詩篇99篇

99篇 主は聖なる方

おはようございます。「主は聖なる方」という言い回しが、三度繰り返され、その意味が解き明かされていく素晴らしい詩篇です。聖であるということは、卓越性、義、赦しにおいて理解されるもので、その深さを思いめぐらす時に、神を恐れひれ伏す心を持つのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語の七十人訳聖書では、「ダビデの歌」と表題が付されている。しかし決定的に言えることではなく、実際の時代背景はよくわかっていない。ただ、99篇は、一連の王即位詩篇(93,96-99篇)と呼ばれる最後のものとされる。全体的に、「主は聖なる方」という三つの繰り返し(3、5、9節)で区分することができる。

2.主の卓越性を恐れる

第一の区分は、「主は王である。国々の民は恐れおののけ」(1節)という呼びかけから始まり、3節「主は聖なる方」で終わる。神を正しく恐れることを私たちは学ばなくてはならない。いわゆる恐怖の「恐」で恐れるか、畏怖の「畏」で畏れるのか、良く言われるところであるが、恐怖なくして、畏怖も起こり得ない。神は、「ケルビムの上に座しておられる方」ケルビムは、手足を持つ有翼の生き物として描かれている。人間の理性と動物の威力を合せ持った、神に近い天的存在である。その上、というのは、神の卓越性を語るものである。だから視点を変えた言い方になるのだろうが、詩人は、神が「すべての国々の民の上に高くおられる方である」。つまり人間と並ぶことのない存在であることを繰り返す。その認識をもって「地は、震えよ」とされる。私たちは神の前にひれ伏し、心から遜り、恭順を示し、恐れることを学ばなくてはならない。やはり神を知らな過ぎる現実がある。知らぬが故に、自身の不遜さに気づかぬ事がある。

3.主の関りを恐れる

第二区分(4-5節)では、神の聖さは、その卓越性のみならず、さばきと正義に現わされるとする。王である神は、さばきを愛し、公正を堅く立てられる。しかもそのさばきと正義は、「ヤコブの中に」現わされる。ヤコブを肉の性質、弱い性質と見るならば、神はそのような弱さが渦巻く中で、正しいことを行われてきたお方だ、と理解できるだろう。詩人は、イスラエルの歴史を振り返る中で、確かに、さばきを愛し、公正を堅く立てて来られた神の存在を思い起こしている。

人間の肉の世界に、神の義も正しさもない、と思うこともあることだろう。しかし十字架のイエスがまさにそうであったように、罪深い世界のただ中にご自身の義の光を照らされるのである。神の義は、標本でも、飾り物でもない。まさに個々の私たちの人生に介入する力である。だからこそ、このお方を恐れ、その足台のもとにひれ伏すのである。

4.神の聖さを恐れる

最後に(6-9節)モーセもサムエルも、イスラエルの偉大な指導者である。彼らを通して神はイスラエルの民を導かれた。彼らを通してイスラエルに対して神の正義が豊かに現わされた。なぜ彼らの名が挙げられているのか、と言えば、彼らの痛ましい失敗と彼らに対する神の在り方を覚え、神の聖さの第三のポイントに心を向けさせるためである。つまり、神の聖さは、神の恵みと愛の深さに現されている。神は彼らに、赦しの神であられた。

神の聖さというのは、氷のように透き通る清潔さを意味しない。それは、卓越性や至高性を意味し(1-3節)、公正さと正義という矛盾のなさを(4-5節)、さらには赦しと愛の深さ(6-8節)を持つ、温かくも深い、豊かなものである。今日もこの神の深さを思いめぐらし、神に近付き、この神に生きることを喜びとしよう。

詩篇98篇

98篇 預言的賛歌

おはようございます。ラテン語でカンターテ・ドミノ(主に歌え)と言われる作曲のもとになった詩篇です。多くの美しい宗教歌曲が作られていて、それらを聞いていると、紙面で熟読黙考する以上にイメージが膨らむように思います。主に栄光あれ!今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

表題は「賛歌」と単純である。「新しい歌を主に歌え(ラテン語でCantate Domino canticum novum)」で始まる、この一節からたくさんの美しい歌曲(カンターテ・ドミノ)が作曲されている。今日は時間があったら、You tubeで、カンターテ・ドミノに浸ってみてはどうか。この一節は、詩篇33、96、149篇の冒頭にもあり、ハスラー、モンテベルディ、シュッツなど、ルネッサンスからバロック初期の作曲家、また現代の作曲家も創作しているのであるが、それほどに愛されたこの一節を、黙読熟考ではなく、五感を通して味わってみたいところである。聖書を全身で体得したい、というのが我が願いである。

