エズラ記7章

7章 学者エズラ

<要約>

おはようございます。全てが神の肩にかかっているかのように祈る、これが私たちに求められていることでしょう。能力によらず、権力によらず、ただ主の聖霊の業により、神のみこころがなっていくこと、これが私たちの願うところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神殿完成60年後の出来事

「これらの出来事の後」というのは、ゾロバベルの神殿完成後のことであるが、実際には、約60年後、つまりBC458 年頃のことである。その間、クセルクセス王の時代のユダヤ人の告発(4:6)さらに、エステル記に書かれた事件が起こっていた。またマラキ書はこの帰還の終わり頃に書かれたと考えられている。そうした出来事の後に、ペルシヤの王アルタクセルクセスの治世に、神はエズラを起こし、イスラエル人に律法に従う生活を教えるようにされた。

エズラは「主が賜ったモーセの律法に通じている学者」であり、主の御手が彼の上にあったので、王は彼の願いをみなかなえたという(6節)。実際、異教の王が、エズラのすることを全面的に支援するのは、確かに主の御手が彼に臨んだとしか考えようがない。

2.アルタクセルクセスの後押し

エズラが持参したアルタクセルクセスの手紙(11-26)には、主として四つのことが命じられていた。(1)エルサレム神殿のためにささげられた献金を持ちかえってよいこと。(2)川向うの宝庫係に、必要なものを供給すること(3)神に仕える者に対して免税すること(4)神の律法を守るためにユダヤ人を治める長官を任命すること、である。つまり、アルタクセルクセスは、イスラエルの礼拝の再興と、イスラエルの宗教の徹底を命じた。ユダヤ人に自分の国の異教を強制するのではなくて、逆に、ユダヤ人の宗教を尊重し、ユダヤ人が自分たちの信仰に熱心であることを許可し、これを徹底させるようにした。異教の国の王をして、天の神の礼拝が再興され、守られる、そして推奨されることが起こる。そのために、異教の国の王自らが、宝物蔵を開放することが起こる。ありえないことが起こっている。

また神は、民の教育のためにエズラを起こされた。エズラは「天の神の律法の学者」であり、天の神の律法に精通し、それを自ら学び、それに生き、それを分かち合うことができる人であった。この点にも注意したい。というのも、牧師として30年、主に仕えながら常に思うことは、聖書をわかりやすく教えることはそれほど難しくはないが、聖書を生きた神のことばとして、神に応答するように語ることは難しいことである。それは、まさに聖霊の働き、祈りの業というべきだろう。人間的に努力しても、頑なな人間の魂の前に、牧師はただ人間的な無力さを思わされるのみで、わかりやすければそれでよいわけではない。神の前における悔い改めと信仰による従順をもたらすものは、人間の業ではなく、神の業である。牧師は神の言葉を語る者でありながら、全くその点において無力なのである。だから、権力や地位を持った人、あるいは賜物や能力を持った人が動いたということではなく、アルタクセルクセスにもエズラにも神の御手が働いたが故に、歴史が、国が、人が動くことを私たちは認めなくてはならないだろう。

「私の神、主の御手が私の上にあったので」かくかくしかじかのことができた、という現実がある。大切なのは、神が御心とするときに、神は、未信者の者の理解と協力をも与えてくださる、ということだろう。今日も神の御手が力強く働くように。神が持っておられる万人の救いのみこころが達成されるように、日本のキリスト教界のために立てられた働き人たちが力強く用いられるように、また、それを理解し協力する人々が起こるように、ただひたすら神の業があらわされることを願って祈ることとしよう。

 

エズラ記6章

6章 工事は完了した

<要約>

おはようございます。ハガイやゼカリヤの神の言葉に励まされつつ、彼らは、長年動かなかった働きを完成させるに至りました。大切なのは、主のみ言葉への従順、主のみ言葉の奇跡に与っていくことでしょう。主は約束を成し遂げるお方なのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.工事は完了した

総督タテナイ等による訴えを受けて、ダレイオス王は、過去の記録を調べさせた(1節)。すると、キュロス王の命令文書が見つかった。「宮の高さは60キュビト、その幅も60キュビト」これは、ソロモンの神殿よりも規模が大きい規格である。しかし、実際には、ソロモンの神殿よりも貧弱な建物であった、と言われるから、上限を定めたものだったと考えられている。ともあれ、こうして、イスラエルの民は、ゼカリヤが伝える神のことばのみならず、社会的・環境的な後押しも受けて、16年ぶりに滞っていた神殿再建の働きに着手した。実に、不思議なことで、神が御心とすることは、必ず環境も整えられ動いていくものなのである。

