1歴代誌29章

29章 神殿建設のために献げる

<要約>

おはようございます。教会の建物はセメント捏ねれば建つが、教会そのものはそれでは建たない、と言われます。確かに、これまで、歴代誌の著者が教えてきたのは、神殿に関わる人についてです。祭司とレビ人を中心とする霊的な秩序と、それを支える体制について語ってきました。最後は、実際に必要を満たす、経済的な支援について語っています。献金は信仰のバロメーターというように、やはり献げ方にはその人の信仰の姿勢が表れるものでしょう。そして惜しみなく献げる人は、主の豊かな報いを受けることも確かなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿のために献げる

ダビデは全集団を招集して言った。神殿のために献げるように、と。ダビデ自身、神殿建設のために多くのささげ物をし、同じように惜しみなくささげる者がないか、と尋ねている。王家のためにでも、プロジェクトのためにでもない、ただ神のためにささげるのである。ダビデは、金3000タラント(約100キログラム)精銀7000タラント(約240キログラム)、さらに、全焼のいけにえのために、雄牛1000頭、雄羊1000頭、子羊1000頭のいけにえをささげた。量や額の問題ではないが、ダビデの気前のよさは、ダビデの神に対する心を表している。

その思いに応じたのだろう。一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊、百人隊の長たち、王の仕事の係長たちも、みずから進んでささげた、と言う。嫌々ながらでもない、惜しみながらでもない、全き心からささげた、のである。今日で言えば、牧師がささげ、執事がささげ、そして信徒がささげていく、ことだろう。

私は海外に行くとよく、この土地ではどのくらい献金をささげたらよいのかと同行者に聞かれたりする。その度に、その国のランチ一食の金額を目安にしたらよいのではないか、と答える。東京であれば、1000円というところだろう。そうすると私のランチは500円以下だという人もいたりする。その場合神は500円程度の違いに目くじらを立てるような方ではないのだから、心を見られる神に、喜んでささげられる程度にすればよい、と答える。そもそも、私たちは、1円、2円の違いには目くじらをたてることはない。だが、500円、1000円の違いはいささか微妙かもしれない。だが、考えてみれば、この天地万物を創造し、宇宙を支配し、豊かに富んでおられる神に、何百億、何千億の差など1円、2円の差のようなもので、まったく問題にならないことだろう。神が求めておられるのは献げる心なのだ。だから、何百億、何千億の差を少しも問題にされない豊かな神の子とされている事実に立って、気前よく、豊かに、献げていくのが本当ではないかと思う。そのような物質欲から解放された豊かさのある教会であればこそ、物質欲で疲れ切った人々の居場所となる教会にもなるはずなのだ。解放された、豊かにささげる心が大事なのである。

  • ダビデの祈り

さてダビデの祈りには四つの要素がある。

1)讃美:「主よ。王国もあなたのものです」(11-12節)ダビデは、神を偉大であると賛美する。神が王国の至高の頭であり、支配者であることを認めている。その至高者が、私たちに約束通りにすべてのものを与えてくださる。

2)感謝:「私たちの神、私たちはあなたに感謝し」(13節)

3)告白:「すべてはあなたから出たものであり、私たちは御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」(14-16節)全てのよいものは、上から来る。神の賜物である。私たちの肝に銘じるべきことである。ダビデが認めているのは、神の至高性だけではない。人間に対する神の誠実さである。寄留し、影のような存在である私たちに対する神のあわれみと熱心さである。つまり、ダビデやソロモンの成功は、彼らの能力や力によるものではなく、神のあわれみによる。神は優れた彼らを見出し、愛され、その力を祝されたわけではない。ただ神のあわれみによって彼らが選ばれ、愛され、約束の通りに、祝されたことによる。そこに、私たちの望みもある。

またそうであればこそ、神に対するささげものは、余力があるからするのではなく、そういう力があるからなされるものでもない。神がそのような力を与えてくださる、備え物を用意してくださるのだ、と言う。まさに、「主の山の上には備えがある」(創世記22:19)というアブラハムの告白を思い出すところだろう。

4)祈願・とりなし:「主よ。御民のその心に図る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。」(17-19節)ダビデは自分の祝福を祈らず、民とその子ソロモンの忠実さを求め祈った。「彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください」(18節)誠実を保ち、あなたに身をささげていくことができますように、と。「また全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて」(19節)と。礼拝の民を導く者に必要なのは、このとりなしだろう。自らの神に対する信頼が伝わるほどにとりなしていくことが大切なのだ。

