ヨブ記42章

42章 神の決裁

<要約>

おはようございます。ヨブ記を読み終わりました。皆さんの心には何が語り掛けられたでしょうか。私は、改めて、人間の罪と、神に対する正しい態度を持つべきことを教えられました。そしてキリストがあるがゆえに、神との親しい関係も保たれていることの意味を深く教えられました。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

  • ヨブ記の流れ

ヨブ記を読み終わった。1-31章までは、ヨブと友人の議論が続くが、その要点は、因果応報というべき、隠された罪による不幸ではないか、ということをヨブに納得させようとするものだった。しかしヨブに心当たりはない。ヨブは神と自分との間の仲裁者を求め、最終的には自分の潔白に拘り、神に挑戦するような終わり方をしている。32-37章までがエリフの弁論であるが、エリフは、先の三人の友人と違い、ヨブの心に寄り添い、仲裁者の必要性にも触れながら、ヨブが、神と対等に語ることへの警告を発している。神は創造主であり主権者なのであり、人は神に並ぶものではない、と。38章から41章は、ヨブに対する神の応答である。神は仲裁者には一言も触れていない。むしろ、神は、人間にとって背景となる様々な光景に目を向けさせ、この世界が人間中心に出来ていないこと、神の御心に沿ってできていることを語っている。ある意味で、エリフが語る神の超絶性をさらに念を押す形で、ヨブの苦難に対する答えにはなっていない。しかし幼児に親が食むように熱心に語る神の愛と配慮に満ちた関りに、ヨブの心は癒され、整えられていくのがわかるところである。

ヨブ記において学ぶべきことは、この神と人との隔絶した違いなのだろう。私たちは神に対して正しい態度を持たなくてはならない。実はその態度のあり様がわかっていないままに、神に近付き、神の名を呼ぶことが罪そのものなのである。そのように不注意で、不埒な私たちが、神に受け入れられるのは、イエスの十字架があればこそである。その十字架に絶対的に寄り頼み、十字架のキリストによって恐れつつ、神に近付き、神に語る、その態度がきちんとできてこそ、詩篇を読む準備ができると言うべきだろう。詩篇というのは、私たちの気持ちを率直に、感情の赴くままに神に語ることを許す祈りであり、賛美である。しかしその貴重に、神を深く恐れる心がなければ、ならないのであって、ヨブ記は、その基本的な姿勢を私たちのうちに形作ることをよしとする。実に大切な書と言わなければならない。

2.ヨブの悔い改め(42:1-6)

さて、今日の最後の箇所を読むこととしよう。ヨブは、試練によって神についての新しい洞察を得た。というよりも、神の実在に触れた、というべきだろう。しかしこの瞬間が、どんな信仰者にも必要なのである。神はいると思えばいる、と漠然と信じているのでもなく、確信をもって、神の存在を受け止めていく瞬間と日々が。

ヨブは言う。「あなたには、どんなことでも可能だ。この先どうなるのか、と思うようなことがあっても、そこから物事を正しく建て直すことなど、全く容易いことである、あなたには、私たちの知らない目的がある」と(2節)。そして言う。「あなたが言うとおり(38:1)、よくわかりもせずに、あなたのなさろうとしていることを、やみくもに批判したり論じたりするなど、とんでもないことです。本当に何とも愚かな口を聞いたものです」(3節)。また、「あなたはご自分の問いに応えよ」と言われました(40:7)。しかし、私にはあなたのお言葉を聞きながら、ただ恥じ入るばかりです。あなたの神の御業と本質をまるで人間のそれと同じように考えている自分の高ぶりを思わされるばかりです。私があなたのことを聞いて、知ったつもりで礼拝していましたが、今は本当にあなたが言葉に尽くせぬ偉大なお方であること、私が地の塵に過ぎない者であることを知り、悔い、あなたの御前に遜ります(5,6節)。

ここでヨブは、友人たちについて、彼らが神をわかっていないと激しく攻撃したが、自らも神をわかっていると思うほどにはわかっていなかった、と悟らされている。主は全能の神であり、主権者である。その神に対する恐れに欠けていたことを、認めさせられていくのである。わかったつもりであるがゆえに、深まらないことがある。

