ペテロの手紙第一5章

ペテロが触れる長老職には、旧約的な背景がある。荒野を旅した時代(民数11:16-30)、一人で指導者の責任を負うのが難しくなったモーセを助けるために、70人の長老が選ばれている。以来ユダヤ人社会の中に長老という役職が定着した。それは、キリスト教会の組織にも受け継がれ、パウロも長老を任命している(テトス1:5)。パウロは、テモテへの手紙の中で、長老の資格について語っているが、ここでペテロは、長老の態度・姿勢の問題を扱っている。

つまり、パウロは、ある種の資格、資質を持った人を長老として育てて、宣教を推進せよと語るのであるが、ペテロは、すでに長老になっている人が持つべきマインドを、もう一度確認させようとしている。三つのことがある。

①まず義務的にではなく自発的に教会の働きをしていくこと(2節)。長老は、人から言われて動くようではだめである。自分から気づいて物事を進めていくことだ。大切なのは、神に対する責任意識から自発的にしているかどうかである。だから、自発的であっても、人に気を使いすぎるような奉仕もどこかが間違っている。

②卑しい利得を求める心からではない働きをしていく(2節)。これは、見返りなしに働くことを意味しない。福音の働きからそれ相当の報酬を得ることは、認められていることである(1テモテ5:17-18)。だからここで言っているのは、役得をむさぼること、長老であるがゆえに出来かねない、不正直、不公正な手段をもって、まさに卑しい利得を求めていくことへの戒めである。③支配しようとしてではなく模範となる働きをしていく(3節)。長老であることがそんなに偉いのか、と言うような、司令官的な態度であってはいけない。高慢で、利己的で、抑圧的な態度は主にある兄弟姉妹の中では期待されていないことである。むしろ、いつでも人々が後に続くようなリーダーシップの発揮の仕方が求められている。パウロは常に自分の模範に倣うように、勧めた(1コリント4:16、11:1など)。だがパウロは完全だったわけではない。不完全さを認めつつ、完成に向けて導いてくださる主に食らいついているその姿勢に倣うように語っていることに注意すべきである。

次に5節より、ペテロは、若い人たちをはじめとする信徒たち全体への勧めを書き連ねる。大きく四つある。

①従うこと。すでに、ペテロは「従う」ことをこの手紙を貫くテーマとして繰り返し語ってきた。政治的権力に服従する(2:13-17)、奴隷が主人に従う(2:18-25)、妻が夫に従う(3:1-7)、長老が神に従う(5:2)、最後に若い人が長老に従う(5:5)となる。若い人こそ、権威に服従する、教会内の秩序を保つことを学ばなくてはならない。というのも、人は従わずにして、人を従えることを学ぶことはできないからである。既にペテロは、支配ではなく、群れの模範となるように語った。模範になるためには、自ら、様々な苦労を厭わず、謙虚になった学ぶことが大事である。その積み重ねの中で、模範となる歩みも出て来るからだ。そして人を従える立場に立った時に、ひたすら従った時の様々な経験が生きてくるのである。

②謙遜であること。神の力強い御手のもとにへりくだる、それは神から訓練を与えられることである。また同時に、神の解放の時を待ち望むことである。物事がうまくいかない時にこそ、神の力強い御手のもとにへりくだり、神の訓練と解放を待ち望んでいくことだ。

③思い煩いを神にゆだねること。信徒が牧師に求めることは、受け入れられること、癒されることである。しかし、本当に癒してくれるのは、神であり牧師ではない。若い時にこそ、本当に心配してくださる神に委ねることを学ばなくてはならない。

④悪魔に抵抗する。霊的な戦いがキリスト者の生活にはあると覚悟することだ。そして私たちの敵が暗闇の主権、悪魔であるとするならば、神のすべての武具を身につけるほかはない(エペソ6:10-20)。祈り、神のみことば、十字架、賛美、神と間の支え合い、霊的な品性と一切のすべてである。そして私たちには戦いの中での勝利が約束されている。苦しみも長くは続かない。主は真実である。その真実な主に、助けられて、前進することが大切なのだ。

ペテロは確実にこの世のものでは理解しつくすことの出来ない神の祝福を感じていた(マタイ19:28)。完全なキリスト者の生活というのは、神の恵みに溢れた生活に他ならない。神の恵みによって強められ、高められていく歩みこそ、私たちのものである。天来の恵みにこそ日々目を留めて歩ませていただこう。

