民数記36章

36章 相続地規定の例外(女性相続者の場合)
<要約>
皆さんおはようございます。民数記も終わりです。一書を読み終わりました。続けて通読を楽しみましょう。さて、今日は土地相続の例外、女性相続者の場合が、取り上げられています。その意義は、約束の地カナン攻略を前に、彼らはその土地を永遠に自分のものとして守らなければならなかったことを教えられていることです。神は約束を守られる、後は私たち
の応答である、ということです。主に応答する歩みを大事にしましょう。今日も、
主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.相続地規定の例外(女性相続人の場合)(36:1-13)
 すでにモーセは、27章で、人の相続地は、男性の相続者がいない場合、娘に与えられるようにと規定している(1-11節)。具体的に、ツェロフハデの娘たちの父は、自分の罪の故に、荒野で死に、その家族には息子がいなかった。そこで、家名を残すために、ツェロフハデの家では、娘たちが土地相続の権利を主張し、それを認められたのであった。しかし、この問題は、これで終わらなかった。というのもツェロフハデの娘たちが、他の部族の男性と結婚した場合、その土地は、他の部族のものとなり、神による土地の割り当てに乱れが生じてしまうからである。新たな問題が持ち上がり、神にその判断は委ねられた。そこでモーセが答えを取りついて言う。「彼女たちは、自分が良いと思う人に嫁いでよい。ただし、彼女たちの父の部族に属する氏族に嫁がなければならない。」(6節)。家名存続のためには、諦めなければならない部分もある、という常識的な判断である。
ただここでの強調は家名を残すこと、地境を移してはならないことにある。「イスラエルの子らは、それぞれその父祖の部族の相続地を堅く守らなければならない」(7節)。イスラエルには、ヨベルの年には、土地が元の所有者、つまり売主に返されるルールがあった(レビ25:23-25)。しかしそれは、結婚の結果移転された土地については適用されない。それは永遠に失われてしまうのだ。だから女性相続人の場合は、彼女の部族内での結婚に限定する、というルールが適用されることになる。
実際ツェロフハデの五人の娘たちは、主の命に従って、おじの息子たちに嫁いだ。彼女たちの受けた相続地は、彼女たちの父の氏族の部族に残ることになった。
2.女性相続者のルールが最後に語られることの意義
 民数記の最後に、土地の割り当てを行い、さらにツェロフハデの娘の例を上げながら地境を移してはならない、と命じられていることに注目すべきである。というのも、民数記の物語全体は、約束の地を目指す40年間の放浪の物語である。かつて神は、「わたしは、…カナンの全土を、あなたとあなたの後の子孫に永遠の所有として与える」(創世記17:8)とアブラハムに約束されたが、その神の約束は、40年かかったがついに果たされる、ということだ。神はイスラエルの民に、約束の相続地をついに永遠に与えられるところまで来たのである。
 もはや、イスラエルの民の応答が求められていた。神の約束が実るために、彼らは、後に続くヨシュア記の記録にあるように、ヨシュアと共に踏み出していくばかりだったのである。神の約束を手にしていく腹決めと前に進みだす一歩が求められていた。そこで、さらに聖書通読を押し進め、神のご計画が、イスラエルの歴史にどのように実現したのかを確認してみようではないか。
 また、この世の歩みを進める中で、私たちには神の賜物を放棄してしまいたくなるようなことが多々あるものだろう。霊的な賜物よりは、やはり、世俗性の誘惑の方が大きく、もともと私たちは世俗性の中にどっぷりと浸って生きて来たのだし、そのことで慢性中毒のような生活をしていたのであるから、神に新しい恵みを与えられるようなことがあっても、うっかりしていると、昔の生活の方がよかった、と恵みを恵みと思わぬようなこともある。しかしそこで、この後の、イスラエルの歴史を確認していくなら、やはり神が与えようとしている霊的な恵みを覚えて、それを得るように進む努力が大事にされなければならないことがわかる。神が与えようとしているものはあるし、それを得たなら最後まで守り抜くことが心を持つことである。著者は言う。「これらは、…主がモーセを通してイスラエル人に命じた命令と定めである」主が命じた命令と定めがある。今日も主の命に従うしもべであることを覚えて歩ませていただこう。