3.神殿の意義

なお、ここでダビデが、ソロモンに託した神殿建設について、神殿を神殿とは呼ばずに「宮城」と呼べることばで表現していることに注目させられる(1節)。ダビデは、言い間違えたわけではなく、敢えて、19節でも「宮城を建てさせてください」(19節)と繰り返している。ダビデにとって神殿、神の宮は城である。そこに自分の守りがあり、砦があり、本拠があるというわけだ。教会も同じである。教会は、今どのような場になっているのだろうか。魂の救いと言いつつ、実際には、インパクトを求めて興行的にただ人集めに熱心になっている場であろうか。それとも、そこに集う人の、安心や安息が徹底して守られる場になっているだろうか。私たちがその完成のために全力を尽くすのは、それが、そこに集う一人一人にとって「城」となるためである。イエスが蹴散らした、商売の巣、強盗の巣とするためではない。

最後の26-30節は、主の約束と忠実さによって、ダビデとソロモンの治世とその繁栄がもたらされたと(25節)、理解すべき要約になっている。バトンはダビデからソロモンに渡された。しかし、それは、ダビデが用意したものではなく、主が設けられた王座であった。ソロモンを偉大にしたのも主であると繰り返される。主のなさることに目を留める歩みをさせていただきたい。

1歴代誌28章

28章 神殿の完成を目指す

<要約>

おはようございます。人にはそれぞれ与えられた使命というものがあるものでしょう。人生は、それを見つけ出す長い道のりです。その間、私たちは自分たちの気持ちの赴くままに、行動することが多いものでしょうが、神の選びと任務に気づくことは重要なことです。主がそこにご自身の栄光をあらわされるからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.つかさたちへの勧め

ダビデは、イスラエルのすべてのつかさを召集し、「私の兄弟たち。私の民よ」(2節)と呼びかけている。それは、あたかも23-27 章において中断された話題に戻っており、22:7-13を改めて繰り返しているようであるが、ソロモンよりもイスラエルの指導者に対する強調があり、神殿建設の工事がソロモンのみならず、国全体の事業として支えられるように勧めているのが特徴である。一般庶民も皆が祭司、レビ人たちのリーダーシップのもとに、一致し協力していくように23-27章の神殿の働き人の説明があったと見るのがよいのだろう。以下要点を整理すると次のようになるだろう。

①神の創造における「安息」の考え方が適用されている(2-3節)。神殿は「神の足台」であり「安息の家」である。それは、創造における神の安息が、神の働きの完成であったように、イスラエルに対する神の働きの完成を意味した。それは捕囚帰還の民にとって、彼らがエルサレムを再建し、安息を得るメッセージとなった。

②神殿を建てるための「選び」が強調され、任務への意識化が促されている(4-10節)。神は、人の内なる能力や功績とは全く無関係に、目的をもって、一人の人を選ばれた。またソロモンのみならずユダ族を選ばれ特別な任務を与えられた。それは、捕囚後のイスラエルにとっても、ダビデの子孫であるゼルバベルとその家族のリーダーシップを認め、与えられた神殿再建の任務を果たすことを促した。

③任務遂行のために、指導者たちとソロモンの神の律法に対する従順が促されている(8節、9-10節)。実際、神の選びは、任務を果たすためであり、そのためには従順な奉仕が期待されたのである。それは具体的に「神を求め」「神を知り」「神に仕える」ことを意味した。律法に対する従順は、イスラエルが約束の地を続けて支配する条件であるのみならず、神に与えられたエルサレム再建の任務を達成し、完成するために、カギとなる要素であった。実際律法を守ることは、エズラ(9:10-15、7:26)とネヘミヤ(1:7-9、9:33-37)の祈りにも強調されている。もちろん、こうした律法への従順は、ダビデ契約(1歴代誌17章)を土台としていることに注意すべきだろう。

④神殿建設は、神のプロジェクトであることが強調される。著者の時代、ダビデとソロモンの王国は、すでに消失してしまっていたが、永遠に生きておられる主の主権が置かれる神殿の再建は、目に見えない主の王国が継続していることを示唆している(17:15)。ソロモンは選ばれて、その神殿を建て上げる任務に導かれ、主の王座に就く恵みに与っただけであり(5節)、それはソロモンの力や建築家の技術によるものではない。これから新しく再建されるエルサレムもまた同じであり、それは教会についても言えることである。

