レビ記27章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
レビ記が最後の章は、非常に現実的なことを語っています。神にささげると誓ったものについて代償行為が認められる場合、どのように値積もりするか、そして収入の十分の一をささげて、主の働きを維持するようにも教えられています。信仰は、夢の中に生きることではありません。現実的に私たちの教会が動いていく、そんな信仰の歩みを持ちたいものです。今日も皆さんの上に主の平安があるように。

 レビ記の最後となる。義務的な規定が述べられてきた後の最後の結びは、非義務的、自発的な奉献物と十分の一の捧げ物について教える。奉献物は、人(1-8節)、家畜(9-13、26-29節)、所有物(家、畑)(14-25節)、地の産物(30-34節)であるが、この章の鍵となることばは、「評価」であろう。
1.人の評価(27:1-8)
まず神に、しもべとして聖所に仕える、いわば主に身を献げる、と誓った時には、一定額の「銀」の支払によってその行為を代償することができた。その評価額は、身分や階級によらず、年齢と性別に基づく能力による。だから、最も価値があるのは、20歳から60歳の男性で50シェケルである。幼い男子は5シェケル、女子は3シェケルであった。また60歳を超えると男性は15シェケル、女性は10シェケルとなった。また人が貧しく、50シェケルに評価されても、それを支払う能力がない場合には、祭司に評価を調整してもらうことができた。こうした値積りの意図は、過度の熱心さと非現実的な誓いとを思いとどまらせることである。神に対して自発的に誓いをたてた者は、それを実行することが望まれたのである。
ところでイエスは、銀30シェケルで値積りされている。イエスは女性の値段で売られた。それは、貧しさの故に、評価を調整されたのかもしれないし、あるいは侮蔑的に低く評価されたのかもしれない。
2.家畜の評価(27:9-13)
 次に家畜(9-13節)。すでに神のものとされているものは、神にささげることができない。たとえば家畜の初子(26節)、主のために絶滅すべき聖絶のもの(28節)がそうである。そしてささげられるもの、いわば主に聖別するものについては、他のもので代用することができない。ことに良いものと悪いものを区別し、悪いものをささげることもできない。
3.家屋と土地の評価(27:14-29)
最後に、財産つまり家屋と土地を神にささげると言って、自分のものとして取り戻したい場合には、その評価と同等のものにプラス五分の一の評価額を加えてささげる、とされる。
ここで教えられている大事な点は、ささげると誓った後に、思い直して代用のものをささげたり、ささげなかったりするようなことがあってはならない、ことだろう。箴言には「軽々しく、聖なるささげ物をすると言い、誓願を立てて後に、それを考え直す者は、わなにかかえっている人だ。(25:26)」とされるし、伝道者の書には「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓って果たさないよりは誓わないほうがよい」(5:4,5)とも語られている。
神は人格的なお方であり、軽んじられてはならないのである。神にささげると語った以上はささげる。そして自分自身と財産をささげる時に陥りやすい冒涜行為を避けるための心得がある、というわけだ。その基本は、代用であったり悪いものであったりしてはいけない、ということである。人間の良心が問われるところである。教会においてささげる時も、やはりこの部分が問われている。代用のもの、二の次のもの、悪いもの、つまり物惜しみしながら贈り物とするような人というのは、そういう品格の人とみなされるように、目に見えない神に対して、その点がしっかり出来ている人は、信頼に価する人なのである。
(4)十分の一の買い戻し(27:30-34)
