ヨハネの黙示録22章

天の都について語っている。「水晶のように光るいのちの水の川」(1節)とは、都が命であふれている様を物語っているのだろう。「もはや、のろわれるものは何もない」(3節)「もはや夜がない」(5節)。そこは今の私たちの世とはまったく別世界だ。ヨハネは「これらのことばは、信ずべきものであり、真実です」(6節)と語る。
しかし、自分の心を覗けば、「聖なる者」には程遠い現実を感じるところであり、正直になってみれば、神の期待には、とてもかなわぬ心の現実がある。素晴らしい約束を与えられてはいても、本来、私たちは神の目にかなわず、新しい都に入れるような者ではないだろう。罪人である私たちにふさわしいのは、火と硫黄の燃える池を置いて他にない。しかし、たとえ私たちがどうであれ、キリストにあって、私たちはその恵みに与れる、というのが福音であり、聖書の祝福のことばである。イエスに免じて、新しい都行きを保証されている。それは、全くもって恵みであり、幸運であるが、本当にそのように信じていてよいのだろうか。
第一に、イエスの犠牲の意味をよく理解することである。それはすでにささげられた。日本人には罪を水で洗い流す発想がある。しかし、ユダヤ人は、罪の現実をもっと重くとらえていた。罪が赦され、聖められるためには、命の犠牲が必要だと考えた。動物を殺して、いけにえにし、神にささげることで赦されると考えた。イエス・キリストの十字架の死の意味は、こういうユダヤ人の発想から出ているのである。イエスの十字架の死は、全人類の罪を赦すのみならず、聖めをもたらし、神の御国に入る特権を与える、最終で究極の犠牲、いけにえだった、というわけである。問題は、私たちがこのように語られることを、信ずべきもの、真実なものとして受け入れるかどうかである。
第二に、聖書は法的概念で救いを語っていることであり、医療的な概念ではないことを良く理解することである。法的に、イエスの十字架の業によってあなたの罪は赦され聖なる者とされた、と宣言しているのであって医療的に完治した、というのではない。それは今の私たちの心の状態や変革が追い付いているかどうかの問題ではない。法的概念が医療的概念に先行するのである。まず宣言ありき。内実はこれから整えよ、ということだ。だからこそ、正しい者とされた者はいよいよ正しいことを行い、聖徒とされた者はいよいよ聖なる者とされなさい、ということなのだ(10-12節)」パウロも語っている。「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです」(ピリピ1:6)神は、私たちを法的な意味で救ってくださった。私たちを既に聖なる者、神の国に相応しい者と見てくださっており、さらに医療的な意味で、正真正銘神の御国に相応しい、聖なる者となれるように助け、導いてくださる。始められた救いの業の完成へと導いてくださる。信仰というのは実に前向きな発想だ。神が与えてくださる目標、聖なる者という目標を覚え、そこへ私たちの努力によらず、聖霊によって近づけてくださる神を信頼しつつ、歩むことである。天の御国にふさわしい生き方へと導かれることである。
キリスト教の大きな特徴の一つは、死後のことは予め自分で決めるということだ。仏教の土壌に育った、私たちはせいぜい、自分の墓地をどうするか、自分の墓石をどうするかを決めるのが生前の自分がすることだと考えている。死後のことはわからぬ、あるかもしれないし、ないかもしれない、わからないものを今から考えてもしょうがない、と現実主義的に考えている。しかし、聖書は人間にとって死が確実なように、死後のいのちも確実である、という。そしてその命の在り様を決めるのは、今、私たち自身の問題なのだ、という。素晴らしい新しい都へ向かっていることを覚えて歩むのか、それともそんなことはわからぬ、と否定して生きていくのか。それは、今、私たちが決めることである。
20節「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。信仰は、毎週日曜日の礼拝のことではない。毎日、真実に真心から神様に近づく、そういう時でなくてはならない。御国に近づいている者らしく内実を整えていただく、そのような関心と努力が必要だ。人は永遠に生きる者であることを覚えて、今日の一日を歩ませていただきたい。

