ヨブ記13章

13章 ヨブの問

<要約>

おはようございます。最近、カチンの森事件(第二次大戦初期の1939年に旧ソ連軍がポーランドに侵攻、ソ連軍がポーランド人将校ら約2万人の捕虜を大虐殺したという事件)の調査報告書が発刊されたと聞きました。世には、そのような矛盾があり、神がこれを許された、ということは、なかなか納得できないものです。しかし、真摯に神に向かい問いかけるヨブの姿に、腐ってはならない、擦れてはならない、と思うところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.お前たちは神の代弁者のつもりか

既に12章で述べたように、強者が弱者に横暴を働く歴史的事実、そしてその歴史的事実を、弱者の側に立つはずの神が許されている矛盾、神は破壊者だ!ヨブは、全てこの矛盾に悩む者の代弁者である。その言葉が過ぎようと、そうだそうだ、とヨブに気持ちを重ねたくなるのは、私ばかりではないだろう。

「私はあなたがたに劣っていない」(2節)私は、直接神と言い合いたい。そもそもあなたがたは神の代弁者のつもりか?「あなたがたは偽りをでっちあげる者」「脳なしの医者だ」(4節)。黙っていれば賢く見える愚か者、そのものではないか(5節)。ヨブの怒りが表われている、と言ってよいだろう。

ヨブの友人たちは、ヨブが何か罪を犯している、と決めつけるところがあった。そして彼らは、まことしやかに人生の法則を語るが、ヨブの現実を知っているわけではない。このような実に憎むべき短絡的な議論や不幸というものは、人間社会にはよくあるものではないか。まるで神の代理人どころか、神であるかのように、言い争ってくる(8節)。事の詳細も知らず、調べようともせずに、物事を決めつけて断罪してくるのである。神があなたがたのそのような現状を調べられて、あなたがたは心咎められないのか(9節)。そして後で、自分の事の進め方のまずさを感じると、その不手際を隠し通そうと、ともかく力づくで有罪に持ち込もうとする。だが、そのようなことを神が黙っているはずがない(10節)。神は正しいお方であり、不正を赦されないのだ。責任逃れをしようと、事を穏便に済まそう、としても無駄である。神は、あなた方を恐れさせるだろう(11節)。

12節第三版では「格言」と訳されていたが、2017では「申し立て」となっている。新共同訳では「主張」と訳される。これまでのやりとりの中で、使われた数々の知恵あることばのことだろう。それらは実に、空しい灰のように飛び散ることば、剣を受け止めることもできない、何の役にも立たない盾と同じである、という。

ヨブ記の議論を読みながら、途中で引き出しを開けてしまいたくなるような思いになるところだ。そうだよね!そういうことってあるよね!人の言い分を何も聞かず、物事を決めつけて議論してくる、否、何かを言っても少しもわかろうとしない三人の友達の姿は、世の中に起こる事柄の縮図でもあるよね!と思うところである。

2.まずは、私の言い分を聞いてくれ

とにかく黙ってくれ、私に話させてくれ、とヨブは言う。もうこうなったら、何が起ころうとかまわない(13節)。ヨブの体当たりの談判である。もはや残されていないいのち、ならばそのいのちをかけて、神の前に立とうではないか(14節)。私の大胆不敵さに神がお怒りになって、私を一息に消し去ることがあってもかまわない。私は自分の疑問を神にぶつけ、そのまま朽ち果てよう(15節)。いや、神は私の言い分に、答えてくださるはずだ。というのも、そもそも神を敬わない者に、こんなことができるはずもない(16節)。自分の心にやましさがないからこそ、できることでもあるのだ。だからまず私の言い分をよく聞いてくれ。実際、私が語りだせば、私が正しかった、と神も頷かれることはわかっている(18節)。だから、もし誰かが説得力のある反証によって私と議論し、私の非を認めさせる者があるならば、その時には、あきらめよう。潔く、私が受けるべき死の判決を受け入れよう。

ヨブのことばは聞いていて、実に気持ちがよい。いわれもない濡れ衣を着せられた時には、このように神ににじり寄って訴えればよいことを教えてくれる。

3.では、神様、お聞きください。

20節以降、ヨブの神への直接的な語り掛けが始まる。もはやヨブは、三人の友を相手にはしていない。ただ、心の目を神に向け、神に語り掛けている。そしてまず議論開始の前に、二つのことをしないでください、とお願いしている(20節)。一つは、神の御手を遠ざけること、つまりはこの災いを遠ざけることだろう。神の鉄槌で、いたずらに人を怯えさせず(21節)、私が語り、あなたが語る、普通に理性的に語る場を設けて欲しい、ということだ(22節)。

