詩篇150篇

150篇 最大のハレルヤ

おはようございます。ついに詩篇を読み終わりました。長い道のりでしたが、150篇完読。最後は、神を賛美する歌で締めくくられます。やはり神と共に、人生の山谷を乗り越えて生きてきた者であればこそ、神に対する心からの賛美が自然に出てくるものでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

第一巻から第四巻は、どれも感謝と讃美で終わっていたが、第五巻は、賛美のみで構成される詩篇で終了している。150篇は、そのような意味で、最後の最後、締めくくりとして書かれたのか、それとも、最初からこのような詩があって、詩篇の最後に収録されたのか、わからないが、私たちにもう一度神をほめたたえるべきことを促している。

さてその賛美は、神の聖所において、そして、「御力の大空で」。つまり、神の創造の最初の御力が現された天に結び付いて、なされるものである。ヨハネは、黙示録4章において、「ここに上れ」と語り掛けられて、天上で繰り広げられている壮大な礼拝を目撃し、その様子を描いている。それは、「すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が、御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持って…ひれ伏し、神を礼拝」(黙示録7:9,10)しているもので、終末的な教会の完成の姿でもある。大切なのは、私たちの地上の礼拝がそのような天上の礼拝に繋がるものとしてなされていることなのだろう。地上でなされる礼拝の一つ一つが、素晴らしい天上の礼拝に結び付いている、そのような意識をもって礼拝がなされていることが大事なのだ。

2.神に向かって歌う

2節は讃美の理由を示す。神の、その「大能のみわざ」のゆえに、「そのすぐれた偉大さのゆえに」神はほめたたえられる。神の性質とその御業を正しく知るならば、私たちは神をたたえざるをえない。もちろん、信仰を持たずとも、讃美歌は歌えてしまうものである。神を信じない人々の間にも、ゴスペルソングは、根強い人気があって歌われているように。つまり神を認め、信じることがなくても、力の限り、心を合わせて歌詞を歌うことはできるものだ。だが、天上の礼拝を認め、そこに繋がる賛美は、信仰を抜きにしてはできない。地上の観客に向かって、感動的に歌いあげることはできても、天におられる神を見上げて、自らの人生に加えられた神の恵みの一つ一つを覚えながら、その感謝と感動を献げる歌を口ずさめるのは、神と共に人生を歩んだ信仰者でなくしてできないことである。神の恵み深さ、神の義の高さを知っていればこそ、神に向かって歌うことができるのだ。

3-5節は讃美の方法を示す。当時角笛は祭司が、シンバルはレビ人が、タンバリンと踊りは、女たちが担当した。つまり、祭司、レビ人、会衆あらゆる者が、賛美に招かれ、神をほめたたえるように勧められた。そしてすべて角笛をもって、タンバリンと踊りをもって、緒琴と笛とで、音の高いシンバルで、鳴り響くシンバル、とあらゆる種類の楽器を持って、つまり自分の持っているすべてのもので、力の限りたたえることが勧められた。

3.皆神を讃えよ

最後の6節は、賛美の主体について語る。パウロは、「神は、全ての人に、いのちと息と万物とをお与えになった」(使徒17:25)と語った。私たちは神から出たものである。私たちの身体は、やがて土に帰るものである。人間は土から造られたものであるから、土に帰っていく。しかし、神はその土くれである人間にいのちを吹き込まれ、人間は生きものと成った。単なる土くれではない。土の器の中に神のいのちを宿す生き物が人間である。神から出たのであるから、神に心を向けるのは自然なことだ。神のいのちに共鳴して、神を讃えるのは、しかるべきことである。神のいのちを確かに感じて、今日も神に感謝と讃美をささげる歩みをさせていただこう。

 

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詩篇149篇

149篇 主をほめたたえる

おはようございます。人の心には自然に人を妬み、憎み、敵対視し、争いごとを好む習慣が形作られているものです。主をほめたたえ、愛する心の習慣は、意識されるべきものでしょう。それが私たちの罪人の心を変えていく力にもなるからです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

今日も神をたたえることの勧めである。ちょうど、毎日変わらぬご飯とみそ汁を食べながら、飽きもせず、そのよい味わいを楽しむように、三度の食事と同じ心の習慣が必要である。つまり目に見えない神を認め、その至高なる神の前に遜り、主をほめたたえる習慣である。