2.賛歌の根拠

さて、この詩篇は、96篇とよく似ていて、王である主の素晴らしい御業を讃え、裁き主として来られる終末の日を待ち望みつつ、喜び歌えと宣告している。前半の1-3節は、賛美の根拠が語られる。それは、主の奇しいみわざ(1節)、御救い(2節)、そして、恵みと真実(3節)にある。奇しいみわざは、奇跡的な神の介入を表す語であり、一説に、バビロン捕囚からの解放を背景としている、とされる。だから、この詩篇にギリシヤ語七十人訳が「ダビデの賛歌」と表題を付しているのは、ミスマッチなもの、と言われるところである。

2節の救いは、1節の勝利と同じ言葉が使われている。ヘブル語では救いも勝利も同じである。というのも、味方に関して言えば「救い」は、敵に対しては「勝つ」ということだからだろう。大事なことは、神の救いは、神の義の実現であること、そして神の誠実さを現れであることだ(3節)。97篇では、道義的な歩みが進められたが、それに続く形で、主の誠実さが繰り返されるのも興味深いところである。神の救いは気まぐれなものではない。契約に基づく、誠実さの実現である。私たちの主は「イスラエルの家への恵みと真実を覚えておられる」(3節)お方である。自分自身に何が起こるか、ということへの関心以上に、主が自分にどのように、どのようなタイミングで、ご自身の約束を実現させてくださるのか、という関心が信仰そのものなのである。

3.主に喜び叫べ

詩人は後半、主への賛美を奨励する。クアラルンプールで、オーケストラボックスを講壇の前に設置している教会を訪問したことがある。賛美チームどころではなく、オーケストラボックスである。だが聖書の礼拝も、壮観である。「竪琴に合わせ、ラッパに合わせ、角笛の調べにのせて~なりとどろけ、手を打ち鳴らせ、こぞって喜び歌え」とある。聖書の礼拝には、一人の人間がひれ伏して、というイメージもあるが、皆が一体となってあらゆるものを総動員して喜び叫ぶイメージもある。そのような意味では、教会の賛美も、しっかり教えられて聖書的に高められ、整えられていかなくてはならない。教会音楽主事という専門職が必要とされるゆえんだ。実際礼拝こそが教会の宣教の業そのものであるのだから、洗練されたカンターテ・ドミノが追及されてもおかしくはない。

9節は、賛美の第二の根拠である。義も公正も無き、罪にまみれたこの世とは違う、新しい秩序のある世界が来ようとしている。詩人が、キリストの来臨や終末の再臨を理解していたとは思われないが、真の聖書の著者である聖霊は、その終末的ビジョンを意図せずに詩人に語らせたのだ。アラム語訳聖書が「預言的賛歌」と表題を付したのは、そのような解釈に基づく。確かに神の義がもたらされるその日は(ローマ8:19-21)歓喜に満ちた時である。

詩篇97篇

97篇 いよいよ敬虔に

おはようございます。第四巻の流れを見ていく時に、これも終末的な主の権威を仰ぐ詩篇と読むべきなのでしょう。そして主を王として生きていくことは、すなわち今の世に置いて、敬虔な歩みを大事にしていくことを意識させられるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語七十人訳聖書では、「この国が確立された時の、ダビデの歌」とある。しかしこれがダビデの作なのかどうかは、はっきりしておらず、捕囚期後、エルサレムが再建された際に作られたものではないか、と考えられている。というのも、2、3節「雲と暗やみが主を取り囲み、…火は御前に先立っていき」は、主の正義が、国々を支配し、主の御旨がこの地になされることを語っており、出エジプトをイメージさせるものがある。詩人は、このイメージを新しい出エジプト捕囚帰還に重ねて語り、またもや神の正義、神の御力、神の栄光が現された、私たちの主は力強い。主の正義は真実である、と賛美しているわけである(7節)。「シオン」は、エルサレム第二神殿の丘を、「ユダの娘たち」は、ユダのエルサレム近辺の村落を指す。実に捕囚からの帰還は、あり得ない出来事。考えもつかない出来事であり、喜び、こおどりすべきことだ、というわけだ。

ただ、そのように決定づけてこの詩を読んでよいのだろうか、と思うところもある。構造的に1-6節は、ある特定の時代の出来事を踏まえているというよりも、ただ、主が自然界にご自身をありのままに現わされた状況を語っているに過ぎない、と読むこともできる。「雲」と「暗黒」(2節)「火」(3節)、「稲妻」(4節)は、嵐と雷雨をイメージさせる。「山々はろうのように溶ける」は、火山の噴火を意味するのだろう。となれば、詩人は、ただ人間の手も足も出ない自然界のすさまじい脅威の背後に、神があることを認め、その権威を認めている、と言うこともできるだろう。