  • 神の仲裁(42:7-9)

7節、続けて神は、ヨブの友人たちに語られる。しかしその要点は、友人たちが言うように、ヨブの不幸は、ヨブの隠れた不敬虔さによるものではなかった、とヨブを弁護するものではなくて、あなたがたは「ヨブのように、わたしについて確かなことを語らなかった」(7節)と言う点にある。興味深い点である。それは二度繰り返されている(8節)。彼らも、神について何もわかっていなかったことは、同罪なのである。神は友人たちに、まずヨブと同じように、神の臨在を現実の事として受け入れることを求め、その証として、全焼のささげものを献げるように命じられる(8節)。ヨブが正しいか、友人たちの主張が正解かではない。いずれも、神が生きておられるお方であることを、口で言うほどにはわかっていなかったのである。その上で、彼らがわかりもせずに、ああだこうだと、ヨブを非難したことについて、ヨブと和解することを求めた。神にとって重要なのことは、苦難は不敬虔と結びつくか否かではない、神の臨在を人が確かに認め、そのように生きることができるか否かにある。こうして彼らもまた自分たちの非を認め、神に語られたとおりに献げ物をささげ、ヨブとの和解にたどり着いている。

  • 神の計画の実行(42:10-17)

ヨブは彼らのために祈り、議論は収束した。これによって主は、ヨブを元どおりにされた。彼の病気が癒されたことは書いていないが、おそらく彼は癒されたのだろう。だから人々は彼の下に再び集まってきて、一緒に食事をしている。贈り物は関係の回復を意味している(11節)。

そして彼の財産はもとに二倍になったという。そしてこの財産を譲るべき子たちも与えられた、という。また彼は先祖たちと同じくらいの長寿を全うした。今日、このように神が直接的に、物的に介入して物を正してくださることは少ないように感じることがあるかもしれない。しかし、目に見えないところで、状況を整えて、神が、確かに正しいことを正しいとしてくださることはある。神は確かにおられるとわかる方法で、物事を回復させてくださることがある。神は、私たちを恥辱の中に捨て置かれたままでいることはない。必ず私たちの側に立ち、私たちのための最善をなしてくださるのである。

苦難が苦難で終わることはない。神に見捨てられ、十字架の恥辱の死を味わった主イエスも復活の恵みを味わった。苦難にあって何の望みもない肉の人のように腐り果ててはならない。ヨブが二倍のものを祝されたというのは、神を信じる私たちの人生には、望みがあることを象徴的に語っている。私たちの苦難は決して空しくは終わらないことに、信仰を持って歩みたい。そして、いついかなる時でも神を喜ぶ信仰の高嶺へと導かれたいものである。

ヨブ記41章

41章 深い霊性

<要約>

おはようございます。全ては、人間中心ではなく、神中心にできていることを、改めて理解する必要のあるところでしょう。私たちにとっては完全に背景となる、わき役となる者たちも神にとっては完全な、誇りうる存在です。神がなさろうとしていることを静かに受け止め、いつでも主のなさることに期待し、喜びをもって何事にも取り組みたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.レビヤタンを飼いならすことができるのか(12:1-11)

ヘブル語聖書では、8節までが前の40章に含められて区分されている。実際40章の続きと見てよい。ビヒモスとレビヤタン、音訳をすればそうなるのだが、ビヒモスは恐らく河馬のこと、レビヤタンは鰐であろうとされている。いずれも、私たちが家畜にすることのできないもの、家畜にするなど考えられないものである(3-5節)。

ただ、新改訳がこれを鰐ではなくレビヤタンと訳したのは、おそらくこれが、パレスチナやナイル川に生息した地上の鰐そのものというよりも、ウガリット神話に出てくる巨龍を想定したためなのだろう。となれば、神は、ヨブに対して当時の空想的なイメージを用いて、神に敵対する無謀さを語ったことになる。現実の動物か、それとも空想上の動物か、先の40章を河馬と訳すならば、こちらも鰐とした方がよい気もする。また、神がヨブとの議論に空想の生き物を持ち出すだろうか、という気もするのだが、いずれにせよ、言いたいことは、それらをお造りになった神に対抗することの愚かさである。

