心の闇や寂しさを認めざるを得ないが、そういうものをごまかしながら生きているところがある。永遠のいのちは、そういう罪の縄目から私たちを解放する。悔い改めと新生をもたらし、聖霊の助けを受けた新しい質的に変えられた人生を生きるようにさせてくれる。サマリヤの女性に必要だったのは、まさにこの新しい命に生きることであった。様々な過去のしがらみに囚われ、人目を避けて生きる、そんな人生を歩まねばならぬこの女性の日々はどんなものであっただろうか。いつもいつも、過去の失敗を思い出しては打ちのめされる。新しく人生を生きようと決意しても、過去の失敗を脳裏に閃かせ、それを白昼にさらそうとするサタンの不気味な手口に、萎縮し、惨めさの中に閉じこもってしまう。新しく生きることはかなわないと人目を避けて、人がいない時を狙って水汲みに来るという生活が続いていく。一時的な快楽的な時を過ごして自分の気持ちをごまかし続ける。そんなサマリヤの女性の悶々たる人生に、イエスは楔を打った。あなたも新しく生きることができる、と。この私も、というべきだろう。
 イエスは女性の「礼拝」についての質問に答えて教えられる。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は霊とまことによって礼拝しなければなりません」(23,24節)
 私たちに求められている礼拝は、聖霊の助けによって神との関係を持つ礼拝である。どのような場所で、どのような形式でという、先祖伝来の形に添うという問題ではない。ただ神の招きに応じて、神を見上げ、神を拝し、神に栄光を帰する礼拝が求められている。女が口を開いた。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう」(25節)。救いを求めてきた女の心情が明かされるところではないだろうか。そんな女に、イエスは、「私がそれです」と今この救いの機会を得るようにと語るのである。こうして神の意志的な必然性の目的は遂げられた。
 帰ってきた弟子たちにイエスが言う。「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(35節)実に、神が意志的に救いをなそうとしておられる場所はたくさんある。私たちが出て行くべき所、あるいは、収穫すべき働きはたくさんある、ということだろう。問題は、サマリヤの女が神の救いの計画に無関心であったように、私たちは、神の宣教の思いに無関心であるということがあるのではないか。しかしサマリヤの女が、まさにイエスのわずかのことばで救われたように、まさに刈り入れるばかりになっている魂はたくさんある現実に目を向ける必要がある。
渇きは、人間の根本的な必要であり、それが故に、福音宣教の必要性は大である。音楽も一時の気休めにはなろう、絵画を見ることも、旅に出ることも、グルメに舌をならすことも、温泉もまた、心を休めることになろう。しかし、人間に必要なのは、「永久にかれない泉となり、いつまでも、その人を永遠のいのちで潤す水である。」その水によって変えられた質的に高い人生であろう。主がこの福音宣教の使命に目を開かれた者たちの働きを祝福してくださるように。
46節からの王室の役人の息子のいやしは、第三の救いの出来事になる。おそらくヘロデ王の廷臣であったこの役人は、病気の息子のためになすすべを失っていた。息子は死にかかっていた。そんな父親にイエスは語りかけられる「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています」(50節)信じる他にないことばである。父親は、ただイエスのことばを受け止めて、帰るほかはなかった。だからこそ、53節、イエスのことば通りのことが起こって、父親は信じ直すということへ導かれたのだろう。信じる他はない、という時がある。しかし、もう一度喜びをもって、信じる時へと私たちの信仰は引き上げられていくものである。今は信じる他はないという時であるかもしれない。しかし、しっかりと神に信頼し、まことに神のことばは真実であると喜びをもって信じられる時があることを覚えて歩ませていただきたいものである。

ヨハネの福音書 03章

