エレミヤ書11章

エレミヤ書11章 主との契約に生きる
おはようございます。預言書が難しいのは、それが一気に書き下ろされたものではなく、時代も背景も異なる場面で語られたものを集めたものだからです。しかもその背景もよくわかっていません。聖霊の助けにより主のことばが心に再現されることを祈りつつ読みましょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.契約のことば
 11章と明日の12章は、続きものであるが、この預言の背景については二つの説がある。一つはヨシヤ王の時代のものと考える説である。BC612年、ヒルキヤによって律法の書が発見されると、ヨシヤ王は、エルサレム中心の礼拝と国民の再献身を求める宗教改革(2列王22:8)を進めた。これをエレミヤは積極的に支持し、「契約のことば」(2節)に耳を傾けるように民に語りかけた、というわけだ。他方これをエホヤキム王の時代のものと考える説がある。つまりBC605年頃、ヨシヤの改革への反動が起こり、「契約のことば」、つまり律法が廃棄される事態が生じたので、エレミヤはこれを契約違反として告発した、と言う(9節)。いずれが真実に近いのか、判断が難しい。ただ、注目すべきことは、「契約のことば」が何を意味したかであろう。エレミヤ書では、ここで唐突に出てくることばであり、どうやらそれは、神のことばを聞く、という点に重きがある。それは、かつて「父祖たちと結んだ(10節)」ものであり、申命記契約なのか、シナイ契約なのか、種々の議論もあるが、単純に3-5節がその内容であり、また、求められていることは、様々な条項を守り行うというよりも、神に聞いて行うという姿勢や態度を問うている、と考えてよいのではないだろうか。
というのも、契約については、この後31-34章で再び、新しい契約として取り上げられるのであるが、そこでは心において神とつながることが強調されるからだ。まず神に聞くという姿勢こそ問われているのである。15-17節は、契約違反者に対する刑罰を語る。
2.エレミヤへの陰謀
18節以下は、このように契約違反を糾弾するエレミヤに対する暗殺計画があり、それがエレミヤに知らされたことを語っている。ちなみに、それがエレミヤの故郷アナトテで起こったことであるなら、預言はエレミヤの初期、ヨシヤ王時代になされたものなのかもしれない。しかしながらいずれが背景であるにせよ、エレミヤは契約が守られることの意味を、自らの経験を通して証しする。
つまり契約違反は、最終的には信義則を犯す、相手の信頼を裏切ることを意味する。だから、神の言葉に聞く姿勢を貫き、契約を守るエレミヤに対して、神もその信頼を裏切らずに、エレミヤの危険を知らせてくださった(18節)。そして、エレミヤも神の信頼を裏切ることなく、神の守りを信頼し、その危機的状況を神に委ねている(20節)。信仰において大切なのは、この心の結びつきである。神と心において深い絆を持つこと、不器用であれ、神を恐れ、神に信頼する心を持つことである。結果「心とその奥にあるものを試す万軍の主(20節)」をどのように見るかが、その人の信仰のあり様を決めていく。今日も、この私の心をを愛する神の心を愛する歩みを進めさせていただこう。

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