1節、主に新しい歌を歌え、主への賛美をささげよ、と語る著者は、「造り主」(2節)であり、「王」(2節)であり、「救い主」(4節)である神を見上げている。「造り主」「王」「救い主」この三つが、賛美をささげるべきお方の中核的なイメージである。神はこの天地万物を造り、支配し、また、私たちを罪の滅びの中から救い出してくださった。その方をほめたたえる。昨日は、誰と、つまりすべての造られたものとともに。天と地のあらゆるものと共に、ということであったが、今日は、どのように、つまり、「踊りをもって、主の御名をほめたたえよ。タンバリンと竪琴に合わせて、主にほめ歌を歌え」とされる。

2.主をほめたたえる

以前、アフリカン・アメリカンの方々が集まる礼拝に出席したことがある。礼拝が、最初から最後まで、身体が揺すぶられるようなリズムと賛美で進められていたことを思い出す。造られ、練習を重ねた踊りではなく、自然に体から溢れだす、側にいるとこちらの身体も共鳴する、そんな雰囲気であった。喜びや感謝があるがままに全身で現わされていた。どちらかと言えば、私は静的な礼拝を好み、静寂の中に満たしを求める方なのだが、このような形もまた素晴らしいものだ、と思わされた。主をほめたたえるあり方の豊かさがある。

そして主をほめたたえることは、聖所、会堂のみならず、自らの家庭でもなされることである。5節「床の上」とある。新共同訳では「伏していても」である。原語はミシュカーブ、床、寝室、と訳されることばであるが、単に夜寝る前に「床の上で」という意味ではないようだ。つまり、前の「貧しい者たちを救いをもって装われる」とあるように「伏していても」つまり虐げられる状況にあっても、ということなのかもしれない。となれば、具体的な場所よりも、いついかなる状況においても、それはどん底においても、ということでもある。

3.主の働きの確実さ

後半、6節「両刃の剣があるように」7節「復讐し、国民を懲らしめるため」8節「彼らの王たちを鎖に、~貴族たちを鉄のかせにつなぐため」9節「さばきを~彼らの間で行うため」とある。これらの目的が、神をほめたたえることとどのようにつながるのか。4節が鍵となる聖句なのだろう。神はご自分の民を愛し、貧しい者たちを、救いをもって装われる。神は力と共にあるのではない、貧しさ、弱さと共にいる。神は、打算的なお方ではない。誠実な愛に満ちたお方である。その神が、世の通常の感覚であれば起こりえない救いを、成し遂げてくださるのだ。世であれば相手にされず、見捨てられ、忘れ去られてしまうところが、そのような者たちを探し出し、見出し、救いあげてくれることが起こる。神のこの世に対する支配は明らかであり(6節)、また、神の裁きも決して空文ではない(7-8節)。それは確かなこと、現実的なことである。

だから、神を恐れ、神の御前に敬虔に歩む時に、そこには必ず、主への賛美がある。たとえ、主の御前に望みなく呻くことがあっても、主は生きておられる、と主をほめたたえることが、必ず起こりうる。主を信じることである。主を期待することである。そして主をほめたたえることである。

詩篇148篇

148篇 被造物を含めた終末的礼拝

おはようございます。聖書が語る救いの完成は、人間のたましいに関することのみならず、被造物全体の回復も含めてのことです。となれば当然クリスチャンには、自然環境に対する心遣いとその保全の実践も生じることでしょう。信仰と実践の合一を心掛けたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

神をたたえる賛美は、詩篇146篇からの続きである。この詩において著者は、天と地に神を賛美するように呼びかける。イスラエルの民にではない。というのも礼拝者への呼びかけは、すでに詩篇146,147篇にてなされている。著者はさらに天と地に呼び掛け、被造物と一体になり、神に賛美をささげようとしている。

まさにこれは、究極の救いの完成形である。というのも、パウロはローマ書の中で「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります」(ローマ8:21)と語っている。つまり主にある救いを待ち望んでいるのは、人間ばかりではない。被造物のすべても「今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをして」(ローマ8:22)いるのである。その被造物が回復され、人間と共に神を褒め称え、神を礼拝する、これは、万物の贖いの最終的な姿であり、壮大な神の救いの完成を意味するのだ。

2.天も地も主をたたえよ

すべての御使い(2節)から始まり、日、月、輝く星、天とともに、神を拝する(1-6節)。また、地に向かって、海の巨獣、淵、火、雹、雪、煙、あらし、山々、丘、木、鳥(7-10節)、そして、まだ神を呼び求めようとしない、地の王たち、国民、君主たち、若い男、女、年老いた者、幼い者(11-13節)、へと主をほめたたえる呼びかけがなされる。聖書の救いは、単なる人間の救いだけを意味しない。神の御手によって造られたすべての被造物の救いを含む。そうであればこそ、このような詩によって、キリスト者の心には、環境問題への敏感さも養われていくはずなのである。神に被造物の管理を託され、被造物全体を含めた贖いの完成を願う思いがあるならば、資源問題、環境問題への心遣いがあり、責任ある態度や行動も、起こりうるだろう。