「人間からは人間のいのちが生まれるだけです。けれども聖霊様は、天からの全く新しいいのちをくださるのですよ(リビングバイブル訳)」(5節)実に、キリスト教というのは、イエスに与えられる神のいのちに生きる宗教である。ここがわからないと、キリスト教というのは、非常に堅苦しい宗教になってしまう。キリストのように生きるという修行僧的な生き方に迷い込んでしまうことになる。 
 パリサイ人というのは、当時のユダヤの宗教派閥の一つであるが、厳格に律法を実践することを重んじる、主として中流階級に多いグループであったと言われる。彼らは、福音書においてたびたびイエスと衝突し、その厳格で表面的な律法主義を批判されている。そんな中にニコデモという人物がいた。ニコデモは、イエスに、イスラエルの教師と称せられている。当時ユダヤでは、サンヘドリン議会という行政組織があり、ローマ帝国の支配下にあって、イスラエルの政治をつかさどっていたのであるが、そのメンバーであると同時に、その中でも、ほんの一握りの、誰もが尊敬し、真の指導者として認められるような人物であったと思われている。そんなニコデモも、内側には、深い悩みを抱えていた。誰からも尊敬され、誰からもよい人であるかのように思われていながら、そんな体裁とはちぐはぐな内面を抱えていた、ということなのだろう。人を殺したこともなければ、盗んだこともない。姦淫したこともなければ、偽ったこともない。しかし、それはそういう行動がなかっただけで、思いにおいては、完全とは言えない罪意識があったということなのだろう。
 水野源三という人が出した詩集を読んだことがある。小学生の時に重い脳症にかかり、それ以降、四肢麻痺の障害が残り、口も聞けない、そんな人生を送るようになる。ある日、母親が、そんな息子が瞬きでシグナルを発していることに気づくのである。そして五十音図を用意して、一つ一つ指差しながら、瞬きをしたことばを拾い集めて、水野さんの意思を聞き出す方法を発見する。それからというもの、水野さんの内側の世界が開け、水野さんは聖書を読み、クリスチャンとなり、詩集を残すのであるが、そんな水野さんが書いた詩の中に、「十字架につけろと叫んだ者の中に自分がいる」と語ったものがある。私はその詩を読みながら、手足を動かせない、寝返りもできない。瞬きで自分の意思を伝えるだけの人生で、どんな罪意識があるのだろうか、と思わされたことがある。水野さんは、自身の罪を認め、罪を悔い改め、イエスを信じクリスチャンになったのであるが、そんなところに、罪というのはやはり内面の問題である、外側に出てきた問題ではなく、内側で燃え盛る炎であると私などは思うのである。
 しかしながら日本人はこの罪意識というものをなかなか持つことができない国民性を持っている。日本人は罪意識よりも恥意識を持ちやすい。恥意識というのは、社会的なものである。人の目を意識して感じられるものである。しかし罪意識というのは個人的なもので、神の目を意識してこそ感じるものである。だから神の目を意識できない日本人は罪を犯していても、それを罪と感じることができない。しかし同じ罪が社会的に表沙汰になると、人の目を意識して恥と感じてしまう。対神的にではなく、対人的に物事を感じる国民性があるので、だから自分は思いにおいて罪を犯している、姦淫も殺人も犯したことはないが、神の前に自分はどうしようもない罪人であると自分の罪を認め、悔い改めて、神の救いを受けるというところにはなかなか至らない。
ともあれ、イエスは、そのように体裁は立派でも、内側に矛盾を感じている、人間の代表であるニコデモに、「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と語られた。確かに、私たちがこのまま天国に行けるとしたら、そこは、天国なんかではなく、この世とは変わらない世界である。罪を引っさげたまま皆が天国に行ったら、天国は天国ではなくなるのだ。結局天国に行ってまでも、私達は人をねたんだり、うらやんだり、憎んだり、疎んだりすることになる。そんな天国などまっぴらではないだろうか。やはりどこかで今の自分に完全に死んで、新しく生まれるということが必要である。そのためにどうしたらよいのか。