ペテロの手紙第一4章

敵対的な関係の中で生きるキリスト者に、続けてペテロは、キリストの模範を取り上げ、義のために喜んで苦しむことを促している(4:1-6)。その際に、意識すべき大切な四つの態度がある。

第一に、地上の残された時を、人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごしていくことである(1-3節)。というのも、罪にまみれた生き方はもう十分だからだ。クリスチャンになる以前は、自分の手足を不義の器として生きていた。私たちの目は、罪を楽しみ、私たちの手や足は罪を助長する何かのために働いていた。しかしクリスチャンになってからは、絶えず評判のよいものに目をとめていく、手と足を主の働きのためにささげていく、のである。

第二に神の前での申し開きを意識して生きることである(4-6節)。神の前に立った時にしっかり説明のつく人生を歩んでいるかどうかが大切だ。人は人をよく裁くものであるが、最後に裁くのは神である。6節は殉教者のことを言っている。ここだけ切り離して理解すると、救いにセカンドチャンスがあるような誤解を招く。しかしそうではない。死んだ人々、殉教者は、既に福音を受け入れているのだから、肉体においては裁きを受けたようなものだ。けれども霊は神の前に立ち、祝福を受けている、と理解すべきなのだろう。だから、私たちも、この世の生き方と袂を分かつならば、人間的にはこの世の試練を味わい、裁きを受けたことになる。しかし霊は神の前で生かされているのである。

このように、やがて神の前に立つ、すなわち万物の終わりを意識して生きる(7節)ところから数珠玉のような戒めが語られる。一つは心を整え、身を慎みなさい、これは眠りこけることと反対だ。目を覚まして祈るべき時に眠りこけていたペテロにすれば、特別な意味のあることばであっただろう。自らの経験の中から戒め的に語っている(マルコ14:37-40)。また互いに熱心に愛し合いなさいと言う。単に情緒的な愛ではなくて、献身的な愛が語られている。憎しみは物事を大きくし、対立を深めて行くが、愛は衝突を小さくし、対立を乗り越えさせるからである。そして最後に、残された時を、賜物を生かす機会とするように語られる。私たちにはそれぞれ霊的な賜物が与えられており、その管理者とされている。神は賜物と能力と機会を与えてくださっている。このように日々霊的な歩みを努力するなら、教会も建てあげられていくことになる。

最後に試練に驚かないで、かえって喜ぶことが勧められる(12-16)。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と語った主の模範を覚えることだ。私たちは、AとB二つの結果になると思うことがあり、Aが自分にとっては最善である、Bにはならないで欲しいと思うようなことがあるものだ。しかし、神におゆだねする生き方をする者にとっては、AもBも神の最善だ。どっちに転んでも神は正しい者、みこころを行う者の味方である。神におゆだねするには、信仰の深さが必要である。私たちの思いを超えた、永遠の神の視野で物事をあるがままに受け止める力が無くては出来ないことだ。なお、自分の愚かさに起因するが故の苦しみと、神のみこころに生きるがゆえの苦しみには違いがある(15節)。苦しんでいることが即座に十字架の道を歩んでいる、ことにはならない。しかし苦しんでいる方が真実に近いこともある。大切なのは、やがて「生きている人々をも死んだ人々をも、すぐにもさばこうとしている方に対し、申し開きをしなければなりません」という神の前での生活を日々実際に大事にしているかにある。

ペテロの手紙第一3章

2章の後半からは、具体的に人との関りにおいていかに聖く生きるかを語っている。先にペテロは、為政者(2:13-17)や主人(2:18-25)との関係をとりあげたが、ここでは、夫あるいは妻との関係をとりあげる。考え方の原則は、妻は妻の役割を、夫は夫の役割を果たすことである。つまり夫婦を夫婦として成り立たせることを意識することだ。だからたとい、神の目にかなわない夫でも、妻として相応しいあり方を心がけることである。

