ガラテヤ書6章

「もしだれかが、何かの過ちに陥ったなら」(1節)、自他共に失敗した時にこと、自由の福音に生きているかどうかが問われるものである。魂の自由を経験していれば、人の失敗をおおらかに受け止められるはずだ。そして受け止めるだけではない、重荷を負いあうことすらできることだろう。自由であるということは、愛において豊であることに等しい。

しかし、高慢な人間、「自分にだけは誇ること」に熱心な人間は、概して他人にも、自分にも無関心であり冷酷である。自分が失敗しても自分を嘆いて打ちのめすのと同様に、他人にをも裁いてしまうものだろう。だが、謙遜で、御霊の力が働かずして、自分の人生はあり得ないと心得ているのならば、それは他人にとってもそうである現実を理解できるのであるし、互いに、主の助けを求めて祈り、祈られ、支え、支えられる関係をよしとするのである。互いに成長すべき、取り組まなければならない信仰の課題があるのであって、互いに助け合って各々の信仰の完成に努めなければならないのである。

6節からは、話題が転じて、教会の牧師に対する配慮について触れているが、根底にある思想は同じである。いわゆる自由の福音に生きていればこそ、他人の必要に無関心ではいられないのである。「み言葉を教えられる人」は信徒であるし「教える人」は牧師であろう。簡単に言えば、教える人には、それなりの生活に対する配慮をする必要があるということだ。牧師に対する配慮というのは、意外と教会では盲点であったりする。牧師に、慰めと配慮を求める人は多いが、その働きにふさわしい報酬を考えるべきなのだろう。教会の経済がどのように成り立ち、牧師の生活がきちんと支えられるように考える心を砕くことは教会の責任である。牧師が、信徒の魂の配慮のために心を砕いている上に、さらに、生活の苦労を負わせるようであってはいけない。牧師の生活、福利厚生、退職後の生活などどうなっているのか、わからない、考えたこともない、というようでは、組織として未熟であることは否めない。こういうことをきちんと考えられるようになるのが、教会の成長でもある。大切なのは、持っているものをどのようにするかである。物質的な物をしっかり握って離さない、これが人間の性であるが、「肉ではなく御霊に蒔く」パウロが語るように、「大いに喜んで財を費やし、自分自身を使い尽くしましょう。」(2コリント12:15)という心は、魂の自由を経験していればこそ出て来る行動である。魂の自由を経験しているならば、「すべての人に、特に信仰の家族に善を行う」(10節)ということばを素直に受け止め実践するであろう。

11節、「こんなに大きな字で」というのは、文字通り大きな字で、という意味ではなく、強調の表現である。今いっていることによくよく注意し理解して欲しい、ということだろう。では、何に注意して欲しいのか。それは、十字架である。パウロは、この手紙を読むすべてのクリスチャンに、ただイエス・キリストの十字架のみを誇りとして生きることを理解してほしかった。割礼を受けた、私はかくかくしかじかの生まれである、血筋である、あるいは、かくかくしかじかの修行を収めた、業績を残した、肩書きを得た、と誇ったどころで、それは「自分の誇り」に過ぎない。そんな安っぽい誇りをぶら下げて神の前に立つことはできない。むしろ、誇るべきはイエスの十字架である。というのも、あの残酷な十字架、あざけりと嘲笑の中で、精神的にも、身体的にもぼろぼろにされていく苦しみをイエスが味わってくださったために、私たちの罪も赦され、神の聖めの祝福も得られるのである。この十字架に勝るものはない。

15節、大事なのは、自分で自分をどうにかする、ことではなくて、神が働いてくださることである。私たちの人生に新しい創造が起こるような神との関係があるかいなかが、問題である。神の御業を求める関係なくして、ただ自分の力で新しい信仰生活を生きようとするから、信仰生活に疲れてしまうことになる。神が創造の御業をなし、私たちの霊的成長を導いてくださればこそ信仰生活は力強いものとなり、教会生活も喜びとなっていく。