 「人間からは人間のいのちが生まれるだけです。けれども聖霊様は、天からの全く新しいいのちをくださるのですよ(リビングバイブル訳)」(6節)。イエスは、それは聖霊の働きであると語る。神の業でるという。ではその神の業を受けるにはどうしたらよいのか。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠の命を持つためです」(14,15節)神は具体的な方法を示された。かつて、荒野で燃える蛇に噛まれて死の病に冒された人々は、蛇を見上げて自分が癒やされることを信じるようにと求められた。信じて見上げた者は癒やされた(民数21:4-9)。同じように、罪から聖められたいと願う者は、十字架にかけられたイエスを、自分の救い主として受け入れ、信じるならば、そうなるという。イエスの御業が罪人である自分に力を及ぼすと信じるならば、そうなるという。神の聖霊の働きは、私たちの信仰によって起こされるのである。
ヨハネは言う。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」(16節)さらにヨハネは3章後半でバプテスマのヨハネの証言をとりあげて、イエスについてこう語る「父は、御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(35,36節)
 キリスト教というのは、単純明快である。神のいのちを与えてくださるイエスを信じるか否かにすべてがかかっている。イエスを信じ、イエスのいのちに与る一日を導いていただこう。

ヨハネの福音書 02章

イエスが生きていた時に、イエスがなさろうとしていたことを正確に理解していた人はいなかった。イエスの十字架の救いが、すべての弟子たちに了解されたのは、イエスが復活した後のことである。「それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。」(22節)と聖書を回顧的に書き進めている。
 そこでヨハネは二つのエピソードを取り上げる。水をぶどう酒に変える奇跡。イエスの生涯の中で最初に行われた奇跡である。そして一般に「宮清め」と呼ばれている事件。イエスが神殿で商売をしている人たちを追い散らした事件である。
まずカナの婚礼の話であるが、ユダヤでは、結婚は非常に重要なことと考えられていた。婚約すると、結婚までに1年準備期間として過ごした。そこで、もし、相手と別れたいということになれば、現代ではさっと分かれてしまうというところであろうが、当時のユダヤでは、婚約中であるにもかかわらず、離婚状のような文章を作成したほどである。また、結婚式そのものも大変盛大に行われた。AD2世紀頃のユダヤの伝統を記録した、ミシュナという資料によれば、まず花婿とその友人が花嫁の家まで壮大な行列を作って行進した。それはたいまつを持って夜間に行われたという。そして、花嫁の家に到着すると、スピーチや祝辞、そして結婚の誓いがなされ、そのあと、全員が花婿の家までねり歩き、最後の大宴会が開かれるのである。この宴会は実に豪華になされ、一日ばかりではなく1週間続くこともあったという。その宴会では、徹底的なサービス、歓待であり、お客が必要とするものはなんでも提供しなければならなかった。
しかしながら、この婚礼では、ぶどう酒が足りなくなるという不測の事態が生じてしまった。しかも「イエスも、弟子たちも」(2節)とあるように、どうやらイエスの一行は、この婚礼に余分な客として招かれていたのだろう。何とかしてぶどう酒を補充しなくてはいけない。イエスの母マリヤがイエスにぶどう酒を求めたのは、主の能力にマリヤが個人的に気づいていたということもあったかもしれないが、新郎新婦の社会的な責任が脅かされる不測の事態に、イエスに責任があると感じていたこともあったと考えられる。
イエスはマリヤの求めに応じられた。きよめのしきたりとあるように、この水瓶の水はユダヤ人が手を洗ったり、また、食器を洗ったりするためのものであった。80リットルから120リットルの水瓶が6つ。おおよそ2400人分のぶどう酒にこれが変化したということである。
そのスケールの大きさもさることながら、水がぶどう酒に変わったという質的変化に注目すべきだろう。11節にあるように、このしるしによって弟子達は信仰を持った。それは、ただ単にしるしを見たというよりも、ぶどう酒に変わった水を味わいながら、そこに物事の本質を変える力を持つ神の存在を感じたからであろう。自分たちとともにいるのは、全能の神である、そのような確信に弟子たちは満たされたのである。
