ネヘミヤ記11章

11章 神の約束とその誠実さ

<要約>

おはようございます。今日の箇所は、城壁再建後、起こった霊的な大いなる覚醒について挿入的な記録の後、再び、城壁再建後の町の動きを語っているものです。彼らは具体的にエルサレムに人を移住させ、エルサレムの町を活気づけようとしました。しかし、彼らのそうした動きを起こした神の約束の誠実さにこそ、教えられるものがあります。神は誠実なお方、主の恵みを心から仰ぎたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エルサレム移住

11章は、文脈から言って7章4節につながるものであるとされる。つまり城壁や城門を修復した後、捕囚から帰国した者の出所を明らかにし(7:6-72)、律法の学びによって人心を刷新し(8-10章)、いよいよ、エルサレムの居住者を定め、町の再興を目指すことになったというわけである。エルサレムに住む者が決定されていく。

当時の首都エルサレムは、神殿があって宗教的な意義が大きいとしても、敵対者の攻撃による危険や、生活の手段となる畑が遠いなど不便で、住みにくい町であった。だから上層階級は城壁建設時、あるいはそれ以前からエルサレムに住んでいたが、一般の民は経済的な理由から農耕地のある町々を選んで住んでいた。しかし城壁再建後は、首都防備の必要もあり、住民増加をはかって、くじによる移住政策がとられたのである。そういうわけで、民は、犠牲の多いこの移住に、自発的に応じる者たちを祝福した。

3節以降は、帰還してエルサレムに住んだ人々の名簿となっている。多少の相違はあるが、1歴代誌9:2-21の名簿とほとんど同じである。ユダ族の指導者たち(4-6節)、ベニヤミン族の指導者たち(7-9節)、祭司たち(10-14節)、レビ人(15-18節)、神殿に仕える者(19-24節)という順にその名が記されている。神殿に仕える者は、オフェルに住んだ。それがどこであったのかはよくわかっていない。しかし、エルサレム内の神殿と旧ダビデ市街との間に位置したと考えられている。それが正しければ、彼らは神殿での務めのために、予めそれにふさわしい場所を選んで居住したことになる。合計約三千名の者が移住した。25節以降は、エルサレム以外の町々の居住地のリストになる。ヨシュア記15:21-62の地名や、エズラ2章、ネヘミヤ3章のリストと比較すれば、帰還民の居住状況の変遷を知ることができる。

2.神の約束に対する誠実さ

しかしそれにしても一体誰が、このように町を再興するようになると予測していたであろうか。彼らが、捕囚から連れ戻され、町を再興することは、遠い昔からすでに預言されていたことであるが、実際にそのようなことが起こるなど考えられもしないことだったろう。事実、どれほど多くの文明が、歴史上戦争に敗れて滅び、二度と回復することもないままになっていることか。しかしユダヤ人の国は、戦争に敗れて、他国への強制移住、雑婚、捕囚の苦難を通りぬけながらも、新たに再興されるのである。

このような歴史を示しながら、聖書が語ろうとしているのは、神の約束に対する誠実さであり、熱心さである。すべて神が約束されて語られたことは必ず成就する。イエスの十字架による贖いもそうである。イエスの復活のいのちによる私たちの新生もそうである。となれば、まだ成就していないイエスの再臨にも注意せねばならない、ことになる。

ともあれ、歴史は動かぬ証拠を私たちに突き付けて来る。その証拠を前に、私たちは、神への信頼を新たにし、進んで困難な町エルサレムに住むことを祝福として受け止めていく必要がある。困難な町エルサレムを信仰と喜びをもって受け止めていきたいものである。信仰を持って将来を臨みつつ、移住すべき町エルサレムに出ていきたい。先を見通された神の約束と祝福の中にこそ、歩ませていただくこととしよう。

ネヘミヤ記10章

10章 正しい神との関係

<要約>

おはようございます。国家が再生され、そのスタートとして礼拝が行われ、続くのが、主と盟約を結ぶということであり、その際に、イスラエルの民が決断したことが重要です。彼らの決断は、神の民としての自由を確保するものでした。主の与えてくださった自由に生きる、そこに主の祝福もあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.宗教的純粋性を保つ