ヨハネの黙示録21章

 1節「以前の天と、以前の地は過ぎ去る」ある。聖書は、やがてこの世のものがすべて過ぎ去ることを語る。多くの人は、この世はいつまでも続く、たとえ滅亡の危機があったとしても、人間の力でその危機は回避される、とハリウッド映画のように、と考えているのではないだろうか。しかし、そうではない。人類の歴史は終焉に向かっている。神がご計画に従ってこれを「終える」時が来るのだ、とはっきりと語る。神がご自身の主権によって世界を始め、世界を終えられるのだ。また、単純に終わるのではない。そこに色々な内容がある。ファイナルステージでは、イエス・キリストの再臨があり、復活があり、千年期があり、裁きがあると語る。そして、もう一つ大切なこと。それが「新しい天と新しい地」という教えである。
 歴史は終焉に向かっている。けれどもそれは悲惨な滅亡へ向かう終焉ではなく、終わることによって新しい始まりがある、希望の終焉である。ここが聖書の終末史観の最も大切な点である。聖書は終末を語り、恐怖を煽ろうとしているわけではない。むしろ、新しい始まりのためには、今の世は終わらなくてはならない。そしてその新しい始まりがいかに素晴らしいものであるかと語る。21、22章は、その新しきもの、新しい都エルサレムの特色を述べている。
 一つに、その新しい世界では、今の世の中では当たり前の悲しみ、叫び、苦しみがない。 なぜか。たとえば私たちは、至る所で、色々な生きにくさというか、人間関係の難しさを感じて生きている。それは、結局、自分中心に物事を考え、行動する罪の問題があるからだ。しかし、新しい都、エルサレムに入る人は、キリストの前に自分の罪を認め、悔い改めた人のみである。自分中心な者は一人もいない。だから素晴らしい。だから、もはや悲しみも叫びも、苦しみもない。8節。「おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、地獄である」とある。しかしこうして改めて考えてみると、新しい都エルサレムに入れる人など誰もいないように思えてくる。私たちに神の御国はとうてい相応しいとは思えない、と言う人は多いだろう。
 しかし、聖書が言う通りに、やはり、私たちはキリストにあって、そこに迎えられるのである。私たちには御国を受け継ぐ、何の働きも、功績もないとしても、キリストの十字架には、その力があるし、その恵みがある、というわけである。キリストの功績の故に、私たちは永遠の聖なる都、新しいエルサレムに迎えられるのだ。私たちは終焉を超えて、悲しみ、叫び、苦しみのない、素晴らしい祝福の場に向かっている。
16節から、その都の特色が語られている。一万二千スタディオン。一スタディオンが185メートルなので、計算すると2220キロメートル。大ざっぱにアフリカ大陸を底辺とした立方体。そんなサイズである。これは大変大きな都。東京も大都市であるが、アフリカ大陸を底辺とする面積の都市というのは、ちょっと想像できない大きさだ。しかし、重要なのは、「黙示文学」は、たとえ話であるのだから、そこは非常に大きな都という捉え方で十分だ。また城壁があることから、入れる人と入れない人がいるという理解で十分である。さらにその都は、様々な宝石で飾られている(18節)。これも、私たちが経験しえないことを、私たちの現在の経験から推しはかれるように語ろうとする試みである。大変素晴らしい場所という程度の理解でよい。このように全てがたとえで語られているのだが、天の都は、22節にあるように、神様を中心として、一日中皆が喜び、楽しむ場として描かれている。そこには夜がない(25節)。夜がないというのは、それほど、新しいいのちが充実していることを物語るのだろう。27節「すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。子羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。」イエスの救いを受け入れる、つまり、遜って、イエスの尊い犠牲による罪の赦しの恵みに与り、狭い道を歩み続けた者だけが辿り着ける場である。確かにこの救いの恵みに与る者とさせていただこう。