17節、「焼き印」と訳されたことばは、彼がイエスの故に迫害されていた時に受けた傷であったと考えられている(2コリント11:23-25)パウロは、イエスの苦しみを自分の苦しみとして生きた人である。イエスの苦しみを誇りとし、自分のものとすることがキリスト者の成熟である。

ガラテヤ書5章

既にパウロは、私たちが神の奴隷ではない、神の子なのだ、と語った。私たちは奴隷の子ではなく自由の子なのである。1,2章においては、自由の子とされたパウロの個人的な事情が語られた、3,4章においては、自由の子とされたパウロが持っている自由の福音が語られた。5章からは、自由の子とされた福音の実践について語ろうとする。

パウロは言う。「あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい」と。そしてその自由の実践を語る前に、3,4章を要約する信仰理解を明確にする。つまり、キリスト教信仰にキリスト以外の何も要求されない。もし、割礼をプラスアルファの行為として受けようとするなら、キリストは何の意味もない(2節)。割礼を受けるなら、他のものだって、つまり律法全体をきっちり行うべきだ(3節)、いや、律法で神の愛顧を受けようとするなら、結局はキリストの十字架の恵みを無駄にするのだ(4節)。キリストにある信仰者は、敬虔な生活に必要な一切を信仰によって、上から得るのだ(5節)。大事なのはキリストといのちある関係を持つこと、信仰によってつながっていることだ、というわけである(6節)。

そして再び、パウロは、ガラテヤ人の現実に思いを寄せている。一体どうしてこんな問題が起こってしまったのか。どうして、真理から脱線してしまったのか。あなた方を惑わしたものは裁きを受けるであろう。いや、いっそう割礼だ、などと言っていないで「切除」したらいいのだ。パウロの感情の高ぶりもここまでか、という表現である。ガラテヤの読者は、異教の女神キュベレの祭司たちが、自らを去勢していたことを知っていた。パウロは、おそらくその知識に訴えたのであろう。あなたがたが言っていることやっていること、異教の女神キュベレの信仰者と変わらない。あなたがたが、霊的な無知蒙昧と見る異教信者と同じだ、と。

注意すべきところではないか。私たちが、キリスト教の十字架の恵みを語りながら、キリスト以外のものを付け加えて、神の愛顧を得ようとし、さらに敬虔な信仰生活を完成させようとするならば、それは、仏教徒、イスラム教徒と何ら変わらないのである。

続いてパウロは第二の主題に移る。13節、兄弟たちよ。あなたがたは自由を与えられるために召された。しかし、それは、アンティノミニズム(反律法主義)ではない。神に受け入れられる基礎として律法とその奴隷状態から自由にされたといっても、放縦を許しているわけではない。自由気ままに、好むままの生活ができることを言っているわけではない。神の子は、愛に生きるのだ。キリスト者の自由は、愛を基調とする。つまり、キリストの愛によって解放された私たちは、そのキリストの愛に生きるように召されているのである。愛という観点から自分の生き方を統制することである。父を愛する、母を愛する、子を愛する、教師を愛する、生徒を愛する、同僚を愛する、部下を愛する、上司を愛する、夫を愛する、妻を愛する、そして神を愛する、そういう観点から自分の行動を決定していくことである。しかもその愛は、上から与えられる愛である。御霊の実として与えられる。もっと人間的なサイドから言えば、信仰によって結ぶ実である。

パウロは言う、「あなたがたは自由を与えられるために召されたのです」(13節)ギリシア語原文の直訳は「あなたがたは、自由へと召されている」である。つまり、私たちは自由へと向かっているのであって、まだ自由を掴んでいない。確かに、キリスト者になっても、私たちの心には依然として自己中心な性質が巣食っている。神に与えられている時間も、財産も、才能も、ただひたすら自分のためにだけ使いたいという深い罪の思いに縛られている。罪の性質は習慣化され、フロイト的に言うならば、無意識のレベルにまで根付いている。だから、罪がわかった。じゃ、その罪を捨てようと言っても、そう簡単には行かない。私たちは救われた、と過去形で自分の救いを表現するが、実際には肉の思いは深く、ローマ7章にあるように、その肉の心を満足させようとして生きている現実にぶちあたるものだ。しかし、大切なのはその現状認識であり、そういう現実から、キリストの御霊により頼む、信仰による自由へ召されていることを理解することだ。

