サムエル記31章

31章 サウル家の終わり
<要約>
おはようございます。サウルの生涯をどのように読むのか、ダビデとサウルを対比し、ダビデは神に愛され、サウルは神に憎まれたと読むべきでしょうか。私はそうは思わないのです。ダビデも、サウルも神に愛された、と読むべきで、その本質的な違いから、私たちの信仰のあり方を考える必要があります。つまり本質的な違いは、「神が闇」と思われる時に、どう生きるかにあると言えます。神は光であり、神に暗いところは一つもない。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.サウルの死
サウルの死の記録である。これをどのように読んでいったらよいのだろうか。多くの人は、ダビデとサウルを対比する。そしてサウルの失敗を、サウルの性質に帰すのが常である。妬みと憎しみに駆られて、ダビデを追い詰めようとしたサウルは自ら滅んでいった、と。ダビデの長い戦いが終わった。ダビデが手を下す必要はなく、悪者は自ら滅び、正しい者が揺るがされ、破滅させられることはない、と。神は正しく、また最善をなしてくださるお方である、と。
確かに、そのような霊的な教訓を読み取れないわけではない。神の御心に逆らい、自分の権威を守ろうとするサウル。しかし、そのサウルの性質に、サウルの失敗と滅びの原因を見ようとすることはあまりにも、同じ人間として痛ましい。というのも、そのような性質を造られたのも神ではないか。神がサウルを未熟な人間として造り、あるいはそのようにしか生きることのできない環境を許されたのではないか。それなのに、サウルの性質の故に、サウルを滅ぼされるというのは、あまりにも神が身勝手ではないか、とすら思われるのである。だがキリスト教会は、そのような注釈に実に慣らされてきている部分がある。人間の善悪を評価し、彼は悪であるがゆえに、神の裁きを受けたのだ、と。
しかし、サウルが、悪であった、というよりも、彼が神の闇に目を注ぎ続けた問題は認められるかもしれない。神は光であって闇がない、という。しかし、神は謎めいていて、人にはこれを肯定することができない時があるものだ。だから、ダビデがサウルと決定的に違ったのは、詩篇に証言されているように神が闇に見える時にも、ダビデが神に信頼し続けたことだろう。サウルに妬まれ、憎まれ、執拗に命を狙われたダビデは、先の章では、そのダビデを理解し、ダビデを支えようと共に行動した者たちにも反逆され、絶体絶命の状況に置かれている。神が善であるなら、なぜ神はダビデの足元をすくう様なことをされるのか、と思うこともあるだろう。しかしそこで、ダビデは、主の名によって、奮い立っていく。それはこの先もこの後も決してありえない、という最後の奇跡的な奮い立ちであったのかもしれないが、ダビデはなおも神の善に期待し続けるのである。
人はぎりぎりまで、いやぎりぎりを超えて、もう何の望みもないという所まで追い詰められることがある。ビジョンは薄れ、熱意が衰え、行動力の一かけらもない、という状況にまで置かれる。何もかも自分の中から枯渇していくばかりか、自分は神の呪いと神の攻撃にさらされており、この先何の祝福もないのだ、と追いつめられることがある。しかし、そうではない。そういう時もあるのだ、となおも主の愛と光を認め、主にあって奮い立ち続けていく、「主は与え主は取られる、主の御名はほむべきかな」と主に栄光を帰していく。そこに、ダビデとサウルの人生の明暗を分けるポイントがあったと考えたい。
というのも、アダムが堕罪して以来、人生は不条理なものとなったのであり、悲しいことにその不条理さの中で人間は人生を生きることを余儀なくされている。そのような中で、それを神の失敗であるとし、神の差別とエゴを思い、神を拒否るような思いで生きていく自由もあれば、なおもこの複雑で不条理な社会において、一人一人の最善を導かれようとしておられる神に信頼する思いで生きる自由もある。不条理な人生にあって、神を否定するのでもなく、迷信的に信じるのでもなく、ただ善きお方として信じていくのである。
そのような意味では、信仰者は難しい時を上手に乗り越えていかなくてはならない。そのためには、神の約束を繰り返し心に留めることだろう。神の約束にこそ希望といのちがある。そして、その神を繰り返し、呼び求めなくてはならない。私たちの人生は神の業の結果である。神の業がなされることに希望を持つためにも、祈りを持って神との交わりの時を過ごしていくことが助けとなる。
