申命記18章

申命記18章 聞き従うべき存在、預言者のことば
皆さんおはようございます。私たちの生活には占いが溢れています。TVに流れるテロップ、雑誌に簡単にまとめられたもの、私たちはそのようなものを目にして、少なからず自分の人生に影響何かが起こったりすると思ったりするものでしょう。しかし、占いに惑わされてはならず、占いに脅かされる必要もありません。この世にはまことの神ただお一人がおられるのみで、その方のことばにこそ心を留めるべきなのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

8)レビ人の規定(18:1-8)
 レビ族は、祭司の職務を受ける者として、相続地の割り当てを受けることができなかった。主ご自身が相続地だったからである。そして土地から生活の糧を得ることのできないレビ族に対して、神が命じられたことは、いけにえをささげる者から、それを受けることである。レビ族は、神の民が十分の一のささげものの定めに忠実である限り、その生活を保障された。そういう意味では、教会の働き人の生活が成り立つことも、神のみことばと教えに専念するその職務へ理解を示し、これを支える信徒の実践があればこそとなる。
9)真の指導者(18:9-22)
(1)イスラエルが聞き従うべき存在(9-14)
 次に神は、イスラエルの民が、約束の地での異教的な習慣と一切関わらないように、と命じていまる。占い、まじない、呪文、口寄せ、神はこれらを許されない。ただひたすら神を認めていく生活を求められる。現代の科学的な思考に慣れた私たちですら、新聞や雑誌、テレビの占いに惑わされ易いものだろう。しかしそうしたことによって未来を見出すことは不可能であることはわからなくてはならない。真の神を信じていれば、異教的な習慣に脅かされることもない。天地万物をお造りになり、支配しておられる神を信じていれば十分である。占いはまさに神を認めない行為に他ならない。神が、この世界を支配し、動かしておられる、そういう信仰がなければ、私たちはいつまでも古い生き方から抜け出すことができない。
(2)預言者を見分ける(15-22)
神は、ご自身が起こす預言者に聞き従うことを勧める。モーセが立てられたのは、モーセを通して与えられた律法、すなわち神のことばに聞き従うためであった。どこに人生のよりどころを求めるか。占いではない。まことの神のことばである。神が立てられた預言者によって語られる神のことばである。
そういう意味で、私たちは、神に立てられた権威をしっかり認めて、ついていくことが大切となる。では、その権威は何によって見極めていくのか。預言者が語ったことが実現するか否かである、という(22節)。もしそれが実現しないならば、その預言者が不遜にもそれを語ったのである、から、彼におびえることはない、という。
そういう意味では、私たちに与えられた預言のことばは、イエス・キリストにおけるもの、と理解すべきだろう。耳を傾けるべき預言者のことばとされたのは、イザヤでありエレミヤ等、旧約の預言者たちである。彼らは神の言葉を受けて、イスラエルの民を神のことばに信頼させ立たせようとした。そして後にペテロは、全ての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたことは、イエス・キリストにおいて成就した、と語っている(使徒3:18-23)。確かにイエスご自身も、「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしを信じたはずです。モーセが書いたのはわたしのことだからです」(ヨハネ5:46)と語り、ご自身のことばにこそ耳を傾けるべきことを語っている。
 何よりも私たちは、イエスの愛のみことばに、耳を傾けなくてはならない。イエスに聞き従い、イエスに諭しを与えられる。そういう意味で重要なのは、イエスのみことばにこそ注目させ、イエスのみことばを忠実に語り伝えようとする牧師の存在なのだろう。律法や規定は、すべて彼らが信仰の民でありながら、カナンという世俗社会で永住していくために必要なものとして与えられ、教えられた。今日も同じである。私たちはただ生きていくのではない。世俗社会にあってまことに生ける神を恐れ、愛する、神の民として、組織され整えられ、世の光、地の塩として生きるのであり、だからこそイエスの御教えにしっかりと耳を傾け、これに立たなくてはならないのである。

