ヘブル人への手紙11章

神の祝福を覚え、新しい契約に積極的に生きていくために最も大事なのは、神を信頼することである。それは、「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」。具体的に、どのようにして?ヘブルの著者は、旧約聖書の具体例を挙げながら説明する。

第一に、アベルは信仰によって礼拝した(4節)。礼拝は信仰をもってささげる行為である。今日も説教に間に合った、今日の説教はよかった、物足りなかったではない。礼拝は、信仰をもって神を認め、神に近づき、神と良き時を過ごすことである。レビ記に教えられる礼拝は、ささげ物をささげる礼拝であるが、その本質は今日においても変わらない。聖めと献身の時であり、同時に労働の実をささげ、神の守りと祝福を喜ぶ時であり、さらに罪の赦しと恵みを感謝する時である。礼拝の中心に神が覚えられ、神に心傾ける時がなくてはならない。

第二に、エノクは信仰によって神に喜ばれる生き方をした(5節)。神を認めずして、神が喜ぶ生き方をするなど出来ないことである。エノクは、神がおられること、求める者には報いてくださる方であることを覚えながら、人生を歩みとおしたのである。なんと多くの人が、神を認めず、神に期待もせずに生きていることであろうか。

第三に、ノアは信仰によって家族を導いた(7節)。当時、地上に箱舟を建造したノアの行為は、奇怪でバカげたことと思われた。しかし、ノアはそれが家族の救いのために必要なことと認識し、最後までやり遂げた。彼は家長として必要な責任を果たしたのである。家長としての信仰者の務めがある。

第四に、族長たちの歩みは、まさに神を認めるのみならず、神の意志に従う歩みであった(8節)。アブラハムは神のみこころに自分をささげて歩んだ。だから約束された地に、息子のイサク、孫のヤコブと共に三代に渡って寄留者としてとどまり続けた。彼らが生きている間にその土地が所有されたわけではない。しかし、アブラハムは地上の繁栄に勝って、神が与えてくださり、神が立ててくださる都に住まう祝福を求めていた。人間の可能性ではなく、神の可能性にかけて生きていた。だから、「死んだも同然の人」から、海辺の砂のように数多くの子孫が生まれ、やがて、約束された地は彼らのものであることの揺るぎない保証を得たのである。不可能性の可能性の中に生きた族長たちがいる。

第五に、モーセは、信仰によって戦った(23節)。モーセは、エジプトの王子として王宮の安楽な生活をむさぼることもできた。しかし、彼は、そのような生活を拒否することを敢えて選択した。そして、苦しめる神の民と共に生きる道を選んだ。それは信仰によるものである。その結果、彼は、イスラエルの民に解放をもたらした。

信仰は、信仰者に正しい道を選ばせ、正しい歩みを導く。しかし信仰がなければ、私たちは肉のままに振る舞う。だから、地位や、名声、力、富、そうしたはかない楽しみに惑わされて生きることになる。信仰は、私たちの目を開き、はかない楽しみの惑わしではない、はるかにまさる大きな富に目を注がせる。信仰は、私たちの道を切り開き、神によって与えられたビジョンを実現する。

最後に、ラハブは信仰によって神に応答した(30-31節)ラハブは、遊女であり、イスラエルの敵であった。しかし、信仰によって偵察隊を穏やかに受け入れたので、イスラエルの剣を逃れた女性である。彼女を救ったのは、彼女の信仰であったというが、当時の彼女は、霊的真理についてはほとんど無知同然であった。イスラエルの神について、イスラエル人同様の知識があったわけではない。彼女が知っていたのは、神がイスラエルをエジプトから解放し、紅海に道を開いたこと、イスラエルが荒野を彷徨っていた時に神が他の国を打ち破ったことである。しかしそれだけの知識で「あなた方の神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」(ヨシュア2:11)と神に従順を示した。神はそのラハブの信仰による応答を評価された。たとえ今、知っていることはわずかであっても、神の召しに応えるならば、神はそれを祝福される。

ヘブル人への手紙13章

ヘブルの著者は最終章にて、具体的な勧めを連続して書き現わしている。

(1)兄弟愛を持ちなさい(1節)

(2)もてなしを忘れてはいけない(2節)

(3)人を自分と同じように思いやりなさい(3節)