民数記35章

35章 レビ族に与えられた町、逃れの町の意義
<要約>
皆さんおはようございます。昨日に続き、土地分配の定めが記されますが、ここではレビに与えられた町と、その中に設けられた逃れの町について説明されるところです。大切なのは、その町の機能を語りながら、レビ族の役割が再確認されているところでしょう。彼らは祈りのとりなしのみならず、その死においても、主イエスの働きをあらかじめ語る存在であり、私たちの模範です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レビ族に与えられた町(35:1-8)
土地の境界が定められ、分配され(34章)、ここではレビ族の住む領地が規定される。レビ族は、神殿に仕える特別な使命を持ち、相続地を持つことを許されなかった(18:20、23-24)。そして生活は、他の部族によって支えられるようになっていた。一般信徒は、自分たちの生産物の十分の一をレビ人に与えるように教えられている(18:21-24)。しかしながら、レビ族は、実際上、住むための土地を必要としていたので、小さな町の城壁から東西南北に一千キュビトずつの、約二千キュビトの方形の土地が、信徒の善意によって提供されるように教えられた。イスラエルの民は、レビ人の働きと生活を、支えられるように教えられた。それは新約においても変わらない。神の民は、神の働きのために献身する者たちの生活を考えなくてはならない。
 ところで、レビ族に与えられた放牧地の広さは、理解しがたい。町の城壁から外側に「回り一千キュビト」とあるが(4節)、これは、素直に新改訳を読むと、町の城壁の外側から東、西、南、北に向かってそれぞれ一千キュビトの幅があり、町を真ん中にして東、西、南、北にそれぞれ二千キュビト(5節)、つまり二千キュビト四方の町を囲む総面積は四千キュビト四方の放牧地と理解される。これは町が相当小さくなければ、成り立ちえない計算である。ただ、当時の町は、それほど大きくなかったことは確かである。今日の日本のように、過密な住宅街が続くようなイメージではない。イスラエルには、小さなテル(集落の古址)が点在しており、そのような時代のお話である。なお、新共同訳は、単位に「アンマ」を使っているが、これは、ヘブル語のアマーの音訳で、新改訳のキュビトは、英語の音訳で口語訳を継承している。ギリシャ語七十人訳の音訳ならペーキュスとなるからである(ただし創世記6:15のアマーのギリシャ語訳はキュビト)。このあたりはどのように訳し分けているのか、よくわからない。ともあれ、キュビトは、おおよそ、肘を曲げた時の角から中指の先までの長さで44センチであるから、一千キュビトは約450メートルとなる。
2.逃れの町(35:9-34)
 続いて逃れの町について。聖書は殺人者を極刑に処するように規定しているが、過失致死の場合には、逃れの町が用意された。それは、レビ人に与えられる町の中に指定され、6節によれば、六つの町がある。
1)逃れの町に入ることの意義
神は、意図的な殺人と過失殺人を区別されている。意図的な殺人は、凶器の性質(鉄の器具で人を打つ、人を殺せるほどの石や木製の道具で人を打つ)や殺意のあるなし(憎しみ、悪意、敵意によって人を打つ)によって判断された。聖書は「殺人者は必ず殺されなければならない」と死刑を認める。しかし、誤って人を殺めてしまった人たちについては、自らの手で裁きを下そうと復讐心に燃えた家族から保護する仕組みが設けられた。過失殺人者は、近くの逃れの町に逃げ込んで、正当な審判を受けることが許された。ただ興味深い規定は、過失殺人者は大祭司が死ぬまで、その逃れの町に住んでいなければならなかった点である。大祭司が死ぬことにより、彼は自由を得るのであるが、それは大祭司の死により血を流した罪が贖われるという理解のためである。これはイエスの十字架の予表である。ヘブルの著者は言う。「前に置かれている望みを捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです」(ヘブル6:18)。神の前に罪人であることを覚え、逃れの町に逃れるならば、私たちは匿われる。しかしそればかりではない、大祭司イエスの十字架の死は、私たちを逃れの町の中にあって、永遠に自由な者として解放するのである。
神が意図的な殺人と過失殺人を区別されたように、私たちは意図的に罪を犯すばかりか無意識のうちに、それと知らずに罪を犯すことが多い。そして神と共に信仰の歩みを進めるにつれ、霊的な感性も研ぎ澄まされ、自分の罪深さを一層教えられることが多い。しかし、神はそのような私たちをわかった上で、キリストの十字架の死にあって私たちを受け入れ、私たちの罪を赦し、私たちを自由な者としてくださっている。
2)レビ部族の使命:贖い
なお、この逃れの町の趣旨は、神の宿るイスラエルの聖なる地を流血による汚れから守ることにある(34節)。血は、贖いの手段であり、罪人を清めるために用いられるものであるが、地を汚す逆効果をもたらすこともある。だから流血の罪が起こった時には、特別の注意を払わなくてはならなかった。本章はそういう意味で、ただレビ部族に逃れの町が割り当てられたということを言うのみならず、その血の贖い方を教えている。古代オリエントでは、殺人者への報復として死刑の代わりに身代金を支払って示談にすることが認められていたが、ここでは、金銭による示談は認められておらず(31-32節)、故意の殺人者は処刑されなければならないし、過失による殺人者は大祭司が死ぬまで逃れの町に幽閉されること(16-25節)、万が一その殺人者が逃れの町を出たならどうなるのか(26-28節)が規定されている。死は死をもって償わなければならない、だから故意の殺人の場合は、殺人者の処刑が、過失による殺人の場合、大祭司の死が、罪人の罪を贖うのである。こうして、レビ部族は、民を罪から守り、贖いをする使命において、中心的な役割を果たすのである。彼らの働きはとりなしの祈りのみならず、死においても、イエスの働きを予表するものであった。私たちの生のみならず死もまた主の生涯を映し出すものであることを願うこととしよう。

