エゼキエル書25章

25章 国々へのさばき(25:1-32:32)

おはようございます。神は正しいことをなさるお方です。人間のように、余計なおまけをつけるようなことはありません。神は信頼に値するお方です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.周辺諸国への裁きの宣告

これまでエゼキエルは、エルサレムを中心とする神のメッセージを直接的に、また比喩的に語ってきました。続く25-32章までは、周辺諸国に対する預言となっています。エレミヤも、最初はエルサレム(1-45章)、そして次に周辺諸国(46-51章)へと向けてメッセージを書き連ねていた同じ構造を思い出すところです。

大切なのは、イスラエルのように主との契約関係の中にない国々もまた、主の主権の下にあることです。神はイスラエルだけの神ではなく、全世界の主です。そこで、神は、イスラエルの滅亡を喜んだ、近隣諸国、アモン(1-7節)、モアブ(8-11節)、エドム(12-14節)、ペリシテ(15-17節)に対しても、その裁きを告げられます。神は、ただ怒りに任せて事を行うような方ではなく、正しいことをなさるお方だからです。

まず、アンモン人に対する裁きが語られます(1-7節)。アモン人の祖先は、ロトの末娘の子に遡ります(創世記19:38)。ロトはアブラハムの甥ですから、イスラエル人とは親族関係にあります。そのアンモン人への裁きは、既に21:28-32で語られましたが、その詳しい繰り返しです。彼らが裁かれたのは、イスラエルの民が受けた災いをあざけったためでした(3、6)。イスラエルが主にさばかれたのは、イスラエルの罪のためです。しかしたとえ、イスラエルが当然の報いを受けたとしても、アンモン人がそれをあざけって喜ぶことは許されないことでした。というのも、アンモン人も同じ穴の狢だからです。またアンモン人のあざけりは、彼らがイスラエルを敵としてきた憎しみから出たものでした。主のさばきは憎しみから出たものではなく、イスラエルの汚れを取り除き、きよめる目的を持った、愛の鞭であり、その意図は正しく理解されなくてはならなかったのです。

2.モアブ、エドム、ペリシテへの裁きの宣告

次にモアブに対する宣告。彼らの祖先は、ロトの娘たちによって生まれた子に遡ります(創世記19:30-38)。つまり、アンモン人と同様に、彼らもまたイスラエルと親族関係にありました。彼らの罪は、ユダを神の選びの民とは認めず軽蔑したことです(8節)。彼らは、ユダ南王国の滅びを、イスラエルの神の無力さの為と考えたのです。彼らもまたイスラエルを裁く神の意図を正しく理解していませんでした。そこで、神は、正しいことをなさる力ある神であることをわからせるために、モアブにもさばきを下されました(11節)。

エドムの祖先は、アブラハムの孫、ヤコブの兄エサウに遡ります。エドムもイスラエルと親族関係にある民です。彼らの罪は機会に乗じて、エルサレムを痛めつけ、自分たちのものにしようとしたことでした(12節、35章、オバデヤ書)。実際バビロン捕囚の後、彼らはユダ南部を不当に占領しました。神は彼らの不当な介入を裁かれます。

最後に、ペリシテ人。現代のパレスチナ自治区のガザに重なる地域です。彼らは、イスラエルとは全く血縁関係のない民族でした。創世記にはカスルヒム人(ミツライム)を起源とするとあり(創世記10:14)、ミツライムはエジプト人のことですから、エジプトから移住してきた民族なのでしょう。歴史的にイスラエルに敵対してきた彼らは、エドムと同じように、さばかれたイスラエルに不当な介入をしたのでした(15節)。

神は正しいことをなさるお方です。神のさばきは、教育的な意図を持ったものです。ですからそこで神の意図にそぐわぬ嘲りや不当な介入が加えられるなら、神はこれをお許しになりません。神のさばきに行き過ぎはありません。ですから、神の懲らしめを受けた時には、素直な心を持って受け止めることです。神は、そのようなしもべを祝福されます。

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