ルツ記4章

4章 ルツの幸い

<要約>
おはようございます。ルツ記は何度読んでも感動的ですね。無力で何も持たないルツが、贖いの権利のあるボアズに信頼して、身を任せたところから、全てが逆転していく。まさに天のボアズである神のあわれみ、恵みを象徴し、物語る一書です。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.ルツの権利を守るボアズ
ルツの気持ちを知ったボアズは「あなたの望むことはみな、してあげましょう」と、レビラート婚と土地の買い戻しの二つの権利を守ろうとして動き出した。ただボアズは、自分よりも先に買い戻しの権利のある人にまず話を持ちかけた。そして土地だけではなく、ルツとの結婚もセットである条件を示している。土地だけであれば、いずれそれは自分のものになるし、耕作して収穫すれば得をする。しかし、ルツが一緒となると話は別である。土地のために大金を支払い、生まれた子に亡き夫の名を継がせて土地を返すことになる。何のメリットもない。しかもこの親類は、裕福ではなかったのだろう。彼は畑を買い戻すために、自分の所有地をそのために売らなければならなかったようである。つまり所有地は増加するのではなく、減少する、文字通り「損なう」可能性すらあった。また、当時のユダヤ人であれば、マフロンとキルヨンを襲った不幸は、律法を破って外国人の女を妻として迎えたことにある、となれば、自分がルツを妻に迎えるならば同じ運命になると考えもしただろう。そんなリスクは誰も負いたくはないものだろう。
そこで、買い戻しの権利のある人は、ボアズに権利を譲り、自分の履物を脱いだ。履物は、所有者の土地を踏む権利を象徴する。つまり、履物を脱ぐのは履物に伴うその権利を放棄することである。こうしてボアズは、買戻しの権利者として、エリメレクの家の存続のため、またナオミとルツの幸せのために、犠牲の多い結婚を承諾した。
2.祝福の祈り
ボアズの勇気ある決断に、町の長老たちが祝福を与えた。「ラケルとレアの二人のようにされますように」は子孫繁栄を意味するものだろうが、「タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように」はよくわからない。ただしタマルの境遇はルツに似ている、そしてペレツは、双子で先に出ようとしたゼラフに割り込んで最初に出てきている。その後のユダ族の発展にしても、勢いのあるのはペレツ族であったようだ。そういう意味を汲めば、子孫繁栄を意味することばと受け止めることもできる。
3.ルツ記の象徴的な意味
ともあれ、ルツ記では、始まりと終わりの違いに注目させられる。ルツ記は不幸の悲しみで始まり、最後は幸福な喜びで終わっている。労苦から安息で終わっている。生活にも事を欠く日々から、安定した平和な生活で終わっている。まさに夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びがあったと言える。ルツが、神のことばに従うことが、そのような結果を生み出した。ルツが贖いの権利のある人、ボアズの下に、自分の希望の一切を託して、身を任せたことによって、その期待に優るものを得る結果に導かれた。これは象徴的である。私たちも、天のボアズに信頼し、一切の身を任せるなら、没収されていた地上の持ち物を買い戻されるのみならず、私たちは花嫁として迎えられ、彼の命、家庭、富、永遠の喜びに共に与ることになるだろう。キリストにあって、私たちは多くのものを受け継ぐのであり、神の祝福の計画が動き始めるのである。ルツには、はじめ信仰以外何もなかった。そしてその具体的な形は、真面目に落穂を拾うことで、生計を立て、姑のナオミと共に生き延びることであった。しかし、その結果は豊かに報われる生活であった。平凡な人物が神の配慮と導きの中に、忍耐と愛をもって小さな働きに精を出し、それによって救い出され、助け出されている。一羽の雀さえをも見過ごされない神であればこそ、このような希望がある。
3.ルツ記の新約的(予型的)な意味
ただ、この何気ない出来事、あるいははからずしての出来事は、実際には、キリストに至る系図が断絶するやもしれない極めて危機的な状況を回避するものとなった。つまり、ルツにはオベデが生まれた。「オベデ」は、「仕える者、しもべ」を意味する。そしてオベデからはエッサイ、エッサイからはダビデが生まれた。ボアズは、ダビデの曾祖父となり、さらにはイエス・キリストの先祖となる栄誉に与った。それは、アブラハム以来、イサク、ヤコブへと受け継がれていった神の救いの計画の伝達者となる霊的な祝福に与らせる栄誉であった。このように、ルツ記は、ダビデの系図の存続事情を明らかにし、サムエル記第一の前置きとしての役割をも果たしている。神ご自身の大きな計画の中で、私たち一人一人の幸せも形作られていることを教えられる。神のご計画は計り知れない。人はただ、自分固有の人生を生きるのではない。神が全人類に持っておられるご計画の一端を担うように生きている。自分の我欲を超えて、神の目的に生きる人生がある。