そして、それまで不親切で、配慮なき夫が、妻に優しくなり、愛情深い態度をとるように変えられて、まさに神の人とされるかどうかは、キリストの福音を口で語ることによるのではなく、妻のキリスト者としての日々の行為にかかっている、という。普段の日常生活ので、どれほど神を恐れる清い生き方をしているかどうかの問題である。だが多くの妻は、夫の愛情を得るために、自分の髪を編んだり、服を着飾ったりと、外面を飾ることに熱心である。飾り立てるなら、外面ではなく内面を飾ることである。妻自身が穏やかで心優しく、愛情深く敬虔な品格を持つことだ。妻がどんな時にも神に望みを抱き、神に従う時、神はその妻の姿を夫に気づかせて、夫のたましいを救いに導いてくださるだろう。

同じように、夫も夫としての役割を果たすべきである。夫は妻を自分よりも弱い器として理解し、妻への配慮を忘れてはいけない。何よりも妻と一緒に暮らすことである。つまり、妻の願い、目標、思い煩い、喜び、悲しみを感じながら生活することである。夫は努めて、妻と共に心の通う時を過ごし、妻の心の中で何が起こっているのかに注意し、妻が落ち着いて生活できるように心を配るべきだろう。そして信仰を持っているのであれば、さらに地上的な夫と妻の関係を超えて、主にある共同相続人として妻の対等性と重要性を認めていきなさいと言う。そうして初めて、互いの霊的な生活も豊かにされ、祝福されるのである。

8節以降は、他者との関係、ことに敵対的な関係の人々に対する一般的な指示があげられている。まず教会の中においては、同じ心になり、お互いに愛し合い、同情深く、謙遜であるべきこと、そして、敵対的な人物から悪を受けても祝福を返すべきことだ、という(9-12節)。というのも、クリスチャンが召されたのは、キリストの十字架愛に生き、それを世に証していくためである。神がそれを期待しているのであり、神がそれに相応しい報いも用意しておられる。実際ペテロは詩編を引用する(10-12節、詩編34篇)。神は正しく生きる人々に目を注ぎ、その祈りに耳を傾け、天の報いと同時に、現在の人生における祝福をも約束しておられる。また、敵対的な者の脅かしを一々恐れたり、心を動揺させたりしないことだ(14節)。すべての状況を支配しておられる主を覚えることだ。そして、それは危機ではなく、機会である。いつでも内なる確信について神を証できる備えをしておくことだ。

ペテロは、従うべき模範としてキリストとノアの例をあげる。それは、ノアの状況とペテロの読者たちの状況がよく似ていたからなのだろう。ノアとその家族は敵対する不信者たちに囲まれた少数者であった。またノアは邪悪な世界のただなかで正しく生きていた。そしてノアは、あざけりの中で、箱舟を造り、神がおられること、神の裁きが確かであることを証した。そしてキリストはノアを通して、彼の周りの不信者たちにみことばを宣言された。目に見えないキリストがノアとともにおられたのである。19節、「捕らわれの霊」の解釈は、そのように理解するのがよいのだろう。そしてノアは最終的にわずかな人々と共に救われた。このようにしてペテロの読者が置かれた状況を踏まえて読めば、3章後半はわかりやすい。苦難にあっては、目に見えない主との関係において従順であることが、何よりもの救いとなる。結局、あらゆる関係において、従順である、よいしもべである、ということは、神に対してそうであることに他ならない。

 

ペテロの手紙第一2章

本章は、いかにキリストに倣いて、聖さを深めていくべきか、具体的な勧めとなる。

①憎しみ、善人ぶること、不正直、ねたみ、陰口をやめる(2:1)

②神のみことばの乳を慕い求める。捨て去るだけではない。人を聖める神のみことばを慕い求めることだ。神に近づき、神と共に時を過ごすようにすることが、さらなる聖めの秘訣である。

