ピリピ人への手紙4章

2節「主にあって一致してください」と言う。ピリピの教会は、パウロという伝道者に、非常に細やかな心遣いをした教会でもあったが、教会それ自体には、難しい問題もあった。矛盾した側面を持っていたのである。しかしそれが人間と人間社会の現実である。むしろ、そうした罪人の現実から変えられて、本来神がお造りになった愛の者、聖い者、義なる者へと、しみやしわや傷のない者に変えられていくことが大切なのである。そういう意味で、それぞれに信仰の戦いがある。あの人がどうである、こうである、といった思いから解放されて自分自身のありように関心が向かうならば、私たち自身の信仰は、もっと進むだろう。

ともあれ、パウロは、具体的に名指しで、一致してください。主にあって一致してくださいと勧める。お互いに顔を向き合わせて一致点を見出すことは難しいとしても、主を恐れることをもってならば、お互いに一致できることはあるだろう。イエスの存在感の大きさがあってこそのことである。

3節、真の協力者よ。これがだれであるのかはわからない。しかし、ピリピにおいてパウロを常に陰ながら支えた人物であったようだ。彼女たちが一致できるように、協力してほしいとパウロは期待する。やはり教会の働きは、子育てと同じで、牧師一人でできるものではない。牧師と一つ心になって親的なかかわりの出来る真の協力者が必要とされるのである。

さて4節からは、クリスチャンに対する全般的な勧めとなっている。主にあって喜びなさい。私たちの生活には喜べないことが多い。しかしパウロは言う。「もう一度言います」と。喜べないとしても喜べる理由がある。というのは、私たちは、本当に恐れるべきものがなんであるかを知っているからである。本当に恐れるべき方が、私たちを主イエスによって愛してくださり、私たちを受けいれてくださっている。「安心せよ」と私たちに平安を語ってくださる。その方を覚えるならば、そこに平安と喜びと感謝が、常に生じるのである。だから本当に主にある平安に満たされた心は、主の使命に立つことをよしとする。「あなた方の寛容な心を、すべての人に知らせなさい」とはそういうことだ。キリスト教と他の宗教の最も大きな違いは、十字架愛への拘りである。神の愛を味わい、その愛に生きている教会であることを、あるがままに大胆に知らせなさい、ということだ。

6節、ピリピの人々は敵に囲まれ脅かされていた。しかし、そのような中で守られ、神の使命に立ち続けるには、ダニエルのように信仰の祈りをしていくこと、神の配慮に信頼し続けることが大切である。すでに主が私たちの思うところを配慮し、よきに成し遂げてくださったと確信しつつ祈りをささげていく。また自らの窮状をありのままに語り伝える。そうすれば、私たちの理解を超えて本当に恐るべきお方、主権者である神が「安心せよ」と語りかけてくださる、ということだろう(7節)。

8節、クリスチャン生活は、本来楽しいものである。それはよきことに絶えず目を向けていくところから来る楽しさである。キリスト者も色々で、あれもだめ、これもだめ、と批判的、分離主義的な考えを持って生きている人もいるだろう。しかしパウロが勧めるのは、何が本当に神様に喜ばれることなのか、という一点に集中し、そのよきものに向かっていく生き方である。

9節、私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。単純に実行が求められている。

さて、10節からパウロは、非常に微妙な話をしている。パウロは、ピリピ教会の人たちへの感謝を述べている。それはパウロの具体的な必要に応えてくれたことへの感謝だ。ただ一種の誤解があったのだろう。パウロは、贈り物よりも霊的な祝福に感謝を述べている。やはり窮乏の時に、一番嬉しいことは、物が手に入ること以上に、主のご配慮を覚えること、また、困難を分かち合ってくれる存在があることだ。牧師と信徒が互いにこういう点で信頼しあうならば、教会の歩みは、福音を広めることに大きく寄与することだろう。必要を満たすのは神である。その神を見上げて、福音を広めていくことに心を合わせていこう。