(4)結婚を尊びなさい(4節)

(5)金銭を愛してはいけない(5節)

エリヤを養ったツァレファテの未亡人に与えられた主のことばは「かめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない」であった。祈り一つで何千人という孤児を養ったというジョージ・ミュラーは、5節の「主は決してあなたを離れず、あなたを捨てない」ということばを愛誦したという。人でもなく、金でもなく、神を信頼し、神に駆けて歩む。そこに信仰者の生きるべき道がある。実際、神のみことばを指導している人々を思い出し、彼らの生活の結末をよく見るとよい。今は亡き指導者は、その信仰によって語っているではないか、彼らを見倣いなさい、と勧められる(7節)。真に主のみことばに生きている指導者は、背伸びせずに歩んでいた。日々、その生き方が模範であり、日々み言葉に生き抜いている自然の重さがあるものだ。

8節、イエスは、変わることがない。大切なのは、珍しいと思うような、常に変幻する教えの風に惑わされないことである。むしろ、変わることのない主の恵みにこそ、日々養われるべきことである(9節)。特定の物を食べる食べない、そんな律法的な生き方にも距離を置くことだ。そんなところから何の益も得られないからである。大いなる利益を得る道は、ただ一つ、イエスに倣う歩みである(12節)。これは、明らかにレビ記に教えられた罪のきよめのささげ物について規定からの教訓を語っている。罪のきよめのささげ物は、脂肪とその他の部分に分け、火で焼き捨てなければならなかった(レビ記6:30)。しかも脂肪以外は、祭壇で焼くことはできず、宿営の外で焼き捨てるように規定されている(レビ記4:11,12,21)。その実際的な意図は、第一に、罪のきよめのささげ物と全焼のささげ物が混同されないことにあった。そして第二に、宿営の外で焼かれたことは、イエスが、ユダヤ人の宿営の外で受難されたこと、つまりイスラエルの全会衆の罪のために受難されたことを意味している。ヘブルの著者は、そのイエスに倣う、それが大いなる利益を得る道だ、と語るのである。イエスの足跡を積極的に進みゆく、そこに私たちが目指す、天の永遠の住まいのゴールもある。私たちの生はこの世で終わるものではない。だからむしろ、イエスに助けられながら、イエスに倣い、イエスの恵みを証する歩みであることが大切なのである(15節)。それは平たい言い方でいえば、まさに善を行うことであり、分かち合うことであり、キリストの苦しみを分かち合う歩なのである。それこそが、神に対する本当のささげ物であり、神様に期待されていることである。

17節、教会の指導者を認め、服従し、喜んでその教えに従っていこう。今度は、既に天に召された指導者ではなく(7節)、今現に生きている指導者である。たましいのみはりのために、神様が彼らを立ててくださったのである。彼らは神様に報告義務がある。神様に忠実であろうとする彼らの働きが妨げられないように、彼らが喜んでその働きができるように、協力的であろう。それは、あなたがたにとっても必ず益になることだから、と言う(17節)。

そこで、牧師のためにも祈るように心がけよう(18節)。ただ祈ってくださいというのではない「もっと」祈ってくださいと著者は言う(19節)。教会の務めは祈りである。教会が祈りの霊に満たされるように期待される。教会に行けば、祈られている、もっともっと祈られている、そういう教会でありたい。実際のところ、私たちクリスチャンの成長は、霊的なものである。そして、霊的にこれを阻もうとする悪魔の働きも大きい。教会の働きは霊的な働きである。となれば、聖霊の働きを求める祈りこそ、最も大事にされるべき奉仕とならねばならない。まさに、復活の主が、神のみこころにかなう働きのための一切の必要を満たしてくださるように祈らねばならないのである(21節)。ただ主キリストの栄光があるように、主の恵みがあるように、今日もそのように祈り、主の期待の中にこそ歩ませていただこう。

ヘブル人への手紙12章

教会は、形態的に、「目に見える地上の教会」と「目に見えない霊的な教会」があると言われる。二子玉川にある玉川キリスト教会は、目に見える地上の教会であるが、その教会は、これまでのプロテスタントキリスト教会の歴史の中で信仰に生きた証を立ててきた聖徒たち、いわゆる目に見えない霊的な教会につながっているのだ。そのように、聖書の時代に生きた人々を初めとし、多くの歴史的な聖徒たちの霊的な遺産を継承する流れの中にあるのだとすれば、私たちも同じように、信仰的な歩みを進めていこうではないか、ということになる。