こうして、ダレイオス王の治世の第6年、BC515年に神殿は完成する。ソロモンの時代には比較にならないが、彼らは奉献式を行い、いけにえをささげた。また、神への奉仕のために、祭司をモーセの書に従って任命した。確かに「モーセの書」は、祭司とレビ人との基本的な義務を定め、彼らを区別している。しかしそこに実際的な奉仕「組」を作ったのは、1歴代誌23章で学んだように、ダビデである。ともあれ彼らは基本に立ち返って、全てを整えたと理解すべきところなのだろう。

16年間、動かなかったものを進めていくには、それ相当のエネルギーを要する。身を入れて当たらなければ、というものがある。しかし身を入れて当たるかどうか、腹が決まらない、そういう所で、私たちはいつまでもだらだらしていたりする。しかし神のことばに従っていく腹を決める時に、神は道を整え、周囲を動かし、物事が進むようにしてくださることを覚えたい。神は、「アッシリヤの王の心を彼らに向かわせ、彼らを力づけるようにされ」(22節)るお方である。

2.礼拝の再開

さて、神殿の再建と同時に、神の恵みを味わう礼拝が再開されたところに、イスラエルの人々は大いなる喜びを覚えた。私たちは神の計画のすべてを知り尽くすことはできない。神のみこころの一端を担い、それが何の意味を持つだろうかと思うことが続くことがある。教会を建て上げることは、どの教会にしても、最初は核づくりから始まる。核となる牧会チームが形成されるところから始まる。しかしその核はなかなか固まらないものであるし、人が集まっては散り、ということが繰り返される。そうこうするうちに、やっていることの意味がわからなくなることもある。妨害を受けて、物事を中断されるたびに、建て上げていることの意味がわからなくなるようなものである。しかし、その苦難を最初からあるものとして受け入れ、建て上げることから心をそらさずに、淡々と建て上げに徹していく時に、次のステップが見えて来て、今していることの祝福を味わうことがあるものだ。妨害に惑わされないようにしよう。時間が無為に過ぎていくように思われることを、驚かないようにしよう。いつでも、ポイントを押さえ間違わず、主のみことばにしっっかりと自分の心を合わせて、先に進めさせていただくことを願いつつ、淡々とできることをなしていく者であろう。

 

 

エズラ記5章

5章 二人の預言者

<要約>

おはようございます。16年中断した工事を再開する、そのエネルギーたるや、大変なものがあったことと思います。それを成し遂げたのは、神のことば、実に、聖書であったことに注意したいところです。朝毎に聖書を開き、聖書を読む、それが何になろうか、というものではなく、それは、私たちの人生を大きく変えていく力になることを覚えたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.二人の預言者ハガイとゼカリヤ

BC520年、主の預言者ハガイとゼカリヤがエルサレムに来ていた。彼は、過去16年間の工事の妨げにより、人々がどれだけ落胆し、励ましを必要としているかを良く知っていた。エルサレム帰還後、人々は神殿再建の工事を邪魔され、阻止されるばかりで少しも進めることができなかったのである(16節)。そこに神の預言者が現れ、イスラエルの人々を励まし、新たに工事再開の定礎式を行ったわけである。

しかし再びこれを止めさせようと、川向うの総督タテナイとシェタル・ボズナイ、そしてその同僚の知事たちがやってきた。彼らは、そもそも、本当にキュロス王の命令が出たかどうかを問題にし、ダレイオス王に書状を送っている。その書状の写しが8-17節である。

実に、16年の空白の時が流れた後、神の宮を再建するには、相当のエネルギーを必要としたことであろう。神はそのようなイスラエルの民の心を動かすために二人の預言者を起こし遣わされた。ハガイ書はその記録であり、エズラ記と併せ読む時に、そのメッセージも良く理解される。神が私たちに何かをさせようと考えられる時に、いつも神は私たちに神のみ言葉を語る使者を遣わされる。そして異教の環境の中にあれ、神の言葉に耳を傾け、それに従うならば、異国の王すら神は用いて神の業を進められるのである(エズラ1:1)。しかし、たとえ神を信じていても、大いなる結果を期待せず、神の声に聞き従おうとしないならば、それは、神のみこころを受けそこなう結果となる。

