ヤコブの手紙5章

「金持ちたち」は、物質的には豊かであっても、霊的には貧しい人々のことを指している。ヤコブは、そんな金持ちたちに泣き叫びなさい、と言う。それは、不幸が迫っているからだ、という。今楽しみ味わっている富も、やがて腐り、虫に食われ、さびてしまう、つまりそれらが何の役にも立たない日が迫ってきている。確かに考えてみれば、人間、死を迎えて、蓄えてきたものの一切を地上に残し、裸身で天に戻らねばならない日が来る。それまでは、お金を出せば通用したことも、もはや通用しなくなる時が来るのである。お金が身を守ってはくれない。裸身のまま神の前に立ち、ただどのように生きてきたかが問われる時が来る。結局、その時には、誰かを犠牲にし、搾取し、快楽にふけってきた時代の報いを受けることになる(4節)。

大切なのは、金持ちだからといって裁かれるわけではないことだ。神の関心は、富にではなく、富に対する態度にある。富に執着し、これを愛することを戒めている。富は、与えられた時に感謝して受けとめるべきものであり、正しく用いるべきものである。

次にヤコブは、つぶやかないこと、耐え忍ぶことを勧める。私たちが不当に扱われた時に、神に期待されていることは、一つは、人が本能的な反応を克服することである。目には目、歯には歯、人は当たり前に仕返しを考える。しかし、神はそれを望まれない。妻と夫、親と子供、兄弟どうし、こうした関係の中で起こる仕返し、また上司と部下の間の小競り合いを忌み嫌われる。そして、何にもまして、教会の中で生じる仕返しを忌み嫌われる。「不正な」扱いに耐えることは、難しい。しかし、神は実を結ぶ時を耐え忍ぶ者を喜ばれる(7節)。心を強くすることだ(8節)。心を強くするには、重いものを支える意味がある。困難の時に、重く沈む心を主に支えてもらうことだ。またつぶやかないことである(9節)。そして聖書の人物がいかに耐えたかを思い起こすことだ。預言者たちのように、またヨブのように、神の主権のもとに遜り、従い続けることである(10-11節)。悲しみや思いがけない不幸にあっても、動揺せずに神に信頼しつづける、冷酷な仕打ちの中で神に信頼し続けることである。そしてそのような時に、安易に誓ったりしないことである。苦しみの中で、私たちが守りきれない誓いをすることはよくありがちだが、そうはせずに、苦しみにあっては、静かに物事の結末を見守っていくことが大切だ。

続いてヤコブは、熱心な祈りを勧める。忍耐し、祈る、これが不正に対する最良の策である(13節)。苦しみが癒えるように祈るのではなく、苦しみに耐えられるように祈ることだ。逆に喜びの時には、「賛美しなさい」と勧めている。

ついで病気の時には、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい、と言う。ここで言われていることは、病気の時には、自分の病の癒やしの必要を明らかにすること。そして、当時の感覚で語られていることであるとすれば、適切な医療行為を行うことである。となれば、病気の時には、それなりに専門家に見せて、適切な診断と治療がなされるようにし、その上で祈りなさい、ということになる。主の業への信頼を持つことは大事なことである。個人の病のみならず、家族の病、社会の病、皆、主の業を必要としていることに変わりはない。

最後に、信仰者が真理から迷い出ることは、よくあることだ。そのような時に、兄弟姉妹を迷い出させたままにしたらよいものだろうか。ヤコブは、「救い出すべき」であると助言する。無視してはいけない、遠くから批判しているのもよくない、と言う。というのも、「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおう」からである。

ヤコブの手紙4章

3章の続きとなるのだが、そもそも、どうして教会内に争いが起こるのだろう。基本に戻って考えてみれば、それはやはり霊的に未熟であること、肉の性質が聖霊のお取り扱いを受けていないことにあるのだろう。人類の歴史は、争いに満ちているが、神を信じる者たちの間でも同じであったりする。しっかりと自分の内なる肉と向かい合い、自らの成長を達成することが大切だ。

そこでヤコブは、争いの原因として内なる欲望の問題を取り上げる(2節)。確かに、アブラハムの甥ロトは、貪欲さの故に、アブラハムと争った。そして、家族をその堕落の町の危険にさらしている。ダビデは、むさぼりの故に、姦淫の罪を犯し、家族に大きな争いをもたらしている。つまり、私たちが欲望に身を委ねるならば、そこから三つの結果が生じるのである。一つは、人殺し、相手を否定して、自分を押し通そうとする。二つ目に、争い、互いに傷つけあうことが起こる。そして最後に祈りの失敗。動機が不適切な祈りとなる。ただ自分自身を満足させるために祈るのであって、神の栄光、神への奉仕のための祈りはおざなりになる。真の祈りは、神様の方法によって私たちの必要が満たされるように神様に委ねていくものである。