民数記34章

34章 イスラエルの領地
<要約>
皆さんおはようございます。約束の土地の境界と分配が明確に示されます。これから彼らが占領すべき目標がはっきりと示されるのです。これは、彼らにとって始まりでした。彼らは約束の土地を戦い取らなくてはならなかったのです。霊の目が開かれて、自分たちの霊的な目標が明確にされ、さらにその目標を達成できる霊的な力を求めて歩ませていただきたいものです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.約束の地カナンの境界線(34:1-15)
神がイスラエルに約束されたカナンの地の境界線が定められる。
(1)南の境界線(1-5)
死海から始まってツィンの荒野を通り、カデシュバルネアが南限となる。そしてアツモンを通り、海(地中海)に至る。要するに、イスラエルの地図を思い浮かべ、死海の南端から、西側の地中海に向かって、外に向かって張り出した緩い弧を描く形だ。
(2)西の境界線(6)
大海とその沿岸。つまり地中海沿岸が境界となる。
(3)北の境界(7-9)
大海(地中海)からレボ・ハマテ、ツェダデ、ジフロン、ハツァル・エナンにまで横に伸びている。それはちょうど今のレバノンを含み、シリアを横切っている。
(4)東の境界線(10-15)
ハツァル・エナンからそのまま南下し、サルカからシリア砂漠を通って、地中海に向かいガリラヤ湖に達する。東側の境界線はイメージしにくいかもしれないが、シリアの南端の境界に一致するような形である。つまり現在のイスラエル、レバノン、シリアの一部を包含し、ヨルダンは除外する地域が、神がイスラエルに約束されたカナンの地に当たると考えてよいだろう。ただし、33章で見たようにルベンとガド、マナセの半部族は、ヨルダン川東側の土地を相続することを申し出た経緯があるから、神が与えられた土地には、ヨルダンも包含されると考えてよい。なお13節以降は、この地を相続する者の族長たちの名前が記される。
ところでこの境界は、イスラエルの歴史のどの時代の実際の境界線とも一致していない。つまり、イスラエルは、神に約束された土地を完全に占領したことがなかったということである。神は私たちに約束されるが、私たちは、その約束を十分受け止めていない。「神はいつでも、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」であるが、私たちは、神もビジョンも小さく見てしまっている。
確かに、人生を振り返り、あの時もっとこうしていれば、ああしていればと思うことはあるものだろう。その時の器が小さかったというべきか、ある程度のことを経験しないと、本当に大事なもの、勇気をもって踏み出すべきものがわからないことがある。だからパウロが次のように祈るのは理由なきことではない。「あなた方の心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ1:17-19)私たちの目は開かれていない。神が与えられようとしているものの豊かさに関心を向けることができないでいる。だからクリスチャンになっても、得にはならないと思うこともあるだろう。私たちが、本当に神の祝福を受け継ぐには、目が開かれて、神が見るように、私たちも物事を見ることができることが大切だ。神が今日も私たちに豊かな識別の目と霊的な深い感性を与えてくださるように、私たちの受け継ぐべきものをはっきりと見させて、渇望させてくださるように、と願うところである。
2.土地の分配者の指定(34:16-29)
34章後半は、土地の分配である。すでにヨルダン川に土地を取得したルベンとガドを除き、全部で10部族の指導者たちの名があげられている。これらの名は、これまでのどのリストとも一致しない。ただ、カレブのみが、13章の斥候のリストに重複する。また、リストは、南のユダとシメオンから始まり、北のアシェルとナフタリで終わり、ほぼ、定住した順に記されている。「相続地を持たせるよう主が命じたのはこの人々である」(29節)と、主ご自身が分配者を直接任命された。この任命は、始まりに過ぎない。彼らはこれらを戦いによって勝ち取るのである。それぞれに信仰の戦いがある。主に霊的な目を開かせていただくと同時に、霊的な力を豊かに注いでいただくことを願うこととしよう。