申命記17章

申命記17章 神の民の王政と行政
<要約>
皆さんおはようございます。神の国を建て上げる、具体的に地域教会を神のものとして建てあげることの難しさがあります。一般的な社会であれば、そこには人間的な考えが横行し、権力者の横暴が、まかりとおり、村社会的な判断が優先されるということになるのでしょうが、神の国である教会はそうではない。異教社会の中にあって、神を中心とし神の御心が崇められ行われる場所として、光輝く存在でなければならないことは確かです。その教会をどのように建てあげるか、求められていることはひたすら聖書に学ぶことです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
7)裁判と王制
(1)裁判
イスラエルは新しい国を作ろうとしていた。まことの神を信じ崇める神の民によって設立される新しい国である。その国に持つべき国家の制度をどのようにすべきか、17章は、種々の教えが述べられているようであるが、その中心は裁判と王制にある。
 まず何が裁かれなければならないか、第一に主に対する罪がある。神を認めることが神の国の第一の存在理由なのであるから、当然ここに主の契約を破った偶像礼拝者が裁きの対象として、取り上げられることになる。「町囲み」というのは地方の法廷のことで、そこで偶像礼拝者について告発があれば、事実確認をした上で、石打の刑に処す。その場合、二人以上の証人を必要とし、最初に証人が手を下し、その地の人々が加わることになる。悪を除き去れという。
 続いて、殺人事件、権利訴訟、暴行・障害事件つまり隣人に対する犯罪が取り上げられる。この場合、町囲み、いわゆる地方の法廷で裁くことが難しい場合、それは、主の選ぶ場所、つまり中央の法廷で、祭司か裁判官によって判決を下すように命じられる。これは、今日の日本の法廷制度のような一審、二審といった上告の制度とは違うようだ。むしろ、難しいケースであればあるほど、中央聖所で、イスラエルに入る究極的な権威者である神の御前で、祭司によって判決が下された、ということなのである。つまり人間的な事柄であれ、神の御前で神の光の中で裁かれなければならない、というのが、教えられているところである。
私たちは、根本的に悪であり罪人であることを忘れてはならない。人に知られなければ、やり過ごせると思う、そう考えてしまうものだろう。しかし、それが神を侮ることであり、神を恐れないことになる。そうした高ぶりに眠った心を率直に認めて、主よ、この愚かさから救い出したまえ、と神の前に罪を告白し、切に赦しを願い求めること、そして自分の生活から悪を除き去っていくこと、何よりも、聖められて、全く神の意志に生きることを求めることが、神の民に求められていることである。主よ、わが心を救ってください。わが罪の深みより、私を完全に解放してください、と切に祈り、少しでも信仰の完成へと近づけさせていただくことだ。
(2)君主制についての戒め  
14節以降は、君主制についての戒めである。後に、サムエルは、イスラエルの民が君主制に移行することを求めた際に、これを、神の拒否として受け止めたが、すでに神はここで、君主制に移行することを認めておられる。君主制の中で育ったモーセであれば、将来的な神の国の建設を思い描いて、このようなことを取り上げることも自然である。そこで、一般の君主制に起こりうる問題が取り上げられ、神の民の国はそうではないのだ、と述べられる。つまり、軍備拡張、ハーレム化、富の蓄積は、当時の権力者には付き物の典型的な問題である。そこで王は必ず同胞から選ばれなければならなかった。その意図は、異教の者であってはならない、選ばれた民の選びを守るためには、ということだろう。そして馬を多く増やしてはいけないとされる。それは、軍備が不足しているということで、エジプトに同盟を求めることへの禁止ととるべきだろう。結果的に、神よりもエジプトを頼ることへの戒めである。神のみが、イスラエルの守りである、神の国を建てる王は、そこに立たなければならないのだ。また、多くの妻を持ってはならない。金銀を増やしてはならない。むしろ聖書を書き写して読めとされる。つまり世俗性ではなく、霊性にこそ自分の心の関心を向け、自分のすべての意を注げ、というわけだ。神の国を建て上げるリーダーシップに求められたことである。
だが、イスラエルの現実は、ソロモンを初めそうではないことが多かった。罪人の社会の中で、まことに神の国を建て上げることは至難の業である。となれば、同じように異教的な環境の中にあって、神の国である教会を建て上げようとする努力は並大抵のものではない。教会を建てようといって、皆が後押しをしてくれるわけではない。むしろ、逆であるという現実の中で、神の助けの中で、申命記に語られた事柄を目指していかなければならないのである、と教えられるところだろう。
 神の国のリーダーシップは、権力を得て、その権力にのし上がっていく者ではなくて、神の民の忠実な管理者として、その権限を聖書的に正しく用いるというのが聖書の理解だ。なぜ、聖書を読むのか、なぜ神のことばを注意深く聞き分けようとするのか、それは、委ねられている神の民を神の御心に基づいて、正しく導く、正しく方向付けるためである。そういう意味で、指導者は何よりも熱心に聖書を書き写し、神を恐れ、神のことばを守り行うことを学んでいかなくてはならない。
今日においては、神の教会を建て上げるために必要なこととしてまず聖書から教えられる、そこを大事にしたいところだろう。