2.サウルに対する神の恵み
そして、ベテ・シャンについてのもう一つの事実を理解することがまた、しばしば神を闇と思ってしまう私たちを神へと押し出す助けとなるだろう。というのは、ベテ・シャンは、イスラエルが征服できなかった町の一つである(ヨシュア17:11)。そこは、発掘調査により、エジプトの支配下にあったが、イスラエルがパレスチナに定住するようになった時には、ペリシテ人が支配する町となっていたことがわかっている。そしてそれは深い堀で防備され、重装備の難攻不落の町であったとされている。イスラエルの国の領土とされた区域の中に、そのような町があった。ということは士師の時代がそうであったように、サウルの時代も、イスラエルは決して強力な国ではなかった。それはいつでも瓦解する危険性のある国であり、強敵に囲まれ、強敵の中に微妙な形で共存する、気弱な国家であることに間違いはなかった。要するに、それは、荒野の40年間奇跡的に守られた先祖たちと同様に、奇跡的に護られて生き延びていた国であったに過ぎなかったのである。となれば、神がいかに、忍耐深く、サウルと共にあったかを思うことが大切で、神がサウルに敵対し、ダビデに味方していたということはない。私たちは聖書の言葉の表層ではなく、真意を捉えるべきである。
事実、サウルの物語は、散々な悲劇で閉じられることはなかった。サウルの首ははねられ、遺体は、晒しものとしてベト・シャンの城壁に吊るされた。武具は、アシュタロテの神殿に、戦勝記念として奉納された。しかし大切なのはその後である。ヤベシュ・ギルアデの人々が、命の危険を犯し、サウルと彼の息子たちの釘付けにされた遺体を取り外し、ヤベシュへ持ち帰り火葬した。彼らは、かつてアモン人ナハシュに攻撃された際に、サウルに助け出された恩義を忘れていなかった(1サムエル11章)。彼らは、サウルの骨をヤベシュにあるタマリスクの木の下に葬ったという。これは、イスラエルの習慣であって、神聖な場所に丁重に葬ったことを意味している。後にその骨は、一族の墓に移されている(2サムエル21:12-14)。
考えさせられることは、たとえ、サウルのように不機嫌に満ち、憎悪と嫉妬と暴力を露わにする王であれ、神は、その死を粗末にはされなかった、ということである。サウルに恩義を感じた者たちの心を奮い立たせ、サウルの死が弔われるようにさせてくださった。また、後に、情に深いダビデを用いて、一族の墓に落ち着かせてくださっている。私たちは不誠実ではあるが、神は真実である。神の真実さに期待し、いよいよ神に近づき、神のあわれみに寄りすがる者であろう。

1サムエル記30章

30章 主にあって奮い立つ
<要約>
おはようございます。創世記のヨセフもそうでしたが、泣きっ面に蜂、重なる災いと言うものがあります。ダビデも、神がおられるのなら、どうしてこんな不幸続きなのか、と思わされるところを通らされています。しかしそこでダビデは、主の誠実に信頼し、主にあって奮い立ったのです。そして主は真実でした。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.支援者に見捨てられるダビデ
 ダビデにとっては、最悪の事態が生じた。サウルと戦う危機から守られたと思った矢先、ツィケラグに戻ってみると、暖かく出迎えてくれるはずの家族は皆、捕虜とされ連れ去られ、町は焼打ちにされていた。悲痛な思いに圧せられたダビデの従者たちが、ダビデに怒りを燃やし、ダビデは足元からその存在を脅かされていく。
人生は複雑である。しばしば理解しがたい展開となることがある。そもそもの発端は、サウルの妬みにある。質の悪い上司に憎まれただけのこと。そのような破壊的な妬みと憎しみにさらされたら誰でも自分を守ろうと必死になるはずだ。だから孤軍奮闘の中で、自分の側に立って支えてくれる人が起きることは慰めであり、励ましとなる。しかし、それが、そのような支援者からも見捨てられていく、さらには攻撃されていくという、絶体絶命の窮地に立たされている。このようなことは、人生に起こりかねないことである。
しかし考えてみれば、土壇場において弟子たちに見捨てられ、さらに、十字架において神にまで見捨てられたイエスを思えば、ダビデの混迷もまだ序の口であろう。彼は神には見捨てられることはなかったのだから。
2.ダビデの解決