国家の再興にあたり、まずイスラエル人が始めたことは、主との正しい関係を持つ盟約を堅く結ぶことであった。彼らは具体的に署名をした。また、実際に律法に従って歩む生活を始めるにあたり三つのことを決断した。

  • 宗教的な純粋性を保つ(異宗教の人とは結婚をしない)(30節)。
  • 安息日を守る(安息日の売り買いをせず、安息年の規定を守る)(31節)
  • ささげ物を携えて礼拝を守る(シェケルの三分の一、初物、十分の一)(32-29節)

宗教的な純粋性を保つことは、彼らが、イスラエルの神を中心とするにあたり、まず最優先されるべきことであった。実際、結婚は生涯にわたる連帯であるから、異なる宗教を持ちながらその関係を維持するのは大変なことである。聖書は初めから正解を出してくるので、素直に従えない思いになることも多いだろうが、やはり、それは知恵ある神のことばであって、従うべきものである。ちなみに、若い時は、先を見通すことが難しく、後でこの結婚は失敗の何物でもないと思わされることもあるだろう。しかし、そこで、人生を諦めて、自ら落伍者になる必要はない。周囲の人がそのように求めても、聖書は悔い改めを要求している。神は哀れみ深く、見捨てられることはない。確かに、異宗教の伴侶を持ち、信仰の純粋性を保つことが難しい、と感じることがあっても、その現実を受け止めながら、神の権威の元に遜り、神が自分を新しく導いてくださることを期待すべきである。

2.安息日を守る

また安息日を守ること、信仰生活においては「しない」消極面だけではなく「する」積極面も大事なのだ。日本人がクリスチャンになって最も大きく変化を体験することは、毎週の礼拝に出席することである。信仰を持つ前は、日曜日と言えば、自分にとって有意義な時間を自分で決めて、自分の思うように過ごすことを考えたはずである。しかし、信仰を持つと、日曜日の在り方を決めるのは、信仰の主、神になる。神の期待に沿うライフスタイルを考えるようになる。こうして日曜日は、教会に集い神の過去の恵み深い御業を想起し、感謝し、信仰を強め、献身を新たにする日となっていく。こうした神を中心とした生活リズムは、人間の頑張りで作り出せるものではない。神との正しい関係が出来ていればこそ、生み出され形作られていくものである。

3.ささげていく

後半は、ほとんどがささげものについての記述である。そこにはもう一つの意味がある。つまり、彼らはペルシヤ帝国から帰還し、自分たちの国を再興していくにあたり、経済的な自立をまず願ったのである。彼らはペルシヤ帝国の支配を受けていたのだから、いつまでもその経済的な支援を期待することができた。しかし、そうはしなかった。むしろ、精神的のみならず、経済的にも自立した歩みをすることを願い、自らささげあった。

彼らの献げ物は、神殿の用、ことに祭司の生活のために用いられたようだが、興味深いことは、門衛、歌うたいを支えるために用いられたことである。彼らの神殿の運営は、ボランティアではなく、有償のスタッフによって行われた、ということだ。教会の経済力は、教会の働きを充実させる人を支えるものであることは理解しておく必要があるだろう。

そして教会財政に無関心であってはならない。教会を構成するメンバーの一人一人が教会の必要を理解し、教会を支えていくことを考えたい。日本の国家も、日本人一人一人が支えていくものだろう。税金の使われ方ばかりに神経を尖らせず、日本の将来を考えて、日本のミッションを支えていく国民意識が養われなくてはならないのと同じである。まず自分が、初物を捧げる。十分の一をささげる。信仰者としての習慣を実践していくことなのだ。

ネヘミヤ記8章

8章 感動に満たされた礼拝

<要約>

おはようございます。城壁が完成し、町が建て直された後に、まず行われたのが、主の前での礼拝でした。ちょうど時は、イスラエルの新年を祝う第七の月、太陽暦でいえば、9-10月頃になります。この日、彼らは新しい出エジプトを確認したのであり、それは、神の大いなる恵みにさらに信頼する時でもありました。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.年の初めの招集