民数記33章

33章 出エジプトの経過,総括
<要約>
皆さんおはようございます。40年の旅路が記録されています。それらは、今ではどこであるかなど特定できないことがほとんどですが、大切なのは、彼らが40年かかっても、神の約束に従って、約束の地に住み着くというその大いなる目的を果たしたということでしょう。あるいは神によって助けられ果たさせていただくことができた、ということでしょう。主に信頼しつつ、主の祝福の約束を受ける歩みをさせていただきたいものです。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

(1)40年に渡る旅の奇跡
 33章は、総括というべきであろうか、イスラエルがエジプトのラメセスを出てから、モアブの草原に到着するまでに宿営した40カ所の旅程が、記録されている。約40年に渡る旅の軌跡であり、それは、出エジプト12-17章と民数記10-21章の要約になっている。
これらの経路は、四つに区分される。つまり①ゴシェンから紅海まで、②紅海からシナイ山まで、③シナイ山からカデシュまで、④カデシュからモアブまでである。このうち、最初と最後の二つの区分はよいとして、その間の紅海からカデシュまでの旅程は実際にはよくわかっていない。それは古代の地名は、その場所に人々が定住し続けてこそ残るものであり、荒野の住民が遊牧民であったことから、聖書時代の地名がそのまま現代までに残るのは難しかったためである。実際地名は、社会的、政治的、宗教的理由によって変わりうるし、かつてとは違う場所に残っていく場合もある。
(2)ゴシェンから紅海まで(3-8節)
イスラエルはラメセス(ゴシェン)からスコテとエタム、つまり南東に向かって旅立った。そこから彼らは「向きを変え」ピ・ハヒロテの前で宿営した。彼らは荒野に向かって真っすぐ東へ進まず、南下したのである。こうして彼らは苦湖のほとりにやってきて、天来の助けによってその湖を渡った。おそらく、古代において苦湖は、直接紅海とつながっていたと考えられ、イスラエルが渡った「海の真ん中」は、紅海そのものではなく、紅海とつながっていた苦湖であったと思われる。
(3)紅海からシナイまで(8-15節)
 紅海を渡った後の経路については、シナイの所在を巡って複数説がある。伝統的にシナイ山は、シナイ半島の南、ジェベル・ムサに位置するとされてきた。しかし、出エジプト3:18などによると、そのシナイ山は、エジプトから三日の道のりであるとされること、漁獲に適した場所なのに、民の中に魚を食べたいという不平が起こったこと(民数11:5)など種々の理由から、他の場所を考えるのが適当であるとされてきた。つまり伝統的には、シナイ半島の先端に向かってスエズ湾に沿って南下し、ジェベル・ムサからアカバ湾に沿って北上してカデシュに到達する経路が考えられてきたのだが、実際には、南下や北上はなく、ジェベル・ムーサに代わるジェベル・シン・ビッシャーを通って、カデシュに向かってそのままシナイ半島を横断する経路がとられたのではないかと考えられている。
(4)シナイ山からカデシュまで(16-36節)
民数記10:33-13:25では、主の山からパランの荒野にあるカデシュまで、タブエラ、キブロテ・ハタアワ、ハツェロテの三つの滞在地しか記録されていないが、ここでは、22の滞在地が記録されている。またスタート地点と終着地点の場所を除いて、一致しているのは、キブロテ・ハタアワとハツェロテだけである。そこで、申命記1:19で「あの大きな恐ろしい荒野」と要約されるこの旅程は、実際には速やかに移動されて(約30日間)、本章にある多くの滞在地は12部族が放浪していた38年間に宿営した場所と考えのがよい、という説もある。