ともあれ、敵のみならず身内にまで攻撃されるような、絶体絶命の窮地に立たされたダビデはいかに、その危機を乗り越えたのか。「ダビデは大変な苦境に立たされた」という。そして彼は、その苦悩の中にあって、「自分の神、主によって奮い立った」という。実に、神が私たちを見捨てられることがないのであれば、どのような苦境においても命ある限り希望はある。主によって奮い立てるか否かが問題なのだ。ダビデはこの苦境にあって、神を恨んだり、毒づいたりするのではなく、むしろ神に信頼し続けた。ピンチはチャンスと言われるが、それはまさに神の誠実を覚え、神の御業と栄光を仰ぐチャンスである。ダビデは祈っている。「私の心の苦しみが大きくなりました。どうかこの苦悩から私を引き出してください。」(詩篇25:17)。
 ダビデは、主に伺った。そして主の指示に従って、すぐさま、全兵士を引き連れて追跡を開始した。しかし、その行軍についていけない者たちが生じた。実際、南部の砂漠地帯を旅するのは、疲労を増し加えるのみならず、あてのない追跡になりかねなかった。おそらく、ダビデの一行が、たまたま、瀕死のエジプト人を見つけることがなかったなら、アマレクの略奪隊を探し当てることもできなかったかもしれない。
 ともあれ彼の道案内のおかげで、アマレクの陣営を発見することができ、らくだで逃げた400人を除いて、彼らを皆殺しにし、すべての捕虜や略奪品を取り戻すことができたのである。ダビデの危機は回避された。
3.主の助けを受け止めるダビデ
 帰途、ベソル川で残された者たち、つまり疲れて戦いに参加できない者たちと合流した。行軍の途中で脱落した彼らに、戦利品の分配を拒否する声があがった。ダビデが裁可を振るっている。この戦闘の勝利は主によるものであると、ならば戦利品は主のものであるし、主がこれを聖絶するのではなく与えてくださるならば、戦場で戦った者も、後方の陣営で荷物の番をしていた者も平等に分け与えなくてはならない、という。まさに、自分の力ではない神の恵みで回復されたことであるなら、それは恵みとして受け止めなくてはいけない。また、ダビデは、同じように略奪にあっていたユダの人々を忘れなかった。ダビデは、ユダの人々に、主の敵からの戦利品の一部であるとして、ユダの長老たちに贈り物をする。ダビデが私腹を肥やそうとはせず、補償を考えたことに注意すべきである。私たちを守るのは、正しい信仰と良識である。常に良識を働かせ、主に与えられたものを与えられたものとして活用する者であること。そのようにして神の助けと守りを得、神の真実さを味わって生きる者とさせていただこう。

1サムエル記29章

29章 イスラエルの敵陣に立つダビデ
<要約>
おはようございます。窮地に立たされたサウルに続いてダビデが描かれています。サウルもダビデも窮地に立たされている。良いことも、悪いことも、全て等しく皆に与えられるのです。その中で、いかに、神を信頼し、神の善であることに躓かないかが重要です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.窮地に立たされたダビデ
先にサウルが窮地に立たされている状況を見たが、ダビデはダビデでまた窮地に立たせられていた。彼は戦争に駆りだされたのであるが、相手は同胞のイスラエルであった。それは、たとえ自分のいのちを救うためであっても、本来手を組むべきではない者たちと手を組んだ結果であった。しかし、アキシュ以外は、誰も、ダビデのことを信用しなかったために、ダビデはこの窮地から救われることになる。
私たちもしばしば、本来近づいてはならないものに近づくことがあるだろう。「不信者とつりあわぬくびきを負ってはいけない」(2コリント6:14)とは言われているが、それこそ様々な意味でつりあわぬくびきを負って歩むことがある。ダビデのように間違った陣営に迷い込んで、結果的には神のみこころとはおおよそ異なる行動を要求されることがある。
ダビデはアキシュに自らの誠実さを主張しているが、実際はそうではない。ダビデは二枚舌の大ウソつきであった。アキシュはダビデを「何のあやまちも見つけない」(3節)「正しい人」(6節)「神の使いのように正しい」(9節)と評価したが、彼は完全にダビデに騙されていたのである。しかも、その嘘と偽りに塗り固められた人生は、「このしもべに何かあやまちでもあったのでしょうか」(8節)と堂々とはったりをかますほどに、完璧なものであった。しかしながら、ダビデのこのような倫理観をどう考えるべきであろうか。ダビデはその心の矛盾に悩んだのであろうか。
