エレミヤ書10章

エレミヤ書10章 主に並ぶものなし
おはようございます。当時のユダヤ人がどれほど他国の偶像を恐れたか、想像させられるところです。しかしまことに恐るべきお方は、天地を創造し、万物を支配される聖書の神ただお一人です。その神が正しさと愛の配慮をもって、私たちに悟りを与えてくださるように。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.きゅうり畑のかかし
 10章は、イザヤの語り口と似ていて(40:18-20、41:7等)、偶像の虚しさ、それを礼拝する愚かさを語っている。「きゅり畑のかかし(5節)」とはよく言ったものだ。確かに偶像を崇拝するなど、愚かな信心だとわかってはいても、何か宗教的な呪縛感を感じて、悪いことがあってはいけない、といつまでも偶像をそのままにしていることはあるものだろう。当時の人々が天のしるしを悪鬼の仕業と結びつけて恐れたように、現代の私たちも霊的なものを全く恐れないでいることはない。
 しかしエレミヤは言う。「主よ。あなたに並ぶ者はありません。あなたは大いなる方。あなたの御名は力ある大いなるものです」(6節)。「天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる」と(11節)。真の神は聖書に示された天地を創られた神ただお一人である。人類の歴史をスタートさせ、それを終わらせる権威を持ったお方である。なお、12-16節は、51:15-19にも繰り返されている。
2.神とイスラエル
こうして神と人間は、創造主と被造物との関係にある。しかし、神は「ヤコブの分け前はこんなものではない」と言う。つまり、神は万人のために天地を創造し、これを分け与えられたが、ヤコブ、つまりイスラエルの民とは契約を結ぶ、特別な関係を与えられた。それは、単なる創造主と被造物の関係を超えた関係なのである。だから、イスラエルに対する嘆きが語られるのだ。
「包囲されている女(17節)」、つまり「この国の住民(18節)」は力ずくで町から追い出され、捕虜とされる(18節)。北イスラエルが滅びた後、南ユダは幾度も、侵略の危機にあった。しかし「今度こそ」終わりだ、と言う。19節の「私は」包囲されている女のことばとして語られる。バビロンの徹底的な破壊、殺戮、荒廃を受けて、「この打ち傷は癒しがたい」と嘆いている。21節の「牧者たち」は、指導者を指す。彼らの政治がいかに愚かであったかを語っている。
3.エレミヤの祈り
神の裁きの言葉を受けてエレミヤが祈っている(23-25節)。確かに、人の幸せは、人の計画・努力によるものではない。そう思われることも多々あるかもしれないが、COVID-19や、震災豪雨のように、人の力ではコントロール不能という事態が、人生にはいくらでも起こりうるものだ。24節の新改訳の訳は、唐突な印象を与える。「懲らしめないで」と訳されたヘブル語は、ヤセル、「警告する」「指導する」という意味もある。文脈からすれば「主よ、私を教えてください、怒らず、正しく」だろう。確かに主よ、私もそう願うのです。

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