3.被造物と共に礼拝する

礼拝は小さな会堂の中だけのことではない。それは、物理的な空間を突き抜けて、教派・教団を超えた、地上のすべての教会が集められた、いわば、目に見えない教会、普遍的教会に連なる営みである。しかしここで語られているのは、被造物すべてと共鳴する礼拝である。

しばしば野外礼拝をする教会も多いことだろう。それは、レクリエーション的な意味でなされる場合が多い。会堂を出て、自然の中にあって神を賛美し、神の御声を聞く、つまり気分転換に礼拝の場所を変える程度の意識でなされたりする。しかし、聖書的には、自然と共に神を賛美し、ひれ伏す礼拝が求められている。それは、自然の中で行われることにより、普段は意識できない詩篇148篇的礼拝、すなわち、天と地にある被造物と一体の礼拝を実現する行為なのである。

14節。「角」が何を示しているのかは明らかではない。ただ分脈的には、捕囚帰還によってイスラエルの立場を回復させられたことを意味するのだろうが、終末的な視点からすれば、それは、救い主(ルカ1:69)が起こされることを思わせる。イスラエルの子らには、賛美するように求められていない。それは、イスラエルの子らにとって、主への賛美は当然のことだからなのだろう。主の民にあっては、賛美は天性である。

ともあれ、天と地を満たすあらゆる被造物と共に、そして、地上のあらゆる諸国民、民族、諸言語を持つ者が皆、共に主に向かって賛美し、礼拝をささげる日が待ち望まれる。黙示録に描かれた究極の礼拝のイメージが(7:9)思い出される詩篇である。

詩篇147篇

147篇 主の配慮に感謝

おはようございます。出エジプト、これは聖書で繰り返される主題です。捕囚からの解放もまさにそのとおりです。それは、ただ過去にそのようなことがあった、というのではなく、あなたに神は同じようにされる、それが神の配慮であり、愛である、というわけでしょう。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

2節「主はエルサレムを建て、イスラエルの散らされた者たちを集める」明らかに捕囚の歴史が振り返られている。城壁の再建が終了し、城門のかんぬきがおろされ(13節)、平和が回復された(14節)、いわば、ネヘミヤ12:27-43にある城壁奉献式を背景とする歌であるとされる。

著者は、主に心を向けて主の素晴らしさを詠う。主は捕囚の民を顧みてくださった(2節)。主は悲しみにあった者たちを「癒し、彼らの傷を包まれる」(3節)神は救いの神である。また「主は星の数を数え、そのすべてに名をつけられる」(4節)。主の全知とその支配が思い巡らされる。また、アブラハムへの契約が思い起こされる。アブラハムは、子どもも無く年老いて、跡継ぎを生み出す可能性もないまま、この先どんな祝福があるだろうか、と考えていた。そんなアブラハムに神が言う。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。あなたの子孫は、このようになる」(創世記15:5)。アブラハムは主を信じ、主はそれを彼の義と認められたとある。何も望み得ないところに、神の言葉が望む。ただ信ずべき神の約束のことばが与えられる。そして神の全能の御手が、私たちのために動かされる。「われらの主は偉大であり、力強く、その英知は測り知れない」(5節)。その主の無限の力と知恵は、私たちのために注がれる。

2.神は目に留められる

だからこそ、「感謝をもって主に歌え。立琴に合わせて、われらの神にほめ歌を歌え」(8節)となる。神を称えるのは、神の救いの業のみならず、神の配慮の故である。神は「獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方」(9節)。神は、心配られる方であり、それは、獣に、鳴く烏の子にまで及ぶ。ならば、まして、人にはである。たとえ誰かがあなたを屑のように見なそうとも、神の配慮に漏れることはない。実際、神は、人間が尊ぶものを尊ばれない。神は能力主義、成果主義ではない(10節)。むしろ神は、心のつながりを大事にされる。「主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる」(11節)。ただ神に心から叫び求める者の声に神は目を留められる。だからこそなしえたエルサレム再建であったのではないか。古代イスラエル人の確信は深い。そして主を賛美する。