そこでヨブは語り掛ける。まず、これまで三人の友人が問題にしてきたこと、今の苦しみが罪の故であるとするならば、その事実を示して欲しいと言う。自分が気づかずにいる罪の数々を、聞かせて欲しいという(23節)。また、人間が不条理に苦しむ時に、なぜ神はそ知らぬふりをするのか、なぜ不条理を許し、不条理をもたらす者たちと共に私の敵になってしまうのか、教えて欲しい、という(24節)。

そもそも、私は万物を創造し、支配される神に何ができるというのか。吹き散らされた木の葉のごとく、吹き飛ばされる乾いた藁のごとく、全く無力な、社会の片隅で音もなく消え去る泡沫で、神の目に留まるはずもない者なのに(25節)。このような人間を、地の片隅からほじくり返して見つけ出し、厳しくその罪を追求するのはなぜか。ユダヤ人であれば、13歳になれば、バル・ミツワー(バルは、ヘブル語で「息子」、ミツワーは「戒律」を意味する、つまり「おきての子」)の儀式で、大人になったと社会から認められることでしょう。それは、神の戒めを守る、宗教的、社会的責任を持つようになったことを自覚する歳でしょうが、それ以前の若い頃の咎の責任を取らせようと言うのですか?どうしてですか(26節)?あなたは、私を奴隷のように扱い、一瞬たりとも監視の目を離さず、私の足の裏に、債務のある奴隷である印を入れ墨されたのです。そのように腐った物のような落ちぶれた人間、虫が食ってボロボロになって捨て去られるだけの私を、なぜ、追いかけられるのでしょうか(28節)。

人生の不条理さに対する問いには深いものがある。しかし、その問いをヨブがするように、神に真摯に問いかけてみたいところではないか。人生諦めてはならないのである。

ヨブ記12章

12章 神のみこころはいかに

<要約>

おはようございます。人生まだまだ、迷うこともクリスチャンの人生の一景であると言わなくてはならないでしょう。こんなことばは受け入れられないという方もおられるかもしれませんが、聖書通読道場において、しっかり鍛え上げたい、精神です。毎月一度持たれる聖書通読道場にもおいでください。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.私だってわかっている

ツォファルに対するヨブの答えは長い。それは、一通り、友人たちが語ったことに対するまとめとしての応答となっているためなのだろう。「あなたがたは地の民」いわゆる大衆であって、特別な知恵ではない(2節)。私にも神の主権と人間の人生のなんであるかを論じる良識はあり、あなたがたに劣ってはいない(3節)。「これくらいのことを知らない者がいるだろうか」ヨブは、自分が上から目線で見られて、友人に諭される形になっていることに苛立っている。ヨブの自尊心が傷つけられている(4節)。

ヨブは言う。安泰な人生を送る者は、上から目線で、不幸にはそれなりの理由があると侮蔑的である(5節)。そのような乱暴者の住まいを禍が撃つことはない。本来彼らは神を怒らせる者であるのに、どういうわけか神はお見過ごしになっている。いや、神は彼らのその特権的な地位と厚かましい横暴をお許しになっているのだ(6節)。

これは、人間社会だけのお話ではない。自然界の出来事それ自体がそうではないか(7節)。空の鳥を見よ、海の魚を見よ。彼らは自由に空を飛び、大海を回遊している。神の創造の御業の美しさは歴然としているが、そこには同時に弱肉強食の矛盾があるではないか。人間が矢を射てこれを捕まえ、捕食する。魚も釣り針で引きずり上げられるだろう。どの鳥、魚がよいものであり、悪いものであるかなど関係もない(7,8節)、まさにそこには、不条理な世界が広がっている。耐えがたいのはその矛盾である。信仰を持ち、神と共に生きていても、世の中には、神がいないかのような矛盾がある。

だが、強い者は弱い者を思いのままにするこの現実は、神が定めたものである(9節)。いや、全てのいのちは神の手中にあり、全能の神がそれを意のままにされるのである(10節)。

