マタイの福音書3章

私たちは自分が永遠に生きていくように考えているものだろう。今日続いたことは明日も続く。明日もまた、これをしよう、あれをしようと考えている。しかし、私たちのいのちは、いつどうなるかはわからないものである。それは、神に握られており、神に会う備えをするように定められているのに、神などあまり意識もせずに生きているものだろう。
 マタイは言う。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから」マタイだけが記録するこのことばはイエスのそれと同じである。悔い改めることは、過去の罪や過ちを後悔することではない。それは、間近に迫った救い主とお会いする日に備え、神の前で悔い、心を入れ替え、歩みを改める行為である。だから基本的に神に対する畏怖と信仰がなければ、成り立たないものだ。だから、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8節)とヨハネが言うように、それにふさわしい結果がある。それは人間の努力によるのではなく、神の恵みの業として人間全体が作り変えられるからだ。9節、「われわれの父はアブラハムだ」と心の中で言うような考えではいけない。神の民の一員である、そんな身分に依存した歩みではいけない、という。信仰はどういう生まれであるか、どこに所属しているか、という問題ではない。個人的なものである。実際、全く関係がないと思われる「この石ころからでも」神は、神の民を起こすことができるからだ。
 なお、ヨハネのバプテスマは、異邦人、異教徒がユダヤ教に改宗して、入会する時に行われる一度限りのバプテスマに似ている。しかし、ヨハネはこれをユダヤ人に授け、儀式そのものに魔力は認めず、教えを受入れ従う行為として授けていた。それは、むしろキリスト教会が行うバプテスマと似ている。11節、イエスのバプテスマとそれは対比されているようであるが、実際には、イエスのバプテスマは、悔い改めない者に対する裁きを象徴的に語っているに過ぎない(12節)、水という形式においてもキリスト教会のそれと似ているものだ。
 さて、13節からは、イエスのバプテスマの様子が描かれる。イエスがバプテスマの必要性をヨハネに説くこの箇所は、マタイに固有の部分であり、他の福音書にはない。マタイは何をここで固有に伝えようとしたのかに注目すべきだろう。大切なのは、バプテスマのヨハネはイエスを知らなかったということである。イエスは、群衆に紛れ、バプテスマのヨハネの審問を受ける順番を待っていたと思われる。ヨハネはバプテスマを受けようとする一人一人に審問をし、その上でバプテスマを授けていたからである。そこでイエスの番になり、審問を行った際に、イエスが自分に遥かに優る、自分こそが悔い改めのバプテスマを受けるにふさわしい人と悟ったのであろう。しかし、イエスは、その議論を始めることを好まず、まず神の前に正しいことを行うことを求められた、そこに他の福音書記者にはないマタイ独特の注目があった。マタイは救い主が誰であるか、ということよりも、どのような性格の救い主かを明示しようとした。つまりその救い主は、群衆の中の一人として自分の身を置き、正しいことを正しいとし、真理を真理として受入れ、率直に従う、それが人間において適切なことだと言い切る人であり、その故に神に喜ばれた人である、と伝えたかったのである。救い主は、聖霊と火、つまりさばきをもたらす人と理解していた(12節)。しかしその救い主は、実際には、柔和な子、正しいことを愛する人として現れた。マタイが引用したのは、イザヤ42:1であるが、その引用には、「彼は傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない」という42:3節のことばも反響している。私たちの救い主は、自ら正しいことを率先してなされるお方でありながら、罪人と同じ目線に立とうとする方である。神は恐れるべきお方であるが、それ以上に優しく私たちに向かい合おうとされている。その神の前に、自らを探る歩みであろう。