しばしば自分の人生に、水のような味気なさを感じている人がいるかもしれない。しかし、たとえて言えば、イエスはそのような人生を味わい深い高価なぶどう酒のように変えてしまう、全能の神である。私たちの人生は、水瓶の中に閉じ込められた水のようなもの、一部の要領のよい人間たちの儀式に付き合わされる、途方もなくつまらないものであるかもしれない。あるいは、収穫もれしたキャベツのように、キャベツ畑でじわじわと腐れ果てて終わるようなものであるかもしれない。しかし、イエスにはそうした人生を、人々の役にたち人々を潤すぶどう酒のような人生に変える力がある。イエスが私たちの人生に触れてくださると、私たちの人生は、水瓶から自由に流れ出し人々を潤す人生へ変えられる。神の力に変えられる人生がある。
さて、イエスは、神殿の両替人や商売人の店を蹴散らす大変な騒動を引き起こされた。フィリピンのセブ島へ行った時のこと、観光スポットでもある教会を訪れると、その教会の周りを囲むように、たくさんの店がひしめき合って、神殿グッズというべきであろうか、サントニーニョの像なり、ろうそくなりが売られていたことを思い出す。日本人には、当たり前のことと思わされるところかもしれない。神殿に必要なものが売られている、神殿とはそんなものだろうと。しかしイエスの目から見れば、そういう状況というのは、人間が神を利用したかっている姿そのものだったのである。イエスは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と語られた。本来、いけにえの動物を売るというのは、遠方から来る巡礼者の便宜を図るものであった。それがいつの間にか金儲けの手段となり、いけにえに捧げる傷のない最高級品という触れ込みで、普通の値段の10-12倍の値段で売られていたという。
神の神殿は、こうした腐敗と、あくどい商売の横行する場となっていた。だから、イエスのこの宮清めの意義は、神殿の神聖化にあった。神様が住まわれるという神殿をそれらしくすることである。神の宮は祈りの場所、神聖な場所である。霊と誠をもって、神と親しく語り合う、神を礼拝する場所である。それは今日も同じであって、私たちも神の住まわれるところを、商売の巣としてはならないのである。神の宮である教会にいつわりや不義、騙し、小細工、を住まわせてはならないのである。
さらにパウロは言っている。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(1コリント6:19)神は、私たちの身体、そのものを神殿とされている。だから私たち自身にも、そうした汚れを持ち込んではいけない、ということである。私たちは、主の宮である自分自身にどのようなことを許しているだろうか。神聖な場所として、尊くささげられる場となっているだろうか。あるいはその逆であろうか。もし、逆であったとしても、おちついて神様を見上げ、キリストの一言によってきよめていただくことが大切である。たとえそれが不可能に近いもののように思われても、キリストには水をぶどう酒に変える力がある。
 イエスキリストは単に、両替人たちのテーブルをひっくり返したのではなく、彼らの精神的な価値観も同時にひっくり返している。当り前のように行ってきた不正をもはや許さない、彼ら価値観、道徳感を見事にひっくり返したのである。そしてそこで真に悔い改めて、自分の行いを新しくしようと決意する者に、神はその祝福を注がれる。水を最高級のぶどう酒に変えたその力でもって臨まれる。イエスの力に触れられる一日としよう。

ヨハネの福音書 01章

本日からヨハネの福音書に入る。ヨハネの福音書は、その冒頭から、他の三つの福音書とは非常に異なった印象がある。たとえて言えば、マタイ、マルコ、ルカは、共観福音書と呼ばれるが、それらはビデオ撮りをしたような書き方で、時系列にイエスの言動を記録している。しかしヨハネの場合は、いわばよく編集された写真集を出しているようなもので、イエスの言動が選択的に記録されているのである。実際著者は、他の福音書を補則するような書き方をしており、つまり、読者がすでにイエスの生涯を知っていることを前提にし、イエスの言動ではなく、イエスの言動の意味について解き明かそうとしているのだろう。