1節「島々」と訳されたヘブル語はイー、「沿岸」とも訳されており、パレスチナから見た地中海やエーゲ海の島々と沿岸地方を総称する。つまり地の果てに至るまで、主がこのような力強い王であることを、認め、喜べ、というわけである。

2.主の敵と主の民に対する勧め

後半、二つのグループが想定されて、勧めがなされている。主を認めない者と、主の民である。主を認めない、偶像崇拝者、偽りの神々を頼る者には、主を認め、主にひれ伏せ、と勧められる。主が万物の支配者であることは、被造物の現象にはっきり見て取れる、というわけであろう。そして主を認める主の民に対しては、主を崇めるのみならず、10-12節において、倫理的な勧めがなされている。悪を憎め、敬虔であれ、と。

これまでの第四巻の流れからすれば、これも前の96篇につながる終末的な詩篇と理解すべきなのだろう。つまりヨハネは、「不正を行う者はますます不正を行い、汚れた者はますます汚れを行いなさい。正しい者はいよいよ正しいことを行い、聖徒はいよいよ聖なるものとされなさい(黙示22:11)」と語ったが、9節、全世界の統治者主を賛美する時に、今この地上における最善の営みは、いよいよ主の聖さに与っていくこと、悪を憎み、敬虔であることになるのだ。パウロも「敬虔のために自分を鍛錬しなさい(1テモテ4:7)」と語っているとおり、主を愛し、主にお会いする日を心待ちにする者であるならば、いよいよ自らをそれにふさわしく整えることに心を配るはずである。そのような人々に世の事柄は二の次になるのだ。もちろん、罪の世においてそのように生きることは難しいことである。だが、主は、「敬虔な者たちのたましいを守り」「悪者どもの手から彼らを救い出される」と詩人は励ます。そして、私たちが正しい道を歩むことができるように、絶えず光が注がれている。大切なことは、この主に心を向け続け、主を喜んで生きるかどうかなのである。

詩篇96篇

96篇 終末の王

おはようございます。第四巻には、礼拝の詩篇として礼拝的生活を促す一連の流れがあるようです。96篇は、その流れの中に、終末的および宣教的な視点を加える詩篇です。主を恐れる信仰とその人生によって証する歩みを大事にしてまいりましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

ギリシャ語の七十人訳聖書の表題は、「捕囚後に、主の宮が建てられた時の、ダビデの歌」となっている。確かに、捕囚後書かれたとされる1歴代誌に、この詩篇と同じ歌詞がある(1歴代誌16:23-33)。ダビデの時代に書かれたものが発掘されて収録されたのか、捕囚後に、ダビデ風に書かれたのか、また詩篇は、どちらをベースにしたのか、よくわからない。ただ1歴代誌は、神の箱をエルサレムに迎える賛美の歌で、臨在される主が地を裁くように願っているが、詩篇96篇では、世界を裁くために来られる主を賛美し、礼拝するようにと呼びかけている。

また90篇から第四巻に入るが、それは人生を知恵深く生きること(90篇)、それは主を恐れることにあり、と91篇につながっていた(箴言1:7)。そして主を恐れることは、すなわち至高なる主(92篇)、万物の王(93篇)を認めて仰ぐことを意味していた。94篇は、そのように主の権威を認めていくことは、日常性、しかも逆境においてであること、つまり実践的信仰を教えていた。95篇は、90-94までの要約のようなもので、創造主を仰ぐ信仰と生活における主への従順が語られていた。つまり第四巻は礼拝のための、そして日々の礼拝的生活を教え諭す詩篇と考えられるのだが、詩篇96篇は、世界を裁くために来られる主を賛美せよ、と主を恐れることへの終末的な視点を新たに加えている。

構造はいたって単純である。初めに主を賛美せよ、という宣告(1-3節)、賛美すべき主の尊厳、異教の神々に比べた主の素晴らしき尊厳(4-6節)、そして再び、主を礼拝せよ、という宣告(7-9節)、最後に、終末的主の支配とさばきへの信仰と告白(10-13節)が述べられる。

2.宣教的視点

さらに注目すべきは、主を恐れ、主を王として仰ぐことの宣教的視点の追加だろう。1節「新しい」と訳されたヘブル語はハダシュ、おおよそ詩篇では、主の解放に関連して使われることが多い。単純に古い歌に対して新しい歌を、というのではなく、御救い(2節)に基づいた新しい歌を、と言っている。そして、2節「告げよ」、3節「語り告げよ」、10節「国々の間で言え」と勧められている。

