ペテロの手紙第二3章

偽教師を攻撃することから、忠実な信徒を励ますことへ、さらに、偽教師の品性を解き明かすことから偽教師の具体的な教えに対する正しい教理(再臨)を解き明かすことへと話題は転じる。キリストは、栄光のうちに、再臨されることを明言したが、偽教師は、それを否定した。ここに、2章のような品性堕落の原因がある。支配者であり審判者である神の前に立つ意識が薄れると、私たちの信仰生活も、教会生活もいい加減になりやすい。

記憶を呼び覚ませ、と語るペテロの頭には、おそらく、イエスのたとえばなしがあったのだろう(ルカ12:35-48)。食べたり飲んだり、酒に酔ったり、主人の帰りを覚えずに、自分の思うままに、場当たりの生活をする、そういう現実が私たちにはある。それではだめで、目を覚まして、心を奮い立たせて、緊張感をもって礼拝をし、奉仕に励みたい。なぜなら、神が再臨されるのは真実だからだ、というわけである。そもそも、神の審判の教えは、イエスに始まったことではない。ペテロは歴史的にこれを裏付ける。それは、聖なる預言者たちによって前もって語られ、使徒たちも、語ったことである、と。確かに、エノクの時代から神のさばきのことばは語られてきている(ユダ14)。また、多くの預言者も語ってきた(イザヤ2:10-22、13:6-16、エレミヤ30:7、ダニエル12:1、ヨエル、アモス5:18-20、ゼパニヤ、ゼカリヤ12:1-14:3)。パウロは、1テサロニケ5章と2テサロニケ1-2章で、その教えを詳しく展開している。さらに、使徒ヨハネも黙示録で、神の審判を神の啓示として語っている。

その再臨が遅れているのは、8、9節。理由なきことではない。神が「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるから」である。ペテロが引用するのは、詩篇90:4「まことに、あなたの目には、千年もきのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです」である。それは、神が物事を見る見方と、私たちが見る見方は違うことを語っている。神は急ぐことも、遅れることもない。神はちょうどよい時を待っておられる。そして神は、一瞬にしてその時をもたらされる。それはちょうど、天地創造や、出エジプトの出来事と同じである。人が千年かかるところを神は1日で成し遂げられる。神は一瞬で世を終わらせることがおできになるが、その一瞬を神は憐れみの故に遅らせている。神は、悪者の死さえ喜ばないお方だからだ。神は忍耐強く待ち望み、一人でも救われる人が起こされるのを待つ。私たちの宣教は、すべての人を悔い改めと、神との祝福された関係に導くためのものである。

最後に、そのような世の終わりに対してどう生きるべきなのか。

①聖い生き方をする(11-14節)ペテロは、変貌山にてこの世にはない神の聖さを目の当たりにしている。私たちもどこかで神の聖さを目撃し、人間にはない聖さを求める経験に導かれなくてはいけない。自分の義を磨くような生き方ではだめなのである。

②失われた者を勝ち取っていく(15節)主の忍耐は救いだ。一人でも失われる者がいないために、一人も滅びないように、この思いをはっきりと教会で教えられていく必要がある。

③成長する(18節)「無節操な者たちの迷いに誘い込まれて自分自身の堅実さを失うことのならないようにしなさい」人は他人に影響されやすい者である。だからこそ、いつでも目標を見失わず「救い主であるイエス・キリストの恵みと知識において成長する者でありたい(18節)

ペテロの手紙第二2章

1章では、殉教を間近にしたペテロが、信仰の霊的な成熟に進むように進めていた。いのちと敬虔(3節)を深め、神のご性質に与るように、霊的な高値を目指して進むことである(4節)。牧会者は、誰よりも率先してそう行うことが正しい。

しかし、偽教師はそうではない。2章では、偽教師の問題がとりあげられる。よく読むと、ユダの手紙と非常によく似ている部分である。どちらかが贋作である、という議論もあるが、どちらが先に書かれたか議論は一致していない。一説に、コリントの教会から発した問題が、近隣の諸教会に大きな影響を与え、そこでペテロが第二の手紙を書き、ユダにその一部を送り、ユダも、直ちに自分の関心を持っている諸教会に同様の手紙を書いたとされる。

ともあれ、偽教師は、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込んでいる。いわゆる正統信仰とは似ても似つかぬ信仰を教会に持ち込んでいる、というわけである。その結果、自分たちを買い取ってくださった、つまり十字架の恵みによって救ってくださった主キリストさえも否定している、というわけだ。彼らが愛し、仕えているというキリストをまさに否定するような教えや実践をしている、ということである。

では、その特徴を見ていこう。彼らの特徴は、好色と貪欲(2、10、14、19節)にあった。2節、好色にならい、3節、貪欲であり、食い物にしている、13節、昼の内からのみ騒ぐことを楽しみと考えている、14節その目は淫行に満ちている、15節、不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従った、とあるようにそこには倫理的、道徳的な破綻があった。それは、ペテロが1章で語ったこと、いわゆるいのちと敬虔、神の御性質に与る、霊的高嶺を目指す歩みとは全く逆の生き方である。それは、まさにイエスの十字架の恵みを放縦に変えるような異端である(ユダ4)。しかも偽善的な異端ではない。人に厳しい戒めを教え、自らは陰でそれを破っているような異端ではない。むしろ、人に自由を約束するが、その自由は好むままに罪を犯す自由であった。つまり情欲の自由になる自由を彼らは、語っていたのである。パウロは、自由を肉の働く機会としてはいけない(ガラテヤ5:13)と語ったが、まさにそれを許す異端である。しかし、キリストにある恵みは、御霊によって肉から解放し、まことの霊的な自由へと至らせる恵みなのである。ペテロは警告する。こうした異端の宿命は、(2:4-12、17節)