私たちの力ではどうにもならないからこそ、キリストの御霊に頼るのである。私たちが自分のしたいことが何一つできないのは、肉の欲に心を委ねているからである。だから、むしろ、キリストの御霊にこそ、心を向け、御霊の導きを受けて歩むことに、集中することが救いであり、解放である、とパウロは言う(18節)。

19、20節と、22、23節は、肉の行いと御霊の実が対比されている。肉の行いは、四つの領域で語られる。性、宗教、人間関係、そして飲酒である。一方御霊に導かれて結ぶ実は、三つの領域で語られる。一つは、神に対する愛、喜び、平安、人に対する寛容、親切、善意、そして最後に、自分に対する誠実、柔和、自制である。こうした実は、まさに御霊に生きることによって結ばれる。大切なのは、キリストが与えられるいのちに対する信頼である。私たちは、しらけたキリスト者になってはいけない。神が自分の祈りに答えてくださるという確信を失った、中途半端なキリスト者になってはいけない。私たちの罪の心は全力で、人を愛する力を阻止しようとするが、神様が愛しなさいと言う以上、私たちにはそれが出来ることを信じなくてはならない。神が自分の内になしてくださることを、静かに見守る信仰が必要とされている。神は、確かに罪の深みから、私たちを救ってくださるお方である。神の御霊の導きに従い、御霊の業に期待する歩みをさせていただこう。

ガラテヤ書4章

3章では、信仰と律法が論じられていた。福音の中心は神の約束を信じる信仰にある。律法を守ることではない。律法には限界があり、その性質上神ののろいに閉じ込めようとする。しかし、律法は、私たちを打ちのめすためにあるのではなく、キリストに導く養育係であった、と言う。パウロは4章においてこの養育係としての律法を、後見人、管理人と言い換えている。つまり、養育係にしても、後見人、管理人にしても役目を終える時が来るのだ。

ことに後見人は、親権者がいない(たとえば死んでいる)時に定められるものであるが、遺言に定められた期日が来れば、後見人が見守っている子どもは、もう相続人ではなく、財産の所有者になる。

神があらかじめ定めた「時が満ちて」もはや後見人も管理人も、養育係も不要な時が来た、いや来ているのだ。あなたがたは、今やキリストによって、父(神)の財産を自由にできる所有者という意味での相続人なのだ、と言っているのである(7節)。

しかし、そのような真理に導かれながら、なおもまだ何もわからない子どものようであるのか、とパウロはガラテヤの人々に問いかける。修行意識の強い日本人も同じようなものであるが、通常人は、神が人間のために何かをしてくれたなどと言うことは考えもせず、人間が神のために何かをすることが大事であると考えている。ユダヤ人は、特定の日、月、季節、年を守り、些細な戒めを守って、それによって神に喜ばれ、神の愛顧を受けると考えるのが常であった。しかし、それでは、神の子ではなく神の奴隷なのである。相変わらず、後見人の元にあって、神の素晴らしい所有が与えられることを待ち望んでいるのと同じである、と。

むしろ、兄弟たち、とパウロは呼びかける。私のようになってほしいと。私を見て欲しいと。神が多いなるあわれみをもって、猛進していた自分を捕らえた私を見て欲しい、と。救いは何かをすることではなく、神のあわれみがすべてである。そしそのあわれみは、キリストの十字架にことごとくあらわされているのである。神が私たちのためにしてくださったことに目を注ごうではないか、ということである。