あなたがたは、あれこれ言うが、私だってわかっているのだ。食物の味がよいかまずいか、簡単にわかるように、あなたがたのことばの良し悪しもわかっている(11節)。そして年寄りの言うことが必ずしも知恵ある言葉とは限らない。そこに真理があるわけでもない。あなたがたが言葉を尽くそうと、何一つ、物事が見えてこない。(12節)。もはやあなた方も言うとおり、真の知恵は上から、神から与えられる他ないのだ(13節)。

2.神よあなたは何をされようとするのか。

神は創造者として素晴らしい働きをするだけではない、見よ、神は破壊者としても働く。神がそのように働く時に、もはや人間には逆らいようがない(14節)。それは自然界も同じで、神が天の雨戸を閉じられるなら、地は乾き切り、水門を開くならば逆に一切を押し流してしまう。干ばつも大雨も、私たちにはどうすることもできない(15節)。いやそれ以上に、神は人間の社会をも混乱させるではないか。神がよしとすれば、奸計を抱く人物が現れ、人々もそれに容易に騙される。そのようにして社会全体が迷い出、後の祭りになることは歴史も証明している(16節)。神の決定には誰も逆らえない。だから、国が破れて王の参謀ともあろう人が、その職務をはく奪され、奴隷として連れ去られるのだし、その国の裁判官もそれまでである(17節)。祭司という特権階級にある者も、巨万の富に胡坐をかいて安泰な生活を送る富裕な市民も同じように奴隷とされる(19節)。そんな事態にあっては、国の核たる長老も言葉を失い、君主たちも恥を見るのみである。だが神のなさることはそのようなことだ(21節)。それはまるで地滑りに似ていて、表層の地層が滑落して、その下の暗黒の中に潜んでいたものが露にされるようなものだ(22節)。それにしても何のためにそうするのか。なぜ神は、国々を栄えさせ、これをまた滅ぼすのか。国々が勢いづいてその領土を拡大するのを許しながら、またこれを取り去ることをするのか(23節)。神は王の分別を取り去って、荒れ地に迷い込ませ(24節)、そして闇の中を手探りで進ませて破滅させるのだ(24節)。この矛盾は一体なんなのか。

結局、ヨブの悩みは、知っているか知らないかにあるのではない。知っているがなぜ、そのようなことが起こっているのか、である。なぜ神の御手が、このような矛盾の真っただ中に自分が堕ちていくのを許すのか、である。あらゆる事柄が神から発しているとすれば、なぜ今の自分の不幸を、神は許しておられるのか、神のみこころはいかに、ということだろう。

14節以降は、詩編107篇および、イザヤ44:24-28との関連が語られるところである。しかしヨブの応答は、詩編やイザヤ書とは違って、真っ直ぐな神への賛美となってはいない。それは屈折したヨブの心情を吐露している。不可解な神の力に服従させられる、そんな時が私たちの人生にはある。だが、迷うこともクリスチャンの人生の一景なのである。

 

ヨブ記11章

11章 ツォファルの言い分

<要約>

おはようございます。今日は鹿嶋に来ています。波崎キリスト教会にてメッセージ。神の恵み深さを共に、神のみことばから受ける時でありたいと思っております。実に、ツォファルの語ることを聞きながら、それが、決してヨブの満足するものではないとしても、そこには一つの明確な真理が語られています。偉大な神の前に、恐れつつ、神の御心に生きることを願う者でありたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の深さなどわかるはずがない

ナアマ人ツォファルが口を開く。ツォファルの言い分(2、3節)は、ビルダデ(8:2)とよく似ている。彼もヨブの激しいことばに、反論し難い思いを抱きつつ、それでも何とかヨブの問題を解決に導こうとしている。

ツォファルは言う。「あなたの無駄話は人を黙らせる」(3節)。弁舌巧みなヨブに、きっちり反論できる者はいない、もはや、神に語っていただく他はない、というわけである(5節)。ヨブ記の結論を先取りしている。エリファズは、自分の経験を根拠にヨブを説得しようとした。ビルダデは、普遍的な真理に訴えヨブに気づかせようとし、ツォファルは、このようなことは、語り合うことで解決するようなものではない、と悟りきった感じである。