ヨハネの黙示録20章

1-6節の間に「千年」ということばが6回出てくる。これをどう理解すべきか、キリスト教神学に出て来る千年期の考え方は、この箇所のみで判断する以外にないものである。他の書には出来ないものだ。そこで三つないし四つの考え方がある。
一つは、キリストの地上生涯から再臨までの教会時代を指す、象徴的な表現である、とする考えである(無千年期説)。だから「第一の復活」(6節)は信者の新生経験を意味すると考える。しかしこの時代は、サタンが縛られ、キリストが支配する時代のはずであるが、世の現実は全くそうではない。
次に、これを修正した解釈として、千年は文字通り限られた時間ではなく、象徴的に捉え、そのようなキリストが支配する時期があり、その終わりにキリストの再臨があると考える(20:11)(千年期後再臨説)。つまり千年期は、キリストが地上で治める期間ではなくて、キリストの霊的な支配、神の国がだんだん浸透していく様を意味する。確かに、神の国はある意味でこの世の霊的な事実として始まっているが(マタイ12:28)、それは、未来に完成するものとして示されている(マタイ19:27)。
19世紀の終わりから20世紀初頭にかけて、こういう解釈をとる人は福音派の中にも多くいた。進化思想の影響や、教育が進み、様々な福祉が発展する社会変化から、人間や歴史の未来について楽観的に、あたかも千年王国と言えるような時代が来ると予感されたためである。しかし二度の悲惨な大戦を経験した20世紀後半はそういう楽観主義も急速に後退した。
そこで第三に、千年期を象徴的にではなくて、文字通りにとる考え方がある(千年期前再臨説)。千年期は20章に記された順番で展開されていくと考え、千年期の前にキリストの再臨があると解釈する。ジョージ・ラッドの『神の国の福音』はこの考え方をよく説明するものである(古典的千年期前再臨説)。千年王国はキリストが地上で支配される、キリストの王国であって、ダビデの王国の回復や実現ではない。つまり、ユダヤ民族を神の救いの計画の目的としてではなく、手段として考える。救いの計画そのものは、全人類を対象にしており、その達成の手段としてユダヤ民族が選ばれ、特定の役割を果たしたと考えるわけである。これが完成した時に、永遠の新しい天と新しい地が始まると考える。戦後福音派が影響されたのは、この千年期前再臨説であるが、こうした古典的・歴史的千年期前再臨説ではなく、第四のディスペンセーション主義に立つ千年期前再臨説(ディスペンセーション主義の千年期前再臨説)であると言った方がよい。ディスペンセーションというのは、世代や区分を意味することばであるが聖書全体の歴史を七つの聖約期として整理して理解し、千年期を最後の七番目の王国の聖約期であるとする。そして、その王国は、旧約に預言されたユダヤ人のためのダビデの地上の王国であると理解する。あくまでもユダヤ人のための千年期であると解釈する。つまりユダヤ民族を神の救いの計画の目的と考えるのである。極端な字義主義的解釈をする立場である。
無千年期や千年期後再臨と考える改革派系統の人は、世の中はだんだんよくなると考えるので、社会実践に積極的になる。多くのミッションスクールやキリスト教病院を立て、キリスト教化を真剣に考え、宣教を強く動機づけられる。一方千年期前再臨(ディスペンセーション主義)と考え人はこの世の改革に悲観的な発想をする。人がどんなにあがこうと、この世は悪の頂点に向かっている、とひたすら望みを次の世に置くからである。それに対して、ラッド(古典的千年期前再臨説)は、福音の進展も、現実の問題として悪の力の増大も認め、キリスト者は現実的な対応をとらなくてはいけない、という考え方を持つ。
 自由主義者は、ほとんど千年期後再臨説で、千年期そのものについても象徴的にとらえる傾向がある。逆に福音派の人々は、これを文字通りにとらえ、患難期をどこに位置付けるかという細かな議論に立ち入り、行き過ぎた議論があった。どの立場に立つかは個人の確信ではあるが、現実の世に対するキリスト者としての立ち位置を決める重要なものである。
さて12、13節、当時、地上で死んだ人については、死後、皆「黄泉」に下ると考えられていたが、海で死んだ人がどうなるかについては、全くわからないことであった。ところが海の深みがもはや神秘ではなくなるという。これは、歴史の隙間に消え去って、わからなくなったと思われる人が、終末においては神に覚えられていて、その人もまた行いに応じて裁かれることを語っている。これは誠実に人生を歩みながら、様々な矛盾の中で苦しみ、社会の狭間に落ち込んで消滅しそうな心境にある人々には、恵みのことばだろう。逆に、行いが正しくない人にとっては、裁きのことばである。なお、聖書的な意味での死というのは神との断絶を意味する(14節)。永遠の死は、永遠に神から引き離されることであり、永遠のいのちは、永遠に神と共にあることなのだ。そしてその死も、ハデスとともに、滅ぼされる、という。もはや、あの世において死を見ることはない。すべては過ぎ去った、と21章の希望の章につながれていく。