申命記16章

6)三つの祭りを守る(16章)
<要約>
皆さんおはようございます。イスラエルが年ごとに守るべき三つの祭りが定められています。古代イスラエルでは二つの暦が並行して用いられていたので、そのことを理解しておかなければ、なかなかスムーズに読んでいくことができないところでしょう。しかしそういう部分を丁寧に整理しながら読んでいくと、聖書通読が面白くなりやめられなくなるものです。聖書の世界の深みへ漕ぎ出す努力を重ねたいところですね。そして聖書の世界観が広がっていけば、主と共に、その世界を歩む楽しさもさらに深く感じるようになります。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

補足:古代イスラエルの暦
古代イスラエルには、二種類の暦があった。一つは、春に始まり春に終わる暦。もう一つの暦は、果実の収穫を祝う秋の収穫祭(出エジプト23:16.34:22)に始まり、同じ時に終わるものである。時折、同じ旧約聖書の箇所にこの両方の暦の例があるので、よくわからなくなることがある。例えばレビ記25:8-10には、ヨベルの年は「第7月」に始まるとある。ヨベルの年をこの時から始めるのは、明らかに秋を新年とする数え方による。ところが、「第7月」という言い方は、春を新年とする数え方による。おそらく一つは日常生活常用の暦で、もう一つは宗教的、農事的な暦であったと考えられている。旧約聖書の祭に関して語っている箇所では、春を新年とする数え方で語られていても、出来事は農事年(秋から始まる)に結び付いて語られている。
 そこで1節「アビブの月」は「青穂の月」を意味し、カナン人の暦による月の古い呼び名である。後のバビロン暦ではニサンの月と呼ばれているので、申命記はバビロン捕囚以前、つまり古い時代に書かれたものと理解されるところである。この月は、太陽暦では、3~4月にあたるが、バビロン捕囚後、ヘブル暦でも第一月とされるようになった。この月の中旬に、出エジプトを記念する過ぎ越しの祭りが守られた。この月、イスラエルでは、レバノン山の雪解けの水でヨルダン川が増水し、エリコやヨルダンの平原では、大麦の収穫が始まり、小麦は穂が出る、いわば収穫開始期となる。そして三つの祭りが祝われた。
(1)過ぎ越しの祭(1-8節)
この祭りには、その背景として種々の古代の農耕祭が考えられている。確かにそのような前史があったとしても、イスラエル人は、エジプトから解放されたことを率直に祝う新たな意義をもってこの祭りを祝ったのである。彼らは「悩みのパン」を食べながら、自分たちがどのような苦しみにあって、パン種を入れる間もなく、急いでエジプトを出たのか、その時のこと(出エジプト12:34)を思い起こした。
(2)七週の祭(9-12節)
次に七週の祭は、「かまを立穂に入れ始める時から七週間」後に祝われる。「刈り入れの祭」(出エジプト23:16)、「初穂の日」(民数28:26)とも呼ばれたが、それは、純粋に神が収穫を祝福してくださったことを喜ぶ時であった。後の新約時代には、ペンテコステと呼ばれ、聖霊の降臨を記念する時となった。つまりこの世での物質的な収穫を喜ぶ機会から、霊的な神の臨在を喜ぶ機会とされたのである。
(3)仮庵の祭(13-15節)