ピリピ人への手紙3章

ピリピの教会は、パウロが感謝を述べるように、神に志を与えられた宣教的な教会であった。彼らはいつもパウロの福音宣教に関心を抱き、パウロの宣教の働きを経済的にまた人的に支えたのである。そのような宣教的な教会というのものは簡単に育つものではない。まさに神が成長させ、神が志を与えて建てあげてくださった教会である。確かに考えてみれば、ピリピの教会がスタートしたのも、神がパウロに上から志を与えられたがゆえにできた教会であった。パウロが、第二回伝道旅行の際に、第一回伝道旅行の宣教地を再訪し、これから先どこへどのように進めばよいか迷っていた時に、神が上から、マケドニヤ人の幻を与えてくださったのである。そのようにしてパウロは、志を与えられピリピへ赴き、ルデヤに出会い、そこからピリピの教会がスタートした。神に与えられた志によって始まった教会が神に与えられた志によって成長する教会となった。ところが、2章では、そのようなピリピの教会に内部分裂があったことを伺わせる勧めがある。「心を合わせ、思いを一つにして」(2節)パウロは勧める。だが、これもまた神がピリピの教会の皆の心に一致したいという志を与えてくださって解決していくことだろう、とパウロは考えたであろう。

この3章においてパウロが、悪い働き人(2節)と語るのは、肉体だけの割礼の者のことである。そういう者たちに気を付けるように、という。このピリピ人の手紙は、キリスト教がユダヤ教から独立し、一つの新しい宗教になっていく過程で書かれている。パウロは、キリスト教こそが旧約聖書の信仰を正統に継承する宗教であり、ユダヤ教は、旧約聖書信仰の逸脱であると考えていた。確かに、当時のユダヤ人は、割礼(男性の性器の包皮を切り取る儀式)を受けていれば、アブラハムの約束の民、神に選ばれた祝福の民であると考えていたが、大事なのは肉体を傷つけるか否かではなく、心が新しくされること、心の割礼を受けることである。人間的なものではなくて神にのみ信頼することだ。信仰の人こそアブラハムの約束の民なのであり、聖霊によって神の力によって新生している、変えられた生き方をしていることが、正統な信仰である、というわけだ。

つまり神に志を与えられ、成長していくためには、8節で語っているように、私の主であるキリスト・イエスを知っていることの素晴らしさにしっかり立つことが大事なのである。パウロは、自分の出身、家柄、経歴を語りながら、そんなものは何の役にも立たない、キリストの素晴らしさに比べたら、塵芥である、とこき下ろしている。信仰というのは、最終的には個人と神様との結びつきの問題である。神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、キリスト・イエスを知っていることの素晴らしさに向かい合っている、そこが出来ているかどうかである。そういう中から起こってくる喜びと遜りに生きている、それが教会の成長と素晴らしさにもなっていく。

そう意味で、成長する信仰は、日々自分の内面を見据える戦いである。10節、キリストを復活させた力を、私たちが本当に信じるならば、クリスチャンは、いつでも物事を肯定的な態度で前向きに受け止められるし、その結果、状況に左右されない喜びをいつでも持っていられる、ことにもなる。しかしそうなりきれないところが私たちにはあるのだが、そここそ訓練されなくてはいけないところである。大切なのは、私たちが自らの不信仰と戦うことだ。あの人この人ではなく、自分自身の問題に目を向けることだ。神の前に死人のような私たちの霊的状態と戦うよりも人間的なものにより頼みやすい私たちの心と戦うことである。それは、後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進む、戦いである(12節)。私たちがこのようにして自分の不信仰と戦わないならば、時に、神を信じ、神を愛していると言いながら、実際には神の敵になってしまうのである(18節)。神よりも自分の力に頼むならば、それは神を信じているとは言わないからだ。自分の力に限界を感じて、もはや何もできないと落胆するならば、それも神を信じていることにはならない。神を信じるというのは、必ず神がよき結果をもたらしてくれると、待ち望むことなのである。