だから神は言う。「そうであれば、だれがいったい、私の前に立つことができるだろうか」つまり、レビヤタンすら制服しえずに、どうして神の前に立つことができるか、ということだ。そして言う。「だれが、まずわたしに与えたというのか。わたしがそれに報いなければならないほどに」(11節)。唐突な印象で、よく理解しにくいが、この節はパウロによっても引用されている(ローマ11:35)。そこで、パウロの解釈を当てはめるなら、それは、人間が何一つ神に与えておらず、逆に神が人間に全てを与え、全ての起源とすらなっていることを覚えて、ヨブは、その足元に遜るべきだ、ということになるのだろう。神と対等に語ろうとするヨブに対する否である。

こうして考えると、神と私たちの間に立つ、キリストの存在は実に大きなものと思われる。やはり神は神であり、罪人の人間がそう易々と近づけるものではない。キリストの十字架があってこそ、神を仰ぐことができる、というべきものだ。

 

2.レビヤタンに優るものはない(41:12-34)

12節以降は、レビヤタンに対する神の絶賛である。「そのからだの各部についてわたしは黙ってはいられない。その力強さと、その体格の見事さについて」(12節)。神は、自らの創造物に対する賛辞を惜しまない。以前、フロリダに行った際に、あちらこちらで鰐の姿を見かけたが、確かに、鼻と眼を突き出して、水中からこちらを伺う様子は、不気味であったことを思い出す。しかし神の目からすれば、それは、実に見とれるような神の傑作なのだ(18節)。実際鰐が、動き出せば、どんな力強い男でも、慌てて、後ずさりするだろう(25節)。それに対して、剣や、投げやりをもって威嚇しても、彼らは動じない(26-28節)。背中は、堅い甲羅のように防御されていても、下腹が弱点かと思いきや、そうではない。彼らが通った泥の跡は、下腹もまた板のように防御されていることを思わせるものがある(30節)。また彼らは泳ぎの名手で、沼地の中を荒々しく進むことができる(31節)。ということなのだろう。

ともあれ、言いたいことは、鰐の威容と力を見よ、全ての者が彼らを恐れて逃げるが、彼らは何ものをも恐れない。彼の背丈より高い生き物はいくらでもいるが、彼は、それらを平然と見下ろす、誇り高い獣の全ての王である、というわけだ。

41章は、40章に続いて、人が自分たちの生活の利益には全くカウントしない存在について語る。鰐の表皮が、高級バックやベルトにされ、重宝にされるのは、現代でのことなのかもしれないが、少なくともこの時代、河馬も鰐も、人間が関心を向けるものではなかった。しかし神はそれらを造り、それらを完全な生き物として造ったことを語る。神が完全なものとして造ったのは人間だけではない。神は被造世界を支配する者として人間を存在させたが、やはり被造世界の中心は神である。世界は人間を中心に動いているのではない、神のみこころを中心に動いているのである。そこを理解し、今の私がどう生きるか、日々の様々な変化と動きにどう応じていくかを考える必要があるのだろう。私たちの身の回りに起こってきたあらゆる変化は、神がお許しになっていることである。それらの中には、驚き怪しむこと、不本意に思うこともあるかもしれない。けれども、あなたを中心にそれらが、あなたが思うとおりの不本意な形で起こっているわけでもないこともある。わからぬものをわからぬままに受け止め、常に主の最善があることを覚えて歩ませていただきたいものである。

 

 

ヨブ記40章

40章 河馬も人間に並ぶ神の傑作だ

<要約>

おはようございます。神の応答に耳を傾けて教えられるのは、世の中が自分中心に動いているわけではないこと、さらに、人間中心にこの世界や物事が成り立っているわけではないことでしょう。神にとっては被造物全体が、視野にあるのですが、私たちはほんのその一部、自分と自分の周囲が問題なのです。だからといって、神は小さな器を粗末にされるお方ではありません。自己肥大化の愚かさから守られると同時に、神の愛への深い信頼を学ばせられるところではないでしょうか。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の前に口をつぐむヨブ(40:1-5)