ダビデは詩篇で謡っている「あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください」(56:9)。憎しみと敵意の集中砲火を受け、まさに先の見えぬさすらいの人生を歩まざるを得ない状況の中で、その心はねじれにねじれ、ダビデ自身苦しんでいたのだろう。
イスラエルの王位を約束されたダビデにとって、王国から蹴り出され、一つの小さな独立勢力とさせられてしまったその気持ちはいかばかりであろうか。能力や人望がありながらも、それらを頭ごなしに否定されていくのである。しかしそのような状況にありながらも、ダビデは謡うのである。「神にあって私はみことばをほめたたえます。【主】にあって私はみことばをほめたたえます。神に信頼し私は何も恐れません。人が私に何をなし得るでしょう。神よあなたへの誓いは私の上にあります。感謝のいけにえであなたにそれを果たします。まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために。」まさに、信仰を働かせることのできない状況にあって、信仰を働かせることを学ばなくてはならない。
2.もっとパット救ってくださってもいいのに
ただ、このようなダビデの状況を見ながら、憎しみと敵意の集中砲火の中で、まさに先の見えぬさすらいの人生を歩む、そこで命拾いするだけ、それを神のあわれみと思うだけの人生なんて、どんなものか、と思われることもあるのではないだろうか。人によっては、そんな救われ方ではなくて、すっきり救われたい、と思うところではないだろうか。サウルが即座に王位から追放され、ぎたぎたにされ、ダビデが翌日からでも王位に返り咲き、意気揚々と新しい出発をするような、そんなことでも起これば、神が私たちを救ってくださった、神が私たちの味方であるとはっきりと理解できるのに。どうしてこのような微妙な救い方なのか?と。しかし、ダビデは後にそれを実感して、ミカルに軽蔑されるという状況に至るのである。神の救いは、やはりちょうどよい時があるというべきなのだろう。微妙な救い方であっても、命ながら得ていることに、先の祝福があると考えるべきである。
3.神に躓かない
しかもダビデの不誠実さにもかかわらず、神は、着実に、ダビデの手に王国取り戻される道を整えておられたことに注目したい。神は、ご自身の永遠の定めを変えられることはない。神が始めてくださった救いのみ業は、私たちの状態とは関係がなく、日々完成されていくように導かれている。神はご自身の愛する者のために、すべてのことを働かせて益とし、最善をなそうとされている。だから「私に躓かない者は幸いである」とイエスが語ったように、善き神に躓かないことである。私たちの人生は、イエスの十字架の恵みによって、神の祝福の中にあることは確かなのだから。私たちが不誠実であっても、神は真実である。
神は死せる者の神ではなく、生ける者の神である。神は生きておられる。その豊かさを感じるのは、ダビデもまだ先のことであった。だから自分が神を信用せず、間違ったパートナーと手を組み、誠実さどころか、偽りで塗り固められた人生を歩み始めていると思うことがあるなら、潔くそのことを認め、神のあわれみに寄りすがることなのだ。神は、思いがけない結果を導いてくださる。私たちの真実さを回復させてくださる。その片鱗しか感じられないような中でこそ、神に信頼しつつ歩んでいくのが、信仰なのであり、信仰者の成熟でもある。

1サムエル28章

28章 サムエルを呼び出したサウル
<要約>
おはようございます。窮地に立たされる二人が描かれて行きます。ダビデも、サウルも共に窮地に立たされていく。しかし、その窮地の結果を定めるのは、それまでにいかに神との関係を築いてきたかにあることを改めて思わされるところです。神と良き時を過ごす日々がいかに大切かを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.追い詰められたサウル
 ダビデは、アキシュの護衛になり、イスラエルへの戦闘に備えるように命じられる。ダビデは窮地に立たされた。このダビデを解放する神のあわれみは、29章で学ぶ。