そうでなければ、私たちは、「弱くて貧弱な」信仰理解に逆戻りしてしまう(9節)、私が労したことも無駄になってしまう(11節)、そして、あなたがたがかつて喜ばせた指導者を拒絶してしまうことになる(16節)という。パウロとガラテヤ人の間には、私たちが入り込むことのできない、親しい時があった、そんなことを思わされるところである。

ともあれ、パウロは、時至り、今私たちは神の財産の所有者であることを語る(1-8節)、逆戻りしてはならない状況にあることを語る(9-20節)、そして最後に、言葉を尽くして、歴史的な比喩を使い、もう一度、ガラテヤの人々が肉の努力ではなく、御霊によって産まれた自由の子であることをわからせようとする。

つまり、アブラハムの子、イサクとイシュマエルの例をあげる。アブラハムは、神の約束を信じる選びの民とされた。しかし、神の約束はなかなか実現せずに彼はどんどん年老いていった。そういう中で、彼は神の約束を人間的な知恵と努力で実現しようと、女奴隷のハガルによってイシュマエルという子を設けたのである。しかし神の計画は違っていた。その後、アブラハムもその妻も、年齢からして完全に生殖能力という点においては死人同然となった。しかしその死せる体に、神の恵みによる子イサクを宿したのである。イサクは、人間的な努力ではなく、まさに神の恵みの子、自由の子であった。イシュマエルとイサクの根本的な違いは、神の約束が実現されることについて、人間の努力によってそれらしく実現するか、神の力によってまことに実現するかにある。救いは獲得するものではなく、受けるものである。神の祝福も、私たちの努力によって得られるのではなく、ただ神のあわれみを受けることにある。すでに、キリストにある者は、神の子とされ、神の祝福の中に入れられ、神の所有を受けている。信仰によってその事実に立たせていただこう。

ガラテヤ書3章

パウロは、ガラテヤの人たちが、あまりにも簡単にキリストの十字架を無に帰す行動を取っていることにびっくり仰天している(1節)。ここからパウロは、捻じ曲げられようとしている福音理解そのものについて語っていく。まずパウロは歴史的事実について触れる。彼らは、イエスが荒削りの十字架に釘付けにされ、もだえ苦しみ、力尽きて、死んでいく姿をはっきりと目撃した人々であった。あの苦しみは、「私たちのためにのろわれた」(13節)者となり、罪を赦してくださるためだった、と理解したはずであるのに、誰かがやってきて、十字架を信じるだけでは足りない、といわれて、そうか、と割礼を受けたり、律法を守ったりする。実に愚か者だ、とパウロは言う。確かに、イエスの十字架に何かを付け足しする発想は、イエスの苦しみが足りなかった、イエスはもっと残虐に痛めつけられる必要があった、ことを言っているのだ。

続いてパウロは、福音の本質である神の約束と信仰(1-9、14-18、26-29)と律法の限界(10-13、19-25)について交互にこれを解き明かしていく。2節、まず信仰はどのように始まったのか。キリスト教信仰の出発点は「御霊を受ける」ことによる。聖書を読み、キリスト教的な感覚や振る舞いを教えられてそれを熱心に実践していくことを決意したわけではない。いわゆる宗教的な形式よりも「御霊を受ける」ことがスタートなのである。この御霊は、どう受けるのか。魔術師シモンがまさにそれを願ったことを思い起こしてみよう(使徒8:18)。それは、信仰によって受けるものである。いわば、神の約束を信頼することが、キリスト教信仰のスタートなのだ。

次に、キリスト教信仰は、どのように完成されるのか(3節)。信仰の完成もまた同じである。信仰によって始まったものは信仰によって完成されるのである。そして最後に、今の私たちの信仰生活に力ある業が起こるとしたらそれはどうしてか(5節)。軟弱な者が強くされ、汚れた者が聖くされ、日々私たちの人生に神の業が現れるとしたら、それもまた信仰によるのである。

