マタイの福音書7章

5章、6章の流れと7章は続いている。つまり、どうしてもクリスチャンの生き方は人目に付きやすい。そうすると逆に、その粗が批判の対象となる。あの人は「こんなことを言っていた」とか「こんなことを言われた」とか、教会に裁き合いが生じるのだ。他人に問題を感じる時に、自分の事を棚に上げ、さらには事実関係をよく確かめもせず推測や想像で、中傷悪口を言ってはならない。「梁を取り除く」は、イエスの大工の経験から出たユーモラスなたとえであるが、物事を落ち着いて、よく理解しようとし、同じ人間としての弱さを覚える力のあるところに、足を引っ張り合うような裁き合いは抑えられることだろう。
ただ注意すべきことは、イエスの愛に生きる教会では、他人に対して何の評価も判断も下してはならない、ということではない。教会は赦しが大事なのだからと何も言えない雰囲気になっているのもおかしい。ここでイエスははっきりと犬や豚の様な人、偽善者をさばいている。つまり誤ったさばきと正しいさばきがある、ことに注意すべきなのだろう。ここで言う犬や豚は、文脈からすれば信者になり切れぬ人、信者らしからぬ人のことだ。そういう人にいつまでも、聖なるものを提供していてはいけない、と言う。結局、神のみことばや福音にどういう態度を持った人であるかが、神のみことばとどう向かい合って生きているかが、教会では判断の基準として大事にされなければいけないということだろう。人の性質、振る舞い、言動など、教会でその一部しか知ることのできない事柄について問題を感じて、推測で悪口中傷を言う愚かさとは区別される部分である。
となると、そういう目で、犬や豚を探すと、実はそれは私自身ではないか、と思う人もいるはずだ。確かに私たちは罪人の頭というべきものである。しかし、聖書はいつも慰めと希望を与える。「求めよ、そうすれば与えられる」と言うのです。自分の救いの達成を願い、神に結び付いた信仰を持つ謙虚な魂を神が祝されないわけがない。
12節は、黄金律と呼ばれ親しまれてきたものであるが、これまでのさばきのテーマと無関係ではない。というのも、余計な裁きは、結局、人にしてほしいことを要求するばかりで、自分のすべきことには全く無頓着であるところに生じるからだ。「こうして欲しい」「ああして欲しい」「こうすべきだ」「ああすべきだ」と言っていないで、自分から愛を持ってみ言葉を実践すべきではないか、となるわけだ。まさに、人からしてもらいたい、と思うことは、あなたが、率先してすべきことだ、となるだろう。そうすれば、律法と預言者、つまり聖書のスピリットに生きることになる、と。
13節からは一連の対比がある。「いのちに至る門」と「滅びに至る門」(13-14節)、「良い木」と「悪い木」(15-20節)、「主よ、主よと言うだけの者」と「父のみこころを行う者」(21-23節)、「岩の上に建てられた家」と「砂の上に建てられた家」(24-27節)。いずれも偽物と本物を取り上げ、本物は実行を伴うものとして語られている。つまり、キリストの弟子にとって重要なのは、本物であること、見せかけではなくて、本当に生活の中で、みことばをしっかり実践していくことだ。本当に神と深くつながり、神を喜ぶ信仰、神を愛する信仰を大事にしていくことだ。「狭い門から入りなさい」「偽預言者たちに用心しなさい」「岩の上に自分の家を建てなさい」地味な観点である。しかし、その人の日常生活に真に、信仰的な営みがあるかどうかが大事なのだ。
玉川教会では、コンサート、バザーをいつしか止めてしまった。あまりにも伝道と称して人集めのイベント事に多くの時間が取られていたばかりか、こういう奉仕を熱心にすることがキリスト者なのだ、という勘違いがあったように思う。今それらがなくなることで問われているのは、日々の信仰実践である。確かにどんなに素晴らしいイベントをして集客が出来た所で、私たちの霊性に魅力がなければ、集められた人が信仰を持ちたいと思うことはなく、教会に続けて来ることもないだろう。たとえ人間として不完全であっても、その人が日々神の御言葉に取り組み、神のいのちに生かされ、育ちゆく光を輝かせているなら、それ自体が宣教である。そして本当に人を神の下へ導く力ともなるのだ。