一方、長い間ダビデを敵としていたサウルもまた窮地にたたされていく。ペリシテ人がシュネムに陣を敷きイスラエルと戦おうとしていた。シェネムは、最北の町アフェクよりさらに30キロ北、つまり彼らはいつの間にかイスラエルの奥深くに侵攻し、ヨルダン川を制圧する勢いにあった。サウルの根城はギブアにあったから、彼がいかに北へ北へと退陣を迫られ、追い詰められ、潰滅寸前であったかがわかる。神に背を向け、ただ自らの力を信じて歩んできたサウルである、もはやサウルを守るものはなかった。サウルは、「ペリシテ人の陣営を見て恐れ、その心はひどくわなないた」とされる。「サウルは、主に伺ったが、夢によっても、ウリムによっても、預言者によっても答えてくださらなかった」(6節)という。サムエル亡き後、サウルに助言や励ましを与える者はなく、主の御旨もわからない。すでにサウルは、霊媒や口寄せに頼ることを忌み嫌い追放していたが、神も立ち去り、孤立無援の状況にあって、自ら追放した者たちに助言を頼る皮肉な結果に陥っている。サウルがいかにかつての信仰から堕ちてしまったかを物語っている。サウルは死の世界からサムエルを呼び出し、この危機にあって導きを得ようとした。
2.霊媒の宣告
だが実際のところ、サウルは答えを得られなかったわけではない。もうすでにすべきことはわかっていたはずなのだ。ただ、それが自分の思うとおりではなかったから、他の答えを探し続けていたのであろう。人の心にある頑迷さに、注意しなくてはならない。人は常に、自分の心に思う回答を求めて、人から人へと尋ね歩く者である。
サムエルが霊媒を通してサウルに語ったことはサウルを驚愕させることだった。「あすは、あなたもあなたの子らもわたしと一緒になるであろう。また主はイスラエルの軍勢をもペリシテびとの手に渡される」サウルは、ペリシテへの敗北のみならず、死を宣告されたのである。サウルは精神的な破たんを迎えることになる。
サウルの問題は、王位に伴う権威と権力を味わうことに執着し過ぎたことである。真の権威が、神にあることを忘れていく時に、人間は、権力がらみのことで失敗していく。サウルは、自らの地位も権力も与えられたものであり、いつでも潔くそれを返さなくてはならないことをわきまえていなくてはならなかったし、神に地位と権力を与えられた以上、神の預言者を通じて語られる神のことばには徹底して聞き従わなければならなかった。だが、サウルは預言者に全面的に聞くことができず、自分を主張しようとした。自分を神としたのである。そこにサウルの破滅の根本問題がある。
サウルに神の答えがなかったというのは、もはや神は十分語っており、これ以上語るべきことはなかった、ということである。ともあれ、このサウルの結末に教えられることは、私たちは、いつでも究極の権威者である神を覚え、神に従い、神に与えられたものはいつでも返す心備えをしておくべきことだろう。自分ではなく、神に聞き従う謙虚な心を持ち、神のしもべとしてあることを忘れてはならないことだ。そのような心が失われる時に、私たちは本来敵とすべきではないものを敵として、ある日、突如本当の敵に直面させられる結果となる。
敵とすべきではないものを敵としているサウル的な自分に気づいたら、いつでも悔い改めることが大切だ。そうでなければ私たちは、知らずに、自分の破滅を準備することになる。長く的外れな人生を歩み、突如の危機に何も準備を出来ていない自分に愕然とさせられることになる。真の敵を見誤らない歩みを今日も歩ませていただこう。

1サムエル記27章

27章 ガテに逃れたダビデ
<要約>
おはようございます。隅谷三喜雄氏は、日本人の信仰は、二階建て信仰であると語っています。つまり、礼拝で教えられ、確信するところと、通常の生活とでは違う原理で生活をしている、というわけです。信仰の確信がいかに日常性の中に生きていくか、これは信仰の成熟の問題でもあるでしょう。信じたとおりに人生を歩んでいくことはなかなか難しいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.ダビデの迷い
「【主】よいつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(詩篇13:1)
ダビデがこの時に書いた詩篇であると言われる。サウルに殺意を向けられ、執拗に追跡される辛さは、何と言っても、憎しみを向けられていることにあっただろう。なぜそれほど憎まれなければならないのか、疎まれなければならないのか、人の憎しみや悪意は、それを向けられた者の心を食い尽くし、心のエネルギーをすべて奪ってしまう。変わることのない敵意を向けられていることほど耐え難いものはない。