「神は知恵の奥義をあなたに告げ、知性を倍にしてくださったであろう」つまり、ヨブが神について語るのをやめて、神がヨブについて語ってくださることに耳を傾けるなら、全く違うことになるだろう。そうだ、神が語ってくださって、神に対してそんな口の利き方をしてはならないことを、明らかにしてくださるのが、君のためだ、というわけである。しかも、ヨブよ、あなたは、神が心に秘められていたことを知った、と言うが(10:13、14)、そんなことがあろうか(7節)。神の御思いの何であるかを知るためには、天空高く上り、あるいは地の陰府深く下らなくてはならない(8節)。神の高さ、深さ、広さは、誰にも知りえないことであり、私たちはただその無知を告白するのみだろう。私たち人間は、ただ、そのはかり知れない神の意思の前に、黙して、神の採決を受け入れるのみなのだ(10節)。誰が神に抗議できようか。神は、正しいお方であり、誰が不真実であり、不法であるかを知っておられる。神の目には、全てが裸なのだから。12節、「無知な人間も賢くなるだろう。野ろばの子が人として生まれるのなら」、は言いたいことは、野生のろばの子のような、手に負えない分際でありながら、神の心を知るなどはなはだしではないか、ということだろう。

ヨブは三人の友の反感を買っている。議論に勝つつもりもなかっただろうが、彼は益々救いようのない事態に陥っている。ツォファルにしてもヨブを傷つけるつもりはなかったことだろうが、既に傷ついたヨブの心に深追いをする羽目になっている(12:4)。かつてバベルという映画があったが、互いに分かり合えない不幸というべきか、益々互いを傷つけあう部分があるものだ。まさにサタンのみがこれを喜び、快とするのである。

2.正しい者の祈りは祝される

後半ツォファルは、それでもヨブに光を与えようとしている。愚かで無力な人間にできることは、ただひたすら神のあわれみを求めることだ。手を頭上に掲げて、神に向かって、この悲惨な状況からの解放を求めることだ(13節)。ただ、不法があってはいけない、不正があってはいけない。もしそのようなものがあるなら、あなたの身辺からそれらを取り除いて、罪汚れない身となって、神に求めよ(14節)。そうすればあなたは確信をもって、神に語り掛けることができるだろう(15節)。そしてあなたの苦しみはいずこへと消えていき、再びあなたの人生に光が差し込み、朝露に潤う、晴れやかなものになるだろう(16節)。あなたの暗闇は真昼のようになるのだ(17節)。あなたはエリファズに、「私の日々は機の杼よりも早く、望みのないままに終わる」(7:6)と語ったが、そんなことはない。あなたは神からあらゆるよいものを期待できるし、確信を持つことができるだろう(18節)。あなたは「いくつもの夢で私をおののかせ、…おびえさせます」(7:14)と言ったが、もう大丈夫だ。神との関係も正され、人との関係も正されるのだから。むしろ、あなたは名誉ある関係を取り戻すのだ(19節)。しかし、不法と不正を住まわせている人間はそうはいかないのだ(20節)。彼らに望みはない。

ツォファルの指摘に教えられることは、私たちがいかに、神の前に遜らなくてはならないかであろう。確かに、私たちは野ろばの子のような者に過ぎない。愚かで、無知で、限界に満ちており、神の高さ、広さ、深さの一旦すらも理解できないような者である。けれども、キリストが仲裁者となり、私たちを神の子として扱ってくださっている、その素晴らしさがある。神の御前に謙遜に、恐れつつ、近付き、願い、また従う歩みをさせていただきたいところである。

ヨブ記10章

10章 ヨブの訴え

<要約>

おはようございます。神をどのように受け止め理解していくか、これが信仰をする者にとって決定的なことと言わなくてはなりません。実に、神を人間的なものと見てしまえばそれまでです。神を神として、その高さ、広さ、深さを私たちは知らなくてはならないのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神よ、あなたは人間と同じようなものなのか

先に9章で見たように、ヨブには仲裁者がいなかった。だからヨブは神に直接訴えている。ここでは、三つのことが中心に訴えられている。

まず、ヨブは、この後の自分になんの希望もないのだから、神を訴えることで、ますます最悪の事態になったとしても、つまり命を失うことがあったとしてもかまわないし、実際生きるつもりもない、だから、ありのままに不平をぶちまけ、苦しみを告げよう、と決心している。そして言う。自分が「神の御手のわざ」(3節)であるとする。それは、8-12節に詳しく再び述べられているが、言いたいことは、自分は神にあって奇跡的に造られた者であるのに、どうして、神はこれを軽んじるのか、ということだ。それとも神は人間と同じような生き物なのだろうか(4、5節)。人間というのは、判断を過ちやすい者であるし、気まぐれなものだ。だから、彫刻家が魂を込めて刻み作り上げた苦心の作を、叩き壊すのだろうか(8節)、と問う。実際、神に私のような者に目を光らせるどんな意味があるのか。神の全能性が犯されるわけでもない。神はいつだって好きなことを好きなようにできるのだ。そのような神に誰が抗しえるのか。

