伝道者の書12章

伝道者の書12章 神を恐れて歩む
おはようございます。伝道者は、冷静にこの世の事柄を観察し、人にとって死が確実であり、死に向かって様々な生き方をしている現実を指摘します。しかしそれは、無に帰す歩みではなく、神のもとに帰る歩みであると結論するのです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安 
1.神のもとに帰る
伝道者にとって確実なのは、死である。そこで最後に、死に向かう人生について彼の冷めた所見が語られる。「何の喜びもない」と年月は、老いを意味する。「太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後に雨雲が戻って来る」は、老いの現実を印象的に語る。そして3-6節は、いのちが衰えていく様を、絵画的に描いている。年寄りの腕は震え、背は丸くなる。歯抜けになる様を「粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ」と語る。「目は暗くなる」は、視力の衰えを語り、「通りのとびらは閉ざされ」は、聴力の衰え、そして「歌を歌う娘たちはみな、うなだれる」は、声が弱くなることを言っている。年寄りの足は衰え、高い所は怖いし、転倒も心配だ。アーモンドの花、口語訳では「あめんどう」、は白髪を象徴的に語り、のろのろ歩くいなごは、まさに年寄りの歩き方をよく表現している。「風鳥木」、新共同訳では、ヘブル語をそのまま音訳し「アビヨナ」と訳す。口語訳では「欲望は衰え」リビングバイブル訳では「性欲もなく」と意訳される。というのも、ふうちょうぼくのつぼみは酢漬けにして料理されるが、それは食欲や性欲亢進に役立つと言われるからだ。「花開く」は、萎れる他ないことを言う。「銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ」は、当時使われた油を用いた照明器具の、天井からつるす銀のひもが切れた様子、油の受け皿であった金の器が地に落ち砕けた様を語っている。若かりし頃は、次から次と湧き水が溢れ、世間話に花が咲く井戸のよう、老いは誰も足を運ばない涸れ井戸のよう。伝道者の観察力、まさにその通りだろう。そこで結論。人間はそのように老いて、確実に死を迎えるが、それで終わりではない。人間は確かに、塵で造られたのだから塵に戻っていく。しかし霊は、神より授かった特別なもので、これは、地上を彷徨うのでも、消滅するのでもなく、神のもとに帰るのだ、という(7節)。ここに伝道者の最終結論がある。
 日本人は、死んだら何も無い、すべては終わって消滅すると考える人が多い。天国も地獄もないと。ただ、極楽ぐらいは考えたい人もいるだろう。葬儀の後に、七回忌、十三回忌と追善供養を重ねるのも、そういう信仰があればこそである。しかし、いったいその死者の魂はどこへ行ってしまうのか?伝道者は、それは創造主のもとだ、と言う。だから今の世を、どうでもよく生きればよい、と言わず、大事に生きなさい、と言う。ただ彼の思索の中で、神の愛が自明のことと考えられているために、伝道者の書は、ギリシャ的な快楽思想と混同されて受け止められやすい。人生は空しいものだから、楽しめる時に楽しめ、と。だがそうではない。伝道者の書を正しく理解するためには、新約において、死を打ち破り、十字架によって確かな神の愛を示し、神の安息に招き入れてくださるキリストを知らなくてはならない。この世の世界は矛盾に満ちていて、すべては空しい。しかし、その殺伐とした社会にあって、人は、神のもとに帰るようにと束の間の生を受けている。人は、帰りを待ちわびている神のもとに帰るのだから、神を恐れ、愛し、従う歩みをすることが一番なのである。9-11節、12-14節は、二人の別の著者によるあとがきと言われている部分である。彼らもまた、伝道者のことばを支持する。神は正しく誠実なお方である。この世があなたにとっていかなるところであっても、神に帰る者として生きる、これがあなたにとっての最善なのだ。

伝道者の書11章

11章 人生の不確かさを直視する

おはようございます。新世界の発見は、滝のように海の水が地平線の縁で流れ落ちている、と考えられた時代にあって、その未知の世界に踏み出す勇気がなければありませんでした。同じように、人生を安易に肯定せず、その不確かさを見て悟ることも大切です。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.事柄は既に決まっている