ヨハネの黙示録19章

黙示録は、神の厳しい裁きを語りながら、その合間合間に、正しい者の前途にある望みについて語り掛けてくる。19章は、大バビロンに対する裁きが語られた後の、子羊の勝利を語るものである。2節、原文では、「ホティ」なぜなら、という言葉がある。それは理由を示す接続詞で、19章を受け、神のさばきが真実で正しいから、大淫婦が裁かれたから、と続き、天上の神礼拝の光景が続く。万物の支配者である神が王として崇められている。
7節からは婚姻のイメージである。まさに、パウロが、「しみや、しわや、そのような者の何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を立たせる」(エペソ5:27)と言ったキリストと教会の婚姻が実現するところである。
 11節からは王と天の軍勢による勝利。12節「多くの王冠」は、ギリシャ語でディアディマ、勝利の冠ではなく、王の冠を意味する。いわゆる主権が神にあることを示している。「名が書かれていた」つまり名前をつけることも支配権を意味している(創世記2:19)。13節、「 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。」ヨハネの福音書でも、イエスは神のことばと表現されている(1:1)。また、イエスご自身裁きのために来たと語る(9:39)。御子は神のことばであり、鋭い両刃の剣によって人々を統治されるお方であり、同時にまた神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる、いわゆる裁きの執行者である。
 17節、「中天を飛ぶ」は、共同訳では、「空高くを飛んでいる」となっている。すべてを見通すことができる、ということ。その鳥に命じられることは、徹底した殺戮である。先にハルマゲドンへの言及があった(16:16)。そこで起こる戦闘の記録がこの箇所なのだろう。ただ詳しい説明はない。大事なポイントは、神の力によって悪の勢力が一掃される、と繰り返し述べられていることである。
黙示録は、人類がまだ経験していないことを書いている。いわゆる人類の歴史が終わった後の事まで語っている。だから、現代人の知性では把握できないことが書かれている。となれば、わからないところはわからないままに受け止めておくだけでよい。私たちの理解を超えた何かがある、と押さえておくだけでよい。そして黙示録の記事には、それなりの読み方がある。第一に、黙示録の記事は、科学的な思考に慣れた現代人とは無縁の、紀元1世紀の著者の感覚で書かれている。そうした理解で読むことだ。第二に、ユダヤ的な背景を踏まえて書かれている。だから、当時の人々がどういう読み方をしたのか、どういう知識的な前提を持って読んだのかが押さえられなければ、想像たくましくこれを読み込み、カルト的な行動に出る危険性も生じる。そもそも旧約聖書を読まないキリスト者には注意が必要だろう。聖書通読の重要性は、こういうところにある。第三に、たとえ話は、全体を通じて、一つのメッセージを掴むことが大切だ。黙示文学も同じで、一つの絵画的なイメージで何が伝えられているのかを掴むべきで、いちいち細かい部分までわからなくてもよい。だから24人の長老は何か、四つの生き物は何か、第一の生き物はどういうものか、そういうことは特定できなくてもよい。むしろ、これらの象徴で描かれた一つの劇画的なイメージで何が伝えられているかをしっかり理解することだ。19章では、ローマ帝国の迫害(6-16章)とその享楽の誘惑(17,18章)において、信仰的に戦い、耐え抜いたクリスチャンが、地上の生涯を終えて天に迎えられ、四つの生き物や長老たち、そして御使いたちとともに勝利の歓声をあげているイメージを掴むことだ。白い馬にのり、「神のことば」(13節)と呼ばれ「王の、主の主」(16節)とされたイエスご自身が完全な勝利をおさめたイメージを掴むことだ。つまり19章は、一つの結論を述べている。これらは神の真実なことばである、と(9節)。やがて来る戦勝の喜びを思う一日とさせていただこう。