神はヨブを「非難する者」(1節)、つまり「あら捜し屋」と呼ぶ。ヨブは、神に難癖をつけているのである。ヨブは気づいた。「ああ、私は取るに足りない者です」(2節)ヨブは自分が本当に、地の塵から造られたに過ぎない者、全能者の前には無に等しく、対等に語ることのできない者であることを悟らされていく。そして神が親しく語ってくださることに、ヨブは、恐れをなし、口をつぐんでいる。この世の中には、38章、39章で述べられているように、実に、人間にとっては全く利益をもたらすことのない、ミステリーに満ちたものが多いものだ。神は、人間には理解できないものをもお悦びになって、それらを養い守っている。神は人間を万物の尺度にはしておられないのである。神は神ご自身の尺度をもって、この世界を作り、この世界を保持しておられる。

2.ヨブに向かい語られる神(40:6-14)

そのようなヨブに、さらに神は語る。4節以降は、後代の付加と見られることがあるが、そのように受け止める必要もないだろう。神は言う。「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ」(6節)と。神は、ヨブに真正面から語ろうとする。ヨブにとっての関心は、神の契約の民である自分の義がどうなるか、という部分であった。神の契約の民は、特別に扱われるべきである(詩編4:3)。しかし、契約を無にするような扱いを受けるのはなぜか、ということである。だが、そのことに拘れば拘るほど、神を逆に罪に定める結果となる(8節)。神の決定に異議を唱え、神を不法者としてしまう結果となる。

そこで神は言う。ならば私を超えて、私の裁きを覆す、決定をしてみよ(10節)。神の裁判の座について、悪を行う者どもに、怒りをまき散らし(10節)、実際に、悪者を一息に蹴散らし、彼らを滅ぼしつくせ(12節)。彼らを豪奢な墓石で飾りたてることを許さず、土に葬り去り、死者の国に閉じ込めたらよい(13節)。あなたにそれができたら、わたしは、あなたを私の決定を覆す、私を凌ぐものとして認めてやろう。あなたはあなた自身の力で勝利したのだ、と。

3.河馬も人間に並ぶ神の傑作である(40:15-24)

ただ聖書の神は養育的である。ヨブの高慢の鼻をへし折ろうというのではない。神は、ヨブにとことん付き合って、言葉を尽くして語ろうとする。一喝して終わりではない。

さあ、創造の世界を広く見よ。それらの全てが、現代の人間の尺度で測られるように作られているのか。そうではない。人間が河馬と呼んでいる、あの獣をみよ。あれは、私が人間と一緒に造ったもの(15節)。けれども、それは、あなたのために造られた、と言えるだろうか。彼らは獅子のように肉を食らわず、草を食べて生きるものたちであるが、かといって、人間の家畜にもなるような存在ではない(15節)。しかし見よ、彼らの力強さを、彼らは、あなたがたには価値のない背景の装飾の一つに過ぎないかもしれないが、私は彼らを喜んでいる(16節)。人間に、あのような生き物を造ることができるか(17-19節)。あの堂々とした体格、垂れ下がった尾、頑丈な骨格、どれをとってもそれは神の傑作であり、創造力の証しである。その命を握る者は、この私である(17-19節)。彼らは、静かに草を食み、山のもたらした産物を楽しんでおり、野の獣も、彼らの周りで平和に暮らしている(20節)。彼らは、いつもは、沼地の水の中にのんびりと時を過ごしている(21-22節)。そして、たとえ激しい雨が降り注いで、その口に注ぎ込むほどに、ヨルダン川が溢れても、他の動物たちと違って、慌てない(23節)。目と鼻だけ突き出して動じない。あなたは、この河馬を捕まえることができるのか。