大事なことは、神は約束を与えられた。それを信じる、というパターンである。パウロはそれを訴えるために、アブラハムの例をとりあげる(6-9節)。14-18節は、それを詳述している。かつて神は、アブラハムという人物に目を留めて、彼に、多くの子孫を与えること、また彼とその子孫に一つの地を与えること、また彼の子孫によって地のすべての民族が祝福を受けることを約束された。この偉大な約束は息子イサク、さらに孫のヤコブに引き継がれた。その後、ヤコブの時代に大変な飢饉の時代があり、ヤコブとヤコブの子孫はエジプトへと移住していく。そして何世紀かがたっていく。17節には430年経った、とある。430年経って、神はイスラエルの指導者モーセを立てて、エジプトで奴隷とされていたイスラエル人を解放し、シナイ山で律法を与えられた。しかしこの律法によって、その約束が破棄されたわけではない。約束を信じるというパターンは今なお残っているのである、というわけだ。だからパウロの言わんとする大筋を追うと26-29節、神の子どもとされるのは、神の約束の祝福を受けるのは、信仰による、律法でも割礼でも祭儀でもない、という断言的な結論に結び付く。

では、律法とは何なのか?10節に戻ろう。そして少しパウロが「律法」という言葉を使う時にそれが何を意味するのかに注意しておこう。つまり、パウロが「律法」という言葉を使う時には、それは、旧約聖書全体を意味することがある。しかし、もう少し違う意味で使われることもある。つまり、モーセ律法の基礎の上に、多年律法学者たちが築き上げたおびただしい規則や伝承のことを言っていることがある。この区別はイエスも「あなたがたは、自分たちの言い伝えを保つために、見事に神の戒めをないがしろにしています。」(マルコ7:9)と述べているように、イエスにおいても意識されていたものだ。ともあれ、パウロが言いたいことは、律法はのろいに私たちを閉じ込めるだけであり、救いには何ら関係がないのだ、ということだ。そして律法は、私たちに違反を示すために付け加えられ、キリストの恵みを指し示す役割を果たすのだ、ということだ(19-25節)。

約束は「わたしはあれをしよう。これをしよう」という1人称のお話だ。一方律法というのは「あなたはあれをしなさい。これをしなしさい。あれをしてはならない、これをしてはならない」という二人称命令のお話である。約束は、神様が主体。律法は人間が主体である。約束は、ただこちらが信じるか否かの問題。律法は、こちらが従うかどうか、という問題である。ここでパウロはこの二つを対比しながら、キリスト教は、約束の宗教であって律法ではない。モーセの時代に律法が与えられたとしても、アブラハムの時代からキリスト教は、ずっと約束の宗教だった、と。神が私たちを祝福してくださる、それを信じるだけの宗教であった、と。律法は、違反を示すために機能したのであり(19節)、私たちをキリストに導くための養育係に過ぎなかった(24節)、と。律法は、罪意識を与え、後悔させ、悩ませ、恐怖を与え、苦しませる。それは命を与えるものではない。律法はのろいに私たちを閉じ込めるのである。しかし、キリストが私たちのために「のろい」となってくださった。キリストが私たちの代わりに「のろい」の牢に閉じ込められてくださったのである。だから今や私たちは自由だ。のろいではない、祝福を信頼して生きることが許されている。こうして私たちの人生には豊かな希望があることを覚え、今日も期待をもって一日を踏み出すこととしよう。

ガラテヤ書2章

すでに、パウロは自分の語る福音が、全く人間的な教育とは無関係であること、つまり復活の主から直接啓示を受けた者であることを語ってきた。2章に入り、パウロは、その人間の手を介さない天来の福音が、エルサレム教会から認証されたものであることを語る。