また私たちが争うもうひとつの問題は、世を愛する(4)ことにある。世は、神から分離された世界を意味する。そういうものを愛することから問題が生じる。

そこで欲望の問題を克服する方法について考えてみよう。ヤコブは、その前提として、私たちに聖霊の力(5節)を覚えるように注意を喚起する。争いごとを自分の力で解決するのは難しい。まずは、主よ、あなたにこの解決をゆだねますと、主の働き、主の導きを覚えることである。

そして主が恵み豊かな方であることを認めるように促す。神をどのように理解しているか、これが全てである。霊的な未熟さは、神観の未熟さ、小ささである。偉大な神の高さ、広さ、を感じているかどうか。まずそこから始めなければならない。その上で次のような実際的な助言に耳を傾けよう。

第一に神に従い、悪魔に立ち向かうことだ(7節)。君は間違っていないと語りかける悪魔に立ち向かうことである。自分の間違いは潔く認めることだ。次に、神に近づいていこう(8節)

自ら神との深い愛の関係を促進していくことである。そして、手を洗いきよめ心を聖くしよう(9-10節)。私たちを神の敵とする汚れを一切取り除くことである。そのためには謙虚にならなくてはいけない。謙虚にならずして、自分の現実を知ることはできないからである。高ぶった目に自分の過ちは見えにくいものだろう。また、兄弟の悪口を言い合わないことである(11節)

原意は「けなす」である。他のクリスチャンより自分が優れている、と見下すようであってはいけない。そして、兄弟をさばかないことだ(11節)。人を正しく裁くためには、その人の心の中の思い、動機、置かれた特殊な状況、など、その人を完全に知らなければならない。しかし、人間にそのようなことはできない。人を裁くことができるのは、神だけである。だから、神の主権を認めよう(12-16節)。私たちは、明日のことすら分からない身である。予期しない事故、死、失業といったものが、一瞬にして私たちの人生を変えてしまうことがある。長い命を保証することもできない。私たちの運命の主である神を無視する事ほど大きな高ぶりはない。最後に、神のみことばの真理に自身の生活を照らし合わせ、なすべき正しいことを知り、そのことを実践していくことだ。神あるゆえの自分ゆえに、「主のみこころであれば」と物事のすべてに神を勘定に入れて歩むことである。神は飾り物ではない。神の前に生きている、謙虚な恐れをもって、歩ませていただきたい。

ヤコブの手紙3章

教師であることを目指す、それ自体はよい志であろう。しかし、キリスト教の教師は、自分の考えではなく、神の真理を伝える責任があるのだから、その働きで「格別厳しい裁きを受ける」ことは覚えておかなければならない。だから、教える立場に立ったならば、自分を訓練することである。やはり信仰は日常生活に結び付いた実際的なものだからだ。

特に意識すべきことは舌である。しかしこれほど、コントロールの難しい筋肉もない。舌を制御する結果は、馬を御することや、船の舵をコントロールすることに等しい。だから、舌による損害は、山火事による損害に等しい結果をもたらすことがある。山火事で波のように広がる炎はとどまるところを知らない。舌は、悪意のある言葉を流し、自分が知らない人や何千キロもはなれている人に対しても、中傷誹謗を流してしまうのである。人間はあらゆる動物を飼い慣らしてきながら、舌だけは制御できていない(8節)。舌の矛盾は、同じ舌でもって神を賛美し、同じ舌を持って呪いを語るところにも明らかで、舌は役に立つものであっても、常にというわけではない。もちろんヤコブは、沈黙は金であると言っているわけでもない。大切なのは、リンゴの木はリンゴの実だけをならせるが、舌は相反する二つの実をならせる事実である。

そもそもの問題は、舌を動かす心にある(16節、マルコ7:20-23、マタイ15:18)。不平、自慢、嘘、偽り、といったことばが出てくるそもそもの源、心が問題なのだ。実際、なぜ私たちが自分を誇るのか、と言えば、それは、心において深い満たしを得ていないからである。どこか人に認められることを求めている。となれば、舌を制するためには、まず神に認められ、神に愛されていることを覚えることが大切なのだ。またどうしてうそ偽りを語るのか。それは、心がごまかしに満ちているからである。しかし隠されることは何一つない、神の前に生きていることを悟ることがその処方である。舌を動かす心を主にあって取り扱われ、真に変えられていくことに、その解決がある。