神は時間をかけて、ゆっくりと語られていく。この対話はどのくらい時間がかかったのか、と思うところである。ヨブは素直に耳を傾け、神は一言一言、ヨブの心のひだに触れるように、ヨブの心に理解が染み渡るように語っているところではないだろうか。神はこのようなお方なのか、と改めて感動するところでもある。

私たちは本来神の目には塵に等しい、虫けらの存在である。そしてこの創造の世界は人間中心には仕上げられてはいない。神の創造の世界である。しかしたとえそうであっても、神はいかなる人間も粗末にはされない。イエスの十字架の死は、神がご自分の魂と人間の魂を等しいものとされた行為に他ならず、その十字架の血潮によって、私たちに対する愛を明らかにしておられる。そのような神であればこそ、今の苦難を神に委ねる勇気を与えられるのである。神に苦に感じている事柄の行方を任せてみよう。神がどうなさるのか。自分の義を主張することを止めて、神の義がどのように現されるのかを見守り、神が何を教えようとされているのかを考えてみよう。

キリスト教信仰はご利益ではないのだ。物事が順調にいけばよし、しかし物事がうまくいかなくなれば、神につぶやき、神に難癖をつけるのであれば、結局自分中心に物事を考えていくご利益信仰と変わりはない。自分にとって不本意なことが起こっても、神のご計画の中で、なおも、この小さき者に対する神の配慮と最善があることを信じて自身の人生を委ねていくのが、まことの信仰である。いついかなる時も、神を神として崇め、神に栄光を帰すことなのだ。

ヨブ記39章

39章 神の配慮

<要約>

おはようございます。台風の被害様々であったと思いますが、続けて敏速、適切な手立てが進められますように祈ります。さて、神の偉大さを語る、ヨブ記39章、考えてみると、神の存在は幸なのか、不幸なのか、わからなくなるようなところもあります。しかし、人間の合理的判断とは違う、神の思考で考えてみれば、どんなものも大切な存在であると言うことができるようにも思います。自己肥大化することへの警鐘を読み取るべきで、それ以上の読み込みは控えることも必要でしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.人間には不合理な存在であっても、神はこれを喜びとする(39:1-12)

野生動物の生態が語られる。それは、家畜と違い、自由奔放で力強い。しかし、その誕生から自立に至るまで、神が関わっておられる。神の配慮があり、世話があり、守りがある、という。神は言う。ヨブよ、あなたは野やぎが子を産む時期を知っていても、その時がいつかは正確にはわからないだろう(1節)。野やぎの妊娠期間も、野やぎが子を産む時も言い当てることはできないだろう(2節)。彼らは、人間の助けもなしに、子を産み(3節)、子は、すぐに強くなり、育って、親を必要としなくなり、自立していく(4節)。

野ろばもそうだ。野ろばは、人間とは無関係に、荒れ地で生息している。わたしがそのように定めたのだ(5、6節)。彼らは、人間の目には無駄な存在かもしれない。人間社会と切り離しても構わない存在だろう(7節)。だから人間は、そのような動物が人間社会に降りてきて危害を加えたり、繁殖し過ぎたりして、人間社会に脅威をもたらすならば、これをまるでもののように殺傷処分するのだ。しかし、ヨブよ、私が創造したものの価値は、何でも、人間の利益に作用するものでなければならないのか。

野牛は、力強いが、これを飼いならして、耕作や運搬に活用することはまず難しい(9,10節)。しかし、飼いならせたら、なんと頼もしいだろう。このような野牛は、家畜牛よりも馬力があるからだ。しかしそうはならない。あなたはその馬力を口惜しく見るだけだ。だからあなたにとっては何の価値もないし、不要なものだ、と見るしかないだろう。けれども、私にはそうではない。私はこの野牛の価値を認め、野牛を喜んでいる。そして養っているのだ。

考えてみれば、なぜに神は、そのような無駄と思われるものを造られたのか、不明である。神の思考は人間の思考とは大いに違うと言う他はない。そのような意味では、私たちの世界には、私たちの尺度からすれば全く無駄だ、と思われて、切り捨ててきたものは多くあるだろう。人間は人間の間にも優劣をつけて、そのように切り捨ててしまうことがある。しかし真の神の人は、神の思考に生きる人は、そのように無駄だと見なすものはない。何かしら、その存在の有用性、本来生まれ出た意義を、神と共に見つけていくものだろう。