30節以降は、十分の一についての定めであり十分の一献金の根拠とされる。収入の十分の一は、主の聖なるもの、ささげられるべきものであるという。やはり、十分の一をささげられるかどうかは、神を認識し、神を信頼する信仰のバロメーターなのだろう。どこかで全てを自分のものとする心に歯止めを持たなくては、人間というのは、神にささげきった歩みをすることができない。ただし、十分の一をささげていればよい、というのでもない。大切なのは、個人の動機、神に対する愛と人に対する愛が問われることである。基本的にこうしたささげ物というのは、土地なき、つまり収入の手段なき祭司やレビ人などの働き人を支えたり、神殿を維持したりするために用いられた。現実的なことを言えば、やはり、教会に行けてよかった、教会の交わりは楽しい、教会で助けられていると思うのはよいが、そのような主の働きを成り立たせている牧師の働きを正当に評価し、それ以外の収入の手段のない牧師をしっかり支えていくことは、キリスト者になったらまず初めに心得とし、意識的に行動しなければならないところだろう。こうしたキリスト者として当たり前に持つべき意識の弱さが、結果、教会の力の弱さになるのである。
以上、神の民として教えられ、理解し、実行しなくてはならないことが多くある。それらは義務のように思われるところもあるかもしれないが、基本的に神の民として生きることは、神のみ教えに積極的に喜びをもって応答して生きることに他ならない。神の愛に応答して生きる、それが律法を守る基本であることを覚えたいものである。

レビ記26章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
いよいよ、最後の締めくくりとなる26,27章に入ります。古代近東の契約の形式に沿って、契約を守る時の祝福と破る時の罰が語られます。しかし、古代近東のそれとの根本的な違いは、神の深い愛が語られているところでしょう。たとえ、私たちが契約を破り罰を受ける事態になっても、見捨てられることはありません。神は私たちを回復されるのです。今日も皆さんの上に主の平安があるように。

1.カナン占領に関する定め(27,28章)
レビ記も残すところ後2章である。この26、27章は、カナンの土地に関する定めとなっている。これから定住するカナンの土地は、主のものであったが、その所有権は、契約に基づいてイスラエルに属するものであった。だから主の御心に沿ってその地を管理し耕さなくてはならなかった。26章は、そういう意味で、神に従順であることがイスラエルの祝福と繁栄の基本であることが語られる。また、27章は、その祝福に与った神の民がささげ物をもって、応答すべきことが語られている。
1) 神に従わない罰(26章)
(1)祝福(26:1-13)
 シナイ契約は、古代ヒッタイトの宗主・隷属者契約とその構造が良く似ている。つまり、規定を遵守する者に対する祝福とそうでないものに対するのろいで締めくくられる構造がある。古代ヒッタイトのそれは、神々の名で述べられた脅しのことばなのだが、この26章は脅しというよりは、神のお墨付きを与えるようなものである。
 神は、ご自身を恐れ、従う者を祝福される(1,2節)。偶像礼拝を避けよ、安息日を守れ、主を恐れよ、そうすれば、地は産物を出し(4節)、満ち足りるほどにパンが与えられ(5節)、安らかに住み、平和が与えられ(6節)、悩まされずに、悪い獣や剣からも守られ、敵は追い散らされる(7節)、という。イスラエルをエジプトから解放すると約束された主は、確かにその言葉を守られた。同じように、今の私たちに対しても神は、契約を結び(9節)、その契約を確実に守られる。永久に変わることのない主の契約は、私たちにも有効なのであり、主はいつもともにいてくださる(12節)。
2)罰(26:14-39)
 一方で、もし聞き従わず、契約を破るのならば(14,15節)、神は、恐怖を臨ませ(16節)、私たちは敵に打ち負かされ、踏みつけられ(17節)、地は産物を生み出すことがなく(19節)、私たちの努力も実を結ばない(20節)。野の獣に荒らされ(27節)、疫病がくだされ(25節)、神が敵対し(24,27節)、祈りが聞かれることもない(31節)。「追いかける者もいないのに倒れる」とは、自滅の道を辿るということだろう。
 神の契約は、祝福と懲らしめの双方を含む。神がご自身に逆らう者、神の戒めを破る者と祝福を分かち合うことはない。神を侮辱しつつ、神の祝福を得られ続けることはない。私たちは神に従うべきであり、神に懲らしめられる者であってはならないのだろう。
(3)悔い改めの報い(26:40-46)
