ヨハネの手紙第三

ガイオの教会には難しい問題が起こっていた。しかし、興味深いことは、今日もこの手紙の中に出てくるような人々がおり、同じような問題があることだ。

ガイオはヨハネによって救われた、特別な関係にあったのだろう(4節)。ヨハネは「愛するガイオ」(1節)、「愛する者よ」(2、5節)と呼んでいる。この時ガイオは、体の調子を崩していたようである。ヨハネは健康の回復を祈っている(2節)。しかしガイオは霊的には健康であった。ヨハネは、そんなガイオを素直に喜んでいる(4節)。

ガイオは、真理のための同労者であった(8節)。ガイオは、神のことばを牧会している人々を支援した。ヨハネの手紙第二では、ヨハネは、「選ばれた夫人」に偽りの教師をもてなしてはいけないと警告を与えている。しかし、ここでは、まことの牧会者、巡回伝道者をもてなすように励ましている。ガイオは、彼らに自分の家庭を解放しただけではない。お金や食べ物を提供したり、衣服を繕ったり洗ったりし、旅を支援した。それは一緒に主の働きに参加するためである。神の民が神のしもべたちを適切に支援するならば、それは失われた者に対する力強い証しとなる(7節)。ガイオのような霊的に健康で、神のことばに忠実で、真理を促進するために自分の持てるものを分かち合う人々が必要なのである。

しかし、残念なことに教会の皆がガイオのようであるわけではない。ガイオの教会には困った人がいた。デオテレペスであるが、彼は、古くからのクリスチャンであったのかもしれない。自分は先輩であり、様々なことを誰よりもよく知っていると思っていたのかもしれない。しかし上に立とうとするその姿勢がそもそも問題であった。彼の傲慢さの故に、教会では、多くの人が傷つけられ、痛んでいる状況であった。10節「意地悪いことばで私たちをののしり」というのは、「私たちに対して間違ったむなしい訴えを起こす」という意味である。指導者に対して間違ったむなしい訴えを起こす人がいる。問題は、そのような訴えを真に受ける人々によって教会がさらに混乱したことであった。不信感によって陰で語られることばに耳を傾けることほどナンセンスなことはない。本人の前で話せない訴えには耳を傾けないことである。むしろ、そのことを本人の前で話させ、本人と一緒に話し合わせるように仕向けることだ。陰で物事を大きくしたり、代弁者となったり、自分の不満を一緒に撒き散らす便乗攻撃をしてはいけない。組織の秩序を乱さない最低の心構えである。デオテレペスは、ヨハネを拒否し、ヨハネと交わる人々を拒絶した。神の愛を教えられている人が残念なことであるが、争い、分派を作っていく、これが人間の現実である。ヨハネは、読者にデオテレペスに倣ってはいけないと警告する。

そして、もし何か模範を得たいと思うなら、デメテリオにこそ従いなさい、いう。確かにデメテリオは、模範とする価値のある人物であった。彼の歩みと働きには矛盾がなかった。ガイオと同様、デメテリオは、真理の内を歩み、神のことばに従う人であった。これは二人が完全だったというわけではない。むしろ主に栄光を帰す彼らの生活に矛盾がなかったということである。

私たちに必要とされているのは、より多くのガイオやデメテリオのような人、そしてより少ないデオテレペスのような人だろう。地域教会を健康的な者にする人として成長させていただきたいものである。

ヨハネの手紙第二

「長老」は、ヨハネの福音書と共通の用語、手紙の中に、福音書と似通った文体が数多く見出されることから、著者は使徒ヨハネであろうと考えるのが通説である。また、「選ばれた夫人とその子どもたち」については、文字通りそのような夫人や子どもがいたのだ、とする説と象徴的に教会である、とする説があり、結論は出ていない。ただここでは文字通りに理解しておきたい。

この夫人は、ヨハネに愛されていた。「ほんとうに」は、ヒューマニスティックな感覚で「心から」というよりは、「真理によって」つまりキリストの十字架愛に基づいて愛している、ということだろう。だから「真理を知っている」(1節)人々はみなそうだ、という。キリストの真理は、私たちに人を愛する愛し方を教えたのである。

たとえ、教会の勢いが強くなったとしても、そこに十字架愛に生きようとする人の姿を一人として見つけることができなかったら、実に空しい。つまり、4節のことばは裏を返せば、ある人たちは真理の内を歩んでいるものの、ある人はそうではない、と言っている。つまりこの教会には争いや分裂が起きており、互いに背を向け、違った道に行こうとする人がいたのだろう。

そこでヨハネは、互いに愛することを命じている(5節)。教会が、間違った教えにかき乱されることから守られるためである(7節)。愛することは、新しい教えでもない。もし新しさがあるとしたら、それはイエスだけが十字架上で身を持って教えてくださったためである。それまで人は、寛容や親切の愛は聞かされていただろう。しかし、すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ類の永遠の神の愛を、身を持って、十字架の犠牲でもって示されたことはなかったのである。この愛だけが、冷え切って破壊された人間関係、かきまわされてどうにも手のつけられなくなった人間関係を立て直すことができる。教会が難しい状況にある時にこそ、真理に基づく愛、十字架の愛に皆が一致して立つ必要がある。批判するのではなく、柔和な心で、何が守られるべきかを考え抜き、また選択していく冷静さが必要とされる。しかし多くの教会はこういうところで多々失敗してきた。教会は、神の愛が教えられるところなのだから、もっと、慎重で冷静に、また、穏やかに物事を見ていく、気長に育っていく部分があることを心得ながら関わり建て上げていく感覚がなくてはならない。

ヨハネの時代の教会が、味わった苦渋は、第一ヨハネの手紙でも既に述べたように、イエス・キリストが人として来られたことを否定する、グノーシス主義的偽教師の働きが強かった。この教会でもそうした偽教師が入り込み、教会の指導的な立場を担っていた選ばれた夫人とその子どもたちを批判し、教会をかき回していたのである。ヨハネは、よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい、と勧める。私たちがよく気をつけない時に、慎重さを欠いて、色々と噂話を助長したり、争いごとを大きくしたりする時に、結局労苦の実が失われる。労苦の実をだいなしにしてはいけない。むしろ積極的に豊かな報いを受けるようになりなさい、とヨハネは言う。

またヨハネは、キリストの命令に留まらない巡回伝道者を受け入れてはいけない、という。問題は、そういう人を見抜けず、言葉巧みさに騙されて教師として歓迎してしまう人たちがいたことだ。教会を建てあげるには、ある種の霊性の深さが必要だ。雰囲気にのまれず、本質を見抜く力が必要である。そのためには、もっと、聖書を、当時の時代でのメッセージをよく理解し、その上で私たちの時代、社会の中でそのメッセージを考え抜く作業が必要なのだろう。

牧師のみならず中核になる信徒、牧師に協力する信徒たちに霊的深さがあり、霊的な問題を識別する人たちが集まっていないと、表層的な事柄に振り回されることになる。結局教会形成は個々の霊性の深さに基づくのである。