レビ記3章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。今日はレビ記三章、交わりのいけにえについて語っているところです。とても重要な今日的意義のあるいけにです。神はもはや私たちと敵対されることなく、味方となり、私たちに命を与えられる方であることを、覚えるべき、いけにえです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.交わりのいけにえの種類
交わりのいけにえは、①牛(1-5節)、②羊(6-11節)、③やぎ(12-16節)のいずれかでささげられる。ささげるものは動物に限られるので、五種類のささげ物の内、これだけがいけにえ、と新改訳2017では訳されている。動物は、雄のみならず、雌でもよく、さらに体形が基準に合わないものでもかまわなかった。つまりそれは、神からイスラエルに提供された食事という目的にかなうものであれば、食用としての価値に影響を与えない程度の欠陥すら許された。なお、七週の祭りの時以外(レビ23:19-20)、いつささげるべきかは定められていない。つまりいつでも自発的にささげられるものとされた。
2.交わりのいけにえの和解の要素
ささげ方については、傷のない動物の頭に手を置き、そのささげ物の血を全部祭壇のまわりに注ぎかけ、脂肪を焼き尽くし、主の前に揺り動かされた胸の部分は奉献物として、ももは奉納物として祭司に与えられた。その他の部分は、いけにえをささげた者と家族や友人たちの食用に与える。
つまり、このいけにえの特徴は、まず全焼のいけにえと同様に、身代わり的な要素を持ち、キリストの十字架を予表する。実際パウロも、キリストの十字架の犠牲について、その意義は、「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました」(エペソ2:16)と語っている。イエス・キリストが十字架上で流された血、そのささげられた尊いいのちの犠牲によって、神は、私たちと和解してくださったのである。そして、この和解は、信仰によって受け止められるべきものである(ローマ5:1)。私たちは、この和解を受け止めるために、「信仰」を求められている。主イエスの十字架の犠牲が、神との和解を成立させることへの信仰である。
しかしながら、神と和解することは、私たちの人生にどんな意義をもたらすのであろうか。神なんてものは、遠い存在で自分の生活と何の関係もないと思っている人も多いだろう。しかし聖書の神は、この世界をお造りになり、支配しておられる神である。その神を敵に回すなど考え難いことである。かつて、アッシリヤの将軍セナケリブは、世界の覇者となり、パレスチナの地にまで遠征し、ヒゼキヤ王を脅迫したことがある。「お前は誰に頼ろうとするのか」エジプトと同盟を組んでアッシリヤに対抗しようとしたイスラエルは、赤子の手をねじられるようにいとも簡単に侵略されようとしていた。しかし、天地創造のまことの神を認めず、おごり高ぶったアッシリヤは、その時奇跡的な神の介入により大敗を帰しているのである(イザヤ36、37章)人間は、被造物に過ぎないことを忘れてはいけない。この世のすべての事象は、見えざる神の御手に導かれて成り立っている。謙虚になればこそ、人間よりもさらに遜って和解の手段を自ら差し出してくださる神の存在がわかるのである。
3.交わりのいけにえの食事の要素
さてこのいけにえのもう一つの特徴は、神との平和を象徴する食事の要素にある。全焼のささげ物は、全てが焼き尽くされて儀式が終了した。しかしこのささげ物では、最後に食事が伴うのである。そこで、このいけにえには、「感謝のいけにえ」「誓願のささげ物」「進んでささげるべきささげ物」とも呼ばれ(レビ7:11-21)、儀式の最高潮として、神と和解したことを喜びながら、食事をする時を持った。それは、喜びの交わりである。いつでもささげられるいけにえであったということは、いつでも感謝と共に持ち得るものであり持つべきものであるということだろう。もちろんこのいけにえの食事は、自宅ではなく聖所でなされるものであり、神が招いてくださった宴会としての意味がある。そして、二つの食事があった。一つは奉納者と家族、もう一つは祭司による食事である。しかしながら、注意すべきことは、異教においても同様の食事があったことであり、異教のそれと聖書が教える交わりのいけにえの違いは、宴会主催者が誰かということにあった。異教では、宴会主催者は、いけにえを持ってきた人であり、神を客として宴会に招くのである。しかしレビ記が教えていることは、宴会主催者は、神であり、人が客として宴会に招かれている、ということだ。実際、奉納者は、奉納から血の注ぎの儀式の流れの中で、犠牲動物を神にささげてしまっている。犠牲動物はもはや神のものなのである。だから、神は受け取ったものを、和解の証拠として、今度は、一部を祭壇の上で焼き尽くし、一部は、祭司に与え、残りの部分で礼拝者をもてなすのである。これが自宅ではなく、神の家で食べるように命じられているのは、奉納者が宴会主催者を勘違いしないように、という工夫でもある。だからこの食事の主人は、神ご自身であり、神が、一人一人を和解の食事、和解の宴会に招いてくださっている、とする(黙示録3:20)。そのたびに、それが私たちのものであることを信じ、喜び、目と舌と鼻と胃袋全てで味わう恵みなのである。