最後に「仮庵の祭」(13-17節)は、もともと、夏の終わりと秋に熟するぶどうなどのくだものの収穫を祝う農耕祭であったと考えられている。しかし、出エジプトの際に、それは、イスラエル人が仮庵に住んだことを思い起こすためのもの、と新しい意義づけを与えられた(レビ23:40)。つまりイスラエルに苦難があった時に、神が豊かに備えてくださったことを覚え、そのことを次の世代に知らせることがその目的である(レビ23:40)。イスラエルの民は、乳と蜜の流れる約束の地に入る前に、40年間も仮庵に住み、荒野を放浪する苦しい経験をした。それは不自由と苦難の連続であったが、神の真実をより具体的に学び、神の愛を身に染みて深く味わい知る機会であった。イエスはそのポイントを掴んで、この祭りの終わりの大いなる日に「人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:37)と宣言し、神の霊的な供給の豊かさに目を向けさせたのである。真の喜びは、目に見えない神の豊かな恵みを覚え、信頼するところから来る。
ともあれ、これらの祭は、今日それぞれ、イエスの十字架による救いの象徴、聖霊が与えられたペンテコステの象徴(使徒2章)、クリスチャンの巡礼の旅、いわゆる信仰の生涯の象徴(1ペテロ2:11)に対応する、とされる。やはり受難週、復活祭、ペンテコステを単なるキリスト教の行事としてではなく、その意味を覚えて、感謝の応答として守って行くことが大切なのだろう。信仰生活を進めると言っても、私たちの歩みを後押しするような環境があるわけではない。むしろいつでも誘惑は強く、私たちは世の流れに逆らうことを余儀なくされている。霊的に死んだら流されるだけの人生であり、霊的に生きているからこそ、激しい世の逆流に押し流されずに、御国への歩みへと進んでいくことができる。その霊性の活力は、やはり、罪の深みから引き出された神を覚えること、海を分け、荒野で養われ、約束の地を征服させてくださった、神の力を覚えるところにある。
これまでは、ただ目に見える人間的な支配の中で生きて来たかもしれないが、今や私たちは、神の支配の中にあり、神の正義が行われる世界に生きている。となれば、次に来ることは、神の正義に生きることだ(18-20節)。世が不正を求める時に、あえて、正義に生きる、それによって人は、神に対する信仰を告白している。神は確かに生きておられる。神は私を救い出してくださった。神は私を祝福される。この確信に立って歩ませていただきたいものだ。
(4)祭りを守る補足規程(18-22)
 これらの祭が正しく守られるための補足(方法)が記されている。まず行政官ともいうべき、裁き人を町々に置き、わいろを取らず、真実をもって行政に当たらねばならないと規定している。この裁き人たちが、これらの祭が正しく行われているかどうかを見守るためである。祭りのような行事につきまとう不正を見守り、あれば是正する、必要があった(18-20節)
 またアシェラ像を祭ってはならないと命じられる。これも三代祭りが、異教の祭と混合されることのないように忠告、警告するものである。土着の宗教とのシンクレティズム(混合主義)への警告である。
 約束の地に入るにあたり、イスラエルの民は、単に知識ではなく、具体的な行事としてこれらの祭を守り、救いの恵みの事実を後代に伝えた。私たちも受けている救いの恵みを現実生活においてわかりやすく伝える努力が必要とされている。