城壁が完成したのは、第六の月。そしてエズラを中心に律法を朗読するために、民が召集されたのは第七の月である。それはイスラエルにとっては、年の初めの月であり、第1日はラッパを吹き鳴らす日(レビ23:34)、10日は贖罪の日(レビ23:27)、15日から一週間は仮庵の祭り(レビ23:34)が行われる月である。

贖罪の日は、断食をし、全ての仕事をやめて完全な安息を守る日となる。民の一年間の罪が赦され、きよめられる日(レビ16章)であり、そのために民のすべての咎とそむきの罪を負うとされるアザゼルのやぎを荒野に放つ儀式が執り行われる。これは、大祭司イエスによる罪の贖いのわざの予型である。仮庵の祭りは、収穫祭とも呼ばれ(出エジプト23:16)、ユダヤ人の三大祭りの一つでもある。祭りの7日間、木々の大枝となつめやしの小枝からできた仮小屋に住むところからそう名付けられた(レビ23:42)。イスラエルのエジプトからの脱出を記念し、荒野における放浪と仮小屋での居住を記念するものである(レビ23:43)。実際には、7日間神殿でいけにえがささげられ,初日に13頭の雄牛、その他の動物、その後、雄牛は1日に1頭ずつ減らし、7日目には7頭、合計70頭の雄牛がささげられる(民数29:12-34)。そして8日目に荘厳な集会が持たれ、1頭の雄牛、1頭の雄羊、そして7頭の子羊が屠られた(民数29:35-36)。これは祭のクライマックスとなり、イエスが「祭りの終わりの大いなる日」(ヨハネ7:37)と呼んだもの、と考えられている。

大切なのは、この祭りが、農業的な収穫を祝う近隣の国々の祭りと微妙に重なり合いながら、イスラエルの歴史の始まりを主の豊かな恵みと罪の赦しの概念に基づかせているところにあるのだろう。だからそれは、単なる乱痴気騒ぎに終わらず、静かに神のみことばに耳を傾ける時とされた。

2.み言葉への応答

この日、エズラは、律法を朗読し、解説するために呼び出され、民の前で律法をはっきりと呼んで説明した。それは「夜明けから真昼まで」(3節)。律法の書というのは、具体的に創世記から申命記までの五書を指す。午前中で読み終わるとしたらその抜粋であったのだろう。民は律法の書に耳を傾け、読まれたことをはっきりと理解した。そして、朗読そのものが、主の礼拝を導いた。民は皆、「アーメン、アーメン」と応答し、地にひれ伏し主を礼拝したのである。まさに、みことばに応答し、主を崇め、主の権威の前にひれ伏すことが礼拝である。主を認めることが礼拝である。

さて、聖書は朗読され(7節)、説明された(8節)。おそらくそれは、ヘブル語から当時の言語であったアラム語に翻訳され、また解説されたのであろう。明解な解き明かしのもと、イスラエルの民は、神の前に自分たちの罪の歩みを覚えさせられた。しかしネヘミヤたちは、贖罪の日は、神の恵み深い赦しを覚える日であり、喜びの季節の幕開けなのだから、悲しみに終わらないようにと諭していく(9-11節)。聖書朗読において大切なのは、自分の罪や足りなさ、欠けを覚えさせられるところに止まらず、さらにそのような者が赦され、愛され、祝福に導かれていることを覚えることだ。信仰をもって、将来を望み見ることだろう。聖書を読み、自分を責めるような読み方ではなく、積極的に十字架の恵みを受け入れ、感謝と喜びをもってさらなる主の祝福を受ける気持ちで、神のことばを受け止め、神の誠実さに期待することが大切なのである。