ヨブは、人間が神に造られた者であることを、神に思い起こさせようとしている。人は母体の中で受精し、ミルクのような状態から、チーズのように固まり、皮、肉、骨、筋がつき、形をなしていく。この過程一つ一つに神の奇跡があり、神の霊の守りと業がある。神は私に命を注がれた。この全てが侵されることなく、一人の人間として誕生するように導かれた、これはあなたの素晴らしい業なのだ。

2.人間的な神よ、私にかまってくれるな

「しかし」(13節)、あなたは隠しておられた。それを私は今知った。つまり、神は私たちを大事に造られたようでありながら、私の内に罪を認め、陰湿な看守のように、ずっと見張ってこられたことを(14節)。どんな小さな罪にも目を光らせ、見過ごされない。それは実に悲しいことであり、自分で自分を立たせようとしても、できない(15節)。というのも、そうしようものなら、あなたは、容赦なく罪人にしたてよう、と、狙いを定めてくるだけで、その恐るべき業を振るわれるでしょう(16節)。罪を立証するために新しい証人すら立て、私は冤罪を逃れることはできず、ますます不当に苦しめられるのです(17節)。もはや、理不尽な神の前にひたすら耐えるしかない。

ヨブの気持ちを読むにつれ、確かに神が神の力をもって、人間を造られたのはよいとしても、その人間に対し杓子定規に因果応報を適用される、人間的な神のお遊びには付き合いきれない思いもしてくる。神に救いを求めながら、神が人間と同じようなものならば、そのような神を信じる宗教に救いはない、と言わざるを得ない。

そこで最後にヨブは、人間の人生がそのようなものであれば、そんなものは初めからない方がよい、と訴えている(19節)。死は容赦なく近づいてくる、しかし、一度、罪に定められた人間に救いはない。「わずかでも明るくふるまいたい」は、新共同訳では「立ち直らせてください」である。再び帰らぬところに行く前に。すべてが無秩序に、やみと化し飲み込まれてしまう時が来る前に、自分の人生に意味を見出したいということだろう。

確かに、私たちにはそのように切実に祈らせられる時がある。人間の命は神秘に満ちている。それは神の守り無くして成立しえないものである。しかしそこまで神が丁寧に人間の創造に関わりながら、神が人間のいのちを限りあるものとし、罪を監視し、容赦せずに裁きをくだされる、のはどういうわけだろうか。私たちは、まるで人間のような神のお遊び相手とされているのだろうか。

そうではない。それは、そこまでネガティブに落ち込んでいたヨブの思うところであって、実際はそうではないことは後で語られる。自分の魂の状況を客観的に理解したいところではないか。すべてが否定的に思えて来る時にこそ、神に深く祈る時である。神に心から語る時である。

ヨブ記9章

9章 ヨブの反論

<要約>

おはようございます。ヨブの反論の中に極めて、重要なテーマが出てきます。確かに人生において神は横暴だ、と思われることがあるものです。しかしその横暴な神にとりなすキリストの存在があることを、このヨブの反論は語り掛けてくるのです。新約聖書と旧約聖書の知識が結び付くところでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神に手向かうなど愚かなことだ(9:1-13)

ヨブは、ビルダデの意見を受け入れている。異論を挟む余地はない。確かにおっしゃるとおりに神は義しいことをなさるし、神は誰かの人生に突然変更をもたらすこともできる。それは、その人に非があったからかもしれないが、いや自分は正しいのだと神に訴えたところで無駄である。神の言うことはすべてまかりとおるだけで、相当の理由があって異議を申し立てたところで相手にされるわけではない(3節)。神は知恵があり、全能である。神は意思されたことをそのままやり遂げるお方であるから、そのような神に手向かうなど愚かなことだ(4節)。

考えてみたい。人間より大きなスケールの山々の実例をあげよう。山々は、ある日、突然起こった地震で山崩れを起こし、その地形も様変わりとなってしまう。山々は、予期せぬこの出来事に、誰が自分に敵対しているのか、などわかりもしない(5節)。それは神なのだ。恐るべし!神は山々、いやこの地球よりもはるかに大きい、太陽も、宇宙も自分の意のままにされる(7節)。海も、天の天も、宇宙の秩序全てが神に造られたものであり、神の御手のわざによって動いている(9節)。神のなさることはなんと偉大なことか、目がくらむようなものだ(10節)。