申命記15章

申命記15章 負債免除と奴隷の解放の年
<要約>
皆さんおはようございます。本章も、新しい神の民の考え方として、異教の国で新しい神の民はどのような違いを生きるか、ということを教える重要な部分と言えます。異教の国々では、これらのことは当たり前でも、あなたがたはそうではない、新しい価値観に立って生きるのだ、と教えられるところなのだと思います。キリスト者として、古い自分に死に、新しい自分に生きるということを私たちはしっかり意識していきたいところです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

5)負債免除と奴隷解放の年 
(1)ゆるしによる繁栄(1-6節)
7年の終わりごとの負債の免除(15:1-11)と奴隷の解放(12-18)が命じられている。これらは、イスラエルの中の貧しい者に対する救済措置で、7年目は安息年、その終わりは、秋の収穫期(第7月)になる。負債が免除されるのは、全ての負債がゼロにされるのではなく、その年の収穫からは取り立てられないことを意味する。そうすれば貧しい者はいなくなるだろう(4節)というわけだ。
フィリピンやネパールなど、貧困解決のNGOの働きを20年続けてきておもうことは、結局貧困解決に必要なのは、個々人の思いやり以外にないということである。村から貧しい者を出さない、互いに犠牲を払いあって共助的な共同体を建て上げようとする志が、村の中に興らない限り難しい、それぞれがウィンウィンで得する何かを考えているようでは、結局、力のある者たちの都合のよい社会を作るだけなのである。
 負債の免除にしろ、奴隷の解放にしろ、これは弱い立場の者に対する配慮を語っている。町囲みの内に、「貧しい兄弟がいる時、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない」。むしろ、「進んで手を開き、その必要としているものに十分貸し与えなければならない」と勧められる。本来納めるべきものが、手元に残るならば、それを自分のために蓄えるのではなくて、むしろ、与えていく、活かしていく。「未練を抱く」というのは、与えたものに心を残すということだが、与えたことをいつまでも勘定に入れておらず、物惜しみせずに与えていくことだ。聖書は、神の民は、異教の国の中にあって、何よりも、与えること、配慮すること、心温かき人であることを教えている。貧しい人は決して国から絶えることがないから、与えなさい、と。そうすれば、「あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる」と。神を見上げ、神との関係に生きる者には、神の祝福があるのだから、と。
(2)奴隷の解放(12-18節) 
また奴隷について、7年目に自由の身にすべきこと、自由の身にする時には、何も持たせずに去らせてはならない、と命じられる。異教社会では、人を奴隷にするのは当たり前であったことだろう。しかし、奴隷であるべき人はいない。境遇上どうしても奴隷の状況に陥らざるを得ない人はあっても、必ず人は奴隷の状態から解放されるべきである。当時の文化的な状況で、その長さは最長7年と区切ったところに、彼らの神の民としての新しさ、新しい国の姿もあった。当時としては画期的な考え方であったはずだ。
そのような配慮など思いつかないのが人間であろう。本当に人間は、自己中心で、配慮に乏しい者である。それはやはり、奴隷とされた者、立場の弱い者の側に立つことを知ることがないからだろう。いつでも、自分の立場から物事を考えているようでは、本当に温かな生き方は出来ない。弱い者の立場を考える、弱い者の立場に身を置く、そういうことができるのは、自分もまたそうであった、自分もまた主に贖い出された者である、と覚えていればこそである。
 そういう意味で、クリスチャンが、キリストイエスにある救いをしっかりと味わい、覚えていることは重要だ。キリストは私たちとは違って罪を犯されることはなかったので、尊い犠牲になることができた、とは言われるが、実際に私たちの罪の全てをその身に負って死んでくださっている。私たち自身がおののき、恐れるべき、罪の罰を担われた。そういう深い罪意識、自分がどこから救い出されたかが、キリストの十字架にあってわからない限り、私たちは自分が真に弱い者である、と考えることもないものだろう。霊的には神に救い出されたという深い罪認識があればこそ、神と人の前で謙虚になり、あらゆる弱さを持った罪人に対する優しさを持つ事が出来る。
今日も、神はこの愚かな私を愛してくださっている、今日もこの偽り者、裏切り者の私を、赦してくださっている、なおもキリストのしもべとして歩むことを赦してくださっている、そういう自覚に立つ時に、私たちは謙虚さと配慮を持つことができる。神に生きるために、キリストに深く根ざす、そこに私たちの日々の歩みがある。
(3)神へのささげもの(19-23節)
 14章でもそうであったように、この最後の部分では、与えられた物質的な祝福を神への感謝としてささげることを忘れてはならない、と命じられる。神を中心に生活を営み、新しい神の民として形づくられる、これが申命記の語ることである。だから、それまでは、分け与えるものは、欠陥のあるものや、残りもの、回しものという考えであったかもしれないが、新しい神の民は、そうではない、初穂で最も良いものをささげる志を持つ者なのだ、と教えられる。こうしたところは、育ちが大きく関与するところだろう。人それぞれに、多彩な文化の影響の中で、それぞれの倫理観を持っているものである。それがキリスト者のこうした倫理観に近い形で育ってきている人もいるに違いない。だから取り立て、そこに新しさを感じない人もいるかもしれない。けれども、大切なのは、形だけでそうするのではなく、他者に対する深い愛から自然に、意図せずにそうできるところが、キリスト者の倫理なのでもある。そうした信仰と倫理実践に立つキリスト者が集まる教会はさぞ、素晴らしい祝福の場であることに違いはない。そしてそれは世の光となり、地の塩となるのは言うまでもない。だが現実は違うというのは、そういう根本の深い十字架愛に動機づけられるところが出来ていないからなのだろう。たまたま育ちが良かった、ということや要領の良い人が中心になって物事が進んでいる、という状況があるからではないか。神の民として新しい国を作る、そのようなビジョンの中に、新しい生き方が、勧められている。教会を建て上げることも同じなのだ。この罪深い地上に、神の愛と命に溢れた神の御国である教会を作るというビジョンは、一人一人がいかに神に教えられ、そのように生きているかにかかっている。聖書による生き方、ものの考え方を身に着け、もう一度新しい信仰生活の足並みをそろえ、祝福を分かち、祝福を分かち合う教会となりたいものである。