(4)カデシュからモアブまで(37-49節)
カデシュの後の最初の宿営地はホル山で、古い伝承によればペトラの近くのジェベル・ハルンとされてきた。しかし実際には、その山は、カデシュに近く、そのまま真東に進んだ経路も考えられている。
ともあれ、40年の旅程は示されているが、それが現在のどの地点に相当するのかは、わかっていないし、実際に彼らがどこで紅海を渡り、どこで律法を受け、どこでマナを食べたのかも正確にはわからない。ただ、それらを考え、特定することは私たちの信仰にとって、本質的な問題ではない。ここで私たちが理解すべきことは、本来ならば2週間で移動可能な場所を40年かかった、ということであり、40年はかかったが、やり遂げたということだろう。。
そういう意味では、私たちの人生にも本来は3年で完成するはずのものが、30年かかってしまう、そんな現実がある。何もかも整っているわけではなく、手探りで物事を進めなくてはならない、ということがあったりするものだし、そのような純粋に何かを成し遂げようとする努力を、人間の罪が妨げて、時間を浪費するようなこともあるだろう。しかし、たとえそうであっても、イスラエルの民の場合は、その40年によって世代交代が進み、約束の地カナンに入るための新しい世代が育っていた。古い世代が死滅し、新しい社会のうねりを生み出す、新しい世代の力が育てられていたのである。神は、人間の歴史に介入されるが、人間の心をねじ曲げてまで歴史を変えていくことはなさらない。なるべきものがなるまでに必要な40年であったのかもしれない。人間の人生は長いようで短い、だから本当は、すみやかにあなたの憐れみを示し、みこころをなしてください、という思いを強くすることもある。しかし、私たちの思うところではなく、神のみこころがなっていくように、と祈る中にこそ、本当に人間にとって必要な何かが築かれていくのである。
まっすぐ見える道が良い道とは限らない。曲がりくねっていても、味わい深い道というものがある。浪費であり、無駄であり、機会を取りこぼしていると思うような事柄の中に、学び取らねばならぬ多くのことがあったりする。神の深いご計画を私たちは知り尽くすことができない。
(5)約束の地を征服する
ともあれ、古い世代にはエジプトを脱出する課題が、そして新しい世代には、カナンの地を征服する課題が与えられたように、私たち自身にも、「ことごとくあなたがたの前から追い払って、彼らの石像を粉砕し、彼らの鋳像をすべて粉砕し、彼らの高き所をすべて打ち壊さなければならない。あなたがたはその地を自分の所有とし、そこに住め。あなたがたが所有するように、わたしがそれを与えたからである」(52,53節)と神に語られている課題がある。気力が萎えている時には、また長い浪費と無駄と機会の取りこぼしの人生の中にあると落胆するような時には、このようなことばを受け止める力もない、と思われることもあるだろう。しかし、1タラントのしもべのように、困難に怖じ気づいていたり、神を疑ったりしていては、そこに祝福はない。神が与えると言われたものを、私たちは信仰によって受け取らなくてはいけない。そして、淡々とその旅程を踏み進み、確かにその困難は克服され得たことを私たちも示さなくてはならないのである。
自分の思うところではなく、神のみこころとするところを確かにさせていただきながら、確かに自分に対する神の深い愛の配慮もあると平安と喜びに与る歩みをさせていただくことが大切だ。神が私たちに信仰を与え、私たちの道を整え、与えようとしておられるものを確かに受け取る、そのような歩みをさせていただこう。