 今日で言えば、それは聖餐式の恵みに通じるものだろう(1コリント11:26)。聖餐式のたびに、私たちは、主イエスの十字架の犠牲により和解の恵みにあることを覚えて、感謝をささげる。聖餐は神が招いてくださる、舌で味わう恵みである。聖餐のたびに、私たちは、神が私たちと争うことを止め、敵対されることなく、味方になってくださる平和の契約と和解と交わりの現実を覚え、その霊的な祝福を味わい、感謝をささげる。キリストは、天から与えられたマナのごとき、いのちのパンであり、私たちのいのちを維持するために永遠に与えられた交わりのいけにえである。私たちは神の子羊の肉を食べることによって生きるようにさせられている(ヨハネ6:52)。そこに私たちの力もあり、日ごとにイエスによって養われることの重要さを教えるいけにえである。今日も、いのちのパンである主イエスのからだに預かり、主の恵みに感謝しつつ歩むこととしよう。

レビ記2章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日は、穀物のささげ物についてですが、私たちの献金のあり方について深く考えさせられる原理原則が語られるところです。全て主に守られて、祈りによって進められている日々の労働の実をささげる、そんな認識を深めたいところです。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

レビ記の最初の七章は、主にささげられるべきささげ物について扱っており、第二のいけにえは、供物のささげ物である。香りのあるささげ物と香りのないささげ物に分けるならば、先の全焼のいけにえにと共に、穀物のささげ物は香りのあるささげ物となる。
1)穀物のささげ物の種類と特徴 
通常、穀物のささげものは、動物のいけにえに添えてささげられた。ただ例外として、いけにえの動物を手に入れることができない貧しい者は、動物のいけにえに代わる罪のためのいけにえとして、これをささげることができた(レビ5:11)。それ以外は、毎日朝と夕にささげられる全焼のいけにえに添えてささげられた。他方、穀物のささげ物は、小麦であることが指定された。それは、当時の穀物の中で、最も高く値積もりされたものである。つまり、イスラエルの民は最上のものをささげることが求められた。貧しいからといってささげるものがない、という言い訳はできず、ささげる場合は、最上のものを、これがささげる者の心得である。
さて穀物のささげものは、土地を耕す人間の労働によって産出された農産物のささげ物であるが、三種類定められている。料理していない小麦粉(1-3節)、手で平らに伸ばされ、熱い石かかまどで焼かれたパン(4-13節)、そして単に火であぶっただけの穀粒か引き割り麦である(14-15節)。穀物といえども、多様な形でささげられることが許されたのは、それぞれの財力に応じたささげ方が許された、ということなのだろう。いずれにせよ、手が加えられている点が重要であり、それは、労働の実をささげることを意図している。額に汗をして、苦労の末手に入れた、労働の実をささげるのである。つまり全焼のいけにえは、いのちそのものをささげる行為であるが、穀物のささげ物は、いのちの営みの結果をささげる。いずれにしても、ささげ物は、いのちをささげる行為にほかならない。
2)ささげ物への追加物と禁止されるもの
ところでこの穀物のささげ物は、乳香、油、塩を混ぜてささげられた。また、パン種や蜂蜜を入れることは禁止された。それぞれ意味のあることであった。
油は通常オリーブ油であり(1,4-7、15-16節)、王や祭司の任職の際に、注がれるものであって、聖霊の象徴である(2コリント1:21-22)。主の聖なる生涯も聖霊の油注ぎを必要としていたように(使徒10:38)、私たちも聖霊の油注ぎを受け、聖霊のお取り扱いを受けたいのちの営みをささげるのである。確かに、私たちの人生の歩みは聖霊の助けにより、成り立つものであり、勤労の実も、聖霊の守りと助けがあって、産み出されるものである。聖霊の働きを信頼し、感謝しつつ、ささげる心掛けがそこに教えられている。
