ホセア書11章

11章 イスラエルに対する神の愛

おはようございます。全く筋の通らない、神の愛が、豊かに語られるところです。エゼキエル16章と合わせて読みたいところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ホセア書全体の構成

これまでの流れを振り返ってみると、裁きを語るホセアのことばは、打ち寄せる波のように語り掛けてくるものがあります。一つは、4章の当時の宗教的指導者、祭司の罪を指摘することから始まり、イスラエルの堕落を指摘し、悔い改め主を知ることを切に求める(6:3)ように迫る6章までの波。そして、7章の政治的指導者の罪を指摘するところから始まり、イスラエルの共謀を指摘し、悔い改め主を求める(10:13)ように促す10章までの波です。今日開く11-14章には、再び、1-3章に呼応するように、神の愛、イスラエルを取り戻そうとする神の熱意が激しく語られています。

2.愛に動かされる神

まず、神はご自身の記憶を辿っています。神は、イスラエルをエジプトから呼び出したのです。奴隷の苦役に見捨てられていたイスラエルを助け出した、神の激情的な愛は、エゼキエル書に代弁されています(16章)。ここでは幾分あっさり語られていますが、「歩くことを教え」「腕に抱き」(3節)「愛の絆で引き」「食べさせてきた」(4節)その神の愛を、イスラエルは知らないのです。彼らは神を認め、神の下に帰ろうとしなかったので、結果、頼りとしたエジプトの助けを失い、アッシリヤに征服されてしまいます(5-6節)。

そこで神の愛情がさらに爆発するのです。というのは、アッシリヤに征服されて、再び奴隷に陥ったイスラエルの苦境を見るや、なんともそれが哀れだと、再び神の心はかき乱されているのです(8節)。アデマとツェボイムは、その悪のゆえに、ソドムとゴモラと共に火で滅ぼされた町でした(創世記14:8)。イスラエルは、これらの町と同じような罰を受けるに値するものでしたが、神は、イスラエルがそれらと同様の報いを受けることを望まなかったのです。なんとも筋の通らぬ神の思いです。しかしこの神の愛がなければ、罪人には何の希望もないことでしょう。神は、ただ単に正しく、悪を懲らしめるだけのお方ではありません。情に厚く、たとえご自分に背き、悔い改め無き者であれ、永遠に代わることのない真実の愛をもって接し、初めの約束のことばを守り抜かれるお方なのです。

「わたしは神であって、人ではない」(9節)。神と人との違いが強調されます。人は、怒りをもって、すべてを打ち壊し、捨て去るものでしょう。しかし、神の怒りは冷静であり、打ち壊すものではありません。それは物事を正そうとする怒りですから、見放すことはありません。つまり、見守り続け、再びこれを建て直すところまで関わる、愛に裏打ちされた怒りなのです。そこで、神は、イスラエルの将来に回復を約束されます(10、11節)。

もし、あなたが、何か捨て置かれた心境にあるとしたら、そこで自分を責めることも、心腐らせることもせずに、この神の愛に心を開くべきでしょう。そして、厚かましくも神に期待し、神に真に新しい人生を建て上げていただくように祈るべきなのです。神は愛です。

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