ただ大切なのは、神はいつまでも懲らしめられ続けるお方ではないことだ。神は懲らしめを与えられるが、いつでも悔い改めによる回復を望んでおられる。人が苦しみを通して心がへりくだるならば(41節)、神は再び契約を思い起こすとされる(42節)。神は敵対されるが、見捨てられることはしない(44節)。神は罪人が死に滅ぶことを望まれるのではなく、悔い改めて生きることを願われる(ルカ15:7)。ご自分がエジプトから連れ出した民を、永遠に葬りされることはない(45節)。「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」(ヘブル12:5,6節)とあるように、神は、祝福に導こうとして、私たちを懲らしめる。
しかし私たちの罪の心は、神に逆らい、神の懲らしめを敵意と感じてしまう。神がどこまでも善であることを信じることができずにいる。私たちは、ひどく失われた心を持っている。そこでまず、神に偽りはないことを覚えるべきなのだろう。神が私たちを見捨てることは決してない。私たちは人が自分に敵対する時に、その人が去っていくことを予測する。敵対する者がいつまでも側にいることはない。それが人間の常識である。しかし、神はそうではない。神は敵対されるが、決して立ち去られることはない。イエス・キリストの十字架が象徴するのも、そういうことだろう。神はただ単にパフォーマンスで私たちに十字架の愛を示されたわけではない。神は、私たちに、ご自身の血を流し、肉を裂き、回復を約束し、これを永遠の契約とされた。いつでも私たちは十字架に立ち戻らねばならない。十字架に私たちのすべての罪の赦しがあり、十字架に、私たちの回復の出発点があるからだ。
 もし、神にのろわれていると思うことがあるならば、十字架に立ち戻らねばならない。十字架を神に差し出し、私たちは、神に逆らう者、罪人であることを認めながら、悔い改める者に契約が有効となることを訴えなくてはならない。主よ、あなたはへりくだる者に哀れみ深い方である、とキリストとともに訴え、完全なる罪からの回復と人生の回復を要求しなくてはならない。
 神は祝福の神である。従う者の神である。神は回復の神である。悔い改める者の神である。弱き者ではあっても、神の契約にしっかりと立って、神の恵みとあわれみの中に、祝福の歩みを歩ませていただこう。

レビ記25章

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。
今日はヨベルの年について、それは、安息と土地の返却と奴隷の解放という三つの要素を持つ、イスラエルが、彼らの人生の祝福は、出エジプトがそうであったように、主の憐れみと恵みにかかっていることを思い起こす、大切な年として定められたものです。原則は私たちにとっても同じことでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ヨベルの年
 聖書には七の生活リズムがある。一週間毎の安息日に加えて、七ヶ月目の贖罪の日、そして七年毎の安息日というように。イスラエル人は、六年間農耕し、七年目には完全に休耕するように命じられた。その休耕の年が安息年である。この年、貧しい者はその土地に自然に生えたものを自由に食べてもよく、イスラエルの奴隷は解放され、負債はすべて取り消された。それは、土地が人のものではなく、「神のもの」であることを教えるためであった。
 安息年を七度重ねた49年目の翌年、つまり50年目はヨベルの年と呼ばれた。ヨベルは「雄羊の角」という意味で、この年の第七月の10日に角笛を鳴り響かせるところからその名がつけられた。そしてその本質的な意味は、かつて神の民がエジプトにおいて束縛されていたこと、抑圧的体制の犠牲者であったが、神の奇跡的な力と助けによって解放され、出エジプトをしたことを思い出すためであった。彼らは神によって自由な者となり、神の恵みの中に置かれ、神との契約関係によって神の民とされ、他国の者とは区別された、いわゆる彼らが犠牲となった周辺諸国の物質主義には屈しない生き方へと入れられたのである。だから五十年に一度の、神によって定められた時によって、すべて束縛されたものを解放することによって、彼らは、人はパンのみによって生きるのではなく、神のあわれみをもって生きることを実践することを教えられたのであった。奴隷の解放、そして財産の処分、土地の休閑といった全ての行為はそういう目的を達成するものであり、彼らはこの期間を簡素な生活を営み、かつて荒野という環境の厳しさを生き延びた時に必要とされた肉体と精神との原則を思い起こさせられたのである。