2.ダチョウの暮らしがわかるか(39:13-18)

そのような意味では、だちょうの存在も不思議なものだ。だちょうは羽があっても、それで羽毛が取れるわけでも、飛べるわけでもない(13節)。また、卵を産んでも産みっぱなしで孵化させる知恵がない(14-16節)。ただ、だちょうがいざ、走りだせば、どんな駿馬も、どんな優れた騎手も、これに勝つことはできない。人間の目から見ればこれほど無意味な習性はないし、種の保存が維持されることも不思議だ。しかし、これも神のなさったこと、というわけである。

3.馬や鷲の習性を形作ったのは誰か(39:19-25)

そこでヨブよ、馬についても考えてみよ。人間は、馬を飼いならし、これを軍馬にする。しかし、軍馬としての性質を備えたのは、私だ(19節)。馬は、いざ走りだせば、人が抜き放った刀の閃きを恐れることなく突進していく(22節)。彼らはその勢いで敵を怯えさせ、瞬く間に蹴散らし、責め立てる。こうした習性を、人間が馬に与えることができるのか。人間が手塩にかけて、向こう見ずな突進をやって遂げる馬に仕立てることができるのか。そうではない。人間にそのような開発能力はない。寒い季節になると、渡り鳥は南に向かって飛んでいくが、鷹の一種も同じである。それはあなたが定めたことか(26節)。鷲が、人の近づきにくい高いところに巣を作るのは、あなたが命じたためか(27節)。鷲は、鋭い目で、遠くから獲物を狙い(29節)、死骸が横たわっていれば降下し、その血の滴る肉を食いちぎり、これを雛に与えるのである(30節)。

ヨブよ、あなたにこんな馬や鷲を造ることができるのか、というわけだ。

そのようにして神がなさったことである、とあらゆる世の事象を見ていくならば、自分の身に起こる一つ一つの事柄について、慌てずに、神の深いみこころを静かに探ることを求めるようになるだろう。無駄なように見えることも、単に、自分が所属する社会の画一的な思考に支配されているだけのことで、その考え方から自由になってみれば、別の意義を感じることもできるだろう。

実際、私は世界の創造者であるが、これを造りった時に、それをよしとした。決して無意味なものは何一つ造らなかった。だから自然の生態系に不可思議なことが多いとしても、そこには、何らかの私の目的があると見るべきなのだ。

そういう意味では、イエスも同じように語られた。「父のお許しなしには地に落ちることはない」(マタイ10:29-30)と父が雀に配慮し、養ってくださっていることを語った(マタイ6:25-27)。さらに、イエスは、植物に目を向け、神がこれを創造させたのみならず、神がこれを装ってくださっている、と語る。イスラエル人にとって野の花は、日々の食糧のために、燃料とされてしまうものであったし、わずかな一日の命に過ぎないものであったが、神がこれを着飾ってくださるのだという。そして、私たちはその雀よりも、また野の花よりも、神の目にはすぐれた存在であるから、思い煩うなと語る。

神が知恵をもって、野の獣を造り、住みかを与え、習性を与えられた。それは、神の知恵の業であるのみならず、愛の業でもある。私たちは神の目には小さなものである。しかしその小さな者のために神がなしてくださっている大きな配慮がある。

 

ヨブ記38章

38章 神の創造の偉大さと配慮

<要約>

おはようございます。いよいよ神が語られます。しかし神はエリフの語ったことをなぞるかのように、ご自身の世界の大きさを語っていきます。確かに私たちは一被造物に過ぎない、謙虚な歩みをさせていただきたいものです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.あなたは、私と一緒に創造の業に携わったのか(37:1-12)

