ヘブル人への手紙7章

ヘブルの著者は、当時のユダヤで敬意を払われていたものを一つ一つとりあげ、それらよりもキリストは素晴らしいという比較を語り進めていく。つまり、天使よりも、モーセよりも、大祭司よりもすばらしいというわけである。それぞれ、キリストは超自然的存在において、使命に対する忠実さにおいて、取りなし手としての完全さにおいて、遥かに勝っている、という考えがそこにあった。そこで著者は、イエスの贖罪の確実性・完全性を語ろうとするが、読者には、それを理解する力がないことを指摘し、6章で信仰成長へのススメを促していた。旧約聖書的土台の上に、キリストにある福音の奥義を語ろうとしていたのである。

そこで、聞く耳のある者に対して、その深みを語ろうとし、ここ7章においては、メルキゼデクの話が再び取り上げられる。ユダヤの律法では、祭司はレビ族から立てられることになっている。しかしイエスはレビ族ではなくユダ族の出身である。そのイエスがなぜ大祭司になりうるのか。ヘブルの著者は、イエスは、ユダヤの伝統の中では、メルキゼデク系の祭司にあたるのだ、というわけである。

そこでまず、メルキゼデクは、「セデクは私の王である」あるいは「義の王」である、を意味する言葉で、もともと旧約聖書の創世記14:17-24と詩篇110:4に出てくる人物である。それによれば、メルキゼデクはサレムの王であり、「天と地を造られた方、いと高き神」の祭司であった。なお、サレムは後のエルサレムとされているので、メルキゼデクは、イスラエルがエルサレムを支配する以前にエルサレムを支配していた王と考えられる。

さて、戦勝して帰って来たアブラハムは、メルキゼデクから祝福を受けた時、彼に戦利品の10分の1を献上した(2節)。アブラハムとメルキゼデクの上下関係は明らかである(7節)。そして面白い論法であるが、「メルキゼデクがアブラハムを出迎えたときには、レビはまだ父の腰の中にいた」(10節)。だからレビもアブラハムに10分の1を献上したと言えるだろう、と(9節)。こういうわけでメルキゼデクはレビに勝っている。しかも彼は、後にも先にもない一度限りの永遠の祭司であり、これはキリストの雛形だという。

大切なのは、何のために、新しい祭司イエスが立てられたのかである(11節)。それは、不完全な祭司制度が変更・廃止されたことを意味し、それと深く結び付いていている律法の契約も、新しいものに取って代られたことを意味している(12節)。つまり、キリストの到来によって、祭司職と契約に根本的な変更が起こった!これまでの祭司は廃止され、新しい祭司が立てられた。これまでの律法に基づく契約は、キリストの十字架に基づく契約に変わった(25節)。もはや、レビ系の祭司と律法ではなく、メルキゼデク系の祭司であるキリストと福音の恵みによって神に近づく(19節)、新しいアプローチ方法が語られている。万人に通用する恵みとして。

21節、6章後半と同じように「誓い」が出てくる。著者は、このメルキゼデク系の祭司イエスによって神に近づくという新しいアプローチが、神によって保証されたものである、ことを示している。そして、このアプローチは、完全なものであると(25節)。というのも、キリストは永遠に存在し、いつもとりなしをされるのだから、あらゆる時代の人々を完全に救うことができるのだ(25節)と。しかも、イエスは自分の罪のためにいけにえをささげる必要のないお方であり、むしろ罪のないご自分のからだで、ただ一度完全なささげ物をおささげになった。そこに大祭司のとりなしに勝るものがある。しかもそれは、誓いのことばとしてなされた、という点に注目すべきことだろう。イエスのとりなしは完全であり、神の前に誓われたものである。つまりそれは、取り消されることのない、永遠の効力のあるものとして定められた。十字架上のささげ物は、まさに、永遠の一度限りのささげ物であり、永遠の確かさを保証されたものである。十字架に、私たちの完全な罪の赦しがある。十字架は神が私たちの味方であり、私たちの側にとこしえまでもあることを証する。主はいつまでもあなたとともにおられるのである。

 

 

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