①罪を犯した御使いは、暗闇に閉じ込められた(4節)

②ノアの時代、不敬虔な世界に洪水が引き起こされた(5節)

③ソドムとゴモラは滅ぼされた(6節)

④彼らに用意されているのは「真っ暗な闇」である(17節)

とされる。ここに、ユダの手紙と同じ表現がある。つまり、ユダの手紙との関連性が語られる所だ。地獄は火と硫黄の燃える池ではなく、真っ暗な闇と表現される。地獄はあなた以外の誰もいないところである、とペテロは警告しながら悔い改めを求めている。

私たちは「買い取られた者」である(1節)。イエス・キリストに聞き従う、しもべである。救われた、感謝で終わりではない。救われたなら救いにふさわしい実を結び、ふさわしい働きをしていく必要がある。そうでなければ、罪を犯した御使い(4節)、不敬虔な世界(5節)、ソドムとゴモラの町(6節)と同じ結末を迎えることになる。偽教師は、自由を放縦に変える人たちであり、その結果は、「もっと悪くなる」「際限なく悪くなる」ということに尽きる人たちである。一方神を信じることは、救いであり、進歩であり、前進なのである。もちろんそれは、自分の力でできることではないのだから、それこそ聖霊の業なのであり、神に求めて、神の助けを祈りながらの前進である。

ペテロの手紙第二1章

この手紙を書いたペテロは、自分の殉教が間近であることを意識している(14節)。伝統的にペテロは、ネロの迫害(AD54-68)の後期に殉教した、と考えられているので、となればこの手紙は、AD67 年頃に書かれたと考えてよいのだろう。ペテロはローマの獄中にあり、覚悟を決めて、最期の告別のことばを残そうとしたのである。

果たして、牧師として最後に何を語るか、「私が去った後いつでも、あなたがたがこれらのことを思い起こさせるようにして起きたい」(15節)ことは何か?やはり、それは、「いのちと敬虔をもたらす全てを与えてくださった神の御力」を置いて他にはない(3節)となるだろう。

命を得た以上、それは自然に育っていく。しかし敬虔に育っていくかどうかは別問題である。私たちは、敬虔を得る、つまり神の性質に与ることを約束されているが、それを私たちが自分のものにするかどうかは、「あらゆる熱意を傾ける」私たちの姿勢にかかっていることも確かである(5節)。では何を意識すべきなのか。まずは七つの品性である。

①徳(5節):基本的に目的を達成することを意味する。ナイフの目的は切ること、馬の目的は走ること、そして人間の目的は、キリストに似た者となり、神の栄光を現すことである。

②知識:「聡明さ」「実践的な知識」または「識別力」を意味するが、徳を身に着けることが前提である。

③自制:自らを制御する力である。パウロも賞を得たければ、自制し、訓練に臨む競技者のようであることを勧めている(1コリント9:24-27、ピリピ3:12-16)。

④忍耐:自制は、人生が順調に行っている時に働かせる力である。忍耐は、人生に問題があったり圧迫されたりする時に働かせる力である。自制力のない人に、忍耐もない。

⑤敬虔:単純に「神のようである」ことを意味する。ギリシア語のもとの意味は、「よい礼拝をなすこと」、つまり敬虔さは礼拝から、神との正しい関係から生じる。

⑥兄弟愛:敬虔さは、兄弟愛によってさらに磨かれる(1ヨハネ4:20)。兄弟に対する愛は、イエスのまことの弟子であり、神の子であることの明らかなしるしである。

⑦愛:クリスチャンとして成熟には、兄弟愛以上のものが必要だ。つまり犠牲的な十字架愛そのもの、神が罪人、無知な者、弱い者、敵対する者に示された愛が必要である。

「信仰、徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛、愛」これらは、七段階に発展的に理解されやすい。信仰を身につけたら徳を身につけるというように。しかしそうではない。むしろ、ガラテヤ書に出てくる御霊の実(ガラテヤ5:22-23)のように、同時的に求められるべきもの、身につけていくべきものである。「加えなさい」と訳された語は、「豊かに備える」を意味する。そのような信仰的成長の努力のあるところに、「役に立たない者、実を結ばない者」になることはないし、躓くこともない(8節)。

これらを備えていない人は盲目である。つまり、キリスト者になった以上、どこか、キリスト者であることに磨きをかける心が必要なのである。茶道家は茶道に精進し、華道家もまた同じであるように、キリスト者も、キリスト者であることを極めなくてはならない。自分の召しと選びを確かなものとするように、いっそう励む日々の歩みが求められるところだろう。そこに主の恵みを豊かに感じることにもなるのだ。

そんなことはわかっている、とは思っていても、実際には、私たちの巡礼の道のりは果てしなく遠いことを覚えなくてはならない。私たちは信仰生活を日々深めていると思いつつ、実際にその行程の1%も進んでいない、ということがあるのではないか。

ペテロは殉教間近に、改めて自分の現実を思う時に、かつてキリストと共に、変貌山で目撃した、その威光に全くかなわぬ自分を思わずにはいられなかっただろう。「世のさらし屋ではとてもできないほどの白さ」(17、18節、マルコ9:2-8)は、単純に人間の努力で到達できるような目標ではない。信仰には精進が、あるいはそれを極める歩みが必要と言えども、それは、主に引き上げていただくのでない限り決して到達しえない目標である。信仰者が神の命を成長させ、成熟し、神の御性質にあずかることは、きわめて高い到達目標だ、と言うことだ。

だから、私たちは信仰において自己流であってはいけない。「人の私的解釈を施してはならない」とあるように、聖書が語るところを、語るままに理解し、その基準に達することを自らの歩みとしてく必要があるのだ。