民数記32章

32章 ガド・ルベンの土地相続,誓い

<要約>
皆さんおはようございます。新しい地に攻め入る直前のエピソード、ガド・ルベン族が、今ある地に残りたいと言い出します。モーセの非難を受けた彼らの修正提案は、今ある地に残る代わり、神の民の戦いを先頭を切って戦うというものでした。実に、私たちも人間の関り抜きに自分のことを考えやすいものです。しかし、教会あっての今の自分を考える時に、教会の戦いを先頭を切って戦う、そのような心構えも必要なのでしょう。今日も、皆さんの上に主の平安があるように。

1.ガド・ルベンの申し出(32:1-15)
 いよいよ、イスラエルによるカナンの土地征服が始まる。しかしその最初に、ガド、ルベン族、そしてマナセ族の一部の者がヨルダン川を渡らずに、今あるこの土地に住み着きたいとモーセに願った。しかしこの土地はそもそも、先祖たちに約束された地の外側にあったものである。皆がヨルダン川を越えて、これから約束の地を手に入れようとしている時に、彼らは、神の約束を全く度外視した行動をとったわけだ。モーセはこのような申し出は災いである、と語る。それは、40年前カデシュで、約束の地を偵察しながら、入って行かなかったようにイスラエル人の意気をくじいた、彼らの先祖と同じ態度である。しかも、彼らがこの土地に住み着きたいというのは、すでに占領したこの土地が、自分たちの羊のために適していると考え始めたからである。カナンの地に出て行きたくないのは、あくまでも物質的な関心からであり、これから神が与えると約束する土地に、自分たちの祝福を期待せず、急いで自分たちの望んでいる土地を得ようとしていたのである。全軍指揮上の問題が生じていた。もし、すでに占領した土地を自分たちのものとすることを願い求め、それが許されるなら、これから苦労する仲間を傍観し、見捨てていく危険も出てくることだろう。
2.ガド・ルベン族の修正提案とその後(32:16-42)
彼らの態度に主の怒りが燃え上がったという。そこでガド、ルベン族は、自分たちが、これからヨルダン川西側の土地征服に対して、先頭を切って戦いに出、征服が終わった後に、東側の土地を自分たちのものにしたいと提案を修正した。モーセは、兄弟たちの土地征服の戦いのために攻撃の矢面に立って、先頭を行くのであれば、それはかなえられるとされる。実際の彼らの進軍の順序は、第二グループになるが彼らは思いきった提案をしたのである(2:16)。モーセは、約束を破らないように、と念には念を入れて確認している。そしてこの約束を破れば重い刑罰が課せられると、確認を三度繰り返した。その後の彼らはどうだったのか。ヨシュア記には彼らが約束を守り、主な敵が征服され、土地が他の部族に分配されるまで、先頭に立って戦ったことが記録されている。
 ガド、ルベン族が引き起こした問題は、私たちにも起こりうることである。というのも、私たちの罪深い性質は、いつでも目に見えない神の祝福よりも、今ここにある物質的な祝福に安寧しやすい。目に見える最善をよしとしてしまいやすい。信仰によって見えないものを臨み見る力に乏しい。そして、自分が神の民の一人であることを忘れ、兄弟姉妹のことを考えなければと思いつつ、自分の目先のことであくせくしてしまいやすい。まずは自分の思いや都合が優先され、家族、職場、教会のことは後回しとなりやすい。人間は、共同体の関りを抜きに存在し得ない、共同体に護られてこそ今がある、という単純な事実を忘れやすい。そういう意味でクリスチャンにとって、家族的な共同体である教会の存在は、かけがえのないものであるが、その重さを忘れやすい。それが私たちの愚かさであろう。
 ともあれ、私たちは天の霊的な都を、皆で一緒に目指す巡礼者でありながら、実際には、この世にあるためにこの世的な関心の中に、この世の人々同じ自己中心な者となって、巡礼の歩みにあることすら忘れてしまいやすい。だからどこかでガドやルベン族が意を決して、先頭に立ったように、巡礼の旅を進めるには、自ら巡礼の旅の先に立つ覚悟を持つことが必要なのではないか。最も罪深く、最も世俗的な私こそが、巡礼者の先に立つという覚悟を持つことである。神は、私の願いはよくご存じである、という信頼のもとで、まず、信仰者として先に立っていくのである。
 ガド、ルベン族のこうした態度が、イスラエルにまたガド、ルベン族自身にも大いなる祝福をもたらしたことは確かである。クリスチャンたちの先頭に立って信仰の歩みをする、そんな志を持たせていただこう。