申命記13章

申命記13章 神から遠ざける誘惑に警戒せよ
<要約>
皆さんおはようございます。人は、目に見えない神よりも、やはり具体的な周囲の人々によって左右されやすいものでしょう。宗教的な指導者も様々で偽預言者というべき存在もあります。そして近親者も、さらに町の甘言巧みな人々も誘惑者となることがあります。そのような中で何が正しいかを識別し、神に対する信仰をしっかり貫く厳しさが必要とされるのです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
3)神から遠ざける誘惑に警戒せよ(13:1-18)
申命記の12章以降は、律法であるが、これが愛されるべき主のことばとして受け止められるには、神の愛をまず経験していること、神との親しい交わりの中に入れられていることだろう。福音の光の中で律法を読む、とはそういうことだ。イエスの十字架にある罪の赦しをもって、神とのしっかりとした愛の関係が出来ていればこそ、慕うべき教えとなるが、そうでなければ、なんともそれは窮屈で、ほとんど意味不明の戒めですらある。
そういう意味で、聖書通読が続いていく秘訣は、イエス・キリストにあって新生し、神とのよき交わりが回復されていることにある。そこができていればこそ喜びと感謝を持って、読み進んでいけるところがある。
さて12章に続いて、主を愛することがテーマとなり、主から遠ざける、偶像、自己流の礼拝に警戒することが述べられた後、ここ13章では、偽預言者、友人・知人、世俗の指導者による誘惑に注意すべきことを語っている。
(1)偽預言者による誘惑(1-5節)
そこで第一に、偽預言者に警戒するように語る。律法の最も大事な部分は、「あなた方の神、主を、心を尽くし、精神を尽くして愛せよ」であるが、いつでも神を愛するよりも、神に愛される、神に祝福される、神が奴隷のように私たちに奉仕してくれることを望む、主客転倒しているのが人間の現実でもある。こうした私たちの弱さにつけこみ、他の神々に誘い込む偽預言者は、誰でも殺されなければならない、とかなり手厳しい。実際にそのように偽預言者が殺された例は、旧約聖書では1列王18:40、エリヤがバアルの預言者を殺したものだけである。だからこれは誇張法的な言い方であって、実行されるべきというわけではないのかもしれない。
彼らの誘惑はしるしにある。多くの人々は、宗教にしるしを求めるものだろう。しかし、聖書信仰において大切なことは、しるしよりも神を愛することである。しるしを伴なう教えには、よくよく注意し、霊的に識別されなければならないことである。
(2)友人、知人による誘惑(6-11節)
続いて、神から私たちを遠ざけようとする誘惑は、近親者から来ることもある。家族が私たちの誘惑者となることがある。6節、「あなたの愛妻」は、原文では「あなたのふところの妻」「あなたの無二の親友」は、「あなたの魂のようなあなたの友人(あなた自身のように愛している友人)」(1サムエル18:3参照)である。
ユダヤ人は家族をどの民族よりも大切にした。しかし、そんな大切な家族からさえも、神から私たちの魂を引き離す誘惑は生じうるのである。イエスが、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分のいのちを憎まなければ、ご自分の弟子にはなれない、と語ったのも、同じような警戒を示すべきことを語っている(ルカ14:26)。人は、それが明らかに敵のことばであれば警戒するだろうが、アダムがエバの語りかけに全く警戒心を抱かなかったように、近親者に語られた場合にはほとんど警戒しない。質の悪い誘惑というものがあるものだ。人情や愛情に富んだような美しい仮面をかぶって迫って来る誘惑がある。
(3)世俗的な者による誘惑(12-18節)
「よこしまな者たち」(13)とは、「悪人」という意味よりも「天の恵みに与ることのない人」つまり、神様を知ることも、恐れることもない人々を言い表すものである。この種の誘惑の場合、調べ、探り、よく問いただすことが求められている(13-14節)。つまり、それは、先の人情による誘惑ではなく、組織的な誘惑だからだ。今まで忠実に従ってきた神から目をそらさせていくもの、神との関係を遠ざけていくもの、それが社会の動きとなって迫って来ることがある。
こうして誘惑は、偽預言者(3-5節)、近親者(6-11節)、町の者たち(12-18節)から生じる。しかし、どのような関係であれ、私たちを神から引き離し、心を尽くし、精神を尽くして主を愛することを止めさせるようなことには警戒しなくてはならないし、それらを拒否しなくてはいけない。自身の信仰を守る厳しさをしっかりと持ちたいところだろう。「主に従って歩み、主を恐れ、主の命令を守り、御声に聞き従い、主に仕え、主にすがる」道を進ませていただくところに、私たちの祝福がある。