2.ソロモンの勧め

さて、ダビデはソロモンに設計図を広げ、ビジョンを示している。それは、「神の家と神の庭」(6節)「聖所となる宮」(10節)であり、神が臨在される所である。まずそのイメージを明確にすることが、神殿建設の出発点となった。そしてダビデは、具体的に神の宮としての神殿にふさわしい仕様について説明する。

  • 神殿の構造(11-12節)
  • 神殿の働き人(13節):これは既に23-26章において詳しく述べられた。
  • 神殿の備品(14-18節)

であるが、「これらすべては主の手によって書かれたもので、私に、仕事の全貌を理解させてくれる」(19節)というわけだ。それは、ダビデの頭から出てきたものではない。主が啓示してくださったものである。既に述べたように、神殿建設は神のプロジェクトであった。教会も同じである。私たちは、一時代において仕えるに過ぎない。だから教会は神のものとして建て上げられなくてはならない。

3.ソロモンへの激励

著者は、ダビデの言葉を借りながら、神殿建設への取り組みを、繰り返し促している。「勇気を出して実行しなさい」(10節)。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにいてくださるのだから。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕に関わるすべての仕事を完成させてくださる」(20節)。神が助けてくださって神が完成させてくださる、と。また神の励ましに加えて、人的なサポートがあることに注目を与えている。歴代誌の著者が敢えて、ダビデの時代の出来事を取り上げ、捕囚帰還後の民にこれを語ることの意義がある。それは、互いの協力を呼びかけている。ソロモンには、色々な助け手がいていいなあというのではない。神がともにいる、そして、今ここに皆が一緒にいる、その皆で力を合わせて、建てあげて行こう、ということだ。礼拝の再建の第一歩は、神の恵みにより頼むことであり、また、今いる一人ひとりが、一致協力することだ。何か、物事の底辺に立たせられているように思える時には、ないものねだりをしてしまうものである。しかし、今共にいる一人ひとりを神が用いられるのだし、神が助け、完成させてくださるのだ、という信仰に立つことができれば、道が開けてくるだろう。

後は、勇気を出して実行するか否かである。勇気を出そうにも、出鼻を挫かれることがあるし、勇気の源が枯れていると思うこともあるだろうが、結局は信仰を働かせることだ。信仰のないところに祝福はない。「あなたを見放さず、あなたを見捨てず、すべての仕事を完成させてくださるからだ」(20節)と語る主に信頼して、神が託してくださった働きに大胆となりたいものである。

1歴代誌27章

27章 神殿建設を支える体制

<要約>

おはようございます。神殿再建、礼拝再建という、当時の社会が抱えた事情を背景に読み解くと、色々と、多くのことを考えさせられる章と言えます。教会形成も同じで、しばしば教会を建て上げる途上には、不協和音が高じることもあるものですが、主キリストの愛に立って福音宣教の前進へと努めてまいりたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.これまでの流れと背景

最初の捕囚は、BC722年、アッシリヤのサルゴン2世がイスラエルの首都サマリヤを陥落させた時であり、「サルゴンの年代記」によれば、27,290人がメソポタミヤやメディヤに捕え移されたと言う(2列王17:5-6)。また、二回目は、BC605年、597年、586年と、南王国ユダの首都エルサレムが、バビロンの王ネブカデネザルによって攻略されるまで、三度に分けて行われた捕囚であり、王家一族を初めとする多数の民がバビロンに強制移住させられた(2列25:2-21)。

バビロンを攻略したペルシャの王クロスが、ユダヤ人の帰還を許したのは、アッシリヤ捕囚から185年、最後のバビロン捕囚から49年経った、BC537年である。バビロン捕囚の期間を生き延びた者もいたのだろうが、多くは、かつてのイスラエルを知らない者たちであった。廃墟となり、塵と化したエルサレムの神殿跡地にたたずみ、帰還したユダヤ人は、自分たちの歴史を振り返りながら、エルサレム再建の道筋を探り、悟らなくてはならなかったのである(エズラ3:12)。