つまり、1節、捨て去るべきものは捨てて、進むべきところは忍耐をもって進んでいくことである。「重荷」は、まつわりつく罪とは別者であるが、私たちの信仰の成長を妨げるものである。そのような重荷は捨て去らねばならない(ピリピ3:8-10)。まつわりつく罪も捨て去っていく。それは、競技者が、常に自己ベストを目指すために必要なことである。他方、積極的に、前へ前へと進んでいくことである。そのためには、忍耐も必要だろう。だめだ、自分には気力も失せたと思わされる時にこそ、主の約束を覚えて、主の助けによって進むことである。ほんのちょっとの忍耐を働かせて、あと少しと、神の約束に近づくように粘っていくことなのだろう。神のみことばに信頼を寄せて、信仰の歩みを淡々と進めていく。人のことばや挫折や失敗に一々落胆しないことだ。しばしば失敗すると、意気消沈、へたりこんでしまう人もいるだろう。誰もが窮した状況で一発奮起できるわけではない。しかし、自分がへたり込み型の人間だと思う人は、主にあって自分を変える努力をしなくてはいけない。そのためには、多くの証人を思い起こすことだろう。牢獄に閉じ込められたような希望を失うことがあれば、ヨセフの物語を読むべきであろうし、自分には負いきれない荷を担っている、と思うようなことがあれば、モーセの物語を読むべきであろうし、激しい憎しみと敵意の目にさらされている、と思うようなことがあれば、ダビデの物語を読むべきである。またとにかく待つことを求められているのであればアブラハムの物語を読むべきである。雲のように取り巻き、信仰の生涯を生き抜いた証人たちの物語の中に、忍耐と励ましを得ることが大切だ。

しかしさらによいことは、2節、信仰の創始者であり完成者であるイエスに目を注ぎ、離さないことだ。ペテロはイエスから目をそらした時に、足が湖に沈みかけて、恐怖を味わったが(マタイ14:22-33)、その教訓に学ぶことである。私たちがイエスと共にあるならば、イエスが必要な助けを与えてくださるだろう。

そして、まだまだ自分の苦労など、キリストの苦しみに比べたら微々たるものだと心得ることだ。訓練と思って、耐え忍びながら、前へ前へと進む努力をすることである。そのように、主にあって十分訓練されることを学んだ人は、同時に、自分の魂をやわらげ、鎮めることができるように鍛えられていく。これは大きな祝福である。人間何が幸いか、この世に生きている限り悩みは尽きないし、試練もなくならない。しかし、主にあって強くされた心を持つことだろう。どんな試練も、悩みも苦しみも、和らいだ魂、落ち着いた心で受け止めて、乗り越えていける強さは、信仰の鍛錬の賜物である。

だから大いに信仰的なチャレンジに臨んでいく者でありたい。「弱った手と衰えた膝をまっすぐにし」そして、全ての人と平和を追い求め、聖さを求めることだ。ただ注意しよう、ここでいう聖さは、エサウの例が挙げられているように、俗悪さ、つまり霊的な価値に対する無感覚さである。一杯の食物との引き換えに、長子の権利を売ってしまうような、霊的なものへの感覚の鈍さ、無関心にある。やはり霊的な事柄への関心の深さが、信仰の歩みの粘り強さや、めざし行く高さにつながるのである。

そこで最後に、私たちがどこに向かっているのかを改めて考えてみよう。私たちが日々近づいているのは、神が用意してくださる大祝会である(22節)。私たちは恵みと祝福の経験に近づいているのだ。「手でさわれる山、燃える火、黒雲、暗闇、あらし、ラッパの響き、ことばのとどろきに」ではない。アブラハムが目指したものと同じ、「シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいている」(22節)。私たちは御国の民として、迎えられる日に確実に近づいている。そこは死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない場所である(黙示録21:3)。シナイでの揺らぎは恐怖を与えるものであった。しかし、今私たち自身が揺るがされることがあるとしても、それは、神の祝福へ近づいているに他ならない。私たちは信仰の鍛錬の中に置かれているだけのことである。慌てずに、いつでも神にすべてをゆだね、毅然として歩ませていただこう。そして、敬虔と恐れをもって、神に喜ばれる礼拝をささげていこうではないか。