 だから著者は、イエスの行った多くの奇跡の中から、イエスが何者であるかを明確に示すしるしとなる奇跡を7つ厳選してまず取り上げていく。続いて、イエスの説話をとりあげ、そして十字架の受難物語へと移っていくわけであるが、それは読者を信仰に導くという目的にそって書き綴られているのである(20:30-31)。この福音書が、だいたい紀元90年頃、福音書の中でも最後に書かれたと考えられているのも、そういう事情を反映している。
 さて著者は、自分を「イエスが愛された弟子」(21:20,24)とだけ呼んでいて、最後まで実名を明かしていない。おそらく、そのように語るだけで、当時の読者には了解される存在だったということなのだろう。実際のところ、イエスに愛された弟子ということで連想されるのは、変貌の山や、ヤイロの娘が生き返った場所、またゲッセマネの園でイエスの側に一緒にいることを許されたペテロやヨハネであったこと、そして著者自身が使徒ヨハネの名を全くあげていないことから、それがヨハネであったと考えられるのである。
 ヨハネは、彼の母サロメはマリヤと姉妹であったから、イエスのいとこであったと考えられている(マタイ27:36)。となるとヨハネはイエスとほぼ同年代で、幼少の頃からイエスを知っていたことになる。また彼はバプテスマのヨハネの弟子であったが、イエスとバプテスマのヨハネも親戚関係にあったから、バプテスマのヨハネとも親戚関係にあったと考えられる。
ヨハネはペテロと違って豊かな家庭に育った。カペナウムでの漁業は使用人を使っており、エルサレムにも家を持ち、また大祭司とも知り合いであった。そんなヨハネがバプテスマのヨハネの導きによってイエスの弟子となっていく。性質的には、「雷の子」(マルコ3:17)とあだ名をつけられるほど気性が激しかったのだろう。しかしその後、彼は愛の使徒と呼ばれるほどに霊的な成長を遂げている。キリストにあって変えられた一人である。晩年はエペソで過ごし、福音書、3書簡、そして黙示録を書いている。
さて1章であるが、最初の1-14節が、いささか神学的な書き方になっており、ここもよく練られた印象を持つところである。
「ことば」と訳されたギリシャ語は、ロゴス。それは、音や文字の組み合わせによって表現される言葉以上の意味を持つ。つまり音や文字の組み合わせ以上に、その背後にある知性や意志、人格を現すと考えたらよいだろう。だからヨハネは、ことばであるイエスが永遠の存在(1 節)であること、創造主であること(2,3節)、霊的な命を与えられること(4,5,9節)、受肉し神の栄光を示される方であること(14節)、神を解きあかすお方であること(18節)と、五つの角度から、キリストの神性を述べていくのである。
挿入的に記されたバプテスマのヨハネについてのコメントは(6-8節)、イエスの人格を対比的に明確にするものである。イエスは「神」であるがバプテスマのヨハネは「人」である。イエスは「光そのもの」であって、バプテスマのヨハネは「光について証しする」ために来た、と。そしてヨハネはバプテスマのヨハネのことばを借りて、イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」である明言する。イエスは神であると同時に、人間のための生け贄そのものである、と。
 18節、こうある。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである」神の子キリストは、父といつも一緒であるから、神については何でも知らないことはない。そのキリストに耳を傾けるならば、神がわかるということである。私達は、神とはどういうものかとあれやこれやと想像をたくましくすることがあるが、そんなことでは神はわからない。むしろ、神を知ろうとするならば、聖書を読まなくてはならない。聖書は、神を解き明かす唯一の書である。そして同時に、この神が、私たちのために何をしてくださったのか、否、してくださっているのかを知ることのできる書である。この書を読む時に、神は高くに座しておられる方というよりも、私たちのために、ご自身を犠牲にし、私たちを回復させてくださった、救ってくださったということを知るのである。神と神がなさってくださったことを知る、そんな目的をもって聖書を読み進めよう。

毎朝聖書を一日一章読み進め、主に従う歩みをします