3.第二の出エジプト

13節以降は、仮庵の祭りについての記録であるが、ネヘミヤはヨシュアの時代からこの日までそれが守られていなかったように書いているが(17節)、実際にはそうではない。ソロモンの時代にも(2歴代誌8:13)、ヒゼキヤの時代にも(2歴代誌31:3)それは守られている。ただしこれほどの喜びと感動を持って、新しい出発を期して行われたことは、イスラエルが約束の地に入った後の時代には、なかったほどのものだ、ということであろう。つまりそれは、第二の出エジプトであり、第二の解放だったのである。だからこそ実に感動的な礼拝となった。礼拝の中にもっと感動を、上から与えられる感動と祝福のある礼拝を、と思うのであれば、それは、まさに上からの深い恵みを覚える以外にはないものなのである。

ネヘミヤ記7章

7章 町の再建と人口調査

<要約>

おはようございます。ネヘミヤは、外からの妨害、そして内からの混乱を、ただ主の助けによって乗り越えていきます。というのも、ネヘミヤが取り組んでいた事業は、ネヘミヤ自身の事業ではなく、神の事業であり、神が進められるのですから、神への信頼と神がなさる業を見ていく忍耐と、従順が必要だったのです。神の民としての旗印をいよいよ明らかにし、これをよしとする神の後ろ盾に励まされるところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.エルサレムの町の再建

城壁再建の後、ネヘミヤは、二人の人物にエルサレムを治めるように命じた。ハナニとハナヌヤである。しかしこれらの人々はどうも、行政ではなく、警備の長として任じられたようである。行政の担当者は、すでに各地区において任じられているからである(3:9)。ともあれそこでネヘミヤが警備の長の選別の基準としたのは、誠実さと神を畏れる心の態度であったことに注目したい。敵に対する警戒の強い時期としては、当然のことであっただろう。警備は固く、開門と閉門は、日の出と日没ではなく、「太陽が高く上って暑くなる」頃、つまり住民全員が活動する時とされた。

エルサレムへの第一次帰還者の数は、66節以下を見ても、約5-10万程度である。そのごく一部がエルサレムに住んだ。当時のエルサレムは東西500メートル、南北1キロ程度とされていたから、4節、「この町は広々としていて大きかったが、そのうちの住民は少なく、家もまだ十分に建てられていなかった」というのは理解できることである。エルサレムの人口は少なく、警備も十分ではなかった。だから後には、近郊に住むユダヤ人の中から、籤でエルサレムに移住させる計画が実行されることになる(11:1)。

エルサレムの町を再建することは、こうしてみると、ただ帰還し、城壁を再建し、という以上の努力を必要としたことがわかる。あらゆるものを動員し、再配置する知恵を必要とすることであった。それはまさに神の恵みと導きがあればこそ、成し遂げられることであったのだ。

2.エルサレム移住計画

5節からは、こうしたエルサレム移住計画の前準備としての人口調査で、作成された名簿である。この名簿は基本的にエズラ記2章の内容と一致している。注目されるのは、ネヘミヤが移住者の出所を明らかにして、エルサレムに住むべき人として純粋なユダヤ人のみに絞った点である。そのような意味では、教会も同じで、全ての人にその門戸は開かれているが、教会のメンバーとなるのは、出所の明らかな人、つまりはキリストの新生に拠って立っている人に限られている。イエス・キリストが自分の救い主であり、主であることを明確にしている人が中核にならなければならない。イエスを救い主として感謝して受け止めているだけではない、イエスを自分の主とし、はっきりイエスの権威のもとに遜っている人が教会のメンバーとして加えられるのである。求道者は、イエスを自分の主とするかどうかで迷っている人のことであるから、その区別をはっきりさせていかないと、結局何の集まりなのかがわからなくなってしまう。

まして祭司職を果たす、つまりは教会に仕え奉仕するメンバーとなることにおいては、資格があることを示す必要があるだろう。教会を建て上げるというのは、キリスト教同好会を作ることとは違う。教会は、キリストを主とし従う者の集まりである。アンテオケにおいてイエスの弟子たちが初めてクリスチャンと呼ばれるようになったのも、そのような彼らのアイデンティティが明らかであったからだろう。はっきりと十字架のイエスを主と告白し、復活のイエスに対する信頼と喜びを証する群れなのである。それこそが、教会を教会たらしめるものなのだ。キリストの群れとしての教会を完成させていこう。