2.27章の意義

歴代誌の著者は、ダビデ時代のイスラエルの祭司、レビ人による歌人、門衛の役割と働きを書き起こしてきたが、この27章では非常に世的な事柄に触れている。つまり、国に関係する軍の将校(1-15節)、部族の役人(16-22節)、そして王個人の資産を管理する役人(25-31節)である。

しかしながら、まず1-15節の軍の将校について言えば、彼らは、一個師団24,000人、12師団からなる軍隊を指揮するかのように思われるが、実際に、軍隊の核となったのは、1歴代誌11章に記された3人プラス30人の勇士たちであったと考えられる。そして、28章とのつながりからすれば、彼らは、いわゆる常備軍を指揮するというよりは、月々の税金を集める責任を持ち、神殿建設に貢献するために建てられたと理解すべきところである。しかも、ソロモンの行政は、地理的地域的に全体を掌握するものであったが、ダビデのこの組織は、そこに至る発展途上のものであり、十二人の隊長のうち、6人がユダ族から、2人はエフライム族から、1人はレビ、そして1人がベニヤミン、残りの2人については出所がわからない。つまりダビデの個人的なつながりによる構成であった、ということだ。ただ、そうであれ、ここでわかることは、こうして神殿建設のための資金確保のための体制がソロモンほどではないが、何とか形作られたということであろう。

そして捕囚帰還から帰ってきた民が、この体制を理解することの意義は極めて重要である。彼らもまた、急ごしらえの政治体制で、神殿建設および城壁再建の偉業を成し遂げなくてはならなかったからである。

そのような意味では、教会形成にも似たような部分がある。開拓期が終了し始め教会が成長してくる時に、やはり組織化、秩序化が必要とされるのであるが、それは過渡的な組織であり、ソロモンが作り上げた体制にはまだ至らないままに物事を進めざるを得ないことがある。つまり開拓牧師、いわゆるリーダーシップとの個人的なつながりの色彩の濃い、急ごしらえの秩序体制、組織体制から、徐々に洗練された形に発展していく中で、教会活動は進められなければならないのである。大切なのは、体制の不完全さはあっても、それによって神の御心の実現に皆が一致していかなくてはらないことだ。集めるべきものを集め、提供すべき労力を提供していく。神の奉仕者としての一致した努力がなければ、建つべきものも建たないのである。

23節、24節の解説は、この時点での人口調査の結果が年代記に記録されない理由を示している。それは、ヨアブの怠慢のようでありながら、最終的には神の介入による未終了であることを示している。つまり、神はイスラエルの発展が天の星のような結果になることを確約している。となれば、結果ではなく、結果を出しうる一致した努力にこそ、重きがあるということになるだろう。神殿や礼拝を廃墟から再建しようとするネヘミヤやエズラの努力は、しばしば不協和音によって乱されたが、教会形成においても、教会の構成員がそのような不協和音の震源となるようであってはいけない。むしろ、何事も良き方向で受け止めて、互いに信頼し、愛をもって助け合い、神の御心のなることを願うことが大事なのであって、そのような人員が多い教会であればこそ、神の祝福はいよいよ明らかになるだろう。

3.王の財産を管理する長

25-31節は、王の財産を個人的に管理する長のリストである。二人の宝物倉担当(25節)、農業の役人(26節)、ぶどう酒と油の役人(27-28節)、そして家畜の役人(29-31節)となる。非常に当時の時代を反映した、長の構成であるが、彼らは国全体を管理するよりは、むしろ王の個人的な財産を管理する者たちであった。兵站部門を担う縁の下の力持ち集団は、国家のみならず、ダビデ王個人にも及んだ。重要なことはこれを誰が読んだか、である。単なる歴史好きや読書愛好家に向けて書かれたものではない。捕囚帰還後のエルサレム再建にあたり、様々な配慮されるべきものが配慮されない状況の中にある人々に示唆的に、実践的に書かれたものである。主の聖霊が神殿再建にあたり、考えるべきところを考えるように、教え諭すために書かれたとしたら、これは、単にダビデ王の富の豊かさを語っているものではないことは、わかるだろう。実際ネヘミヤの事業の多くは、貧困救済(ネヘミヤ5:8)や税制改革であったり(ネヘミヤ10:37)、適正な所得の分配(ネヘミヤ13:10-13)であったりした。こうした中で、彼は、指導者の財産の見える化、透明性にも着手していたであろうことは確かである(ネヘミヤ5:4)。つまり、ダビデ王の時代の神の御前における誠実な政治の在り方は、当時の人々の参照とされた、と言えるだろう。