ヨハネの黙示録18章

御使いが登場するたびに、一種の場面転換がある。ここからまた新しい場面に入ると考えてよい(1節)。バビロンに対する裁きがくだされた(2節)。「倒れた。大バビロンは倒れた」と。聖書ではしばしば偶像礼拝が姦淫の罪にたとえられる。神の選びの民である教会は、キリストの花嫁。それ以外のものを拝むことは姦淫の罪であると。神の定められた正しい結婚関係は相互の責任を伴う。しかし、不品行、姦淫は、相互の責任を負わず、単なる快楽の追求を求めていく。そのようなことに巻き込まれないように、距離を置きなさいとヨハネは言う(4節)。 
アメリカニズム的キリスト教、あるいは繁栄の神学という用語がある。つまり、アメリカには、独特のサクセスストーリーの文化があり、目に見える豊かさに価値を見いだし、そこを中心にして生きる考え方がある。それは、アメリカのキリスト教信仰の中に浸透しているものである。あるいは、繁栄が、キリスト教信仰に不可欠であるとする考え方があり、それらが、日本のキリスト者にも影響を与えている。けれども、それは、よく考えてみれば、世俗的な新興宗教が語るものと何も変わらない。そのようなことのために、何もキリスト教を信じるまでもない。
 聖書はもっと違った価値観を教えている。そのような物質主義的な生活の結末は、逆に滅びであると明確に語っている。先の17章で、ヨハネは、大淫婦が聖徒たちの血とイエスの証人たちの血によっているのを見て非常に驚いた、と語っている(17:6)。そんなヨハネに、御使いは、「いのちの書に名が書き記されていない者たちは、驚くだろう」(17:8)と語りかけている。永遠の視野からすれば、そんなことは驚くことではない。世の中の終末的な出来事として当然起こってくることだ、しかし、キリスト者は、そのような地上の出来事に心を奪われていてはいけない。目を覚まして、私たちがどこに向かっているかにより注意を注ぐべきなのである。だからパウロは、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根である(1テモテ6:10)」と、また「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です(6:6)」と語っている。あるもので事足りるとする生き方、なければないなりに感謝しつつ生き、必要以上のものが与えられたならば、神のみこころに従って用いるように生きていくべきである。より大切なことは、神の御前に立つ備えをいよいよしっかり行うことである。
この世の中では、成功を求め、富を求め、繁栄を求めるところがあっても、キリスト者は、そのような生き方にとらわれていてはいけない。物欲にとらわれない生き方、もっと人間として成熟した生き方を志せることだ。
これは今もイエス・キリストを救い主とする者にとって大切な教えである。あるものからは悪影響を受けないために分離する、離れることが必要。実際、私たちは値をもって買い取られた者であり、身をもって主人である神の栄光を現すように生きる者である。だからもう古い姦淫の人生からは決別すべきなのだ。
12節の商品のリストについて多くの注解者は、生活必需品ではない贅沢品であるという。つまりこれらのどれがなくても十分幸せに生きていけるものだ。「奴隷、また人のいのち」とあるが、ローマ帝国の繁栄は奴隷制度によって支えられている。当時ローマ帝国全体に6000万人の奴隷がいたとされる。しかしそれだけの奴隷を動かしたということは奴隷売買によって巨大な富を得たということ。奴隷商人はそれほど古い話ではない。現代でも形は違うがある話ではないか。普通に生活しているとあまりそういう感覚はないが、不法滞在の背景にそういう人身売買があるとも聞く。奴隷や人のいのちが商品化されているそのような現実がある。
ともあれ、こうしたあらゆる矛盾と腐敗を含む、大バビロンが、徹底的に裁かれるのである(16節)。「聞かれることはない」ということばが繰り返される。それは、生活音が消失してしまうほどに無に帰す徹底した滅びである(22節)。ローマは結局、繁栄の頂点にあったときに、贅沢のために滅んでいった。今も先進国と言われる国々が同じような生き方に倣っている。徳川幕府が倒れた原因の一つに、それまで権力と富を握っていた武士階級から富が、商人に移っていったことにある、と言われる。武士が没落し、お金を握った商人が地上の権力者になっていき、幕府が倒れていく。それとよく似ている。現代は、世界人口の20%の人々が世界の資源の80%を消費していると言われる。どれだけ少数の金持ちが自分のためにだけお金を使っているか、ということであるが、神はそうした自己目的を追求する富を見過ごされることはない、富に堕落し、奢る者は裁かれるのである。確かなことは、地上の富はやがて消え去る。消え去る世の富と享楽に心を奪われ命を落としつつあるキリスト者に対する警告がある。18章は、17章の結論として読むべきところだろう。それは淫婦に貢ぐ生活だ、大事なものを見極めよ、と言う。