ルツ記3章

3章 ナオミ、ルツ、ボアズそれぞれの決断
<要約>
おはようございます。私たちが物事を進める場合、誠意が大事であることでしょう。思いはあっても、誠実さにかけた進め方は、百害あって一利なしです。そして、さらに大切なのは、神様が物事をどのように決着されるのか事の終わりを見守ることです。主が全てを良きにしてくださるからです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ナオミのルツに対する配慮
ルツがボアズの好意に与ったことを知ったナオミは、レビラート婚の権利に訴えて、ルツの将来を保証しようとする。レビラート婚は、結婚した男性が子どものいないまま死んだ場合のユダヤにおける取り決めで、死んだ男性の兄弟が寡婦を自分の妻としてめとるものである。ユダヤでは、このレビラート婚が寡婦の権利として法律的に認められていた。ただし、本来は、遠縁の親戚ボアズとナオミが適用対象になるのであるが、ナオミはこれを自分ではなく嫁のルツに適用しようとした。それはルツの今後を案じてのことなのだろう。「身の落ち着き所を私が探して」(1節)というのは、生活の面で落ち着く場所を探す、ことである。やもめの生活は不安定であり、保護のないやもめの運命は極めて厳しいものがあった。同じやもめで年老いたナオミは、ルツにより善い生活を望んだのである。
2.ナオミの助言とルツの従順
さてナオミは、ルツに具体的な指示を与えた。からだを洗い、油を塗り、晴れ着をまとい、打ち場に下って行くこと、ボアズが寝る時に、その足のところをまくって寝ることである。なぜこのような指示をしたのかわからない。ナオミは、ルツが受け入れられやすいように際どい求婚を命じたのだと考える者もいる。ただ、男性が自分の覆い、つまり衣のすそを広げて、女性を覆うことは、妻として了承することを意味した。古代のアラブではもちろん、今なおそういう習慣が残されているところもあるという。
ボアズはナオミに「あなたの今回の誠実さは、先の誠実さにまさっています」(10節)と語りかけている。「先の誠実さ」は、ルツが夫の死後、故国を離れて異国の地まで姑のナオミに着いて来てナオミの生活を支え仕えたことを指している。「今回の誠実さ」は、彼女が貧しい者でも、富む者でも、若い男たちの後を追うのでもなく、自分の夫マフロンの名を相続地に残すために、かなり年上のボアズを夫として選んだことを指している。ボアズは家族を守ろうとするその誠実さを評価したのである。
3.神の導き、人の誠意、そして思い
ナオミにとっての懸念は、ルツの結婚だけではなかった。土地の買い戻しのこともあった。ナオミには働き手がなかったので土地を維持できなかったし、まとまったお金も必要だったのだろう。ユダヤには、人が貧しくなって所有地を売る場合、その親類がこれを買い戻すことができる買い戻しの権利があった(レビ25:25)。ナオミの願いは、ボアズがルツと結婚し、さらに土地を買い戻してくれることであった。そうすれば、ルツは夫を得て幸せになり、同時に生まれてくる子にエリメレクの名と土地を継がせることができる。ただ、ボアズはルツにとっても意中の人ではあったが、ボアズよりももっと近い権利を持つ親類がいた。買取の権利のある人との交渉は、4章に展開されるのであるが、ボアズは、筋を通そうとした。
ルツ記は、同時代の士師記の記録に比べると、人間の常識的な判断や考え方が大切にされながら物事が進んでいく。ある意味で誠実な物事の進め方が、読み取れる物語である。しかし、人間の誠意だけで物事がすべて動いていくわけではない。物事が誠実になされると同時に大切なのは、神が私たちの働きをどのように導いてくださるか、ということである。ナオミはルツに言った。「娘よ。このことがどうおさまるかわかるまで待っていなさい」(18節)。物事はなるようにしかならない、という考えもあるが、物事はすべて神の導きによって決まって行く。だから、今手がけていること、懸案中のことがあれば、それがどうおさまるかわかるまで待つ、神がどのように働いてくださるかを見届ける気持ちを持つことが大切だ。今日も、あれやこれや、一つ一つの事柄に、神の業を見させていただくことに、心を向けていこう。