マタイの福音書6章

先の5章は、律法学者に優る義、この6章はパリサイ人に優る義がテーマである。そこでまずパリサイ人のいかにも宗教的な施し(2-4節)、祈り(5-15節)、断食(16-18節)が例として取り上げられる。施しは、対人であり、祈りは対神、そして断食は対自に関する敬虔さが最もよく示される例であり、キリストの弟子がどうあるべきかが語られる。
 基本的にキリスト者は光である(5:14)。光は隠そうと思っても隠すことはできない。自然にその評判は広まっていく。ただキリスト者として生きることによって知られるようになるのと知られようとして自己宣伝するのとでは大違いである。動機の違いは、報いの違いとなる。前者は、狙ったもの、人々の称賛を手にするが、後者は、天におられる父の報いを手にする。だからイエスは、弟子たちに惜しみなく施すことを期待されたが、パリサイ人のように見せびらかしで、しかも損得勘定の取引としてそれをして欲しいとは思われなかった。するのなら、自然に、当たり前にして欲しいという。神がコルネリオの施しを覚えておられたように、それを覚え、報われるというわけだ。
同様に祈りについても、人にではなく、神にのみ向かう真の心の訴えとするように教えている。当時のユダヤ人は、通常朝9時、昼0時、夕方3時にエルサレムの神殿に向かって祈る習慣があるとされたから、その時刻に人前で敬虔そうに祈る姿を指し、そうではなくということだ。また、施しが主に覚えられているように、祈りも主に覚えられる。それは確信してよい、ということだ(7、8節)。そして、神に向かう祈りが、本当に神との実質的な時となっているなら、それは心を豊かにし、必ずしや私たちの具体的な生活に力をもたらすに違いないのである。その具体例が赦しということになるのだろう(14、15節)。
さてイエスは具体的に祈りの例を教えられる(9-13節)。主の祈りは、弟子に与えられた祈りである。ルカの主の祈りに比べて、マタイのそれは礼典用に整えられたもので、言葉数も多くなっている、と考えられているが、大事な点は、三つである。一つは、イエスがご自分と父の親しい交わりに私たちを招き、私たちにご自分と同じように神を父と呼ぶことを許されたこと。神の栄光を仰ぎつつ、人が自らの心身の必要を祈るように教えておられることである。新改訳2017は、後代に加えられた頌栄を本文から脚注に移しているが、マタイは、12節の赦しのテーマを増幅させている(14-15節)。それは、キリストの弟子として、神のみこころである御国の実現を願うならば、赦しこそ、神と一つ心とする象徴である、という理解なのだろう。
当時のユダヤ人は、年に一度贖罪日の断食のほか、規則を決めて、四月の断食、五月の断食、十月の断食、エステルの断食などを行い、パリサイ人はさらに毎月曜日と木曜日の断食を加えていた。しかしこうした時を敬虔に守れば、それでよしとされるわけではない。やはり信仰は、神との隠れた関係が本質なのであり、神がご存知です、という部分にいかに生きるかなのである。
後半は、所有について。ここから、キリストの弟子の特徴が語られると言ってよい。つまり、律法学者にしてもパリサイ人にしても、彼らの義は宗教的な熱心さを示すものであったかもしれないが、日常生活における信仰の実践ではなかった。彼らに優る義は、何よりも、信仰が生活そのものに反映されることにある。そういう意味では、何を宝としているのかが、やはり明らかにされる生き方をしていることである。地上の富を宝としているのか、それとも、永遠の神を宝として生きているのか、結局は、何に焦点を置いてその人が生きているかが、問題となる。「からだのあかりは目である」(22節)、と言うが、確かに、目のおかげで体は適切に動かすことができる。ヨハネは、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」という言い方をし、「世と世の欲は滅び去る」(1ヨハネ2:16、17)と語ったが、確かに目が眩んだがゆえに、事業を失敗させ、家庭も潰してしまったことはよく聞くことである。私たちに必要なのは、真に価値あるもの、神のみこころを識別する健全な目であろう。そして、必要なものは、神がすべて備えてくださるのだから、神が与えてくださるもので感謝しつつ、日々を歩む信仰と生活を結び付けた態度である。日々の生活の中でいつでも神の国と義(神の支配)を第一にしていく、第一にすべきものを第一にして生きていくことである。信仰は、宗教的と言われる儀式を守る以上のことである。それはまさに生活実践そのものである。日々、神と共に生きることにある。そこから自然に祈りも断食も、施しも生じる。神とのよき交わりこそ、大事にする歩みをさせていただこう。