3.最良の小麦で満たされる

ギリシャ語の七十人訳聖書では、12節以降は、新たな別の詩篇となり、日本語の聖書とは区分が異なっている。12節「エルサレムよ、主をほめ歌え」、奉献式にあって、著者は今の祝福を味わっている。エルサレムの再建は、確かに自分たちの汗の結晶であっただろうが、今ある平和は、主が、そのように地に命じられたためである。安全も、健康も、繁栄も皆、神が上より与えてくださるものだ。奴隷とされた捕囚の民に、征服国に交渉し、自分たちの努力で失われた地を回復し、再建することなどあり得なかった。しかし、神は、彼らの叫びを聞き、その御手を動かしてくださった。「光よあれ」と言えば、光ができる。神が命じられると、不可能性の中に可能性が生じる。神のことばは、速やかにあり得ぬことを実現する。神の命令がすべてである。18節、「主がみことばを送って」すべてを成し遂げられる。

16、17節の雪、氷、寒さは、裁きを象徴する。冬も春も神に造られたもの。神に裁かれた民が、神のみことばによって回復されたことを詠っている(18節)。ユダヤ人の歴史は、今の私たちに対する事例である。主に期待し、感謝を持って歩ませていただこう。

詩篇146篇

146篇 主に望みを置く

おはようございます。優れた部下と無能な上司の組み合わせ、これが日本の組織の特徴と言われることがあります。確かに、信頼すべき人を間違えたということはあるものでしょう。世において信頼すべきは、目に見えない聖書の神を置いてほかにはありません。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.文脈と背景

この詩篇から、最後の150篇までは、ハレルヤで始まり、ハレルヤで終わる、いわゆる「ハレル詩篇」と呼ばれている。七十人訳では、「ハガイとゼカリヤのハレルヤ」と表題づけされており、これまでの流れからしても捕囚期後に作られたと考えられている。

さて「主をほめたたえよ」と著者は呼びかける。複数形で、会衆全員への呼びかけである。一時的な気分によらず、生涯に渡って(2節)ほめたたえよ、という。それは、主こそが、私の人生の根源であり、私の人生の支えであり、導きだと確信するからだ。

3節「君主を頼みとしてはならない」、唐突な印象もないではないが、人間よりも、主を頼りにせよ、ということだろう。確かに、どんなに偉大な指導者であっても、どんなに頼りに思える隣人であっても、人の助けはあてにならないことが多い。一説に、捕囚帰還後エルサレムの城壁を再建した際に、敵方がユダの貴族と通じて妨害工作を行ったことが背景となっている、とされる。7節「主は捕らわれ人を解放される」はそうした背景を受けての信仰的確信を述べたものとなる。

となれば、そこには、理解し難い世界が広がっていたことになる。皆が、公益のために働いてくれていると思っていたリーダーが、まさか、偶像崇拝者の異邦人に便益を図るとは思いもよらずにいたのが、上層部は、そのような民族的確信をよそに腐敗し、有り余ったお金をお互いに分け合い、安逸をむさぼり合っていたことである。それは、世俗の社会で起こっている問題ではなかった。いわゆる信仰共同体の上層部に起こっていた問題である。人間というのは、実に罪人以外の何物でもなく、頼みにならないものである。そのことを心に留め、いつでも在野に下る精神を持っていないと、道を誤ってしまう。そして腐敗した権力に意図せずにして加担し、同じように滅び失せることになる。

2.主に望みを置く

ぶれない人生に必要なのは、主に望みを置くことだ。それは、信仰の世界だけのことではない。信仰とは関係のない一般社会においても、いつでも主の目に見えない招きと、主の足跡に従う歩みをすることである。いつでも人生の主とすべきは、創造の主、「天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた方」(6節)である。耳があっても聞こえない、目があっても見えない、口があっても語ることのできない偶像の神ではない。目には見えないが、確かに、ヤコブという個人に自分を表し、エジプトで虐げられたイスラエル人を解放し、盲人の目をあけ、かがんでいる者を起こされた神が生きておられる。

そのお方こそ、真の正義を貫かれるお方である(6節)。「目に見えない者たちの目を開け、かがんでいる者たちを起こされ、正しい者たちを愛し、寄留者を守り、みなしごとやもめを支えられる」お方である。主こそ、正しい統治をなされるお方である。だから、教会はもちろん、会社や学校、どんな組織にあっても、目に見える権威をも支配しておられる神に目を向けることだ。そして、目に見えない権力である主がこの地上でなさることに思いを馳せ、その意味を熟慮することである。つまり上司が変わり、今度こそ、と期待するのではなく、変えてくださった神の深い御心を思うことである。そして、神の御心がわかれば、その新しい秩序をどのように過ごせばよいのかもわかる。そして人に振り回されることもない。神こそが、人の一生の歩みに目を配り、配慮し、支えてくださるお方である。神は死んだ者の神ではない。生きた者の神である。いつでもこのお方を信頼し、賛美しつつ歩みたい。