他方、そのような世界に住まう人間に注目してみよう。神は人間に関わろうとする時に、その直ぐ側を通り過ぎるのだろうが、見えないし、私には気づかない(11節)。神が私に関心を向け、私のものを奪い去ろうと決心をして、それを取り上げるとしたら、誰も神を引き留めることも、そこで、「あなたは何をするのか」など抗議することもできない(12節)。

私たちの世界には、ラハブのような反逆者がいるものだが、その反逆者もただ、神の決定には身をかがめて従うだけだ(13節)。

2.神と争うなど無駄である(14-24節)。

ならばどうして神に逆らえようか、神に対して語り掛ける言葉を選ぶことすら無駄である(14節)。この神の前にあっては、言い訳を認められない無力な被告人として、哀れみがあることを願うのみだ(15節)。私の抗議の声など聞き入れてもくれないだろう(16節)。

それにしても神は、私を傷つけ、痛めつける。なぜこんな風にするのか、理由も言わず、行きつく暇もなく痛めつけてくる(17節)。「俺が法だ」と語る神と、私はどうして争うことができるのか。私は潔白だと主張し、神とやりあっても、神の一存ですべてが決まり、敗訴になることはわかりきったことだ(20節)。神がひとたび罪を認められたら、人は弁解しようがないのである。

神は誠実な者も、悪い者も、同じように扱い、いずれにも死を報いられる(22節)。良い人生を生きた、悪い人生を生きたなど、全く関係がない。ひとたび災害が起これば、いずれも同じ運命を共有し、潔白な人間は、絶望の中に消えていくのみである(23節)。この地上は権力ある者、つまり不正や暴力を見て見ぬふりをする悪しき者の手にあるものではないか。しかしそれは、神が支配者たちに不正に無感覚にさせるためにそうなるのではないか。とすればこの世界の混乱の原因は神ではないか。神でなければ一体だれがそうするのか(24節)。

3.仲裁者が必要なのだ(25-35節)

光陰矢の如し、私の人生も、ただ死という目標を目指して急いでいく(25節)。それは急流を下る葦の船のよう、獲物をめがけて舞い降りる鷲のようですらある(26節)。

そのような人生において、明るく振舞、何事もなかったように機嫌よく装うこともできるかもしれないが、この痛み、苦しみは、ごまかすことができない。あなたは私を犯罪者として扱っておられるのだ(27、28節)。あなたは私の案件ではなく、自分の案件を審理する裁判官で、私が間違っているのだ、とすることになんのためらいもない方。そこで、神に向かって、そのやり方を責めても無駄ってことだ(29節)。たとえどんなに私が身を清めようとも、あなたの腹積もりは決まっている(30節)。

この私と神の間に、仲裁者はいないものなのか(33節)。弱者に寄り添って、その言い分を助ける仲裁者がいればよいものを。そうすれば私は恐れず神を告訴できる。だが今はそうではない(35節)。ここに新約におけるイエスの贖いの必要性が預言的に語られている。

今日、天に召されるとして、私たちが神の前に出て裁かれることがあったとしたら、一体誰が、神の問責に耐えられるだろうか。日本の宗教文化の中で生まれ育った私たちには、お釈迦様がいる、と思うかもしれない。しかし、お釈迦様はどんな方か。カンダタの蜘蛛の糸の話には、蜘蛛を助けたことを思い出してあわれみをかけてくださったお釈迦様が登場する。しかしそのお釈迦様は、カンダタの自己中心さのゆえに、蜘蛛の糸が切れると悲しみながら去っていくお方である。罪人を悲しんでも引き上げてくれるお方ではない。私たちとお釈迦様の間に立つ弁護人がいないという現実がある。

しかし聖書は神と私たちの仲裁者であり、弁護者であるイエスがおられることを語っている。いな、イエスは弁護者どころか、神の裁きの座で、私たちに代って、神の裁きの宣告を受けてくださった。十字架上の死は、私たちの身代わりであり、まさに私たちが受けるべき神の怒りを受けてくださった姿である。だから私たちはもはや神を恐れる必要はない。神に語り掛けたいことがあれば、イエスの御名によって祈りなさいと教えられている。イエスの十字架は、後の天国の祝福の象徴であり、保証である。裁きの座にあって、神と私の二人の関係を取り持ち、この私を引き上げてくださるイエスがいるのである。