③新しい自己認識に生きる。ペテロはイエスに与えられた新しい自己認識に生きた。ペテロはイエスと出会い、イエスに新しい名を授けられ、その名に沿う人生を歩んだ。その記憶からペテロは、読者にも、主に近づき、主にある新しい自己認識をもって生きるよう勧める。たとえば、私たちは「生ける石」である。捨石ではない。有用な、なくてはならない石である。神は、私たちを未来のための大切な礎石として見てくださっている。また、私たちは、「選ばれた者」である。この世の社会では、人を功績や能力、品性で選んでいく。しかし神は、私たちの存在そのものを尊んでくださる。実際パウロが言うように、私たちは生まれる前に選ばれているのである。ある家柄に生まれて育ち、教育や技能を身に着け、良しと認められるような者であったから選ばれたわけではない。理屈抜きに、私たちの存在そのものを認め、大事に思っていてくださるのである。さらに、私たちは「祭司」である。すべての人は牧師ではないが、祭司として召されている。つまり、祈り、いけにえをささげ、とりなすことが祭司の三大職務であるが、同じ働きを担うように期待されている。自己が満たされることだけを求める自己中心な信仰生活は、結局古い罪人の姿そのものであって、そこから一歩抜き出て、教会に所属し、祈り、奉仕し、証しすることがなければ、本当に満たされた人生のなんであるかを知ることはできない。毎週教会に出かけることが教会生活なのではない。教会を愛し、そこで神に与えられた役割を果たしていけるようになることが大事なのである。第四に、私たちは「聖なる国民」である。ペテロは、イエスの聖さについて、変貌山にて、体験的に教えられている(マルコ9:2-8)。ペテロは神の聖さが何であるかを超自然的に体験し、理解させられた人である。それは、私たちの内側にはない全く新しい聖さを得ることだ。私たちが今持っている品性を磨くこととは違うものである。第五に「神の所有とされた民」私たちは神との深い結びつきに生きる者である(ローマ8:38-39)。第六に「哀れみを受けた者」確かにイエスの哀れみを一番感じたのはペテロかもしれない。裏切者となることがわかっていても、イエスはペテロの信仰が守られるように祈った。神は私たちの信仰が守られるように、たゆみなく哀れみを注いでくださるお方である。これら、神の与えてくださった新しい自己イメージに生きることが、私たちの人生を変えていくことになる。

11節から、手紙の後半に入り、信者が現実の生活の現場でどのようにして聖さと神への信頼を実践するかが語られていく。基本は、寄留者として生きることである(11,12節)。ペテロは、私たちが、故郷ではない世界にいる一時的な寄留者であることに注意を向けている。旅人であれば当然肉欲を遠ざけるべきである、と。またもっと積極的に、立派に振る舞うようにと続ける。聖さは、まずこの世の人たちへの証とされなくてはならない(12節)。そこで、13節以降、迫害下にある兄弟姉妹に向けて、まず、善良な市民であり(13-17節)、労働者であることが勧められる(18-25節)。大切なのは、罪を犯すように命じられた時以外はすべての制度に服従せよ、と命じられていることだ(13,14節)。善良で優しい主人だけではなく、意地悪な主人にも従え、という。大切なのは、単に不当な苦しみとそれに伴う悲しみを耐えるのではなく、神が最終的にすべての悪を矯正し、よきに導いてくださるという信仰に立つことが神に期待されていることである。キリスト者の従順は目的のない、出口のない忍従ではない。そこによき結果を期待し、神の業がなされることを期待しての従順である。罪の赦しの犠牲という目的のためにご自身を十字架にささげたイエスの足跡にこそ従わなくてはならない(21節)。

ペテロの手紙第一1章

ペテロは、キリストに戴いた新しい名を名乗って、手紙を書き始めている。ペテロは、自分をイエスのしもべとして位置付けている。宛先の順番は、おそらくこの手紙が配達された順番を語るものだろうが、それらは、黒海の南にある四つのローマの属州(ビテニヤとポントス、アジヤ、ガラテヤ、カパドキヤ)である。ペテロは、その地域全体に散っているユダヤ人に「神に選ばれた寄留者たち」と呼びかける。彼らは選ばれた者たちであるが、能力や経歴、育ちによるのではなく、神の主権的なあわれみによって神の民とされた者たちである。また、彼らは、離散ユダヤ人であるから、地上的な意味で散っているようでありながら、実際には、霊的な意味で散らされている。つまり、国籍は天にある者でありながら、地上に仮住まいをしているに過ぎない。父なる神の予知によってそうなっていたのである。彼らが散らされ、散らされた場が敵対的な状況にあるとしても、それは既に恵みとあわれみに富んだ神が初めから予測し、計画しておられたことである。というのも、それは、キリストの血の注ぎを受け、聖められるため、つまり、彼らの中に残存している霊的な汚れである罪からいよいよ解放され(詩篇51:7)、聖さ、信仰、愛においてますますキリストに従順な者となるため、つまり永遠の完全な救いをもたらす目的があったからである(2節)。