(1)安息
この年に、まず畑を休ませなくてはならない。それは、農耕の視点からすれば土地に対する賢明な方策であり、人にとっては喜ばしい余暇であった。しかしながら、安息年を七度重ねた49年目も、畑を休ませなくてはならないから、ヨベルの年には2年連続の安息となる。この定めを聞いて、「何を食べたらよいのか」と不安に思う者に対して、神は、「六年目にあなたがたのために、わたしの祝福を命じ、三年分の収穫を生じさせる」(25:21)と約束していることに注意を払わなくてはならない。
 というのも、人の生活は、理屈で成り立つものではない。やはり神が私たちを守っておられる、支え導いておられる。だが人は往々にしてそういうことを忘れて自分で何とかして生きていると思いこんでいるものだ。
(2)土地の返却
しかし、土地は神のものであり、人はその借地人である。神がすべての源であり、私たちはそれを受けるだけである。私たちは神に機会を与えられているに過ぎない。だから安息を守る時間を惜しんで、仕事や勉学に精を出しても、その結果を出されるのは神であることを忘れてはいけない。イエスも、神の国とその義とを第一に求めるように教えられた(マタイ6:33)。神は祝福の神である。神を仰ぐことを忘れたクリスチャンに祝福はない。神が休みなさいと言われた時には素直に休み、すべてが神にかかっているかのように生きていくところに、祝福がある。安息はまさに、神を信頼する民を育てる意義を持つ。ただ、この土地の返却が実現しなかったことは、イザヤ(5:8)やアモス(2:6)ら、BC8世紀の預言者の宣告によってわかることである。
(3)奴隷の解放
 ヨベルの年は、束縛されている者を解放することを基本の思想とする。それは歴史的に、神の民がエジプトにおいて束縛され、抑圧されていたにも関わらず、神の奇跡的な介入によって解放されたことを思い起こさせる。だから、売却されていた土地も、自動的に売り主のもとに復帰する。負債は免除され、負債のために奴隷となっていたイスラエル人も解放される。この年、こうして奴隷も、財産も土地もすべて解放された。このために利益追求一辺倒の努力は、一時中断され、歯止めをかけられる。土地が返され、人が解放されることで、貧しい者はいつまでも金持ちに搾取されていることはなく、神のものは正しく分配されたのである。人も土地も神に属するものであって、人のものではない。人はすべてを正しく管理するように忠実な管理者として、所在させられていることを忘れてはいけない。
北米のフィラデルフィヤにあるインデペンデンス・ホールには、合衆国独立の時に鳴らした自由の鐘があるが、その鐘には、このレビ記25章10節からの引用「国中のすべての住民に解放を宣言する」が刻み込まれているという。種々の抑圧、不正に弱り果ててはならない。神は出エジプトならず、私たちの歴史において、正しい民を繰り返し解放されてきたからである。ヨベルの年は理想の教えではなく、私たちの現実に働き公儀を行われる神を覚える時である。
そしてこのヨベルに、私たちの未来の希望である真の安息も予表されている。ペテロは言う。「あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現されるように用意されている救いをいただくのです」(1ペテロ1:5)世の終わり、完全な安息の時が来ることを私たちは予告されている。この地上においては、罪が邪魔をし、ヨベルの年が守られることはないかもしれない。しかし、神の定めは永遠であり、神は、私たちを必ず休ませてくださる。必ず解放し、取り戻し、祝福してくださる。だから神の国と義を第一にし、神がすべての所有者であることを覚え、今日も機会に巡らせてくださる神に感謝し従わせていただこう。

レビ記24章

24章 御名を冒涜する罪と罰