 

ヘブル人への手紙10章

ヘブルの著者は、律法を良きものの影であるという。それは、プラトンが語るような、イデア的な意味ではない。プラトンは、心の目によって洞察される、ものごとの真の姿があるとした。しかし、著者がここで言っているものは、来るべき実態をあらかじめ語るものについてである。つまりキリストは、後に来るべきものだったのであり、律法の実態となったものなのだ、というわけである。

著者はすでに9章で、「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、また血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」と語っている。これは律法の考え方である。しかし、「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができない」つまり現実問題として、その儀式をしてみたところで、かえって、これらのささげ物によって罪が年ごとに思い出される、赦されたはずのあの罪、この罪が繰り返し赦されることになるのであり、本当の意味での心の救いや、魂の安らぎはいつまでも得られるものではない。それは繰り返されなければならない。

しかし10節、「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより」すべての罪と不法が神によって忘れられる、神の記録からも消し去られるのだ、という。つまり、律法が暗示してきたことは、イエスキリストの十字架によって実現したのであり、その罪の赦しは完全で、一度限りで、永久に効力を持つものなのだ、というわけである。その意味をよく考えてみよう。もはや私たちは、いつまでも奴隷のような恐れをもって、神の前に立つことは不要である。むしろ、自由の子、解放された子、主にあって喜びを持った子として、次のことを確信すべきである。

1) 私たちは聖なる者とされている(10節)。神は私たちを、ご自分のいのちでもって聖別し、特別なものとしてくださった。

2)私たちの聖めは完成されている(14節)。私たちはいつまでも罪悪感や罪意識に悩んでいてはならない。神に受け入れられるにふさわしい者とされている。あるいはそう見なされている。

3)現に神は私たちの罪と不法とを思い出すことはない、と約束される(17節)。過去の罪や不法は、神の記録から永遠に消し去られ、自分を訴える証拠として取り上げられることはない、と神ご自身が約束している。

4)もはや、罪のきよめのささげ物を不要としない事実が、そのことを明らかにしている(18節)。私たちは、神との新しい関係に入れられているのであり、それはもう逆戻りのできない関係である。

5)だから大胆に神に近づくことができる(19節)。イエスの十字架がまさにそのことを実現してくださったのである。

6)そしてこのイエスが、私たちの祭司としていつも共にいてくださっている。いつも、神に近づく時に、イエスも私たちと共に神の前に立ってくださるのである。

これらの真理をしっかりと受け止めていくことが信仰であり、きよめの生涯を歩むことである。そこで著者は、具体的にまことの礼拝と信仰の歩みへと読者を招いている。

1)真心から神に近づこう(22節)神に近づこうとする心のない信仰は偽りである。

2)確かな希望を持とう(23節)神を知らない人のように落胆してばかりではいけない。

3)愛と善行を行うようにしよう。愛の神がいるというのなら、その神を知っている者として相応しい生活をすることである。

4)集会を休まないようにしよう。当たり前にすべきことを当たり前にすることである。

5) 罪は捨て去ろう(26-31節)

6)忍耐を持とう(36節)見知らぬ者同士の間では、忍耐は発揮されない。家族のように支える者があればこそ忍耐は力強く発揮される。

7)信じよう(39節)。神が最善をなしてくださる、ということをどこまでも信じて、歩んでいくことである。私たちが信仰によって歩む時に、偉大な大祭司が私たちを導き、その霊的成長を完成させてくださるのである。日々、新しさの中に歩ませていただこう。

ヘブル人への手紙9章

ヘブルの著者は、幕屋の構造とそこで行われるささげ物の儀式について説明する。しかしユダヤ人が慣れ親しんだその儀式に実際の効力はない。むしろ、それは、比喩に過ぎないとする(9節)。つまり、すべては新約時代のキリストの業について語っていたのだ、と。