乳香(1、15節)は、かんらん科の植物の樹脂で幹に傷をつけると乳白色の樹脂がにじみ出てくる。様々な種類のものがあったようだが、当時は入手しにくい非常に貴重なものであった。乳香は古代エジプトにおいては、神にささげる薫香として使われ、王だけしか使うことを許されなかった聖なるものである。このエジプトの習慣が出エジプトと共に、ユダヤ人に伝わり、神にささげる薫香として用いられるようになったとされる。乳香の煙は神を拝する人々と神を結ぶもの、つまり祈りの象徴である(詩篇141:2,黙示録5:8)。主にささげる供え物は、常に祈りをもってなされた。
また、塩(13節)は、腐敗を防ぐことと味付けをすることがその目的であるが、「神の契約の塩」(民数18:19)と語られるように、それは、神の不変の契約の象徴である。神は、永遠の契約関係の中に私たちを入れてくださっていることを覚えてなされるものである。
以上から、全焼のいけにえが、イエスの十字架の死、つまりいのちをささげることであったとしたら、これは、イエス・キリストの生活と品性がささげられたことを思い起こさせるものである。イエスの地上の生涯が、神を喜ばせる実としてささげられたように、私たちも、私たちの日々の労働と生活が、神を喜ばせる実となることを願ってささげるのである。だから穀物そのものよりも、穀物という収穫を生み出した私たちの忠実さや誠実さが、そこでささげられるのである。だから今日の貨幣を労働の実とする社会にあっては、お金がささげられるのであるが、神が喜ばれるのは、お金ではなく、その結果をもたらした私たちの誠実な労働である。確かに、どれほどたくさんのささげ物であっても、不正なお金、不正な実をもらって嬉しい者はいないのであるし、神を思う思いの希薄な形ばかりのささげ物も、喜ばれることはない。
だからささげものには、パン種や蜜を入れてはならなかった。それらは、発酵や腐敗を促進させる作用があるので、それらから全く自由にされた聖別されたものだけをささげることが期待された(1コリント5:6-8)。私たちが古いパン種を取り除き、聖霊に信頼し、祈りにより塩味の効いた神の栄光を現す生活と勤労を重ねる、そのような営みから出た実をささげる、そこに、穀物のささげものの意味がある。礼拝における献金の行為は、実際には私たちの日常生活と切り離すことはできない。イエスの生活と品性に近づく信仰の鍛錬があってこそのものである。そのような認識のもとにささげられる献金であればこそ、教会財政も本当の意味で強くされるであろう。主に対するささげ物の認識を新たにしたいところではないだろうか。

レビ記1章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、今日からレビ記に入ります。創世記も出エジプト記も、レビ記もみなつながっています。個々に読んでいませんか?今日から学ぶレビ記は、創世記、出エジプト記の土台の上に、語られるものです。そして聖書の深みを理解する最も重要な書です。しっかり読んでまいりましょう。それでは、今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

創世記において一番大切なのは、創世記12章を軸に展開する終末史的ビジョンを読み解くことである。つまり、そこには、罪と堕落によって裁きを受け散らされた人類(11章)が、アブラハムとその子孫の選びと働きにより一つとされる終末に向かう神のご計画が語られている。出エジプト記は、具体的にイスラエルの民の選びが描かれている。彼らは、贖罪(血による罪の赦し)によって選ばれた(12章)、そして、神の戒めを与えられ(19,20章)、礼拝する民とされる(25章以降)。すなわち、創世記に描かれた終末史的ビジョンは、神を礼拝する民の証しによって達成されるのだ。レビ記は、出エジプト記において、物語的に語られた「罪の赦し」「神の民のきよめ」「礼拝」という重要な考え方を、神学的、論理的に深く解き明かす書である。実際、レビ記は出エジプト記と連続している。出エジプト24:16で神はモーセを「呼ばれ」幕屋建設の詳細を告げ、その準備が終わり、聖所が設けられると、再び神はモーセを「呼び寄せ」(レビ1:1)、個々のいけにえに関する規定を与え、神の民がささげるべき礼拝のあり方を教え導いているのである。
1.全焼のささげ物の種類
そこで1章、まず「全焼のささげもの(=なだめのかおりの火によるささげ物)」の規定が語られる。ささげ物は、その経済状況によって異なっていてもよく、豊かな者は牛を、貧しい者は鳥をささげたが、いずれにせよ、全く傷のないものでなければならなかった。だから、肉食獣は除外され、清い獣や家畜に限定された。そして、このささげ物は、祭壇の上で、それらを全て焼き尽くし煙にするのが特徴であった。
2.全焼のささげ物の手順