全ての人が、王でも祭司でもなく、長でもない。多くの人は、背後に退いて支える無名の働き人である。だが、崇められるのは、ただ主お一人、と影役者に徹して、力を尽くす奉仕者がおり、そして、物事の透明さが維持され、物事が正しく進められていることが確認できる体制がなくては教会形成も進まないのである。リーダーとして優れた者もいるが、部下として、あるいは奉仕者として優れた者がいる。それらを生かす、透明性のある秩序だった組織化も必要なのである。

最後に32-34節は、王の側近にいて相談役となった重臣のリストである。寝返ったアヒトフェル(2サムエル15:12)、脱落したエブヤタル(1列王1:7)、血の報いを受けたヨアブ(1列王2:28-35)の名がある。彼らも不完全なものであったに違いないが、ダビデ王国を築くには、重要な役割を演じた。人間には、忠誠を貫き通す難しさがある。神の幻の高さを実現する歩みが守られるように、自らの弱さを謙虚に覚えながら歩ませていただきだいところではないだろうか。

 

1歴代誌26章

26章 門衛

<要約>

おはようございます。レビ人は、いくつかの役割を与えられました。昨日はたとえて言えば、聖歌隊でしたが、今日は受付、会計、そして教育、行政といった働きです。それらは皆教会の任命を受けて、教会の働きとしてなすことが大事で、個人プレーでよしとされるものではありません。教会に根差し、キリストの体の一つの役割を担っていることを覚えて今日も、忠実に仕えてまいりたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.門衛について

門衛は、新約聖書では、「門番」と訳されている(マルコ13:34、ヨハネ10:3など)。数は4千人、主としてコラ族とメラリ族の子孫がその役割を担った(1-19節)。実際に彼らの仕事は、異教徒の攻撃や妨害から、再建したエルサレムの神殿を守ることにあり、それゆえ彼らには二つの特性が要求された。一つは勇士であること(6、7、8節)。いざという時には勇敢に行動しなくてはならなかった。また、思慮深い者であること(14節)。だれを通し、だれを阻むか、秩序をもって、大勢の人数をさばいていくためには、知恵が必要とされた。勇気と思慮深さ、これが門衛に要求されたことである。

彼らの奉仕は今日でいえば、教会の受付係に相当する。礼拝の奉仕ということからすれば、受付係は、週報を手渡す、出席簿にチェックする、仕事のように思われるかもしれないが、実際には、新しく来会した人の特性を一瞬で見分け、援助が必要な人には、それなりの手助けの出来る人へと導いたり、あるいは、霊的必要のあるなしを見極め、礼拝後、牧師に導いたりするぐらいの思慮が必要なのである。そのような受付係が居ればこそ、その教会は、教会としての機能を大いに果たすのである。

彼らの奉仕もくじで割り当てられ、それぞれが神のみこころと信じて、くじによってあてがわれた奉仕に就いている。旧約時代、くじは、神のみこころを知る手段としてよく用いられた。「くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る」(箴言16:33)とあるように、これは、後に、12使徒を補充する手段としても用いられている。つまり選ばれた者たちの間に優劣はない。神が必要に応じて選んでくださり、それぞれに奉仕を与えてくださるのであって、その奉仕をそれぞれが一生懸命忠実に行うのである。

2.宝物蔵を守る者

20-28節は、宝物倉を守る者たち、つまり財務担当についてである。これが門衛に関連して語られているのは、神殿の「宝物倉」が門の近くにあったからだろう。宝物倉は、二種類あった。「神の宮の宝物倉および聖なるささげ物の宝物倉」(20節)とあるように、前者は、聖な器具や通常のささげ物、いわゆる一般会計的な内容を保管する倉であり、後者は、これまでの戦いで得て聖別してささげられた戦利品、つまり特別会計的な内容を保管する倉(26-28節)であった。ただ神殿はこの書が記された時にはまだ建てられていない。

3.さばきつかさ

29節「外の仕事」は、神殿内部ではなくて外部の仕事である。彼らの仕事は「つかさとさばきつかさ」(29節)とあるように、律法を教え、律法に従って民をさばくことであった。また、「すべての主の仕事、王への奉仕」(30節)「神に関する事がら、王に関する事がら」(32節)とあるように、神殿納金と王の税金収納にも携わったと考えられている。いわゆる行政官である。ヨルダン川西方に1,700人(30節)、一方、「ルベン人、ガド人、マナセ人の半部族」(32節)つまりヨルダン川東方に、2,700人が割り当てられた。東方は多くの異教の国々と接していたため、神の律法から迷い出る危険も多く、そのように数が多かったという説もある。