ルツ記2章

2章 神の裁きと思われることは、神のご計画に過ぎない。
<要約>
おはようございます。ルツ記、とてもよいですね。ナオミは終わりに、ルツは始まりに目を留める、信仰者の分かれ道です。信仰に立って生きようとするならば、常に、良きものを拒まれない神に期待し、神を仰いで前進するのみです。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.帰京
ナオミは、夫や二人の息子を失ったが、信仰で結ばれた嫁のルツが与えられた。二人は、旅をしてベツレヘムへと帰った。彼女たちがベツレヘムに到着したのは、大麦の刈り入れの始まった頃、現代の暦では4月ごろになる。二人の到着に、町中が騒ぎ出して、女たちは「ナオミではないか」と声をかけた。しかし、ナオミは、「楽しむもの」を意味する自分の名で呼ばれることを拒み、苦しみを意味する「マラ」と呼ぶように、と答えている。ナオミは「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」と語る。すべてを支配される全能の神が、全てを取り去って、丸裸でこの地に引き戻された、そんな思いで心は圧倒されていたのだろう。確かに、ナオミにとって、夫を失い、息子をも失うことは人生最悪のシナリオである。「苦しみに会わせた」というヘブル語は、マーラルの変化形で、マラと語呂合わせになって、強調されている。
3.神の摂理と落穂ひろい
ルツは、生計を立てるために、落ち穂拾いに出かける。当時、ユダヤでは、貧しい者と寄留者には、収穫後の落ち穂拾いの権利が与えられていた(レビ19:9)。彼女は、ある意味で屈辱的とも思える仕事を進んで買って出て、その仕事を誠実に、喜んでしようとしたのである。しかしそこに神の導きがあった。ルツははからずもボアズの畑へと導かれた。ボアズは、ナオミの夫の親戚で、エリメレクの一族に属する有力者であった。有力者と訳されたヘブル語には、「裕福な者」という意味もある。確かにボアズは町の有力者で金持ちでもあり、さらに買い戻しの権利のある親類であった。つまり、エリメレクは土地を所有していたが、跡継ぎがいなかったため、その土地は売られて他人の手に渡ろうとしていた。ボアズはその土地を買い戻す権利を持つ一人だったのである。
ボアズは、働き者のルツに好意を寄せ、落ち穂を拾いやすいように、畑にいる若い者たちに邪魔をせず、配慮するよう命じた。こうして、大麦の落ち穂拾いは、ルツにとって大切な生活の支えとなった。大麦1エパは、約22リットル。当時の一番上手な落ち穂拾いが普通に集めるものより、はるかに多い量である。ルツは期待以上に働いたのである。神はこのように自身の限界の中で、神に従おうとする者の生活を保証してくださったのだが、実はそれ以上のことをなさろうとしていた。ナオミは、かつて二人の嫁を思い、主の恵みを祈ったのだが(1:9)、その祈りと期待に応えようとされていたのである。
3. ルツの信仰の祝福
2章以降は、ルツの信仰がどのように祝されたのかを見る興味深い記録である。神を認め、神に従うようにナオミに仕えていく異邦人の女性ルツの信仰的な決断を、神は祝福された。ナオミは「主の御手が私に下った」「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」そのように自分や自分の置かれていた状況を見ていた。確かにそんな思いに囚われ、何の希望も持てないことが人生にはあるものだろう。神が私たちの敵になったと孤立無援な思いに満たされることが。しかし、終わりに見えることは始まりに過ぎない。ナオミと同じ信仰に立とうとしたルツは、ナオミと違って終わりではなく、始まりに期待した。生ける神が、力強く、その最悪のシナリオに、どのような続編を新たに書き加えてくださるかに期待した。大切なのはそのような信仰を持って、神の前に忠実に生きることである。困難な状況にあっても、その置かれた場にあって神を待ち望むなら、神は必ずよくしてくださることに間違いはない。どんな苦難にあっても、心を腐らせてはならず、あきらめてはいけないのであり、自分が置かれた限界の中で、主の恵みを仰いで、主を信頼し最善を尽くすことだ。主を信頼し、主を第一とし、主のために一切を献げる覚悟をする者に、主は、聖書に約束された特権と祝福を豊かに注いでくださる。神の裁きと思われたことは、神の祝福のご計画の一面に過ぎない。万人を愛される主を覚え、神が与えられた関係に忠実に仕え、与えられた仕事を期待以上にこなし、祝福にあずかったルツの物語が、日本人の私たちに対しても神の祝福の恵みを語っている。