大事なことは、私たちが自らに起こった救いの御業を語ること、それ自体が証しであり、宣教となることだ。伝道会やイベントを大々的に開いて、人寄せをし、福音を語ることだけが宣教なのではない。その前に、まず私たちがまことに終末の主を恐れて、主に心を開き、主にある罪の赦しを受け、そのことを心から感謝し、神に新しい歌をささげていく、そのような礼拝的な生活を送ること自体が、そしてたとえ逆境に巻き込まれても、神の支配を信頼して生きることが証となり宣教となることを考えたいものだ。私たちの信仰とそれに基づいた新しい人生が、大いなる証となり、教会を建て上げていくものとなるのだ。

13節、「主は~地をさばくために来られる」とある。「さばき」は、士師記の「さばきつかさ」と同じ動詞である。10節の「さばき」は法廷的な用語であるが、これは裁判のみならず、治める、統治する、を意味する政治的な用語である。今の世において、私たちは、神が全世界の支配者であることを、信仰をもって受け止めるのみである。しかし、終末においては、万物の支配者である主の存在が誰の目にも明らかにされる。主の威厳と威光を信仰的に確信する自らの歩みをもって、主を証しする使命にしっかり立たせていただきたい。

詩篇95篇

95篇 神にひれ伏す

おはようございます。本日の詩篇は、礼拝賛美への呼びかけ、その根拠として、天地万物の創造主であること、私たちの造り主であることが告白されます。日々主を、創造主として仰ぎ、従順となるところに、教会の賛美が豊かにされるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇は、カトリック、聖公会さらにプロテスタントの諸派にて礼拝招詞の詩篇として用いられてきた。ギリシャ語の七十人訳聖書は、表題に「ダビデの讃美歌」と付し、ヘブル人への手紙の著者も、その解釈を支持しているが(4:7)、他の礼拝用の詩篇(96-100篇)と同様に、捕囚帰還後に作られた、とするのが定説である。つまり、BC516年、エルサレムの神殿が再建された喜びの中で歌われた、と考えられている。伝統的にイスラエルでは、この詩篇は、新年祭に朗唱したようであるが、7節の「今日」が、その特定の日を指すものなのかどうかは、わかっていない。この詩篇は、喜びに満ちた主への呼びかけで始まり(1-2節)、その理由付け(3-5節)、呼びかけ(6節)、理由付け(7-8節)と繰り返され、最後に神の警告のことば(9-11節)をもって終了する構造になっている。

2.礼拝をしよう(招き)

まず、第一段階で、詩人は主に対する賛美を呼びかけ、その理由として、主が「宇宙」の創造者、「全世界」の統治者であることを告白している(3-5節)。偉大な、万物の主である神を認めるところに、私たちの賛美がある。そのような意味で、礼拝の流れとして、感謝よりも賛美から始まることは理に適うものだろう。礼拝に集って、いきなり感謝します、という気持ちに自分を持っていくことは難しいものだ。そして賛美できそうもないと思うような時があっても、まず、招詞によって、すべての神々に勝る大いなる神を仰ぐ心を持ち、神を認め、神の何であるかを思いめぐらすところに賛美が起こってくる(4、5節)。それが礼拝の本質的な行為となる。

そして第二段階において詩人は、主が「私たち」の統治者であることを告白し、神を仰いでいる(7節)。天地万物の創造主である偉大な神が私たちに個人的に関わり、個人的な導きと恵みを与えてくださるからこそ、さらに私たちは主を仰ぎ伏し拝まざるを得ない。

3.主に従え(警告)

最後に、それまでの招きの調子と打って変わり、警告が語られる。このため、二つの詩が組み合わされたものであると考えられた時期もあるが、むしろ招きと警告をセットに、礼拝の精神を伝える内容となっている。つまり、主を認め、主に礼拝する心を持つならば、同時に、今日この日、主のことばに聴き従う心構えを持つことがまた礼拝である、というわけだ。しかしながら、人の心は実に勝手で気ままで、神に対して心頑なである。「メリバ」は「論争」を、「マサ」は「試みる」を意味する。その言葉の由来は、出エジプト17:7に詳しいが、私たちの神に対する心のありようへの警告である。ヘブルの著者も警告するように、人には打ち砕かれない心がある。神を認めず、背を向けがちな心が問われる場、それが礼拝である。

そこでこの招詞は、詩文としての文学的な美しさを犠牲にして、実際的な信仰上の緊急性に喚起を促すことばをもって締めくくられている。結局、信仰は、彼岸のことを最終目標にしながらも、日々の今をどう生きるかが勝負なのだ。詩人が「賛美をもって、主に喜び叫ぼう」と呼びかけるのは、ただ毎週、教会で声高らかに音楽に合わせて神を賛美しよう、というのではない。それは、創造主である神を認めるところから、賛美に溢れた日々を生きることが基礎となっている。口で声高らかに賛美しながら、日々の生活は全く別物であるなら、それは口先だけの賛美である。日々創造主を仰ぎ、従順であることが、教会の礼拝において真の賛美を溢れさせるものとなる。