しかも、ダビデは二人の妻のほかに、600人の部下と彼らの家族を抱えていた。ナバルの土地によって彼らを食べさせていく可能性はあっただろう。しかし、ダビデを殺すと決意し、3000人の兵を引き連れて再びやってきかねないサウルから、彼らを守り続けることは、難しいものがあった。多くの責任と可能性を感じながら、自分の身を守るだけではない、共にいる者たちの生活をも守らねばならぬ状況にあって、「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。」という思いに圧倒され、もはや神の大どんでん返しを期待するなど、現実的には全くありえない状況であった。
しかしこれが信仰者の置かれる現実である。「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである」(ヘブル11:1)とある通りで、まだ見ていない事実に向かって歩み続けることこそ、生ける信仰そのものなのである。生殖能力においては既に死んでいるアブラハムとサラも、その道を通らされたのであり、また、指導能力においても既に無能であったモーセも同じであった。神の大どんでん返しを期待しえないところで、いかに期待を持ち続けて、前に進むかどうかなのである。
2.ダビデの迷いの末
さてダビデはガテに逃げ、神ではなく、敵将の保護を受けようとした。結局、ダビデは信仰をもって前に進み続けたようではあっても、いささか中途半端で、神ではないものに寄りすがって、目に見える具体的な助けに寄り頼んでいく。ダビデもまた普通の人間に過ぎなかった。ダビデは、合理的に考えて最善と思われる道に進み、少なくとも1年半はサウルの追跡を恐れることなく、平和な時を過ごしていく。
しかし、それはまがい物の、偽りで塗り固められた平和に過ぎない。ダビデはサウルとの間に距離を置くことができ、しばらく平和な時を過ごしたが、実際には略奪で、家族と部下を養わなくてはならなかった。ダビデはそのような秘密が漏れることを恐れて、皆殺しの横暴を働かざるをえなかった。そして常に神を賛美する口でもって、偽りを語り、アキシュを騙さなくてはならなかった。たとえ敵に対してであっても、神の御前で聖さを求め、神を賛美する者が、同じ舌で、偽りを語るのである。ただ、ダビデ自身がその倫理的な破綻に悩んでいたかどうかはわからない。彼の心の平安は完全に破られたのではないか、と思われる状況ではあるが、ダビデのそのような心を明かす詩篇はない。むしろ、この時期の詩篇には、霊的なアップダウンの中で、最終的には神への期待が語られる。どうしたのだろう、と思うところだが、考えてみれば、ダビデはそのような虫けらのような罪深い人間に対する神のあわれみ深さを思うことによって、ただ神に感謝せざるを得ない、ということもあったのだろう。
というのは、この時、ダビデはもはや、サウルの率いるイスラエルから独立した勢力として、ガテの王アキシュとの同盟関係を強めようとしていた。ダビデはアキシュにツィケラグの領地をあてがわれたが、それはもともと、ユダの町として登録されていた町である。それまでその町は決してユダ族によって占領されたことも、ペリシテの土地であったこともない。だが、不思議な摂理の下、ダビデはそれをイスラエルの土地とすることができたのである。そして、さらにダビデは、最南の地に住むイスラエル人たちと関係を築いていくことになる。中途半端な信仰の故に、合理的に行動した結果にも神の恵みがあることを覚えるならば、ただ自分の愚かさと自分の無力さの中で、その矛盾に悩みつつも、ただ神に感謝し、神のあわれみに続けて寄りすがるという思い以外にはなかった、ということである。
しばしば、私たちの人生には、信仰に立つということが、自らの力を超えたことである状況に置かれる。神は、人選を間違えたのではあるまいか、こんな私を引っ張り出し、私の手には負えない働きを負わせようとしている。否、私が神の御心を読み間違えて、全く検討違いのことに首を突っ込んでしまったのではあるまいか。だから、今まではなんとかやり過ごせたがこれ以上は、状況が悪くなるばかりで、もう手には負えない。ここで、すっぱり足を洗って、別の道に進むべきではないか、そんなふうに考えてしまうことがあるものだろう。私たちは、心の中で自問自答し、最終的には自分で答えを定めようとしてしまう。しかし、そうではない。自分ではなく、まして他人の助言にでもなく、神にこそ答えを求めていく必要がある。ひざまずき、祈り、主が語られるまで待ち、神がなさろうとしていることを見定めていくことなのだ。耐え難い試練の中で、敢えて神の言葉を待つ信仰の高みへと引き上げていただこう。