こうしてピリピ書の内容は、エペソ書と深く関連する。つまり、エペソ書では私たちには霊的な祝福がある、ということが言われていた。それは具体的にどういうことなのか。パウロはピリピ人の手紙の中で、語っていく。①キリストを得る(3:8)、②キリストを知る(3:10)、③キリストの中にある者と認められる(3:9)、④キリストの復活の力を知る(3:10)、⑤キリストの苦しみにあずかる(3:10)、⑥キリストの栄冠を得る(3:14)、⑦国籍が天にある(3:20,21)、パウロは、エペソ書にも通じるキーワードを並べていく。しかしこれらは皆、ピリピ教会の内部分裂の解消の根拠として語られるものである。宣教的教会が、真にキリストにあって内部においても整えられていく、そこにこそ、真の霊的な祝福がある。霊的な祝福に目を開かれた一人一人が、聖書が語るとおりに純粋に神の前に傷もしみもしわもない、愛と喜びと義に満ちた者として変えられていく、そこに真の霊的な祝福がある。神の命を味わうすばらしさへと今日も導いていただくこととしよう。

 

 

ピリピ人への手紙2章

2節「心を合わせ、思いを一つにし」とある。ピリピの教会には分裂の問題があったようだ。完全な教会はない。人が寄り集まるところ、必ず何か問題は起こる。だが、実際に衝突があったらどうなるのだろうか。そうした問題は簡単には解決しないだろう。何かあるたびに蒸し返しが起こって、いつまでもぐちゃぐちゃした関係が続いていく。それは耐え難い状況である。人によってはこんな教会は教会ではない、と見捨ててさっさと出て行く人もいるかもしれない。しかし、教会とは、自分を含めた存在であり、そんなに簡単に見捨てられるはずのものでもない。大事なことは、そのような状況の中で、「キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがある」信仰的な経験を持っている人が、「心を合わせ、思いを一つにする」信仰的に対処していくことなのだろう。そうであればこそ、教会も質的に成長していくのである。

そこで、パウロは、ピリピの教会の人たちが、霊的に成熟した大人の考え方を持っていくようにと進めている。その一つは、自己中心さから脱却することである。しかし自己中心な人はそもそも聞く耳がないから、自己中心であるが、そんな人に向かって自己中心をやめましょう、他人のことに気遣いましょう、など馬の耳に念仏のようでもあるが、敢えてそのように書くパウロに、私たちは、パウロの忍耐強い親心を教えられる。

さて、パウロがあげる第一の例は、キリストである(5-11節)。本当は神であるのに、神であるあり方を捨てて、人と全く同じようになられた。そして十字架の死にまで従われたキリストの例である。キリストの弟子であるなら、このキリストの模範に教えられることだろう。

第二の例は、パウロ自身である(12-18節)。パウロは、自らがそうしているように、つぶやかず、疑わずに、忠実に働くように勧めている。パウロは、単に自己実現の応援をしているわけではない。1章で既に述べたように、ピリピの教会は宣教的な教会であろうとした。パウロの宣教に協力し、その困難を分かち合った。大切なのは宣教的教会であろうとした志を立てさせてくださり、事を行わせてくださるのは主であるのだから、この教会の内部的な危機においても、主がよきに導いてくださるだろうという信仰である。宣教的教会であることを追求し続けることである。そのためには、様々な苦難があっても、物事を途中で投げ出したりしないように、というのである。宣教には本当に多くの苦難がある。外の人に受け入れられないばかりか、教会の中が色々ともめて疲れてしまうこともある。それでもつぶやかず、疑わず、教会を成長させ、完成させてくださる主についていきましょう、ということである。それは、私たち自身の救いの完成に還元されるものだからだ。

第三の例は、「子が父に仕えるようにして」パウロと共に奉仕をしてきたテモテの例である(19-24節)。先輩の兄弟姉妹と共に、心を合わせるというその模範が役に立つ人もいるだろう。

最後に、パウロはエパフロデトの例をあげる(25-30節)。エパフロデトは、ピリピの教会の人たちが、牢獄にいるパウロを心配し、パウロの身辺の世話をするために、教会から代表として送り出された人物であった。彼は、パウロの世話をするはずであったがピリピにつくや否や病気になり、パウロの手を煩わせることになってしまったのである。面目丸つぶれの思いでピリピの教会へ帰らねばならないエパフロデトの気持ちを考えたのであろう(29節)、パウロは、危険をかして自分のもとに来てくれたこと自体が励ましであり、またよいことであったと語る。