そこでペテロは、読者が生ける望みを持つようになったことへと注意を向ける。おそらく、読者たちは、苦難の故に落胆し、重苦しい心を抱いていたのであろう。その心が癒されるために、まず天の望みを見上げて、神を賛美するようにペテロは励ましているのである。というのもそれは、ペテロ自身が経験した、喜びと確信の根拠であるからだ。ペテロは、イエスの復活によってもたらされた新しいいのちの恵みに目を留めるように語る(3節)。それは、三つの大きな祝福である。第一に、それは、天に蓄えられた朽ちることも汚れることも、消えていくこともない資産である(4節)。当時のパレスチナは、しばしば旱魃やイナゴの害に悩まされることがあった。そうした浸食され易い地上の資産に対比して、キリスト者が受け継ぐ天の資産は消え去ることはない。第二に、それは安全な守り(5節)である。ギリシア語のプローレオー(監視する)は、軍事用語として使われるもので、絶えざる警戒で守られていることを意味する。それは注意深く攻撃からも、逃れることもないように、見張り守られているのである。しかも、守られているのは、資産よりも、資産を受け継ぐ私たち自身である。最後に、それは現状に左右されないものである。多くの場合、人は、苦難や苦労のあることは悪いこと、不幸なことだと考える。しかし、苦労があることと幸せであることは別次元のことである。苦難や苦労があっても本当は幸せだということがある。今しばらく様々な試練の中で悲しまなければならないとしても、心に喜びがある、これが魂の救いであり、信仰を持つ者の強さである(5-9節)。キリストを信じる、というのはそういうことなのだ。

実にキリストの救いは、偉大である。そしてこの救いはまさに読者一人一人のために用意されたものであった、とペテロは語る。つまり、預言者たちが尋ね求め、調べたこの救いは、自分たちのためではなく、まさにあなたがたのためのものであった、と。そして御使いすら、その救いがもたらされた結果を見たいと願っている、と。ペテロは、こうして苦難の中にある読者が、実際には、神の最大の祝福の受取人であることを確信させているのである。それは、私たちも同じである。私たち自身も、苦難にある時にこそ、選ばれ、寄留者としてあり、さらに神の予知の中において、魂の救いを得ている者として「今ここ」に置かれていることを覚えたいものである。そして、13節からの実際的な勧めをしっかり受け止めていこう。

その要点は、あらゆる行いにおいて聖なる神のような美しさを慕いなさい、ということである。「心を引き締め」は、字義通りには、「あなたがたの腰を引き締めなさい」となる。当時の人々は、走ったり、素早く歩いたり、激しい活動をするために、長い衣の裾を引き上げ、腰の周りにまとめて結びつける習慣があった。行動の自由を妨げるような心でいてはいけない、ということである。「身を慎み」は「しらふでいる、酒を飲まないでいる」とも訳され、霊的に油断なくあることを言う(4:7、5:8)。確かに、人は、霊的な事柄よりも、学歴、経歴、財産、レクリエーション、名声、友好などに心が酔ってしまいやすい者で、注意が必要だろう。では、聖めは何を意味するか。

第一にそれはキリストへの従順である。具体的に、肉の欲望に従わないこと(14節)、その対立概念である、キリストに倣って聖なる者とされることだ(15節)。第二に、ますます神を畏れつつ歩むことである。ここでは、恐れは神の不評を買うことの恐れを意味している。神に対する恐れは、パウロも勧めているように、私たちの霊的成熟ために軽んじることができない(2コリント7:1、15、コロサイ3:22)。またその恐れは、人間的な弱さから出てくるものではなく、神の偉大な愛を覚えればこそ出てくる信頼に基づく恐れである(17節)。第三に聖められることは、兄弟愛の実践そのものを意味する。聖めは、個人的な精進ではなく、関係性の中で起こることだからである。聖めにおける成長は、クリスチャンたちの間のより深い愛となって結実するのだ。そして、聖めを達成するのは、私たちの努力によるのではなく、私たちが不断なく求める神のみことばであり、聖霊の業である(23、24節)。