「あなたのパンを水の上に投げよ」は、「すべてに時がある(3:1-8)」と同様、キリスト者の間でもよく親しまれている。しかし、その意味は正しく理解されているとは限らない良い例でもある。というのは、1-4節は、互いに関連し、これまでの文脈に沿って一つのことを言おうとしている。1節の前半と後半は、しばしば順接的に理解されてきた。ユダヤ人の伝統的な象徴的解釈では、パンを「善意」や「親切」と考え、善意による施しをすれば、思わぬ時にその報いがある、とした。福音派のキリスト教会では、パンを「福音」と考え、福音を語り伝えれば、今すぐに実りはなくても、後の日に収穫される、と説教されることが多い。しかし、1節の前半と後半を繋ぐ接続詞は逆説であって、順接ではない。パンを投げる、無駄なことをしたにも拘わらず、損をしないことが起こる、ということだ。2節もそれを補足する。これはいわゆる分散投資のことを言っているが、リスクを避けるための分散投資が全く意味をなさない、今回のCOVID-19のような、予測不可能なこと、人間には制御できない力によって左右されるようなことが人生には起こりうる、というわけだ。

松下幸之助は、経営の極意は、「雨が降ったら傘をさす」にあると言ったが、伝道者は、事柄というものは、既に決まっているもので、人間の影響下にはないのだ、と言い切ってしまう(3,4節)。伝道者のそのような否定的な考え方は、5,6節で明瞭になる。つまり、人は、胎児にいのち(風)がやどる、不思議を理解しえない。神は人間の理解力を超えてすべてを支配し、物事を進めておられるのだ。人間は全く、神の前で無力である。朝の仕事がいいか、夜の仕事がいいか、仕事の成功は仕事の質によらない、行ってみれば、それは、博打と同じなのだ、というわけである。

2.そろそろ結論としよう

7節から、伝道者は、そろそろ結論のまとめへと入っていく。まず、与えられたいのちが長いものとなるのなら、人はその人生を楽しむがよい、と。しかし、人間は、死のタイムリミットの中に置かれていることを忘れてはいけない、と。人間は自分がコントロールできない、神の支配の中に生きている。だから、「自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩」(9節)んだらよいのだが、神が、それを評価しておられること、神の不可抗力の力の下に晒されていることを弁えて生きよ、というわけだ。伝道者は、新約聖書のパウロのように、人生を全面的に肯定はしない。むしろ素直に、人生の闇の部分を描いている。伝道者は、神の存在を認めているが、神の愛については語らない。つまり神の赦しと恵みを深く伝えるキリスト抜きに、この世の人生を生きることが、人間にとっていかに不安定であり、脅威であるかを、彼の否定的であっても、大胆に踏み込んだ思索によって教えられるのだ(つづく)。

伝道者の書10章

10章 不本意なことが多すぎる

おはようございます。伝道者の書の著者の視点は、確かに私たちの人生の矛盾を様々についているところがあります。賢く生きることが何の益になるだろうか、というように。そんな著者に反論せず、しばらく彼と共に人生の矛盾を考えてみたいところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.不可抗力

1節、死んだはえが香油をだいなしにするように、少しの愚かさが、大きな損失をもたらすことがある。愚かさの原因は、心にある。「右」は、救いや霊的な事柄の象徴であり、「左」はその逆である。知恵ある者と愚か者とでは、心の向きが全くもって正反対である。

問題は、そうした愚かさを持った者に関わらねばならぬ時である。愚か者が上に立つこと自体が災いであるが、その彼があなたの上司であなたに立腹したならどうすべきか。4節、冷静に物事の推移を受け止めていくしかない。狼狽えず、逃げ腰にならず、忍耐を働かせることだ。それは驚くことではない、不本意な不可抗力と同じである。