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。「目には目を、歯には歯を」キリスト教信仰を持っていない人でも、よく口にすることばが、この箇所にあります。イエスはこの言葉を引用して、さらにその本来の意図がなんであるかを教えておられます。考え方をよく理解しておきたいところですね。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 24章は、祭司の聖所に関する三つの重要な働きが取り上げられる。
1.祭司の聖所に関する働き(24:1-12)
 第一に灯火をともし続けること(1-4節)。オリーブ油には燈火用、植物用、油注ぎ用の三種類があり、灯火用のものは、純粋なオリーブ油を絞ることによって得られた。その油を主の前に夕方から朝まで、つまり夜通し灯し続けるのである。聖書では、金の燭台は主なる神の臨在(ゼカ4:2、11)、教会(黙1:12-13)、忠実な証人(黙11:4)の象徴とされる。つまり、それは、キリストの救いを指し示す光である。キリスト教ラジオ番組の「世の光」放送は、その昔「暗き世の光」としてスタートしたという。まさに万人祭司と言われる今日においては、キリスト者すべてに、神の臨在とキリストの救いの光を証し続けることが求められている。
 第二に、パンを供えること(5-9節)。安息日毎に、12個の輪型のパンを焼く。そのパンは非常に薄く、厚さ約1.2センチ、指一本分の厚さで、長さは約70センチ、幅は約31センチと大きなものである。これが純金の机の上に置かれたという。机の大きさは、幅約90センチ、奥行約45センチであるから、おそらく、鏡餅のように6枚重ねて二列に置かれたのだろう。パンは毎安息日ごとに用意され、古いパンは、祭司の食用とされたが、祭司の家族が食することはできなかった。神が12部族を身体的、霊的に養われることの象徴とされた。さらに言えば、12部族が、神に代わって全世界を養うようになることの象徴である。
2.御名を冒涜する罪(24:10-23)
最後に御名の栄光を守ること(10-23節)。神の御名が冒涜された一つの出来事が取り上げられている。法規的な話が続く中で、唐突な感もしないではないが、一つ一つの戒めは、私たちの日常性に関わるものとして、理解すべき事例である。
人が神を冒涜した場合には、その罪を問われる。それはモーセの第三戒を侵すことであり、神をのろうことの償いは死とされる。それは、事前に計画された殺人行為に等しい罪とされた。つまり神を冒涜することは、意図的に人を殺すことと同様に極刑に値する罪と考えられたのである。神は象徴的な存在でも、便宜上の存在でもない。目には見えないが人格を持ち実在している。そのような神に対する冒涜は、神を否定することに等しい。イスラエルの民は、自分の子どもたちが神を恐れるように育てることを期待された。
 20節「目には目、歯には歯」いわゆる同害報復の教えとされるものである。報復は同じ程度のものでなければならない、という意味で一般には理解されている概念であるが、聖書がこの考え方で強調しているのは、報復行為において限度を超えてはいけないという点である。一時流行ったことばに「倍返し」というものがあった。人には、やられたらやり返すどころか、やられた以上にやり返す心があるものだ。報復はエスカレートするものである。しかしそのような心を持ってはいけない。報復する時には、限度を弁えなくてはならない、正しい裁きが優先されなければならない、と言っているのであって、やられたらちゃんとやり返しなさい、と私的報復を正当化しているわけではない。つまり、この教えは、報復に強調があるのではなく、罰を与えるにしても、そこに厳正で適正な正義がなければならない、ということを言っている。だから、後にイエスは、この教えを取り上げて、「目には目を、歯には歯を」と聞いているだろうが、「悪い者には手向かってはいけない。右の頬を打つ者には、左の頬も向けなさい」と語っているが(マタイ5:38-48)、それは、人間の本質を深く洞察する新しい提案である。つまり人間は争い易い罪の心を持っているのだから、人間に正義はありえない。人間は必要以上の報復を与えてしまうものだから、報復や罰を語っているところに適正な裁きはありえない。もし正義がありうるとしたら、報復を超えた愛に立つ以外にない、ということを言っている。人間は自分たちが自覚する以上に罪深い性質を持ったものである。謙虚にそのような性を覚え、神の愛に立つ歩みへが促されいるのであり、積極的な善を示すためには、そこには聖霊による新生の恵みが必要なのである。
