1歴代誌29章

29章 神殿建設のために献げる

<要約>

おはようございます。教会の建物はセメント捏ねれば建つが、教会そのものはそれでは建たない、と言われます。確かに、これまで、歴代誌の著者が教えてきたのは、神殿に関わる人についてです。祭司とレビ人を中心とする霊的な秩序と、それを支える体制について語ってきました。最後は、実際に必要を満たす、経済的な支援について語っています。献金は信仰のバロメーターというように、やはり献げ方にはその人の信仰の姿勢が表れるものでしょう。そして惜しみなく献げる人は、主の豊かな報いを受けることも確かなのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿のために献げる

ダビデは全集団を招集して言った。神殿のために献げるように、と。ダビデ自身、神殿建設のために多くのささげ物をし、同じように惜しみなくささげる者がないか、と尋ねている。王家のためにでも、プロジェクトのためにでもない、ただ神のためにささげるのである。ダビデは、金3000タラント(約100キログラム)精銀7000タラント(約240キログラム)、さらに、全焼のいけにえのために、雄牛1000頭、雄羊1000頭、子羊1000頭のいけにえをささげた。量や額の問題ではないが、ダビデの気前のよさは、ダビデの神に対する心を表している。

その思いに応じたのだろう。一族の長たち、イスラエル各部族の長たち、千人隊、百人隊の長たち、王の仕事の係長たちも、みずから進んでささげた、と言う。嫌々ながらでもない、惜しみながらでもない、全き心からささげた、のである。今日で言えば、牧師がささげ、執事がささげ、そして信徒がささげていく、ことだろう。

私は海外に行くとよく、この土地ではどのくらい献金をささげたらよいのかと同行者に聞かれたりする。その度に、その国のランチ一食の金額を目安にしたらよいのではないか、と答える。東京であれば、1000円というところだろう。そうすると私のランチは500円以下だという人もいたりする。その場合神は500円程度の違いに目くじらを立てるような方ではないのだから、心を見られる神に、喜んでささげられる程度にすればよい、と答える。そもそも、私たちは、1円、2円の違いには目くじらをたてることはない。だが、500円、1000円の違いはいささか微妙かもしれない。だが、考えてみれば、この天地万物を創造し、宇宙を支配し、豊かに富んでおられる神に、何百億、何千億の差など1円、2円の差のようなもので、まったく問題にならないことだろう。神が求めておられるのは献げる心なのだ。だから、何百億、何千億の差を少しも問題にされない豊かな神の子とされている事実に立って、気前よく、豊かに、献げていくのが本当ではないかと思う。そのような物質欲から解放された豊かさのある教会であればこそ、物質欲で疲れ切った人々の居場所となる教会にもなるはずなのだ。解放された、豊かにささげる心が大事なのである。

  • ダビデの祈り

さてダビデの祈りには四つの要素がある。

1)讃美:「主よ。王国もあなたのものです」(11-12節)ダビデは、神を偉大であると賛美する。神が王国の至高の頭であり、支配者であることを認めている。その至高者が、私たちに約束通りにすべてのものを与えてくださる。

2)感謝:「私たちの神、私たちはあなたに感謝し」(13節)

3)告白:「すべてはあなたから出たものであり、私たちは御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。」(14-16節)全てのよいものは、上から来る。神の賜物である。私たちの肝に銘じるべきことである。ダビデが認めているのは、神の至高性だけではない。人間に対する神の誠実さである。寄留し、影のような存在である私たちに対する神のあわれみと熱心さである。つまり、ダビデやソロモンの成功は、彼らの能力や力によるものではなく、神のあわれみによる。神は優れた彼らを見出し、愛され、その力を祝されたわけではない。ただ神のあわれみによって彼らが選ばれ、愛され、約束の通りに、祝されたことによる。そこに、私たちの望みもある。

またそうであればこそ、神に対するささげものは、余力があるからするのではなく、そういう力があるからなされるものでもない。神がそのような力を与えてくださる、備え物を用意してくださるのだ、と言う。まさに、「主の山の上には備えがある」(創世記22:19)というアブラハムの告白を思い出すところだろう。

4)祈願・とりなし:「主よ。御民のその心に図る思いをとこしえにお守りください。彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください。」(17-19節)ダビデは自分の祝福を祈らず、民とその子ソロモンの忠実さを求め祈った。「彼らの心をしっかりとあなたに向けさせてください」(18節)誠実を保ち、あなたに身をささげていくことができますように、と。「また全き心を与えて、あなたの命令とさとしと定めを守らせ、すべてを行わせて」(19節)と。礼拝の民を導く者に必要なのは、このとりなしだろう。自らの神に対する信頼が伝わるほどにとりなしていくことが大切なのだ。

3.神殿の意義

なお、ここでダビデが、ソロモンに託した神殿建設について、神殿を神殿とは呼ばずに「宮城」と呼べることばで表現していることに注目させられる(1節)。ダビデは、言い間違えたわけではなく、敢えて、19節でも「宮城を建てさせてください」(19節)と繰り返している。ダビデにとって神殿、神の宮は城である。そこに自分の守りがあり、砦があり、本拠があるというわけだ。教会も同じである。教会は、今どのような場になっているのだろうか。魂の救いと言いつつ、実際には、インパクトを求めて興行的にただ人集めに熱心になっている場であろうか。それとも、そこに集う人の、安心や安息が徹底して守られる場になっているだろうか。私たちがその完成のために全力を尽くすのは、それが、そこに集う一人一人にとって「城」となるためである。イエスが蹴散らした、商売の巣、強盗の巣とするためではない。

最後の26-30節は、主の約束と忠実さによって、ダビデとソロモンの治世とその繁栄がもたらされたと(25節)、理解すべき要約になっている。バトンはダビデからソロモンに渡された。しかし、それは、ダビデが用意したものではなく、主が設けられた王座であった。ソロモンを偉大にしたのも主であると繰り返される。主のなさることに目を留める歩みをさせていただきたい。