テサロニケ人への手紙第二3章

パウロは、自分のための祈りを要請している。二つの課題がある。一つは、福音が早く広まること。「早く広まる」は、ギリシア語で「トゥレコー」競技場で走ることを意味する。できるだけ早くである。二つ目に自分と同労者の身の安全が守られるように、である(2節)。宣教者の守りのために祈ることが、福音の進展のために祈ることにもなる。

続けて3節、パウロは、主の真実さを強調し、テサロニケの信徒を励ましている。「私たちが命じること」(4節)はおそらく6節以降の具体的な問題に対応することなのだろう。だから、主の忍耐が、彼らに増し加えられて、その取り組みが助けられるように、と祈るのである(5節)。

そこで6節。パウロは、締りのない歩み方をしている者との交際から離れるように命じる。締りのない者というのは、怠惰な生活をすることによってまじめに働く人々を利用している人々のことである。具体的に、キリストの再臨が間近と主張して日々の仕事を放棄している人々がいた。すでにパウロは、第一の手紙でこういう人たちを戒めている(4:9-12)。しかし、彼らはパウロの警告に聞き従わなかった。そこで彼はもう一度、そのような生活態度に戒めを与えている。宗教改革者のマルチン・ルターは、「今日再臨が起こるとしても、私はりんごの木を植えに行こう」と言ったとされる。今の生活がそのまま天の御国の生活につながるように生きていくのが、クリスチャンのあり方であって、人のつまずきとなるような生き方ではいけない。

パウロは、そのような人々に忠告を発すると同時に、「しかしあながたがは」と教会全体に対して勧める。しまりのない歩みではなく、たゆまず良い働きをしなさい、と今の歩みのペースを守り、促進するように勧めている。「良い働き」と訳されたギリシア語は、慈善をするというよりも、公平なふるまいをする、高貴なことをする、事を意味する。つまり、いつも、最高の目的、神の栄光にかなう歩みを識別し、そこに向かって進むことを言う。

とても強情な者がいて、指示に従おうとしない人がいるなら14節、「交際しないようにしなさい」という。文字通りには「一緒にならないように」。つまり自分自身をその人と混同してはいけない、ということだ。間違いに対して甘い態度は取らない、ということだろう。けれども、15節「敵とはみなさず、兄弟として戒め」るのである。異分子に対しては、身内として接することができず、敵のように扱ってしまうのが私たちの常である。しかしそれでは、人を教育することはできない。考えられているのは、建てあげることであり、立ち直らせることである。レッテルを貼って、村八分にすることではない。罪を示すのは、聖霊であり、聖霊の働きが十分になされるためには、思いやりのある心、十字架愛の心で接し続ける人がいればこそである。

そこで、パウロは、再び、主の業へと読者の心を向けて、自らの書を閉じようとしている。これまで行うように語ってきたことは、人間の力では達成することはできない。私たちを主の御心にかなう者とするのは、聖霊である(1テサロニケ5:23)。また、教会が平和に満たされるのは、平和の主の臨在による外はない。ただ主があなた方と共にいるように、と祈るゆえんである。

最後にパウロは、「自分の手であいさつを書きます」と、手紙の真作性に注意を喚起している。おそらく、2章2節の言葉を受けているのだろう。この手紙の内容は、パウロ自身のものなのだ、と主張する必要性があったのだ。パウロは、愛をもって、異分子と思われる人々を含めて、教会全体に別れを告げている。建てあげようとするパウロの愛の精神に倣うこととしよう。

 

テサロニケ人への手紙第二2章

既にパウロは、1テサロニケの手紙で、キリストの再臨が確実であるとしても、その時はだれにもわからないことを明言している。だから、その時がいつであってもよいように、目を覚ましているように、と語るのだが、2テサロニケの手紙では、少なくとも二つの前兆があると語る。

一つは、背教である(3節)。背教は、ギリシア語でアポスタシア、政治的、宗教的な反乱を意味する。70人訳聖書では、神への反逆が意図されている。政治的反乱も、神が立てた制度に対する反乱と考えれば、神への反逆であり、背教は、世をあげて神に逆らう時代になる、ということだろう。そう考えると、昨今の世相は、終末を間近に感じさせるものがある。

二つ目の前兆は「不法の人、すなわち滅びの子」が現れる(8節)。ギリシア語で「ホ・アンスローポス・テース・アノミアス」は慣用表現で、破滅に定められた者を意味している。世の終わりには、人の子が栄光のうちに現れる。けれども、滅びの子もまた姿を現してくる。ヨハネは、「不法の人」ではなく、「反キリスト」という言葉を使っている(1ヨハネ2:18)。一体それは誰なのか。興味深いところで、歴史的にも様々に議論されてきたが、自分を神のように高める者が現れる、と理解しておくにとどめよう。

この背教と不法の人が現れなければ終末は来ない。しかも、パウロは言う。こうした二つの兆候を引き止めているものがある、と。つまり背教と不法の人が現れる、タイミング、「定められた時」がある。そして、不法の人がどのくらい地上を支配するのかはわからないが、そのような脅威が確かに現れた後、神によってその不法の人は滅ぼされるのである(8節)。