ヘブル書を理解するためには、少なくともレビ記に書かれた礼拝の儀式について知っておく必要がある(レビ4:1-5:13、6:24-30)。特にヘブル書との関連で重要なのは、全焼のささげ物(1章)と罪のきよめのささげ物(4-5章)、代償のささげ物(6-7章)である。それらには共通のプロセスがあり、神との関係を回復させる宥めの意味があった。また、それぞれ固有の異なるプロセスもあり、全焼のささげ物では焼き尽くす、いわば献身を意味する部分、罪のきよめのささげ物では祭壇の角に血を塗る、いわば罪の贖いを強調する部分、そして代償のささげ物では、犯された罪を償う損害賠償を強調する部分があった。幕屋ではこのように種々のささげ物がささげられたが、それらは意味不明の宗教儀式として行われたのではなく、明確な意図をもって、後に来るキリストの御業の予表として行われたのである。そして実際キリストは、手で造られた目に見える幕屋ではなく、目に見えない天にある完全な幕屋に入り、さらにやぎや雄牛などの動物をささげ物としたのではなく、ご自分の聖いからだを、またそのいのちをささげ物としておささげになった。それは、ただ一度限りの、これから後にも先にもない、永遠のささげ物とされた。

ユダヤ人は、動物の犠牲が彼らを聖めると教えられたのであるが、この聖いキリストがささげ物とされたのなら、ましてその聖めはいかほどであろうか、というわけである。確かに、私たちの罪の身代わりとなり、私たちの罪の罰を、私たちのような罪深い身ではなく、汚れなき聖い身に負われたキリストの御愛を思う時に、それは、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とするだろうか。キリストを深く思いたいところではないか。

さらにキリストは新しい契約の仲介者となられた(16節)。遺言の例があげられる。これは、万人共通であり、私たち日本人にもよく理解できるところだろう。遺言は、死んだとき初めて有効になると。つまりイエスが死んだことにより、イエスが血で結んだ新しい契約も有効になる。著者の理屈は、はじめの契約、つまりモーセの契約においても、雄牛とやぎの血を注ぎかけて、その死によって有効とされた。新しい契約は、イエスの血を注ぎかけて、イエスの死によって有効とされたのだ、というわけだ。ここで新しい契約について8章の議論を思い起こそう。新しい契約は、神の律法が心の中に書き記されるというものである。パウロは、ガラテヤ書においてこの古い契約と新しい契約をハガルとサラの子の比較をして、奴隷の子と自由の子の違いであると語った(ガラテヤ4:24)。実に、書かれた文字の律法に仕える人生と、イエスの愛の律法を心に印象的に焼き付けられ、その愛に生きようとする人生は大きく違うものがある。大切なのは、私たちは形の宗教に生きているのではない、まさにキリストの命に生きる信仰に生きている。

そこで再び、著者は、「血」に注意を向ける。大切なのは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(22節)というユダヤ人の基本的な思想であろう。日本人の発想と根本的に違うところである。つまり日本人は物事を水に流す文化を持っているが、ユダヤ人は命を犠牲にする文化を持っている。日本人は、罪を水に流して終わらせようとするが、ユダヤ人は、血でもって責任を取らせようとする。だから彼らの歴史では、繰り返し犠牲がささげられてきた。しかし究極の犠牲であるキリストによって、その方法は永遠に廃棄されたのである(12節)。しかもそれは、物質的な益をもたらすものではない、汚れた良心をきよめる極めて霊的な益をもたらす。つまり、イエスの究極の犠牲は、私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることを可能にする、まことに素晴らしい効力を持つ(14節)。

キリストは、まさにこれを、地上の幕屋ではなく、天の幕屋そのものに入って、これを成し遂げられたのである。それはただ一度限りの行為であり、永遠に効力のあるものとしてなされた。キリストを信じるというのは、まさにこの聖書が語る真理に信頼して生きることである。そしてその人生の究極の終着点として、私たちは、再びこのキリストとお会いする、天の場所を備えて私たちを迎えられるキリストの前に立つことを信じるのである(28節)。

やがて私たちは、再び来られる主の前に立たせられる。その時にどんな報告をすることができるだろうか。死んだ行いから離れて、確かに生ける神に仕える人生を歩み、その使命に全力を尽くしたと胸張って言えるのであろうか。それとも、漫然とクリスチャンらしく生きることができた、たいしたことはできていません、と答えるのであろうか。自由の子、キリストの命と愛に生きる者としての認識をもった歩みを進めさせていただこう。