 だからささげ物をささげる手順に注目し、その意味をよく理解しなくてはならない。まず焼き尽くすささげ物となる動物は幕屋の入口に引いていかれなくてはならなかった(奉納)。次に按手がなされる(4節)。それは、動物の頭の上に手を置く行為であるが、それによってその動物に、私たちに下される神の刑罰の義務が移行したことを意味した。ささげられる動物は、まさに私たちの身代わりとなって焼き尽くされるのである。だから第三に、いけにえは屠殺される(5節)のであるが、それは、神の怒りの刑罰が、身代わりの動物を通して私たちに下されたことを意味する。ささげられた動物と私たちは一体で、私たち自身が神の刑罰を受けて死んだことになるのである。パウロは、イエスの身代わりの死について、「私はキリストとともに十字架につけられた」(ガラテヤ2:20)と語っているのはそのことである。イエスの十字架は私たちの罪の赦しのための身代わりの死であるが、それによって私たちも神に裁かれたのである。私たちも古い自分に死んでいる。
第四に、祭壇の周囲に血を注ぎかける(5節)。祭壇は神の臨在の象徴である。だからそこに血を注ぐことは、自らの死と贖いを確認する行為である。「血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とヘブルの著者は語った(9:22)が、それは神との確実な契約に基づく行為なのである。そして最後にいけにえが焼却される(6-9節)。火は神の怒りの火、焼きつくす火である。そして同時に浄化の火を示している。しかしそれらの火によって、いけにえは最終的には、宥めの香りの火によるささげ物となる。主を喜ばせることが最終目的である。この全焼のささげ物は、すべてのささげ物の基本となった。
3.全焼のささげ物の意味
全焼のささげ物について三度繰り返されることばに注目したい。「主への食物のささげ物、香ばしい香り」(9、13、17節)がそれである。神に崇敬の念を示すために、ささげ物において神に食物が提供されるというのが古代異邦人の考え方であった。しかし、イスラエルにおける主への食物は、そのような物質的な必要を満たす意味はない(詩篇50:8-15)。それはあくまでも霊的な意味であって、食物は契約の神への感謝、忠実さ、また信頼を象徴している。神が私たちに献げるように期待しているささげ物は、まさに私たちの感謝、忠実、信頼、そして神に対する愛なのである。私たちにとって食物が不可欠なように、神にとって霊的な食物、つまり私たちの全き献身が不可欠のものである。しかしながら、レビ記において最も理解するべきことは、私たちが全き献身をささげるのではなくて、私たちの代わりに全き献身が既に献げられたことである(ヨハネ1:29)。私たち罪人の自己献身はいかなる献身であろうとも不完全さを免れ得ない。完全な献身は、永遠の御子が罪人の身代わりとなり、ゴルゴダの丘においてご自身を献げた自己犠牲以外にありえない(マタイ26:28)。御子の十字架の死に至るまでの、御父に対する完全な愛と服従が、主への食物であり、香ばしい香り、すなわち喜ばしく、受納される宥めであったのである(4節、ヨハネ17:19、エペソ5:2)。
だからパウロは、キリスト者に、自分自身を神に献げて歩むように勧めているが(ローマ12:1)、それは、キリストの十字架の犠牲を神が受け入れられたことが前提となっている。つまりキリストの故に私たちは、受け入れられており、神に近づいて自分自身を献げる歩みが許されているのである。こうして全焼のささげ物をささげることは、神に献身を示す、神に対する愛の行為というよりも、完全な犠牲によって神に愛されていることを確認し、自らをキリストに倣って神のものとされることを願う行為と理解されるのである。
ペテロは語った。「聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい」(1ペテロ2:5)。私たちは、キリストにあって既に自分自身を神にささげ、受け入れられている。ならば、受け入れられている者としてさらに自分自身をささげて生きていくことが、期待されていることである。神は物がささげられて喜ぶお方ではない。私たちが、キリストの十字架を覚え、遜り、この方にあって新しいいのちと神との関係があることを覚え、感謝と、忠実さと、信頼を益々深めるように神を仰ぐことこそが、神の喜びとされる食物となるのである。今日も神の恵みとキリストのとりなしに守られてある事を覚え、神にささげた歩みをさせていただこう。

出エジプト記40章

<要約>