2.神の言葉に力づけられる

そういう意味では、私たちの人生には、つぶやきと不信仰により、神の業を取りこぼす無為な時間を過ごしやすいものではないか。神にビジョンを語られても、そんなことはできないと心がつぶやき、協力者もいない、助け手もいないと後ろ向きになるばかりで、何もせずにやっぱりできないと心を頑なにさせてしまうことが多い。それはまさに、エジプトを脱出したイスラエルの民が、本来ならば11日間で行くはずのところを、40年間さ迷い続けたのと似ている。私たちが信じている神は、天地創造の神であることをよく理解しなくてはいけない。信仰によってこそ進められることがある。この世的に物事を計算ずくめで考えていても、信仰がなければ起こり得ないことがある。現状がどうであれ、神のことばが私たちと共にあり、神の目でもって状況を見、神と共に働く時に、物事が大きく進む、私たちの思いを超えた働きがなされることがある。もちろん、それは、一朝一夕にして起こりうることばかりではない。神の業は、人間の時間を無視して事がなっていく、例外ばかりを意味するのではない。

あなたの前には瓦礫の山が多くあるかもしれない。あるいは、なすべきことがたくさんあり、どこから手をつけたらよいのかわからないほどに、混乱することもあるかもしれない。あるいは、自分には全くもって力がなく、働きはわかっていても、働きに向かう気力すらないことがあるかもしれない。あるいは、反対が強すぎて、競争がありすぎて、それだけでも、もうやる気が失われていることがあるかもしれない。大切なことは、神の言葉に耳を傾けることである。神のことばに力づけられることである。私たちを助ける、神の預言者の声に耳を傾けることである。私たちを動かすのは神の言葉である。

 

エズラ記9章

9章 雑婚の禁止

<要約>

おはようございます。雑婚の問題が取り上げられますが、その問題の本質は、民族の純粋性ではなく、信仰の純粋性を保つことにありました。信仰を同じくしえるかどうか、それは、生活上の衝突へとつながることであったからです。宗教的寛容性を重んじることと、宗教的確信を守ることは、別物です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.雑婚の問題

雑婚の問題が語られる。いわゆる異教の習慣に導く雑婚を罪とし、その罪を犯した者は、113人(10:18-43)とされるが、それは、誰のことなのか。いくつかの議論がある。ゼルバベルと共に帰還した者の子孫たちだったと考える説がある。そうすれば、雑婚をした者たちはまだ少ない人数であったことになる。しかし、普通に読めば、この箇所は、エズラと共に来た人々であろう。となれば、それはかなり多い人数であり、エズラは帰還の旅の途上四ヶ月も、毎日律法を教え、彼らと関わりながら、なぜそのようなことに気づかなかったのかという疑問も起こる。しかも、神殿再建の喜びの後で、思いがけない問題が沸き上がって来たことにもなる。

いずれにせよ、彼らはカナン人やヘテ人、つまりモーセの律法において、宗教的な純潔さを守るために結婚が禁じられている者たちと結婚をしていた。エズラはこの報告に対して、当時の慣習に従って嘆き、驚きを表現している。普通は髪をそるところをエズラは毛を引き抜いている。それはエズラの動揺の激しさを表している、と言うべきなのだろう。イスラエルの歴史は純粋な神信仰、つまり異教の偶像崇拝との戦いであった。彼らは異教の民と交わり、堕落し、神に滅ぼされ、バビロンに捕虜とされ国を失う苦渋を味わっている。そのような歴史に学んでいないイスラエルの民に対するエズラの失望、落胆、怒りが、その行為に表されているのだ。

2.問題の本質

ただ問題とされているのは、異教の民との雑婚そのものよりも、雑婚によってまことの信仰が失われる事態が生じていたところにある。雑婚については、ルツのような例外もある。実際上の問題は、その雑婚によって個人の信仰が破綻し、さらにイスラエルの民全体に悪影響を及ぼすことであった。エズラは歴史を振り返る。そもそも、イスラエルの国が滅びたのは、どういうわけか。それは、異教的信仰に毒されて、イスラエルが神を捨ててしまったからではないか(6節)。けれども、そのような私たちに神は、大いなる哀れみを施し、再び、国を再生させてくださったのである(9節)。その恵みを無駄にしてはいけない、というのが趣旨であった。

しばしば教会においては、未信者との結婚は、つりあわぬくびきであると反対されることが多い。その根拠は、1コリント7:39を挙げることが多いが、この箇所がそのようなことを語っているかどうかは、また様々な議論のあるところだが、むしろそれは常識的に考えて、信仰者と未信者とではもともと生き方のベクトルが違うところを考慮する、人間の知恵による判断に負うところがある。一方は、天国を目指し永遠のいのちの希望を持って歩み、他方は神に背を向けて滅びに向かって歩んでいる、生き方のベクトルが違うのだ、そこに反対があるのも無理はない。初めは些細な違いと考えてしまう信仰の違いも、実際に結婚生活をスタートさせてみれば、毎週日曜日の過ごし方の違いから始まり、お金の使い方、子育ての考え方、将来設計の考え方、余暇の過ごし方とありとあらゆる日常性の中でその価値観の違いや行動の違いを思い知らされるようになるからだ。予めそういう事態になると、よくよくわかっていれば、そんな人生に足を突っ込むこともなかったのに、と思うのだろうが、人間は愚かで悟りがないので、気づいた時には、どうして、ということになることが多いのだ。