ともあれ、門番、宝物担当、そして役人たちが選ばれて、神殿の奉仕に就いていた意義を、考える必要がある。今日でいえば、受付にしても、会計にしても、また教会学校教師にしても、教会において自分の果たすべき役割がある、という自覚のある人ない人ではやはり奉仕に対する取り組みも違う。奉仕というのは、思い付きでするものでもないし、自分が進んでやりたいことをやるものでもない。やはり教会の任命を受け、教会に対して責任を負う形ですべきものだろう。主が私たち一人一人を教会の働きに選び、任命してくださっている、という思いをしっかりもって、主の奉仕に携わらせていただきたいものである。

 

1歴代誌25章

25章 レビ人の賛美の奉仕

<要約>

おはようございます。レビ人は、いくつかの役割を与えられました。今日は賛美の奉仕です。彼らは、音の調べに合わせて神の言葉を宣言するのです。そのために、達人となる訓練を受けた、とされます。大切なのは、神の臨在を意識した礼拝賛美、ということでしょう。神にささげられる賛美を歌う者でありたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レビ人の役割:音楽家

すでに、23-24章では、礼拝の再興のために重要な役割を演じる、神殿に仕える祭司たちや、祭司を助けるレビ人について語られてきた。25章からは、さらにレビ人の詳しい役割が語られていく。彼らは、音楽家としての役割を与えられ、その主要三家族アサフ、ヘマンそしてエドトンが紹介される。彼らは、礼拝において楽器を奏でる、声をあげて歌う。ただその中心は、「預言」することであった。音楽を伴う預言、あるいは、音楽に乗せて神の言葉を宣言する、それが彼らの働きだったのである。

2.角を高くあげるをめぐって

ヘマンにおいては、「神の言葉を通して王の角を高く上げる」とされている。このことばは、1サムエル記2章のハンナの祈りに由来するものなのだろう。ハンナはそこで、祈って語っている「主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように(2:10)」角は、ほぼ並行的な関係で「力」と同義に扱われている。確かに、角は動物の力や強さの象徴である。ただ、新改訳2017では、「王の角」と強くされる者について補足がある。新改訳第三版では「角笛を高く上げる」と訳された。新共同訳では、単に原文通り「角」であり、角と訳されたヘブル語のケルンに、誰の角かを示す補足はない。英訳のNIVでは、明らかにその角は、ヘマンの角であり、その訳の印象は、口語訳「これらは皆、神がご自身の約束にしたがって高くされた王の先見者ヘマンの子たちであった。」に近い。文脈は、「主にささげる歌の訓練を受け、みな達人であった」(7節)、というものであり、新改訳2017がヘブル語ケレンの角に「王の」と補足を加えたのは、唐突な印象がある。

3.神の言葉を宣言する

補足については、細かなことであり、よくわからない部分であるが、大切なのは、彼らの働きが、神のことばを調べにあわせて宣言することにあり、そのために訓練を受けて達人の域に達していた点なのだろう。当時の聖歌隊は、男性のみで構成され、神殿の聖所の入り口に向かって賛美するように東の門の内側に並んで歌ったとされる。彼らはまっすぐ神のおられる聖所を見上げ、神に向かって、神のことばを調べに合わせて語り、神の忠実さ、神のことばの確かさを宣言したのである。私たちの礼拝では、司会者と会衆が向かい合って歌うことが多い。あるいは、丸く輪になって歌うことがあったりするだろう。形態は違わざるを得ないとしても、そこで意識されなければならないのは、神の臨在であり、その神にささげる歌を歌う、ということである。そしてそれが神のことばである、というのならば、神のことばの確かさ、神の言葉に対する誠実さを確認し、たたえる歌、その歌に対する注意深さを持つ意識が大事なのだろう。