人間の働きは、結果だけではなくて、志を評価することも大切である。失敗という結果にこだわるばかりではなく、それに伴う様々な苦労も認めていくのである。それはたとえ失敗に見えることであっても、その失敗の中で人間は色々なことを学び訓練され、将来への教訓を得ているはずだからである。神は、そういう人たちの働きを、ちゃんと見てくださっていて、本当に苦しんでくれた、支えとなってくれた、と感謝と喜びを表しているのである。

 

ピリピ人への手紙1章

パウロは、エペソ人の手紙において、霊的な価値や、関係について強調したが、この手紙ではその具体的例を示している。

まず、パウロは、福音宣教における交わりを感謝している。6節「あずかってきた」の原語はコイノニアである。直訳すれば、「福音を広めることにおいて交わりを保ってきたことを感謝しています」となる。使徒の16:12に描かれたピリピでの宣教を通して教会が始められた日より、ピリピの教会の信徒はパウロと一緒に宣教に参加してきた。つまり彼らはパウロの働きに興味を示し、福音を告げ広める働きを助けるために協力してきたのである。彼らはただ福音を受けてそれを喜んでいたのではない、あるいはパウロとの気楽に楽しい時を持ち続け、親しくしてきた、というのではない。むしろ主の福音が広まる働きのために喜びをもって心を配り、助け、力を注ぎ、犠牲をも厭わず、それこそ苦楽を共にしてきたのである(4:3、2コリント8:1-5、9:1-5)。パウロの感謝はそのようなピリピの人々に向けられていた。

ピリピの教会は、愛の教会で、宣教に熱意があり、聖書的な理解もしっかりとした教会であったようだ。しかしそれでもパウロは、ピリピの教会のためにさらなる霊性と成長の豊かさのために祈っている(9-11節)。というのも教会の完成は、神の助けによる霊的な働きだからだ。10節、真にすぐれたものを見分けることができるように、別訳の聖書では、「異なっているものを区別する」ことができるように、とある。人間の迷いやすい状況を、パウロは考えているのだろう。悪魔の働きから、私たちの宣教の交わりが守られていくように、これはリーダーの祈りである。これはイエスが主の祈りの中でも教えてくださったことである。キリスト者がキリスト者らしく、教会が教会として建て上げられることを願う祈りである。

12節、ピリピ教会の人たちは、パウロが投獄されたことを知り、パウロのことを心底心配していた。当時、投獄されることは死を意味した。パウロは、家族のように自分を心配するピリピの教会の人たちの気持ちをよく理解し、安心させるために、いくつかの助言をしている。

一つは、視点を変えて、パウロの不幸によって、実は福音が前進していることに注目するようにという。心配するな、むしろ、私の苦しみによって福音が前進させられていることに注目しよう、そしてそこに平安と喜びを抱いて欲しいというわけである。それまでキリストの福音は、貧しい人たちを中心に広がり、なかなかローマの支配層までには広がらないでいた。ところが、パウロの投獄を機会に、今や、親衛隊の人々、つまりローマの軍隊にも福音が広がった、これはパウロの喜びだというわけだ(18節)。そういう意味では、私たちが何か痛みを負っている時に、痛みばかり心を奪われていると何もわからずにいることがあるものだが、神の目線で大きく物事を見ていくなら、神の霊的な祝福があることに気づかされるのである。

続いてパウロは、痛みの意味を解き明かす(20節)。痛みの捉え方をはっきり示す。痛みに対する態度それ自体を変えていくことが、私たちの霊的祝福そのものである。キリストの素晴らしさが現されるのなら、今の痛みなど痛みではない、と言う。また、キリストのための苦しみをも賜った(29節)、とも言う。イエスは、私たちの救いのために十字架という苦しみを負ってくださった。もし、私たちが本当にイエスの弟子であるなら、私たちも十字架の苦しみを負う者なのだ、というわけだ。確かに私たちはイエス以上にはなれないが、イエス様以下になることもできない。十字架精神をきちんと持って、キリストの痛みを負うことができる、キリストのために損ができる、という人がいるからこそ、教会の働きは成り立っていく。家庭も、会社でも同じである。置かれた場にあってちゃんと痛みを負うことのできる人が育っていくことが大切だ。