レビ記27章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
レビ記が最後の章は、非常に現実的なことを語っています。神にささげると誓ったものについて代償行為が認められる場合、どのように値積もりするか、そして収入の十分の一をささげて、主の働きを維持するようにも教えられています。信仰は、夢の中に生きることではありません。現実的に私たちの教会が動いていく、そんな信仰の歩みを持ちたいものです。今日も皆さんの上に主の平安があるように。

 レビ記の最後となる。義務的な規定が述べられてきた後の最後の結びは、非義務的、自発的な奉献物と十分の一の捧げ物について教える。奉献物は、人(1-8節)、家畜(9-13、26-29節)、所有物(家、畑)(14-25節)、地の産物(30-34節)であるが、この章の鍵となることばは、「評価」であろう。
1.人の評価(27:1-8)
まず神に、しもべとして聖所に仕える、いわば主に身を献げる、と誓った時には、一定額の「銀」の支払によってその行為を代償することができた。その評価額は、身分や階級によらず、年齢と性別に基づく能力による。だから、最も価値があるのは、20歳から60歳の男性で50シェケルである。幼い男子は5シェケル、女子は3シェケルであった。また60歳を超えると男性は15シェケル、女性は10シェケルとなった。また人が貧しく、50シェケルに評価されても、それを支払う能力がない場合には、祭司に評価を調整してもらうことができた。こうした値積りの意図は、過度の熱心さと非現実的な誓いとを思いとどまらせることである。神に対して自発的に誓いをたてた者は、それを実行することが望まれたのである。
ところでイエスは、銀30シェケルで値積りされている。イエスは女性の値段で売られた。それは、貧しさの故に、評価を調整されたのかもしれないし、あるいは侮蔑的に低く評価されたのかもしれない。
2.家畜の評価(27:9-13)
 次に家畜(9-13節)。すでに神のものとされているものは、神にささげることができない。たとえば家畜の初子(26節)、主のために絶滅すべき聖絶のもの(28節)がそうである。そしてささげられるもの、いわば主に聖別するものについては、他のもので代用することができない。ことに良いものと悪いものを区別し、悪いものをささげることもできない。
3.家屋と土地の評価(27:14-29)
最後に、財産つまり家屋と土地を神にささげると言って、自分のものとして取り戻したい場合には、その評価と同等のものにプラス五分の一の評価額を加えてささげる、とされる。
ここで教えられている大事な点は、ささげると誓った後に、思い直して代用のものをささげたり、ささげなかったりするようなことがあってはならない、ことだろう。箴言には「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかえっている人だ。(25:26)」とされるし、伝道者の書には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは誓わないほうがよい」(5:4,5)とも語られている。
神は人格的なお方であり、軽んじられてはならないのである。神にささげると語った以上はささげる。そして自分自身と財産をささげる時に陥りやすい冒涜行為を避けるための心得がある、というわけだ。その基本は、代用であったり悪いものであったりしてはいけない、ということである。人間の良心が問われるところである。教会においてささげる時も、やはりこの部分が問われている。代用のもの、二の次のもの、悪いもの、つまり物惜しみしながら贈り物とするような人というのは、そういう品格の人とみなされるように、目に見えない神に対して、その点がしっかり出来ている人は、信頼に価する人なのである。
(4)十分の一の買い戻し(27:30-34)
30節以降は、十分の一についての定めであり十分の一献金の根拠とされる。収入の十分の一は、主の聖なるもの、ささげられるべきものであるという。やはり、十分の一をささげられるかどうかは、神を認識し、神を信頼する信仰のバロメーターなのだろう。どこかで全てを自分のものとする心に歯止めを持たなくては、人間というのは、神にささげきった歩みをすることができない。ただし、十分の一をささげていればよい、というのでもない。大切なのは、個人の動機、神に対する愛と人に対する愛が問われることである。基本的にこうしたささげ物というのは、土地なき、つまり収入の手段なき祭司やレビ人などの働き人を支えたり、神殿を維持したりするために用いられた。現実的なことを言えば、やはり、教会に行けてよかった、教会の交わりは楽しい、教会で助けられていると思うのはよいが、そのような主の働きを成り立たせている牧師の働きを正当に評価し、それ以外の収入の手段のない牧師をしっかり支えていくことは、キリスト者になったらまず初めに心得とし、意識的に行動しなければならないところだろう。こうしたキリスト者として当たり前に持つべき意識の弱さが、結果、教会の力の弱さになるのである。
以上、神の民として教えられ、理解し、実行しなくてはならないことが多くある。それらは義務のように思われるところもあるかもしれないが、基本的に神の民として生きることは、神のみ教えに積極的に喜びをもって応答して生きることに他ならない。神の愛に応答して生きる、それが律法を守る基本であることを覚えたいものである。