大切なのは、彼に従って滅びる人たちがいると予告される点である(9節)。彼らは真理への愛を受け入れない、つまり十字架愛の福音を受け入れない。滅びはその必然的結果である。罪の赦しを語る十字架愛を受け入れないのであるから、滅びるのはやむを得ない。ただ、そのように惑わす力を神が送られる、とは(11節)受け入れ難くも思われるが、それは神の主権性を認める意外性のある表現であるに過ぎない。すべての悪も神の支配のもとに置かれている、という確信からすればこういう言い回しになる、ということだ。

13節の「しかし」は、「滅びる人たち」と「あなたがた」つまりテサロニケの信者を鋭く対比する。あなたがたについては、別だ。神は同じ主権をもって、あなたがたは救いにお選びになっている、という。しかもそれは、神の召しに対する応答ということで、テサロニケの人々が十字架の福音を受け入れたことに基づいた結果としての選びである(14節)。神は私たちを選びに召してくださるが、それを確実にするのは、私たちの応答による。だから、先の第一の手紙では、苦しみと患難の中で堅く立つように勧められたが(1テサロニケ3:8)、ここでは、「教えられた言い伝え」に堅く立つように勧められている。言い伝えは、イエスと使徒たちの倫理的・教理的な教えのことで、そこに堅く立つことは、人間の努力だけでは難しい。神の助けが必要である。だからパウロは、16節から再び祈っている。特に、神が与えてくださった二つの賜物について祈っている点に注目しよう。一つは、永遠の慰め。神の恵みによって与えられるもので、世が与えるものとはまったく質的に異なる神からの励ましである。二つ目に、すばらしい望み。死のかなたにある望み。この世の栄華によらず、失望に終わることのない望みである。まず彼らがそれを経験するようにと祈る。神はすべての慰めの神(2コリント1:3)であり、また望みの神(ローマ15:13)である。この神の助けによって、あらゆる良いわざとことばとに進む者であろう(17節)。

テサロニケ人への手紙第二1章

パウロはテサロニケで3週間にわたって宣教した(使徒17:3)。わずかな宣教期間にも関わらず、神の恵みによって教会の基礎が築かれた(1テサロニケ1:9-10)。しかし、敵対するユダヤ人のために、パウロは、生まれたばかりの教会を迫害と困難の中に残して、急遽退かざるを得なかった。テサロニケの教会を案じ、訪問の願いが遂げられないパウロは(1テサロニケ2:18)、代わりにテモテを遣わし、教会を励ました(1テサロニケ3:2-3)。こうしてテモテが、テサロニケの信仰者たちの信仰と愛のよい知らせを持ち帰ったことに応答して1テサロニケ人への手紙が書かれた(1テサロニケ3:6-7)。第二の手紙が書かれたのはそれからまもなくで、第一の手紙で書き送った主の再臨と主の日についての教えの誤解、益々強くなる教会への迫害、パウロの教えの誤解に起因するある者たちの怠惰な生活などがテモテを通してパウロの耳に入ったためである。

そこでまずパウロは、三つの励ましを与えようとする。それは、感謝と誇り、そして苦しみの意味を解き明かすことによってである。

パウロは、彼らの信仰が目に見えて成長していることに感謝している。彼らの愛は豊かにされていた(3節)。彼らの信仰の成長は、愛に表されていた。しばしば苦難は、人を自己中心にするが、彼らはお互いに対する関心、思いやり、心遣いに溢れていた。

それはまさに、神の御業としてのテサロニケの教会が建てあげられていることを伺わせる。神が恵みを注いで、テサロニケの教会の一人一人を建てあげてくださっているのだ。となれば、それはまさに、この困難の中にあっても神が生きておられることを明らかにしているのであり、迫害や苦難は神がおられないことの証拠と言う人もいるのだが、全く逆であり、神に関わる諸々の事柄、つまりさばきも確実だということである。

そこでパウロは、「神にとって正しいことは」と、大胆に信仰者としての確信を語る。神は、「苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に、報いとして安息を与える」(7節)。実に神は正しい方である。生きておられる神を侮ってはいけない。神は正義の神であって不義をそのままにされることはない。しばしば、人は神の裁きを信じられないでいる。しかし、神は愛であると同時に(1ヨハネ4:8)、神は光であり(1ヨハネ1:5)、正義である。パウロは、キリストにあるご自分の救いの計画を拒む者に永遠の滅びの刑罰があることを宣言する(9節)。キリストの救いの計画は罪人を赦し、罪人を神と和解させるものなのだから、それは論理的な帰結でもある。復活の主イエスは、必ず目に見える形で再臨されるのだ、その神を私たちは恐れなくてはならない、ということである(10節)。

ただ、10節後半はよくわからない。「そうです。あなた方に対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです」「あなた方に対する私たちの証が信じられたからです」あるいは、「あなた方に対する私たちの証が確かにされたからです」と訳す提案もある。私たちの証を、福音と理解すればよいのだろう。パウロの説得によるのではなく、パウロが語る福音を信じた彼らは、その福音の力によって生かされ、成長し、良き証を立てた、ということなのだろう。

そこで、パウロはますます祈る(10節)。宣教は自分の業ではない。神の業であるとすれば、人間にとっての最善は祈ることにある。祈りが、一人一人を神の召しにふさわしい者とし、また主の働きの完成へと用いられるのである。ただ神の恵みと神が崇められる業が、私たちの教会の働きとして起こされていくように。神に忠実な歩みこそが、魂の救いに最も効果あるものである。今日も、主の恵みによって信仰に堅く立ち、歩ませていただこう。