ヨハネの手紙第一5章

イエスを主と告白し、信じることで私たちの内側に生じる最も大きな変化は、神を愛する心が生じることだ。それまで神など認めもしなかった。信じもしなかった。そんな私たちが神を認め、神を受け入れ、神に信頼する、そしてやがて神を慕い求めるようになる、それが救いである。ヨハネは、神を愛することは、神の命令を守ることで、その命令は重荷とはならない、と語る。神を信じる時に、神を愛する思いが生じ、神に従順な者とさせられていくからである。

さてヨハネは、こうした信仰は、根拠のないことではない。確かな証言に基づいている、という。つまりイエスが、まことに神の子であることを証言するものが三つある、という。水と血と御霊である。当時の読者にはこれで十分理解できたのであろうが、現代の私たちには唐突でよくわかりにくい。実際水と血については様々に解釈されてきた。宗教改革者のルターやカルヴァンなどは水は洗礼で、血は聖餐式を示す、とプロテスタント教会の二つの聖礼典に結び付けて解釈してきた。そこで、第二に水はきよめを、血は贖いを示すという解釈がある。第三にアウグスティヌスが示したもので、水と血はキリストが十字架につけられ、やりで脇を突かれたとき流れ出たものを示すとキリストの死の現実に結び付けるものがある。最後に、テルトゥリアヌスが提唱した水はキリストの洗礼で、血は十字架の死を意味するとキリストの生涯の出来事に結び付けて解釈するものがある。ヨハネは、イエスが実在の神の子であったこと、つまりまことの神であったことを語ろうとしているのであるから、最後の解釈が最もふさわしいのではないだろうか。キリストが神の子と公に認められた洗礼、そしてその使命に応答し、贖いを目的とする十字架の死が、イエスが信ずべき神であることを明確に語っているのである。そしてそのことをわからせてくれるのは、聖霊の働きである。確かに、キリストの洗礼と十字架の死という歴史と、聖霊の働きを通して、神はイエスが神の子であり、イエスにいのちがあることを証している。その神の証を直に受け入れるならば、私たちも永遠のいのちを得る。もちろんそれは量的な長いいのちという意味以上に、私たちが永遠の神とつながって生きることを意味している。

大切なのは、信仰者がこのいのちを意識しているかどうかである。ヨハネは、「あなたがたが永遠の命を持っていることをわからせる」(13節)と言うが、今のいのちではなく、永遠のいのちに生きていることをもっとよく理解していく必要がある。というのも、永遠のいのちに生きている、つまり、神との深い結びつきで生きているのであれば、私たちは確信を持った祈りをすることができる(14節)。そこで祈るべきことがある。自分の利益のために祈るのではなく、兄弟のために祈ることである。特に、神から離れていく人々のために祈ることである。罪に陥っている人を見たならば、その人を批判したり、排斥したりするのではなく、その人がしっかり自らの罪に向かい、勝利できるように祈ることだ。「死に至る罪」とあるが、キリストの十字架にあって赦されない罪はない、と聖書は断言しているのだから、どんな罪も赦されるはずだろう。むしろここは、キリストの十字架の罪の赦しを知りながら、また味わいながら、もはやその赦しを受けようとしない罪と考えるべきだろう。キリストにある恵を受けようとしないで罪を犯し続ける、そういう人は決して赦されることがない、ということだ。人は、大きな罪、小さな罪という区別をする。しかし、永遠のいのちの観点からすれば、死にいたる罪と死に至らない罪があるだけである。死に至る罪は、イエスの十字架を拒否することに他ならない。

神を愛することがクリスチャンの人生そのものである。大切なことは、心の内に神を愛する心があるかどうかである。神を知っている、と言いながら、神を信じていると言いながら、神を愛し慕う心がないならば、それは、偽預言者や偶像崇拝者と同じなのである。神を愛し、神のいのちに生きる、いつも朝ごとに、そのことを覚えて歩みたいものである。