世の中にはそのようなことで溢れている。実際、畑で石垣の作業に取り組んでいる時に、蛇に噛まれる可能性がある。穴を掘る仕事をしている人が、思いがけない事故に遭うこともある(8節)。採石場で働いていれば、落石事故があり、伐採場では倒木の危険がある(9節)。蛇使いのまじないが蛇にかからないことだってあるだろう(11節)。人間の知恵が役に立つのは、斧が鈍くなったら研ぐことを思いつく程度のものではないか(10節)。人間の内的力など本当にたよりのないもので、一人の暴君の前には、何ともしようがない。

2.計算通りにはいかない

愚かさは、無謀性、無計画性、そして見通しの甘さに現れるものであるが(12-15節)、言葉の習慣においてもそうである。「愚か者はよくしゃべる。」愚か者は、聞く値打ちの無いことを話し、余計なことをしゃべって自ら身を滅ぼすだけだ。

そのような愚かな者が上に立つようなことがあったなら、それは災いだ。国にとって必要なのは成熟した指導者である。しかし若輩者の王が、助言者のことばも評価せず、自らの欲望を満たすためだけのことをし、その取り巻きのエリートたちも無責任な者たちであったりするなら、その国は滅びる(16節)。もちろん、仕事を進めるように規律ある生活を心がけている人々のいる国は安泰である(17節)。規律が緩んで、腐敗した国、金銭が正しく用いられない国は、危うい(18節)。

だから、そんな愚かな指導者を呪いたい気持ちにもなるだろう。でも、そんなことを考えてはいけない(20節)。日本的に言えば「壁に耳あり、障子に目あり」ということだろう。陰で呪ったりしてはいけない。絶対漏れないと思うような会話が、盛れてしまうことがあったりするもので、人生には全く予測付かないようなことがおこったりする。

伝道者は、淡々と人間の知恵が役に立たない、人生の現象を語り掛けてくる。それは、預言者や、新約の使徒たちとは全く違う視点である。だが、それは、多くの正直な人間の代弁である、と言うべきだろう(つづく)。

伝道者の書9章

9章 人生をよく観察する

おはようございます。伝道者の書の世界観、人生観と、パウロが語るような新約聖書の世界観、人生観の開きがよく見えてくる箇所です。その根本に、神観があるのでしょう。十字架愛を中心に据えた神を知っているか否かは大きな違いです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.神の御手の中にある

「正しい人も、知恵のある者も、彼らの働きも、神の御手の中にある」(1節)伝道者の要約的な言葉である。これは、人が神の保護の中にあることを言っていない。神は及び難い崇高な存在でありながら、地上の人間の間に起こる出来事に決定的に介入される、方であると言う。パウロのような「神は、すべてのことを働かせて益としてくださる」、という神の愛に対する信頼は、語られていない。むしろ、人間は、善を行おうが、悪を行おうが、自分の人生をそれによって変えることはできない、という現実をシビアに見ている。そして、人は死んで終わりなのであって(3節)、死後に望みがあるわけでもない(5節)、とキリスト以前の人生観を明確にしている。だから「生きている犬は、死んだ獅子にまさる」と結論するのであるし、人生を四つの事柄で楽しむようにと勧める。つまり、よい食事の時を持つ(7節)。よい安息の時を持つ(8節)。ユダヤ人は、普通安息日に白い衣を着る習慣があった。そして、愛する妻との生活を楽しむ(9節)、人生のチャンスを生かす(10節)ことである。死後に、「わざも道理も知識も知恵もない」(10節)と明言するところに、新約聖書のキリスト教世界観とは異なる、死後理解がある。新約聖書によれば、人間の行く先は、暗い死者の国ではなく、キリストにある神の国であり、もはや、そこには「死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」慰めと喜びの場である(黙示録21:4)。不条理な人生を忠実に生き抜いてきた者に対して「よくやった、多くのものを与えよう」と心からの愛情をもって迎えてくださる十字架のキリストがおられるところである(マタイ25:21)。