ついに神が沈黙を破りヨブに語ってくださった。しかしそれは単刀直入な回答ではなく、質問の形を取っている。ヨブに考えさせることによって、自ら答えを出させようとしている。ただその質問は、ヨブが答えられる類のものではない。自然の驚異と保持について、神の御業を認めさせる内容であり、神はヨブが質問に対して返答することよりも、自らの無思慮を認め、静まることを期待していると言ってよいだろう。

神は言う。「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか」(2節)これは、ヨブに対してあるいは、エリフに対して向けられたと、二つの取り方がある。ヨブに対してと理解してよい。ヨブは、自分の義を主張し、神に回答を詰め寄った。しかし、神は、それは摂理を暗くすることであるという。神のヨブに対する取扱いは、不当なものに見えながらも、理にかなったものがあるのだ、とヨブは信じるべきだった、というわけだろう。もちろん、こんな苦しみがどうして理にかなったと言えるのかと思うことはあるものだ。しかし神は言う。「あなた勇士のように腰に帯を締めよ」(3節)つまり、私はあなたのご機嫌を取ることはない。心して聞け、ということだろう。

神は、具体的にご自身の比類なき偉大さが現された創造と摂理のみ業を語っていく。そもそも、あなたは、私と一緒に、世界を作る計画者であったのか(4節)。そうでもないのに、神は、どうあるべきかをあなたは不本意に語る羽目になっているのだ。全てを知っているかのような言い方になっているのだ。けれども、この世界の寸法を決め、配置を計画し、その秩序を定めたのは、誰か(5節)。誰がこれを定礎したのか(6節)。人間だって定礎式においては、喜び祝うだろうが、天地が作られたときには、み使いたちが、褒め歌を歌い、天が喜びでいっぱいだったのだ(7節)。

人間の出産にたとえてみよう(8節)。海が生まれ出た時に、この生まれたての海が干上がらないように、雲を衣とし、雨雲を覆いとした(9節)。そして海が自由奔放な子どもとなれば、海岸線と砂丘をもって、柵をつけ、これを守ることも必要だった(10節)。「ここまではいい、けれどもこの先は出てはダメ」と。(11節)。あなたは、私と一緒にこの仕事をしてのけたとでもいうのか。もちろん、それはなかっただろう。ならば、どうして、あなたは、この一切が、あなたのために調整されるようにと要求するのか、というわけだ。

2.闇はいつまでも続くわけではない(37:12-15)

あなたは、朝になれば、太陽に命令を下して「さあ、朝が来た準備せよ、地平線を照らす位置は、そこだ、そこから駆け上がれ」と言ったことがあるのか(12節)。暗闇に紛れて、悪しき行為を行う者どもたちを一層させるように、命じたことがあるのか(13節)。地ははじめモノトーンの世界であるかもしれないが、徐々に太陽の光に照らされて、やがてあらゆる被造世界が形を表し、色鮮やかな祝福の世界を再現するではないか(14節)。やがて、太陽は上る。そしてすべての闇は、葬り去られるのである。悪しき者の運命も同じだ(15節)。

3.神の創造の世界の広さ深さ、その御業を改めて考えてみよ(38:16-21)

ヨブよ、あなたは、海の深みも理解していないだろう。その深淵を歩き回ったことはないだろう(16節)。死の世界だって行ったことはないはずだ(17節)。それなのになぜ死後の世界のことを話すのか。そして実際に目に見えるこの大地についても、その広さをあなたはどこまで知っているのか。あなたの知力は本当に限られているのではないか(18節)。アメリカの西海岸から東海岸へと飛んだことを思い出す。バンクーバーからシカゴ上空を横切り、五大湖を飛び越えてボストンへと向かった時に、神の創造のスケールのあまりの大きさに痛く感動したことを覚えている。ジェット機で、いくら飛んでも、先に陸がずっと続いていくのだ。地球は宇宙の中でも小さな星であるが、人間にとっては巨大であり、そうした地球を造り、それがおさまる太陽系を造り、さらにその太陽系がおさまる銀河系を生み出し、と考えていく時に、神のなさることは計り知れないし、まるで自分が神の摂理の中心にいるかのような発想は実におこがましいことを覚えるのである。神の摂理というのは、私たちが簡単に文句を並べ立てるほど、単純なものではない。ずっと複雑で、深いものである。