 大切なのは、これが、神の裁きを語る文脈の中で語られていることだ。イスラエルの民は、シェロミテの息子が神を冒涜する事件のために、主の命令を待ったとされる。モーセではない。主の裁きを待った。そういう流れの中で神は、誰が見ても納得するふさわしい刑罰をくだされた。だからシェロミテの息子が侵した罪は、ただ単に口先だけのことではなく、神を否定したのである。彼の罪は神の前で、神に対してなされた、ということである。その罪に対して神は正しい裁きをなされた。神の前にあることを意識して、神と共に歩む人生がある。聖書を読み、聖書に従って生きるというのは、そういうことではないか。ともすると神なき、世俗の中に自分を置きやすい私たちの罪深さを覚えたいものである。

レビ記23章

23章 主の例祭

<要約>
皆さんおはようございます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。本日の箇所は、ユダヤ人の祭りが定められているところです。今もこの祭りは祝われており、キリスト者は、その本質的な意味を十字架のキリストにある救いと結び合わせて、別の形で守るようになっています。主の晩餐やペンテコステがそうです。その意味をよく理解しておきたいところです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

 「主の祭り」「主の例祭」と呼ばれるイスラエルの祝祭日について。まず遵守すべき第一の行事として週ごとの安息日が取り上げられる。神が創造のみわざを休まれ、これを聖なる日とされたことに倣うものである(創世2:3)。その日は、全ての仕事をやめ、全ての祝福の源である神を仰ぎ、神と共に休み、神を礼拝することを喜ぶ特別な日であった。安息日は、汚してはならないもの(民数15:32-36)、どの時代も尊崇されるものとして守られた(イザヤ56:2,4、エレミヤ17:21-27、エゼキエル20:14-24、ネヘミヤ10:31、13:15-22)。後の時代、安息日は、単に会堂で礼拝がなされる時としてではなく、律法が朗読され研究される時となり、さらに律法学者によって詳細多岐にわたる安息日遵守の規定が定められ、それが守られるようになった。キリスト者は、「週の初めの日」を安息日に代え、キリストの復活を記念し、その教えと交わりに与る特別な日として守るようになった。日曜礼拝は、キリストの復活を覚え、復活の主とお会いする礼拝に期待をもって集まり、その時を喜ぶ特別な日なのである。
次に一年の行事が解説される。重要なのは、過越の祭り(5-14節)、五旬節(15-22節)、ラッパの祭り(23-25節)、贖罪の日(26-32節)、仮庵の祭り(33-44節)の五つとされ、過越の祭り(ペサハ)、五旬節(シャブオット)、仮庵の祭り(スコット)の三つは、国民的な三大祭として守られた(出エジプト23:14-16)、申命16:16)。この三大祭りは、それぞれ季節の変わり目にあたる。春を告げるペサハ、夏のシャブオット、秋のスコットというわけだ。またそれらは特別な安息、聖なる会合であり、礼拝と喜びに満ちた感謝をとささげるために、民が一緒に集う時とされた。なお、「過越の祭」は、「種を入れないパンの祭り」(出エジプト23:15、34:18)「初穂の祭り」とも呼ばれている(出エジプト34:22)。「五旬節」は、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」は「収穫祭」(出23:16)とも呼ばれる先に学んだ贖罪の日(16章)は、この仮庵の祭の前に守られる。
この他、私たちに馴染みのあるイスラエルの祭りは、プリムとハヌカがある。プリムは捕囚期、ハヌカは後の時代、ハシモン王朝の時代に定められたものである。
1.過ぎ越しの祭り(ペサハ)(23:5-14)
 さて、「過越の祭り」は春の第1月(カナン歴ではアビブ、バビロン歴ではニサンの月、太陽暦では4月)14日に始まり、これはイスラエルのエジプト脱出を記念する。この日の夕暮れ、イスラエルの民は過越の子羊をいけにえとしてささげた。それは、エジプト脱出前にエジプトの初子の命が取られたことを思い出すためであった。それに続いて、パン種を入れずに作られるパンが一週間の食事とされた。パロの出国許可が下りた時に、急いで出発準備をしたことを覚えるためである。祭りの締めくくりとして、七日目の安息日の翌日に、イスラエルの民は、主にささげるための収穫の初穂の束を持参する。それは、収穫の始まりを意味した。