ルツ記1章

ルツ記1章 ナオミとルツ
<要約>
おはようございます。今日からルツ記に入ります。ルツ記は、士師記の補足です。それは、後味の悪い、痛ましい記録を読んだ後に、ほっと安堵感と希望を与える内容を描いています。生けるまことの神に対する信仰を持つということが、あらゆる人間行動の基本であり、愛情の基礎でもあることを考えさせてくれます。今日も、主の恵みに支えられた豊かな一日であるように祈ります。主の平安
1.ルツ記について
1節、「さばきつかさが治めていたころ」とあるようにルツ記は、士師記の補足である。ヨセフスの古代史によれば、エリの時代の物語とされる。ボアズから四代目にダビデが生まれているから、ほぼ1150年頃の物語である。そこには、士師記に描かれた不法や争い、流血の風景は無い。一庶民の素朴な信仰生活が描かれている。不信仰と無秩序の時代にあって、迷いながらも主に信頼しつつ歩む、信仰者の歩みを読みとることができる。しかしそれだけではない。士師記が、続くイスラエル王制への序章となったように、ルツ記は、新約におけるメシヤ誕生の背景を記し、その意味を説き明かしている。
2.エリメレク一家に起こった不幸
さてイスラエルの地に飢饉があった。そこで、エルサレムの南八キロ、ベツレヘムに住むエリメレクの一家は、妻と二人の息子と共に、モアブの野に移住した。そこは、ベツレヘムから約100キロ、ヨルダン川を渡った、死海の北東高原地帯あたりに位置する。北は、アルノン川、南はゼレデ川に挟まれた地域である。トランス・ヨルダン屈指の農業地帯であり、小麦や大麦を産出し、ぶどう栽培に適し、羊ややぎの牧畜が盛んであった。
しかしエリメレクは、妻ナオミを残して死んでしまった。寡婦となったナオミは、モアブ人の女を、二人の息子に妻として迎えた。モアブ人は、アブラハムの甥のロトとその姉娘との間に生まれた子どもの子孫であり、イスラエル人やアモン人とも血縁関係にある(創世記19:39)。こうして彼らは十年の歳月を過ごしたが、二人の息子も先立ってしまった。 
二人の息子の名は、「病める者」を意味するマフロン、そして「消えうせる者」を意味するキルヨンで、まるでその人生を象徴しているかのようである。異国の地で一切を失ったナオミを(21節)、その地に引き留めるものは、夫と二人の息子の墓だけとなった。ナオミは、人生に何の希望も抱けず、その心は抜け殻になっていた。ナオミは言う。「主の御手が私に下った(13節)。全能者がわたしをひどい苦しみに会せた(20節)」と。もはや、神に期待はできない、神に見捨てられているのだ、そんな思いに満ちた心に何の希望があるだろう。しかし、そんな現実に、置かれることは、ナオミばかりではない。
3.ナオミの転機
ナオミにベツレヘムから豊作の知らせが届いた。故郷に戻れば、また新しい人生も開けるかもしれない。ナオミは、荷物をまとめて、故郷へ旅立っていく。旅の途上、ナオミは二人の嫁に自分の国へ帰るように勧めた。それぞれ自分の家に帰って、再婚し、平和な再出発をするように促すのである。ナオミは言う「新しい夫の家で安らかに暮らせるように」(8,9節)。安らかにと訳されたヘブル語は、メヌハー、ナオミは、二人の未亡人の生活の安全を考えたのである。実際、モアブ人の嫁がイスラエルの地に住み、生計を立てていくのは困難であった。ユダヤ人はが律法によって外国人との結婚を禁じられていたからである(申命23:3)。彼女たちがモアブを出るなら、再婚して夫の保護を受ける可能性は断たれてしまう。その現実の厳しさと二人の嫁の幸せを考えればこその勧めであった。もはや歳を取ったナオミに、二人の嫁たちにしてやれることは何もなかった。だからナオミは二人を説得した。
4.ルツの信仰告白
弟の嫁オルパは、この勧めに従った。しかし、兄嫁のルツは、あくまでもナオミについて行くと拘った。夫に先立たれたルツは、同じく夫に先立たれたナオミの将来を、強く案じたのであろう。今日のような社会保障のない時代であれば、寡婦の老後を気遣う人間的な思いはよく理解されることである。しかし聖書は、それ以上にルツが、ナオミの愛する神を見上げ、ナオミと心を一つにしてその神に仕えたいと考えていたことを明らかにしている。ルツは、告白した。「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(16節)」ナオミと行動をともにすることは、モアブ人のルツにとっては最悪のシナリオになりかねないことであったが、それ以上に、ナオミの信じる神が、ルツの心を捕えていた。可哀そうだけでは、物事は続かないし、解決にはならない。損得で動くことも同じである。何事かを成し遂げる行動には、皆崇高な深い動機が必要である。
ルツは安易な将来よりも、神に生きる信仰の生涯を選択した。キリスト教信仰に導かれるというのは、キリスト教の思想に賛同する以上のことである。それは、聖書が語る生ける神に信頼することであり、その神に従う人生を生きることである。「ナオミが死ぬ所で自分も死に葬られたい」と堅く決意するルツをナオミは受け入れる他なかった。神に堅く結びついて、どんな苦労も共に乗り越えるという同労者の心意気は、人の心を動かすものとなる。