ヨブは、光と闇を分け、その秩序を付けている神の御業をただ見るだけであること、ただそれらを知っているだけ、そこに一緒に参画し、神と対等に、物事を動かしているわけではないし、物事を動かせるように具申できる立場にもない現実を、教え諭されているのである(19-21節)。

そのような意味で、私たちの労苦は、いかに大きいものであれ、それはある意味で地球の片隅で起こっているようなものだ。けれども、それはどんなに小さなものであれ、神の深い摂理の中では、神の計画に連ねられているものであり、神の複雑なみこころの内にあって起こっていることである、と神は認めているのである。

4.雪も雨も、人間の創造を超えた神の営みがある(38:22-30)

ヨブよ、あなたは、雪や雹がどのように貯蔵されているのかわかっているのか(22節)。これは、時には敵を滅ぼすために使うもの(23節)。稲妻が煌めく方向や焼け焦げるようなシッコロ風が吹く方角、そして大水の流れはどのように定められるのか(24、25節)。人は、自分が区画した農地にうまく水が運ばれて欲しいと考えるが、私は、人間が入り込まないような荒れ地にも雨を降らせ、そこに若草を生えさせて、野生動物が生息できるようにする(26、27節)。人は豊穣を願って雨ごいをし、雨の父に願い事を並べ立てるが、ヨブよ、あなたは本当に誰がこれらを制御しているかわかっているはずだ(28節)。また冬になれば、水が石のように凍り付き、芯まで冷えて、大地は固まってしまう。それは、実に不思議なことであり、人間にとって何の役に立つことか、と思うだろう。しかし、この四季の移り変わりは、あなたの個人的な利益とを超えたものである。

5.(38:31-38)

そうだ、空を見上げるがいい。あなたは、冬の夜空の一番の見所と言えば、オリオンとすばるに違いない。あなたがたは、それぞれ星に名前をつけてきたが、その塊を造ったのは誰か(31節)。惑星の通り道に並んだ十二の星、つまり黄道の十二星座は、シュメール時代から発見され、バビロニア時代にはそのような秩序があると確定されたようだが、あなたは、その中の一つでも、たとえば牡牛座を誘導して、そこから引き出すことができるのか(32節)。天の法則は、私が決め、その秩序をあらかじめ定めたのだ。そこにお前は一緒にいたというのか(33節)。

ある星座の出現は、雨期の到来を告げると言われるが、実際に雨を降らせるのは、私の雷のような一言であって、あなたではない(35節)。隠され、秘められたことがあるのだ(36節)。あなたが、ちょうどよい適量になったので、雨を降らせましょう、と言うわけではない。そんなことはあなたにはできないことだ(37節)。あなたの知らないところで、地が乾燥し、人間の手に負えなくなった時に、これに心を配り、配慮して雨を降らせるのは、私である(38節)。

実際、あなたは、どこまでこの自然界の野生生物のことを心配しているというのか(39節)。あなたは、いつも自分の営みに忙しく、地球の裏側のジャングルに住む動物など、全く頭にないだろう。だが、私は、この地上に住むすべての命を心配し、配慮しているのだ。あなたの気づかぬような洞穴に伏し、茂みの中で待ち伏せし、獲物を求めている獣についても私は知っている(40節)。烏の子がお腹を空かせて、食べ物を求めている時に、それを聞いて、母親どりに食べ物を供えるのも、私なのだ(41節)。それは、創造主としての私の営みだ。

実に、自己肥大化したような生き方を捨てて、真に神の前に謙虚に歩ませていただきたいものである。神は、私たちが目もくれない、烏の子の泣き声にも心を配っている(41節)。ならば、まして私たちの、心の涙は覚えておられないはずがない。天地創造の神の前に、塵に過ぎない人間であることを忘れず、しかし、神の深い摂理と配慮の中に置かれていることを覚えて、慎みを持って歩ませていただこう。