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、40章ですが、幕屋が完成し、これを聖別し神の用とする奉献式がなされ、神がそれをお受けになり臨在の象徴としてくださったことが記されています。注意すべきは、繰り返しのことば「主がモーセに命じられたとおりである」です。神に従順であるためには、神の言葉によく耳を傾けることです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.幕屋の奉献(40:1-15)
幕屋の完成は、神の民の創造を意味した。エジプトで奴隷であった彼らは、天地創造の唯一のまことの神を拝む宗団として、自分たちを認識するようになった。
2節「第一の月の一日」に、17節を見ると、これは第二年の第一の月の一日である。この日、幕屋の設営が命じられ、全ては「主がモーセに命じられたとおり」に完成した。エジプトを脱出したのは、第一年の第一の月の十五日、それから約五十日目の第三の月にシナイ山に到着(19:1)している。そしてモーセの第一回目のシナイ山滞在が四十日間(24:18)、さらに第二回目のシナイ山滞在が四十日間(34:28)であるとすると、それだけで130日、約4カ月弱が経過していることになる。その間に、金の子牛の事件民の背教があり、モーセのとりなしがあり、神の民との再契約があったのだから、第二年の第一の月の一日に幕屋を組み立てるとなると、幕屋を製作する時間はわずか7カ月弱しかなく、イスラエルの民は、驚くような熱意と勤労ぶりをもって、幕屋の布や皮を用意し、刺繍を施し、調度類を彫刻し、組み立てたことになる。実に荒涼とした荒野のど真ん中で、幕屋の材料を揃える工場も商店もなかったと思われる所で、彼らは、材料を用意し、突貫工事で作業を完成させた。そして幕屋を組み立て、至聖所を設置し、完成した調度類、付属品を定められた場に配置した。おそらく、幕屋は移動可能な組み立て方式であったから、設営は短時間で終了したと思われるが、それにしても、驚くような献身ぶりである。金の子牛の事件の後、悔い改めが具体な行為となり、信仰と一致による熱意が導きだした一大事業となった。教会の建設にもそのような御霊による新生と一致による前進がありたいものである。
2.聖別と神の証印(40:16-38)
さて、完成した幕屋の建具および、調度品類は、まず主のために聖なる油注ぎによって聖別された。これは、祭司の任職聖別式と同様、別の日に行われたのであろう。そこに主の栄光が満ちたとされる。主の臨在の象徴である雲がそこにとどまり、34節「主の栄光が幕屋に満ちた」という。主は幕屋を住まいとされた。これは重要な比喩である。というのは、イスラエルが王国となり、幕屋に代わる神殿を建設した際、主は、神殿をご自身の住まいとされ、そこにも主の栄光は満ちあふれたとされている(1列王8:10-11)。
新約の時代では、神は新しい幕屋、神殿を定められた。つまりイエス・キリストをご自身の神殿とされた(ヨハネ1:14)。イエスは、ご自分をさして、言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(ヨハネ2:19)これは、イエスの復活のことを言っているのであるが、神はイエスを住まいとし、イエスの上にご自身の栄光を表されたのである。
そして現代において神は、キリスト者一人一人を幕屋、神殿として見て、ご自身の住まいとしてくださる(1コリント6:19,20)。これは驚くべきことである。私たちが神の聖なる用具として聖別され、神ご自身の栄光を現す場とされるのだ。私たちを見る時に、人々は、そこに主の栄光が満ちている、この人と共に神がおられる、と知るのである。私たちは世の光であり、地の塩と言われるのは、そういうことだ。
38節は、「わたしはイスラエル人の間に住み、彼らの神となろう」(29:45)と語られた主の約束の実現である。彼らは旅路の途上にあって、いつも、昼は主の雲が、夜は雲の中に火があるのを見たという。神が約束されたとおりである。そして、イスラエル人は、その主の雲が幕屋から上った時に旅立ったという。つまりどこまでも主の後をついて行く民として、自らを証したのである。
神は、イスラエル民族を神の民として導かれた。それは、ただ単にエジプトの滅びの穴から救い出してくださった、というわけではなく、その先において、神の民としての証を立てるためである。それは、私たちを通して、神の救いの中に人々を招き、神の同じ祝福に預からせるためである。神が全人類を愛しておられることは確かであるが、その愛の招きを自らの生活を通して指し示すのが、神の民としての私たちの役割なのである。

出エジプト記39章

<要約> 
 皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。さて、39章は、祭司たちが着る装束の作成について記しています。モーセは神に命じられたとおりに事を進め、ついに幕屋建設に関する全ての作業を終了させました。こうして天地創造に匹敵する神の民の創造が完了しました。今日も、モーセのように主のみ言葉によく聞き、従い、完成させる歩みを目指しましょう。皆さんの上に主の平安があるように。