 

 

ネヘミヤ記6章

6章 毅然として取り組む

<要約>

おはようございます。神に信頼するめぐみの豊かさは教えられていても、そのように期待しきれずにいることはあるものでしょう。現実の厳しさを思う時に、神の御業を語ることの虚しさ、空々しさというものがあるものです。しかし、空回りしそうな心を、力づけ、守ってくださいと祈り、進むことに確かな祝福はあるのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神ではない自分に弱さがある

城壁は門を修復するのみで完成に近づいていた。エルサレムの周りに住む敵対者たちは、何とか、この工事を中止させようと妨害の手を尽くしてきたが、城壁は、もう完成間近となっていた。するとアラブ人ゲシェムが、最後の手段と言わんばかりに、ネヘミヤを個人的に呼び出し、これを中止させる手段に出た。彼は、四度、会見の申し出をし、最後の申し出は、開封した手紙、つまり公開状の形で送られた。エルサレムでの工事は、ネヘミヤが王となり、ペルシヤに反逆する目的で行われている噂があり、その陰謀が広まる前に、話し合う必要があるというわけである。しかし、そのような根も葉もない噂にネヘミヤは動じない。ただネヘミヤは書いている。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)ネヘミヤは、こうした根強い組織的な陰謀に、対処する知恵を求めたわけではない。また神風が吹いて、相手が打ち負かされることを求めたわけでもない。彼は神の勝利は確信していた。しかし、神がなさろうとしている事柄についていけない、人間の心の弱さが補われることを祈っている。全ては神の手中にあることだ。神が万物を支配し、維持ししておられる。そのお方が、私たちと共にあるとしたら、大切なのは、神の業がなされるまで私たちが待ち続けられるか否かにあるのだ。つまり、打たれ弱く、神の用に物事を見通せず、現実的に考え過ぎて、神の業をもはや信頼しきれない思いになる自分の弱さに負けてしまうのだ。「ああ、今、私を力づけてください」(9節)。何度でも神に心の内に叫び、神の力づけを得なくてはならない。

2.毅然と戦う

公開状が失敗したので、トビヤの発案によるものなのだろう、シェマヤは、ネヘミヤに暗殺の危険が迫っているので安全な隠れ家である神殿に引きこもるように勧めた。敵対者はさらに罠をけしかけて来た。祭司ではないネヘミヤが神殿の奥に隠れることは律法を犯す罪であるし、また、敵を恐れて身を隠すなど、神を信頼しない弱さ丸出しである。ネヘミヤはその提案をきっぱりと拒絶する。神の計画を曲げるために、敵がすることは指導者への攻撃の手を強めることだ。指導者が失脚すれば、全ての計画は阻止される。イエスもまた同じように攻撃された。パリサイ人がイエスを囲み、ヘロデがイエスを殺そうとしていることを伝え、恐れさせて、他の所へ逃げ出させようとしたことがある(ルカ13:31-33)。それに対してイエスは、恐れることなく、その提案を拒絶している。実に、「悪者は追われもしないのに逃げ回るが、神を畏れる人に怖いものはない(箴言28:1)」パウロも、自分の前途に苦難が待ち受けようとも、その進路を変えることはなかった(使徒20:22,23)。私たちは罪や誘惑からは遠ざからなければならないが、幾多の妨害によって、恐れ、萎えて、神のご計画から退くことがあってはならない。「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者」(ヘブル10:38)なのだ。

神は私たちが信じて命を保ち、勝利を手にすることを望んでおられる。こうして、毅然とした取り組みによって、城壁はついに52日で完成した。歴史家ヨセフォスによれば、2年4か月かかったとされる。ネヘミヤの出発は第二の月で、エルルは、第六の月である。エルサレム到着日数を考えれば、ネヘミヤの記録どおりで、まさに神の不思議な恵みと助けによって順調に完成したと考える方がよいだろう。神に心を力づけられて、ただ恵みにより頼む結果というものがある。