ヨシュア記24章

ヨシュア記24章 神との再契約
<要約>
おはようございます。ヨシュアたち、イスラエルの戦いが終わりました。ヨセフの遺骸がシェケムの地に戻ってきました。ヨセフが兄弟たちにまだ奴隷として売り飛ばされる前に住んだ場所です。神がイスラエルの父祖たちに、この地を与えると約束した約束は守られたのです。そしてヨセフの信仰も実りをえました(ヘブル11:22)。興味深いことは、ヨセフ族がヨセフの遺骸を携えながら決してヨセフを神格化して拝まなかったことでしょう。神と人は異なるものである。そして人間は神の時間軸に生きている。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.イスラエルになされた神のみ業
 ヨシュアは、イスラエルの全部族をシェケムに集めた。そこで再びヨシュアのメッセージが語られる。しかしそれは、神の前にあって語られるメッセージとなった。
最初にヨシュアは、イスラエルの歴史においてなされた神のみ業を振り返った。族長たちの召し(2節)、出エジプト(5-7節)、ヨルダン川東岸の勝利(8-10節)、ヨルダン川渡渉(11節)、そして約束の地での征服(11-13節)について触れている。メッセージの中で繰り返し強調されるのは、これらイスラエルの勝利と成功が、一つとしてイスラエルの力によるものではないことである。「わたしは、あなたがたの前にくまばちを送ったので、くまばちがエモリ人のふたりの王をあなた方の前から追い払った。あなたがたの剣にもよらず、またあなたがたの弓にもよらなかった。わたしは、あなたがたが得るのに労しなかった地と、あなたがたが建てなかった町々を、あなたがたに与えたので、あなたがたはそこに住み、自分で植えなかったぶどう畑とオリーブ畑で食べている」(13節)
 くまばちとはなんだろうか。文字通りくまばちととるべきか、一種の比ゆ的表現ととるべきか。後者が普通のようである。つまり、イスラエルが侵入する前に、神が敵に与えた恐怖のことを語っている。また、出エジプトの早期年代説をとる場合には、これを先んじてカナン攻略を試みたエジプトのパロのことと取る説もある。つまり、BC1411年のアメンホテプ3世による破壊的な侵略を指し、すでにカナンの地が弱められていたときに、ヨシュアとイスラエル人がエリコに侵入したという。イスラエルのカナンの地の所有は、自分たちの力ではなく、神の強い導きと後ろ盾があってこそ、成し遂げられた、というわけだ。
ともあれその必然的結果として、イスラエルは、まことの神のみを礼拝するように、「誠実と真実をもって主に仕えなさい」とチャレンジを与えられている(14節)。
2.神との再契約
15節からは、ヨシュアと民の対話の形式をとりながら、神と民との契約を明確にしている。つまり、ヨシュアは、民に神への絶対的献身を促し(14-15節)、民はこれまでの神の恵みと救いを告白し、主に仕える決意を明確にしている(16-18節)。それに対してヨシュアは重ねて、主の厳しさを語り、警告を加えている(19-21節)。民は、「いいえ。私たちは主に仕えます」と、警告に対して明確な忠誠の誓いを立て契約を結んでいる。
 主に仕えると口で語るのは易しい。しかし、人間の心には、罪がある。神を認めようとせず、神に背を向け、神抜きで物事を進めて行く内なる性質がある。もし、人が主に仕えると口で語るとおりの忠誠を持っていたら、こんなことは起こりえぬであろうに、という現実がある。私たちの礼拝にも、教会生活にも、それは、明確に現わされている。信仰はことばによらず、行為、振る舞いによって明らかなものだが、私たちの現実は、自分に都合よく、自己流に主に仕え、まことに神に仕えている者ではない、と知られることがしばしばである。確かにそうであってはならない。主に仕えるのなら、私たちの日々の生活は、神に栄光を帰すものとして献げられなくてはならない。主にあって信仰の生涯を貫きとおしたことが、誰の目にも明らかなような生き方をしていく必要がある。
イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また長老たちの生きている間主に仕えたという(31節)。残念なことに信仰の継承がなされなかった、ということだろう。人間の指導者ではない、主ご自身に結び付き、主に忠実に従う歩みが、求められるところではないだろうか。