1.祭司の装束の作成(39:1-31)
祭司たちが着る装束が作られていく。「主がモーセに命じられたとおりである」と著者は繰り返すが、このフレーズは、この章にも、次の章にも7度繰り返される。それは、神の細かな命令に、モーセが的確に、丁寧に従ったことを強調しているのであろう。そのように一つ一つ判を押したように、確実に作業が進められていく様に、神のことばに従うあり方そのものを考えさせられる。
 神の宮を建てることについて、これほど神の御心に沿って建てあげていくことの慎重さがあるだろうか。いや、もっと比ゆ的に考えて自らの信仰の歩み、霊的な人生を築き上げることについて、これほど神の御心に沿った慎重さがあるだろうか、と思う。
 パウロは言う。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現れ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。・・・あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか」(1コリント3:12-16)イエス・キリストという土台の上に、どのような素材を選んで教会を建てあげていくのかに注意せよということである。素材を選びぬき、最良のもので、慎重に建てあげるのでなければ、結局は、災いの日に崩れることなく立ち続ける建築にはなりえない。三匹の小豚の話ではないが、藁と木とレンガで造った家の内、狼の攻撃に守られたのは、レンガの家だけであったようなもので、私たちの教会も、神に命じられたとおりに、選び抜かれた素材で、また神のことばに従って建てあげる慎重さをもって建てあげるのでなければ、決して、永遠の神の家として立つことはできない。ハデスの門も打ち勝てないという、霊的な神の家として建てあげることはできないだろう。
 そういう意味で、教会は、また私たちの新しい人生は、霊的なものである。教会はセメントをこねれば建つという。しかし、神が私たちに期待しているのは、箱モノを作ることではない。人の魂を癒し、心を励まし、力といのちを与える教会を建て上げることである。それは、まさに霊的な教会であって、ハデスの門も打ち勝てないものである。とすれば、霊的に金、銀、宝石にたとえられる良質の材質で、私たちの人生を築き上げ、教会を築き上げるのでなければ、それは決して神の評価に耐えうるものにはならない。霊的に木、草、わらというのは、いわゆる霊的には粗悪な素材、つまり世俗的な素材ということであろうから、建物は建てあがっても、霊的な試練には耐えられないのである。だからパウロは、「私たちの戦いの武器は、肉のものではなく、神の御前で要塞をも破るほどに力のあるものです」(2コリント10:4)と語り、神の霊的な武具によって戦い抜くことの大切さを語っている。霊的な生活、霊的な教会を築き上げようとするならば、霊的な材料をもって、霊的な手段に沿うことが大切である。神の方法に従う、というそのことが、神の目的にかなうありようを得ることになる。
2.幕屋作製作業の終了(39:32-43)
 「こうして会見の天幕である幕屋のすべての奉仕が終わった」という。私たちの奉仕にもいずれ終わりが来る。その際に、私たちはどのような報告をするのであろうか。私たちの奉仕がたとえ人に評価されることがなくても、神の前に、「主が命じられたとおりにした。そのようにした」と言えるものであるかどうかが、大切である。神が私たちに期待することは、大それたことではない。むしろ小さなことであろう。しかし、親、子ども、妻、あるいは同僚に対して、神が与えられた責務を忠実に行い、その奉仕を終える時が来る。モーセは、「すべての仕事を彼らが、まことに主が命じられたとおりに、したのを見たとき、モーセは彼らを祝福した」という。仕事をし、その通りの物ができ、よしとし、これを祝福する(創世記1,2章)。まさに創造のパターンを思い出すところである。実際、幕屋の全ての奉仕が終わることは、天地創造に匹敵する神の民の創造を意味するところがある。神はモノとしての天地をお造りになっただけではなく、創世記の物語を通して、アブラハム契約に象徴される、散らされた者が一つとなる霊的な環境を提示された。そこに、出エジプト記を通して、神の民を産まれさせたことを伝えるのである。そういう意味では、善悪の知識の木の実は、アダムにとって主の戒めを教えるものであったが、神の民に対しては、続くレビ記を通して、主の戒めが教えられていく。つまり彼らは神の民としていかに生きるべきかを教えられていく。
創世記、出エジプト記、レビ記とさらに読み進めていくこととしよう。