そのような意味では、後の祭りにならないように、いつでも自分の信仰が無為にならない生き方を考えて歩みたいものである。5節からエズラの祈りが記録される。過去の罪の告白、神のあわれみと神の命令の確認がなされている。信仰の純潔さを求める祈りである。信仰の純潔さを保つことに、もっと意を注がなくてはならない。神の愛と恵みの中に生きること、そして信仰の歩みを成熟させることに、私たちは信仰的な伴侶と友を必要とする。救いの完成を互いに進め合う交わりをこそ求めたいものである。

エズラ記3章

3章 新しい出発

<要約>

おはようございます。人間は記憶の中に生きているものでしょう。大切なのは、どんな記憶の中に生きるかです。神の誠実さを覚える記憶の中に生きるか、自分のみじめな過去の記憶の中に生きるかでしょう。いつでも、神の誠実さに期待してまいりたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.開始された再建

イスラエルの民はエルサレムの再建に取り組み始めた。祭壇を築き(3:1-6)、神殿の礎を据えた(3:7-13)。

イスラエルで言う第七の月は、太陽暦では9-10月に相当し、贖罪の日、仮庵の祭りが行われる。その日が持つ意味からすれば、それは再出発にふさわしい時であった。彼らは「周りの国々の民を恐れていたので、祭壇を所定の場所に設けた」とある(3節)。恐れていたにもかかわらずか、あるいは恐れていたからこそなのか、わからないが、周囲の国々の脅威を感じていたのは確かである。実際、彼らはペルシヤから帰還を許された民で、軍隊も官僚機構も持たない、国の体をなさないわずか4万人の群れであった。

しかし彼らは反対されること、妨害されることもなく、モーセの書に書かれているとおりにまずは、仮庵の祭りを祝い、日々の全焼のいけにえを献げることができるようになった。回復の道筋は開かれたのである。神の約束への忠実さを深く味わい知る礼拝となったことだろう。

2.過去に縛られずに生きる

続いて民は、第2神殿(ゾロバベルの神殿)の建設に着手する。ソロモンによる第1神殿建設の際と同様、彼らはまず木材を手に入れ、工事に着手した。彼らはまず神殿の礎を据えていく。「以前の宮を見たことのある多くの老人たちは、目の前でこの宮の基が据えられたとき、大声をあげて泣いた」(12節)とされる。第1神殿と第2神殿とでは、その基礎の大きさには違いがあったのである。老人たちは過去を回想し、自分たちの顛末を悲しんだ。礎は、建物のサイズ、形、構造を決める。老人たちは、その礎を見ながら、建て上がる神殿の貧弱さを思い(ハガイ2:3)、自分たちが回復しがたい失敗を犯したことを思わずにはいられなかったのだろう。

私たちに過去を変えることはできない。そして「過去」に縛られることが多い。しかし実際には、「過去の記憶」に縛られているのである。大切なのは、その記憶をどう心の内で処理するかである。過去は、私たちの歩みを導く舵となることもあれば、私たちの歩みを妨げる足かせにもなりうるからだ。

過去がもたらした現状に立ちつつも、信仰を持って未来を展望する歩みがある。信仰がなければ、過去は望みを奪う鎖となって私たちを縛り付けるだけだろう。しかし、たとえどんな過去を生きようと信仰を持って未来を展望するならば、そこに私たちは神の業を期待することができる。たとえ貧弱な未来を予測することがあっても、神の祝福は、私たちの思いを超えたものであり、その可能性は計り知れない。

老人の嘆きは、やがて、ほかの多くの人々の喜びの声にかき消されて行った。嘆きの叫びと喜びの声は交り合い、区別できなくなり、やがて喜びの叫びが勝利し、それは遠い所まで響き渡って行った(13節)。たとえ過去がどうであれ、主の約束に対する忠実さを思う人生には新しい未来がある。過去をいたずらに悲しみ、感情の赴くままに無為な時間を費やすのは止めることだ。新しい未来を築きあげる時を今日も積み重ねることにしよう。まずは、新しい出発を決意し、踏み出すことである。