ピーター・マスターという牧師が、六種類の礼拝を取り上げ、現代のキリスト教会に見られる礼拝の諸問題について指摘している。

1)個人的楽しみの礼拝:礼拝者の楽しみを第一に置くもの。

2)世的特質を持つ礼拝:世の中で流行している娯楽的な音楽を、用いるもの。

3)耽美的な礼拝:管弦楽団や器楽独奏を取り入れて美しさに耽ることを求めるもの。

4)恍惚的な礼拝:きわめて情緒的で、陶酔的な状態になることを求めるもの

5)浅い礼拝:賛美の内容に深さがない、単純な繰り返しをよしとするもの

6)くだけた礼拝:どうでもよい冗談を入れながら、礼拝をお茶の間の雰囲気に代えて、主から尊厳と威厳と移行と栄光をはく奪しているもの。

礼拝賛美は、一番人間的な陶酔が起こりやすい場であるとするならば、やはり、神にその栄誉を帰す注意深さが必要である。達人は、「技芸・学問の奥義に達している人」のことであるから、ある意味で私的感情に流されず、ただ主をほめたたえることにおいて、熟練した人たちだったのである。

4.ヘマンの信仰

詩篇50、73-83篇にはアサフの名が、88篇にはヘマン、39、62、77にはエドトンの名が記されている。ことにヘマンは、預言者サムエルの孫、ヨエルの子である。ヘマンの父ヨエルは、祖父のサムエルとは違って、利得を追い求め、賄賂を取り、さばきを曲げる者であった(1サムエル8:2、3)。にもかかわらず、ヘマンは、祖父サムエルの信仰のスピリットを継承し、霊的な力があり、「王の先見者」(5節)と呼ばれる歩みをした。彼の14人の息子と3人の娘も彼と共に音楽の奉仕に当った(1、4-7節)というのだから、信仰をきちんと継承する確かな歩みをしたと言えるのだろう。

このヘマンについて、4節の、第六子ハナニヤ以下の名前は名前ではない、と言う人もいる。つまり、

ハナヌヤ(私をあわれみ給え、主よ)

ハナニ(私をあわれみ給え)

エリヤタ・ギダルティ(あなたは私のほめたたうる神です)

ロマムティ・エゼル(悩みの時の私の助け手です)

ヨシュベカシャ(私は言います)

マロティ、ホティル、マハジオテ(幻を豊かに与えてください)

と、ヘブル語名の意味をとっていくと、一つの意味のある詩を構成しているからである。しかし、そのように考える必要もないだろう。初期の写本家が、ヘマンの子の名前の中に、このような祈願詩を読み取る可能性を発見して、その目的にそうように手を加えた、と考えられてもいるが、確かなところはわからない。むしろ、神を愛するヘマンが、家族をもって神に仕えることをよしとし、子どもたちに自らの信仰を表す名をつけたとも考えられる。となれば、ヘマンの信念は、困難な中にあっても、神を賛美せよ、というものがあった、ということでもある。信仰は確かに個人的なものであるが、幾代にも及んで親子を通して神に仕えていくことは、信仰の恵みをさらに深め豊かにする。自らも、そして自分の家族、子どもたちも、達人として神の礼拝に仕えることができるように、訓練されるのは、恵みである。

5.奉仕の平等性

なお、ここでも奉仕はくじ引きによる、ことに注意する必要がある。「下の者も上の者も、達人も弟子も」とある。「下の者も上の者」も、というのは、24組の兄弟関係のことだろう。「達人も弟子も」、というのは、何かの教育プログラムがありそれに沿って訓練され、ある水準に達した者と訓練途上にある者がいることを思わせることばである。24組ある聖歌隊のうち、訓練を受け、その訓練到達度には違いがある現実の中で、実際の任務は、年齢や経験によらず用いられる。重要なことである。つまり、神への奉仕は、能力によらず、召しによるという信仰がそこにある。召しがあれば、神はその働きに必要な力は備えられるのである。まさに、モーセが「人に口をつけたのはだれか、誰が口をきけなくし、耳をふさぎ、目を開け、また閉ざすのか。それは、わたし、主ではないか」(出エジプト4:11)と語られたとおりである。こうして、普通の感覚であれば、訓練を受け、研ぎ澄まされた精鋭だけが選び抜かれて、毎回最高の奉仕をするために起用される、というものではないか。しかし、神への奉仕の機会は、あくまでも平等に与えられる。主の召しを認めていく、そして主の召しに敬意をもって仕えていき、ただ主をたたえるところにおいて、一致し、主にお仕えすることが重要なのである。