そこで13節以降は、決して唐突に話題が変わっているのではなく、内側の問題、それが言葉にも、行動にも現れることに注意を向けているのである。結局、心が曲がっていれば、その人の言葉のみならず、行動も生活も同じである。対比されているのは、上から来た知恵と、苦いねたみと敵対心である。キリストにあって救われた私たちは上からの知恵に生きている。もはや古い肉の思いのままに生きているわけではない。ここで言う知恵があるというのは、IQが高いことではない。弁舌が巧みだということとも違う。むしろ真の知恵は第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものである。それは、動機において純粋なのだ。確かに、人間が尊敬を得るのは、その心において純粋な動機を持っているかどうか、どのような心を持って生きているか、に負うところが多い。結局、口先上手な人間はそれとわかるものであって、その人の内側が見られるのである。

確かに、その人の心の中に、平和があり、温順があり、あわれみがあり、えこひいきがなく、なんら見せかけがないならば、人は安心してその人に物事を頼むことができるものだろう。しかしその心に偽りがあり、ねたみがあり、苦々しさがある人にどうして信頼を置くことができるだろうか。そういう意味では、私たちは能力があること以上に、また知識があること以上に、心が純粋であることに最大の知恵を見出さなくてはならない。真にこのような平和で満ちた人々が増やされていくように、神の子が増やされていくようにと祈ることとしよう。

ヤコブの手紙2章

1章に続く具体的な問題として、次に「差別」が取り上げられる。人の名声、権力、財産によって、特別扱いをする、そんなことはしてはいけない、と。人は皆、等しく神の命を与えられた価値ある存在である。少なくとも神に命を与えられたという信仰があるのなら、見かけで人を判断したり、差別したりすることはやめよう。

人が人を差別するというのは、結局、その人を辱めることに留まらず、キリスト者と呼ばれている以上、キリストの御名を汚すことになる(7節)。キリストは差別などされないからだ。差別はこの世の社会ですら、疎まれるものだろう。それなのに、神の愛に生きると言われているキリスト者が、まさに差別をしているとしたら、全く証しにならないではないか、というわけである。そういう意味で、キリスト者は、最大の戒め、愛の戒めを守ることを大事にしなくてはならない。人を愛するというのは、甘ったるい行為ではないのだ。そこには正義あり、自制あり、常識ありと、見識ある行為なのである。そして信仰はバランスの問題であるから、他の面でどんなに立派に生きていても、一つ欠けていればそれで台無しである(10節)。だから、よくよく注意して、神のみこころに生きるように努めなくてはならない。ただ、神が哀れみ深いように、あわれみと愛情を持って生きることが、確かなことだろう。思いやりのない人は、神の裁きを受けるが、情け深い人は、神様の憐れみを受ける(13節)。

14節からは、行いと信仰の関係が語られる。行いは救いの要件ではない。救いは、イエスの十字架に対する信頼によって、完結しているからだ。つまり行いは、救われた生活を表現するものに過ぎない。たとえて言えば、新築の家について建築業者と契約を交わしたなら、それはもうできたも当然のことだ。しかし、土台が据えられ骨組みが作られ、壁が張り巡らされ、内装が終わってこそ、完成で、それはまだ先のことである。救いは、私たちの言葉と行動の変化によって、目に見える形で表現されていくが、人様々である。ある人は、土台ができた段階であったり、ある人は、家も完成し、引越が始まる段階であったりする。行いは、霊的成長と関係があるのであって、真の信仰は実を伴うのである(18節)。

実際悪魔も霊的な真理は知っている。しかし、彼は善を行うことはない。悪魔と同じであってはいけないだろう。そこでヤコブは、信仰の実例をあげている(21-23節)。まず真の信仰の例その1は、ユダヤ民族の父として尊敬を集めたアブラハムである。彼はまず信仰によって義と認められた(創世記15:6)。そしてその信仰を、神に従うこと、また、息子を献げることによって証しした(創世記22)。この間には、時間差がある。アブラハムがイサクをささげたのは、アブラハムが信仰によって義と認められた時から20年も後のことだ。信仰の例その2は、異邦人の売春婦ラハブである。彼女は、神に信頼することによって救われた(ヘブル11:31)。しかし、その信仰を、証ししたのは、偵察隊を匿い助け、危険を冒すという行いによってである(ヨシュア2:6:17-27)。

こうして結論が語られる「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(26節)信仰と行いは、相反せず、分離できない。