1節「それから14年たって」とある。この14年を、使徒の働きのいつの出来事に位置付けるのか、議論がある。使徒の働きに記録される、パウロのエルサレム訪問は三回ある。①使徒9:26-30(ペテロを訪問)、②使徒11:29-30(救援物資の運搬)、③使徒15章(エルサレム会議への出席)。そこで、この14年を②の救援物資を運んだ訪問、つまり回心から14年後と考えるとどうなるか。パウロがこの手紙を書き送っている宛先は、南ガラテヤ地方、つまりパウロが設立したイコニウム、ルステラ、デルベ、ピシデアのアンテオケなどになり、執筆年代は、第二回伝道旅行の途中で、AD50、51年頃、場所はコリント滞在中となる。しかし、この14年を③のエルサレム会議への出席と見ることも可能で、そうなると宛先は、北ガラテヤ地方になり、執筆年代は、第三回伝道旅行でガラテヤの諸教会を訪問した後、AD55、56年頃、執筆場所は、エペソに滞在中の時となる。つまり14年をいつにするかで、手紙の宛先が変わるのであり、今のところ前者の南ガラテヤ説が多数説となっている。

いずれの説を採るにせよ、その時、パウロの福音に反対する動きがあった。ギリシア人の同労者テトスが、ユダヤ主義的な人々から割礼を強いられそうになったという(3節)。福音を信じるだけでは足りない、割礼を受けなければキリスト者として完全ではない、という判断だ。しかし、パウロは、そのような結果にはならないように注意した(6節)。というのも、パウロの語る福音は、既に述べたように天来の福音であり、その福音に割礼は含まれていなかったからである(9節)。

大事なのは、こうした福音理解は、結局実際的な行動に反映されるということだ。パウロの福音の割礼を付け足した者たちは、結局排他的な行動へと出てしまった。それは実に、11節、初代教会のリーダーであるペテロにも影響を与えた。ペテロの第二の失態というべきか、ペテロは当初、異邦人クリスチャンたちと親しくしていたが、福音に付け足しをする者たちが来ると、その交わりから身を引いてしまったのである。彼には、風向きが変わると、なすべき正しいことがわかっていても、多勢に無勢となびいてしまう弱さがあったのかもしれない。パウロは手厳しい。ペテロを「福音の真理についてまっすぐに歩んでいない」(14節)と糾弾する。ペテロ、あなたはキリストにあって律法から自由にされると主張しながら、どうして彼らに割礼のくびきを負わせるのか、福音を信じていると言いながら、あなたの行動はそれを否定している!というわけだ。

パウロはまとめに入る。16節、17節、「義と認められる」、これは、キリスト教の中心である。一種の法律用語であって、法廷で無罪を宣言することを意味する。もちろん、聖書は、すべての人を罪人であると断罪している(ローマ3:10)。しかし同時に聖書は、キリストの十字架に免じて、神が罪人を無罪とみなし扱うことを語っている。

当時、ユダヤ人たちは、神に正しいと認められるためには、それなりの行い、例えば十戒をきっちり守ることをしなくてはだめだ、と考えていた。しかし、パウロは、それは神に義と認められることではなく、神に自分を義と認めさせることに等しい、と考えた。これは今日でいえば、献金、奉仕、証に頑張って、自分の努力で神の祝福に与ろうとするようなものだろう。しかし、神はそういうことで私たちを義と認めてくださるわけではない。私たちの業よりもキリストの十字架の業が重要なのであり、それがすべてである。

しかし17節、ユダヤ人は、キリストが全部やってくださった、としたら、その人は責任を問われなくてすむ、虫がよすぎるではないか、と批判した。パウロは、そんなことはありえない。キリストによって正しい者と認められながら、なおも、罪の人生を歩めるだろうか、と。実際、わたしはキリスト共に死んだのだ。キリストが裁かれた時、裁かれたのが私の罪であったとしたならば、私もキリスト共に十字架にかけられて死んでいるのだ(20節)。でも、私は生きている。となればそれは古い私ではない。古い人生も生き方も過ぎ去って、今あるのは新しい人生だ、私のうちに復活のキリストが生きておられるのだ。というわけである。

もし、自分の努力によって、神が私たちを正しいと認め、祝福してくださる、という考え方がキリスト教において成り立つのなら、キリストの十字架は無意味ではないか。そうではないのだ。この福音にしっかり立たせていただくこととしよう。