ルカの福音書24章

「週の初めの日の明け方早く」私たちの言う日曜日である。「女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた」香料は死人を葬るためのものであり、少なくとも女たちは、イエスが復活するとは思っていなかったのであろう。安息日の前にそそくさと葬られてしまったイエスを、丁寧に葬りなおそうとしていたのである。現に、彼女たちは、イエスのからだが消えたことに「途方にくれていた」。そんな女たちに御使いが語りかけている。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(6節)。後半のことばは、後の時代の挿入という議論もあるが、聖書の真意をよく伝え、良き考察を与えてくれる。つまり、今なお、イエスを死人の中で探そうとしている私たちに語りかけて来ることばである。イエスは、目に見えない霊的な存在としてよみがえられたのだ。目に見えないよみがえられた主を信仰の目で仰ぎ、その後を追っていくことが大切なのである。

さて別の弟子たちが、死んだはずのイエスが復活したことについて語り合っていた。ルカ固有の記事である。エルサレムからエマオとい村へ行く途中の弟子たちに、イエスが追い付いてきた。彼らはイエスとともに歩き、イエスと話しながら、イエスであるとわからずにいた。それこそ不思議である。しかし彼らにとってイエスの死はそれほど確かであった、ということなのだろう。今の私たちも同じである。イエスは2000年前の歴史的人物となってしまった。しかしそのイエスが、私たちに語りかけてくださらない限り、私たちの目は開かれることがない。聖書全体を体系的に説き明かされても、聖書を読む私たちの心が、内に燃えていることがあっても、イエスがご自身から生きておられることを示してくださらない限り、私たちの目はイエスを認めることができないのである。

ルカが語ろうとしているのは、「聖書を悟らせるために彼らの心を開」く、主の業があることだ。ルカの福音書は、イエスの人間性を伝えるところに特徴がある。いわば、マタイの福音書は、王としてのイエス、マルコの福音書はしもべとしてのイエスであるとすれば、ルカの福音書は人間としてのイエスを語っている。ただ勘違いしてはいけないのは、俗的に言う、人間くさいイエスを描いているわけではなく、私たちの模範としてのイエスを描いている。だから、他の福音書に比べ、人間として神により頼み、祈るイエスの姿が多く描かれている。また、聖霊により頼み、聖霊に満たされて活動するイエスの姿がより多く描かれている。これらは、人間である私たちがどのように神にお仕えし、神に生きるかを教えている。ルカの福音書が信徒教育のテキストとして書かれた所以である。

しかしこの最終章は、人間としてのイエスよりも、復活に与った神としてのイエスにルカは注目させてくれる。イエスは、聖書を解き明かし、心の目を開かれる神である。信仰を与えてくださる神である。「父の約束してくださったものを送られる」(49節)神である。それによって弟子たちは心からの喜びに満たされ、主を賛美し礼拝した。イエスは、私たちの模範であると同時に、私たちをご自身の模範に導かれる神なのである。

となれば、どれほど、私たちは、自身のことはばかりか、魂の救いを願う隣人のためにも主の豊かな恵みを祈らねばならないことか。私たちは福音を熱心に語らねばならない。しかし同時に、宣教は、私たちの業ではなく、主の恵みとあわれみの業であることを信頼しなくてはならない。私たちの唇を通して、私たちの振舞を通して主の働きがあるようにと祈らねばならないのである。