パウロは、救いの根拠としての信仰を強調した。救いの根拠にはイエスキリスト以外の何物も加えられない、と。ヤコブは、救いの結果としての行いを強調した。また、パウロは神の視点から語り、人は信仰によって神から義と見なされている、救いにおける神の御業を確認する。他方、ヤコブは、人の視点から見て、人は行いによって人から義と見なされるのだ、と、救いに与った人のしるしを確認している。私たちは私たちの信仰を証明できる。パウロは暖炉の火を見、ヤコブは煙突の煙を見ている。大切なことは、信仰の生活化である。学ぶだけの信仰生活では不十分である。み言葉は読むものではなく、行うものであり、従うものなのである。

 

ヤコブの手紙1章

イエスをメシヤとして受け入れたユダヤ人の信仰者は、試練の中にあった。彼らは、これまでとは違うキリスト教信仰を軸とした生き方の故に、試みを受けていたのである。しかし、試みは信仰の成熟に欠かせない。そして、試練に乗り越えて成熟したクリスチャンは、一味も二味も違う生き方をする。

つまり、成熟した信仰者は、まず忍耐を働かせて物事に取り組む。脅威を身に受けた時にこそ、腹をくくることができるのである。忍耐は、困難な状況で神の側に立ち続け、前向きに事態や物事を変えていく力となるからだ。十分忍耐を働かせることができれば、泰然自若の性質を身に着けることができるだろう。

また成熟した信仰者は上からの知恵を求める。自分の知恵・知識など、役に立たないことなどいくらでも知っている。だから、その時その状況に応じて、天より新しい知恵を求めるのだ。そして神が惜しみなく、与えてくれる豊かな天来の知恵を喜び、楽しむこともできる。ソロモンがそうであったように、神は、とがめもせず、無条件に、気前よく自由に与えてくださる。だから困難を取り除いてください、ではなくて、この困難を乗り越える天来の知恵をください、と祈り求めることが大事なのである。そして祈った以上は、神を信頼していくことだ(6節)。信仰の成熟は、神に対する信頼の強さに現れる。まさにヘブル書で学んだように、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるのである(11:1)。

ヤコブの手紙は、非常に実際的な書であり、恐らく教会に現実的に起こっている問題を取り上げて、そこに考え方を示しているのであろう。9節からは、新しい主題、教会内において、身分の低い兄弟と、富んでいる人の混在によって生じる、人間関係の問題について触れている。確かに、両者は一般社会では相いれないものであり、その隔ての壁を打ち壊すのは難しい。しかし教会においては同じ兄弟姉妹である。だから身分の低い兄弟は、自分が高められる、自分が神にあって重要な存在であるという新しい自己認識をもたらすことを素直に誇りとすべきであるし、富んでいる人は、自己卑下という新しい感覚について受け入れるように勧めている。確かに富は、人間に間違った保障感覚を植え付ける。ありのままの裸のままの自分を重要であると理解せず、富んでいる自分が重要であると考えるのである。しかし、何かに依存している人間に重要さはない。まさに太陽の炎熱に枯れてしまう草のようなもので、人間は、裸の自分にこそ価値を見出すことができなくてはならない。それは、神との関係が正されてこそ、持てる感覚である。

次に、身分の低い者にも、富める者にも等しくある誘惑の問題。ここで言われている誘惑は、制御しがたい、内側からの情熱と欲望のことである。私たちがそのような誘惑に屈しやすいのは、試練にさらされる時なのだが、神は、私たちに強すぎる試練を与えられることもない。しかし、当時のユダヤ人には、神が試練を与えるからこそ自分はダメになるのだと言い訳をする人たちがいたようだ。しかし、問題は、私たちの側にある。誘惑に屈するのは、根本的に私たちの内なる弱さのため、私たちの問題である。だから、自分の弱さを弁え、道を誤らないようにすることだ。神は、たとえ私たちが道を誤っても引き戻し、すべてを益としてくださる。耐え抜いてよしと認められるなら、いのちの冠をほうびにいただく。

ともあれ、自分の内にあるものに注意しつつ、みことばを実践することが誘惑に打ち勝つ最良の策である、と心得、みことばを実行することに意を注ぐことだろう。神はみ言葉を実行する力を与えてくださる。その力を得るためには、聞き方に注意しなければならない。ただ文字に目を通すのではない、みことばを心に植えつけるような聞き方が求められている。神の語りかけに慰めを受け、感動と、喜びを感じるような読み方をすることだ。心に響いたことは実行されるからだ(22節)。実行できない人は、不注意に聞いている(23節)。

「宗教」(26節)は、儀礼や典礼や儀式によって外見的に表現されるものを言う。つまり、どんなに礼拝式が敬虔で荘厳になされても、それが生活と結びついていないなら空しい、見せかけに過ぎないという。それはクリスチャン生活の代用にはならない。神を愛する、神のみことばの弟子であることが、一週に一度の礼拝のみならず、日々の生活に現わされる歩みが大切だ。