こうして過越の祭りは、ユダヤ人にとって、エジプトからの脱出を導いた神との契約関係にあることを心に刻む時となった。そして新約時代、キリスト者は、この過越の祭りの日に、イエスが神の子羊としてほふられ(1コリント15:20)、全人類の罪からの救いの業を開始され、イスラエルの民を救いの初穂とされたことを心に刻む時とした。そして同様の教育的・象徴的な役割を担うものとして、過ぎ越しの祭りに代わって主の晩餐を守るようになり、十字架の恵みによる救いと解放を喜ぶ時としている。
2.五旬節(シャブオット)(23:15-22)
 次に五旬節は、過越の奉献物の束を持ってきた日から数えて「七週目の安息日の翌日」と定められていた。つまりちょうど50日目に当たる(シワンの月、太陽暦の6月)。この行事が新約時代に「ペンテコステ」と呼ばれるようになったのは、50番目を意味するギリシヤ語の序数ペンテーコストスの女性形、ペンテーコステーによる。過越の祭りで初穂として奉献された大麦の束は、穀物の収穫の開始を意味し、五旬節の奉献物のそれは収穫の完了を意味した。だから、イスラエルの民は、この日、収穫における天の父からの豊かな賜物と恵みを感謝し、喜び祝う日としたのである。そして神の豊かさを覚えることによって、さらに貧しい者と外国人の必要を満たすべきことをこの祭りを通して学んだ(22節)。神は愛である。一方キリスト者にとっては、イエスの十字架と復活の出来事の完了、つまり、ちょうど主の復活の50日目に、イエスが約束された通りの聖霊が下ったことを記念する日である。ペンテコステ(使徒2章)は、救いを完成する聖霊のみ業を覚える時とされた。その本質的な意味として、天の父が、私たちに必要とされるものはすべて、とりわけ聖霊を豊かに与えられることを覚えるのである(ルカ11:13)。
3.ラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭り(23:23-44)
 最後に、ユダヤ歴では第七の月(チスリの月、太陽暦の10月)にラッパの祭り、贖罪の日、仮庵の祭りが守られる。ユダヤ人にとっては、七は完全数であるので、これが一年の始まりともされる。実際、捕囚期間後、この祭りは、事実上新年の祝いの祭りとなった。そして第1日のラッパの祭りは、続く贖罪の日と仮庵の祭りに備えて集合を呼びかける意味を持った。第10日の贖罪の日は、大祭司が全国民の贖罪のために至聖所に入り、贖罪を完了する。人々はこの最も厳かな日に備えて「自分を悩ます」ことをしなければならなかった。これは祭りというよりは、断食を意味していたようである。そして大祭司は、イスラエル人が旧年に犯してしまった偶発あるいは手抜かりに起因する罪のための贖いをした。これは新約時代において、イエスによって完全な贖罪として実行されたが、その完成は終末的なものとなっている。つまり、真の大祭司であるキリストは唯一の完全な犠牲の血を携えて天のまことの聖所にお入りになったが、ご自分の民の所に戻ってこられる(再臨)という約束はまだ成就していないからである(ヘブル9:24-28)。 第15-21日に守られる仮庵の祭りは、収穫の完了を意味する一年最後の会合であり、一年の内で最も喜ばしい時である。イスラエルがエジプトから脱出した時に、最初に停泊した地は、スコテと呼ばれ(出エジプト12:37)、スコテは、ヘブル語で「仮小屋」を意味する。ユダヤ人にはそのような歴史的な神の御業に与った出来事を記念する祭りであるが、今日のキリスト者には、罪から救い出されて、今はこの地上に仮住まいであることを覚える時と言うべきだろう。人間はいずれ皆死を迎える。それは、神が整えてくださった天の都に帰っていくことを意味する。今の地上は仮住まいなのであり、天の都の希望に生きていることを覚えるべきことを伝える。私たちは、この地上に生活しながらも、この地上のことのみで終わるわけではない。やがて来る、神の都に入る真の希望に生きるように召されている。神の望みといのちに生きる歩みをさせていただこう。