創世記49章

この章は、ヤコブの子どもたちに対する最期の祝福というよりは、「集まりなさい。私は終わりの日に、あなた方に起こることを告げよう」(1節)とあるように、預言として読んでいくべき個所なのだろう。「終わりの日」は、いわゆる終末的な意味であるというよりは、「後の日」とも訳されるように、カナン定住時代を念頭にしていると考えるとよい。
まず、ルベンは長子であるが、長子の威厳を保つことができない。というのも、彼は、力はあっても、水のように奔放で、つまり自制心を欠いていたからである。実際、彼は性的な抑制を欠いて、父の寝床を汚した。後の士師の時代、ルベン族は、優柔不断を責められ、リーダーシップを欠いたとされている(士師5:151,16)。シメオンとレビは、シェケムの残虐さの故であろう、ひとまとめにされている。そして彼らの集いには連なるな、という(6節)。神の裁きによる大虐殺と、恨みと復讐による大虐殺は区別されている。その後彼らはヤコブの預言のように散らされていく。シメオン族は、ユダ族の中に組み入れられ(ヨシュア19:1-9)レビ族も土地を相続することはなかった(ヨシュア18:7)。しかし、神は、つけ離して終わり、という方ではない。レビ族の相続地は、目に見える土地ではなく主の祭司として仕えることとなり、それは名誉ある分散であった。
ユダに対する預言は興味深い。ユダは獅子の子とたとえられる。それは、黙示録5:5にあるイエスの戦闘的なリーダーシップのイメージを思い起こさせる。事実、10節、「王権はユダを離れず」は、後のイスラエル部族での主導権を示唆する。「シロ」の意味は不明。このヘブル語を「シェロー」と読み替えて、「彼に属するものが来るまで(ユダが受け継ぐものがすべて明らかになるまで)」と、ここにメシヤ的な内容を見出すことを伝統的にはよしとしてきた。つまり、ダビデあるいはイエスの到来を預言していると理解するのである。アブラハム、イサク、ヤコブに継承された、霊的な祝福、つまりメシヤの系譜に与る祝福はユダに与えられるということだろう。11節の、ぶどう酒が水代わりに、またぶどうの木が家畜をつなぐ杭にされるというのは、ユダのリーダーシップのもと、豊かな時代が到来することを預言している。
13節、ゼブルンの割り当て地は、実際には海岸に接するところはなかった(士師5:17)。またシドンにも近くはなかった。しかし、海上貿易で豊かになれない地域ではなかった、と言える。
16節、ダンの名は、黙示録7:5-8にあるイスラエル構成のリストには消えている。ダンに期待されたことは、イスラエルの部族の一つとしてさばくこと、にあった。しかし、実際のダンは士師18章にあるように、その期待に応える歩みをせず、結果ダンの名を消し去ることになったのかもしれない。推測するまでである。
ヨセフは、メシヤの系譜には与らなかったものの、その生涯は、メシヤの生涯を象徴している。ヨセフは兄弟たちに憎まれたが、イエスも同じように同胞に憎まれた。ヨセフは身内に銀20枚で売られたが、イエスも銀30枚で売られている。ヨセフは、奴隷として様々な不運に見舞われたが、イエスも捕らわれの身となり苦しめられた。ヨセフは、20年死んだ者と思われていたが、イエスも私たちのために死んでくださった。
またヨセフは、大臣として高く挙げられたが、イエスも復活し、神の右の座についておられる。ヨセフは異邦人の妻を与えられたが、キリストも教会を花嫁として与えられている。預言の言葉の中にヨセフに対する批判はない。ヨセフの正しいことが証明されたからである。同じように、イエスも、正しい方であり神の祝福を受けるにふさわしい方である。
考えてみれば、ヨセフは、大臣になるべく教育を受けた人物ではない。しかし神がご自身のご計画に基づいてヨセフを大臣として抜擢し、これを用いられた。ここに、私たちは、主が徹底して祝福の主であることを思わされるのでもある。まさに「全能者による祝福」というものがある。人は、自身の努力と策略によって幸せになるのではない。神によって機会が与えられていく。だからどんな人も人生において希望を持つことができるし、どんな人間にも望みを抱くことができる。人生において大切なことは、神に味方となっていただくことであり、神による祝福があることを認めることである。アブラハム、イサク、ヤコブに続き、ヨセフもまた神の祝福に生きた。信仰によって、神に人生を委ねながら、神に祝福されることをよしとして生きていくことが、私たちにとって最善である。今日も神に期待していこう。

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