2.人生をよく理解しよう

伝道者の冷静な観察が続く。成功は、才能や知恵によらない。神の気まぐれな配分にかかっている、と。どんなに足の速い者であっても、必ず勝利できるとは限らない。強い兵士も絶対勝つわけでもない。知恵ある人が、金儲けにたけているわけでもない(11節)。つまり、常識的に考えて当然と思われることが、実際にはそうはならない。「時と機会に出会う」つまりすべて予測しがたい力によって物事が決まってしまうのだ。万事は運命というべきもの、信仰者であれば神にかかっている、と言えるだろう。だが、伝道者の神は、崇高な権威者であって、十字架のキリストではない。だから、包囲されたある町についてのエピソード(13-18節)を語ることで再び無機質な人生の矛盾をついてくる。知恵が力に優るとは誰もが思うことだ。しかし、人は語る者の社会的地位や外観によってその知恵を評価する愚かさを持つ。社会的偏見という人の愚かさによって知恵も役立たずである。実際のところ人間社会はそのようなことで溢れている。正義の神がいたとしても、その神と心を通じ合うこともなければ、人間に希望はない、というべきだろう(つづく)。

伝道者の書8章

伝道者の書8章 あれもこれ御神のなさること

おはようございます。なかなか出口の見えない伝道者の書、後もう少しお付き合いください。人間社会の不条理さ、因果応報を、明確に言い切れない神の不可解な行動、このような中で信仰を揺さぶられる状況にある人はいることでしょう。信仰の深さを探られるところです。今日も、主の恵みを信頼し、支えられる豊かな一日であるように祈ります。主の平安

1.正義はあるのか

今の自分だったら、あんなふうにはならなかっただろう、そんな風に思うことは誰にでもあるだろう。「知恵は人の顔を輝かし、その顔の固さを和らげる」(1節)まさにその通りで、知恵がなかったが故に、顔を強ばらせて生きていることがある。知恵は一朝一夕で身につくものではないから、そういう時を過ごさねばならぬ、こともあるだろう。ああいう時を過ごしたから今がある、ということもある。いつでも物事を正しく理解できて、適切に対処できたら、申し分のない人生を生きることができるのだろうが、そうではないから、人は謙虚に知恵を求め続けて生きなくてはならない。

2節、「王の命令を守れ。あわてて退出するな」、と言うのは、王の権威を認めて、口答えしたり、挙動不審と見られたりしないようにせよ、ということだろう。なぜ、このような話題になるのだろうか。著者は、既に神の権力を問題にしてきた(6,7章)。ここで、地上の権力を取り上げ、その横暴さが神と同じであること、うかつに逆らおうものなら、不運が待ち受けている現実を指摘する(4節)。大切なのは、要領よく生きていくことなのだが、ところが、人生はそんなに単純なものではない。人に降りかかる災いは多く(6節)。人はその災いを予測できない現実があるからだ(7節)。人生には知恵も思慮深さも役に立たない不条理性があるのだ。それは、まさに、風を止めることのできないことや死の日をコントロールできないことに等しい(8節)。

2.わからない、ただ見るのみ

人間の知恵と思慮深さを欺くような、実に、むなしい現実が社会にはある。「悪者の行いに対する報いを正しい人がその身に受け、正しい人の行いに対する報いを悪者がその身に受けることがある」(14節)。なんとも馬鹿馬鹿しい限りのことがある。問題は、だから、この世は面白おかしく生きるしかないということにもなりかねない。矛盾だらけの人の世で、正しく生きる事の何の意味があろうか、というわけである。

だが、伝道者は、すでに「あれもこれも神のなさること」(7:14)と語っている。ここでも「すべては神のみわざである」(17節)と繰り返す。ただ、伝道者の目は、覚めて社会を見ている。彼は預言者たちのように因果応報の教理をごり押ししない。また、ヨブのように、信仰的に飛躍した結論に飛びつかない。むしろ、「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は、悪を行う思いで満ちている」(11節)と、神の不可解な行動と、人間社会の不条理さの現実をじっと見つめ、理性的な結論を得ようとしている。最終的な彼の結論は、どんなに知恵深く考えても、神のなさることを理解し尽くすことはできない。神がおられるとして、ただ神のなさることを観察するだけだ、という(17節)(つづく)。