マタイの福音書5章

ガリラヤ湖の西岸にエ・タフガという漁村がある。その湖岸より道を上っていくと、山上の説教がなされたと言われる美しい丘がある。丸屋根の小さな八角堂の「垂訓の教会」が建立されている。そこでイエスは山上の説教(5-7章)を語ったと言われるが、実際には種々の機会に語られたものを、マタイなりに一つにまとめたものである。最初の3-12節は、「幸いです」が繰り返られているので、七福の教えと呼ばれて親しまれているが、そこには、イエスの弟子であることの意味と報いが語られている。文語訳では、「さいわいなるかな」と感嘆の響きのある訳になっており、その方がイエスの意図を忠実に再現している。つまりイエスは、幸福になる方法や秘訣を語っているのではない。神の子であることの客観的な事実を指摘しているのだ。確かに神の助けと守りを祈り求めざるを得ない心の貧しい者にとって、神の支配の中にあることは、その人の現実ではないか(3節)、嘆き悲しみ、鬱積した心をぶちまける人は主に慰められる(4節)、自分の無力さと弱さを認め、神に信頼し、神の公平な取扱いに委ねる者は、神が味方になり、しかるべき祝福を受け継がせてくださる(5節)。同じ姿勢で神の正義を熱心に求める者は、その報いを受けるだろう(6節)。
七福の教えの後半は、先の四つと変わり、積極的な内容である。主に倣って相手の歩調に合わせる愛情を持つ者は、同じ報いを受ける(7節)、心に偽りなく一心に神を愛する者は、神を見る(8節)、平和を好むだけではなく、積極的にこれを創りだそうとする者は、神の子そのものだ(9節)。最後の10節は、3節の繰り返し、11,12節はその解説、と考えたらよいのだろう。神の御心に生きようとする人は、攻撃の的にされやすい。しかし神の支配はその人のものだ(10節)、喜べ(12節)と完結する。
13節以降のポイントは20節。「あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に入ることはできません」にある。律法学者とパリサイ人に優る義がテーマである。それはまず、塩のようなもの(13節)、光のようなもの(14-16節)、そして完全に律法を成就するもの(17-19節)である。塩は、腐敗を防ぎ、光は隠れることがない、破られていた律法は守られるようになる、つまりあなた方の義は影響力のある義である、という。パリサイ人にしても、律法学者にしても、彼らの義は、上辺の義であった。それは、外見は美しくても、人に感動を与えることはなかった。キリスト者の義は、人の心にインパクトを与え、人を動かし、神に向かわせるのである。
ところで、20節では、律法学者も、パリサイ人も一緒にされているが、実際には全く異なった集団である。律法学者は教育を受けた神学の教師であるが、パリサイ人は一般に指導者を除けば、敬虔な信徒集団である。だからこの後は、大まかに(1)律法学者(5章)、(2)パリサイ人(6章)、(3)イエスの弟子たち(7章)の義を順に扱っていくことになる。だから5章の後半には特徴的な言い回しがある。「あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなた方に言います」がそれであるが、イエスは、あなたがたは、律法学者にはこう教えられているが、私の教えはこうである、と言い、律法学者が教えた内容に照らして、イエスの弟子が取るべき態度を語るのである。
その第一は、「殺してはならない」(21、22節)である。あなたがたは、実際に人を殺すことはもちろん、言葉の暴力もよくない。むしろ、和解し、仲直りすることをいつも考えなさい、というわけである(23、24節)。人間の本性は争いであり、人は争いやすい。だからイエスの弟子であろうとするなら、まず神に争いの心を取り除いていただき、いつでも和解する心、仲直りする心を持つように願うべきである。主の奇蹟が心の中になされなければならない。そんな調子で「姦淫や離婚」(27-32節)に対して、ことばの真実さを持つこと(33-37節)、「復讐」の心に対して(38節)、愛の心を持つこと(39-47節)が語られ、私たちは神の子として父に倣うべきことが語られる(48節)。確かにキリストの弟子は神の子である、神の支配の中にあるその自覚と喜びの中に歩ませていただこう。