ヨハネの福音書18章

ゲッセマネ(油しぼりの意)の園は、オリーブ山の西麓にあり、イエスはそこを祈りの場としていた(ルカ22:40)。マルコの母マリヤの所有地であったと考えられている。オリーブ山は、ケデロンの谷から45メートル上ったあたりにある。現在は、この場所にゲッセマネ教会が建っている。テオドシウス大帝によって建立された最初の教会は、614年ペルシア軍によって破壊されたが、1919年、フランシスコ会によって、現在のビザンティン式カテドラルが再建された。この教会のために16カ国の国際的な協力があったため、俗に「万国民の教会(Church of All Nations in Jerusalem)」とも呼ばれている。中央祭壇の前部にはイエスが祈られた場所とする鉄柵に囲まれた「苦難の岩」がある。

また、ゲッセマネ教会から園を横切り、道を隔てて100メートルばかり北に「裏切りの洞穴」がある。イスカリオテのユダの裏切りによってイエスが捕縛された場所であるとされている。イエスは、イザヤが預言したように(53:8)抵抗することなくそこで捕縛された。イエスはご自分のしようとしていることを理解しておられた。しかも、ヨハネが回想するイエスは、他の福音書の記録と違って、より積極的である。イエスは、先に(14:30-31)世の支配者とその配下の人々に立ち向かう明確な意思をもって二階の広間を出て行った。そして捕縛されようとする時も、イエスは積極的にご自分を差し出そうとしている。また、剣を持つペテロを制し、進んで苦難を受けられた。それは、スタウォーズの最後のジェダイではないが、壊滅寸前のレジスタンスを逃し建て直しを配慮する姿を思い起こさせる。弟子たちはその受難の時を逃れ、小さな群れは守られていくのである。

さてイエスは裁判にかけられていく。ギリシャ語本文では、裁判の順序について異同がある。つまりアンナスからカヤパの裁判への移動の記述(24節)が、13節と14節の間に来て、ペテロの否認のエピソード(16-18節)が、19-23節の後に来るものがある。伝統的には、新改訳2017が訳出しているとおりなのであるが、整理されていない印象を持つ人は多いだろう。だが、老ヨハネは、回想的に、記憶を加えるような形でこれを書いたとすれば、このような複雑な書き方はありえないわけではない。ともあれ、ヨハネはここでもイエスが不当な裁判がなされる中でも主導的に行動されたことを示している。重大な犯罪の場合、その逮捕は夜ではなく、日中に行なわなくてはならなかった。また、裁判は複数の裁判官の前で行われなくてはならなかった。さらに、議員は、証言を聞いた後で一度家に戻り、3日後に再び議会に集まり、被告人の証言に耳を傾け判決を下すことになっていた。しかしイエスは、この不当な裁判から逃れようと思えば、いくらでもできたのだが、そうしなかったのである(36節)。イエスは、この世のものではない新しい御国を完成させようとしていた。それはイエスの十字架の苦難を自分の救いとして受入れ、魂を変えられ、イエスを王とする人たちによって構成される神の国である。それは、この地上での魂を殺められることがあっても、決して失われることのない正義と、愛が貫かれる美しい御国である。だから、イエスは正しく裁かれる神に一切を委ねながら、この時を過ごすのである(1ペテロ2:19-23)。

ユダヤ式に、神を冒涜した罪で訴えられたイエスは、続いてローマ法の手続きで死刑に処せられるために、自分をユダヤの王とした反乱罪で訴えられた(28-32節)。ピラトは、イエスに罪を認めなかったが(38節)、ユダヤ人は、イエスの死刑を求めた。ピラトはこの嫌な判決から逃れ、正義を維持し、群衆をなだめる道を探し続け、明らかに犯罪人とわかるバラバを引き合いに出し、ユダヤ人の良心に訴えようとした。その結果は19章に続くが、18章で注目すべきは、イエスとピラトとの「真理」を巡る会話であろう。真理は神の真理である(37節)。神が愛であり、義しいお方であることだ。私たちはやがてこの神の元に帰る。人生は死んで終わりではない。目に見える世界の、食べる、飲む、買う、そんな次元で生きているだけでは、私たちにイエスが語る真理はわからない。目に見えない世界、信じる、愛する、正義を貫く、という次元に生きることを意識化しない限り、イエスがこの受難によって完成されようとしたものもわからない。目に見える世界がすべてではない、目に見えない世界がある。その世界の力と支配の中で、実はこの世の世界も成り立っていることを知るべきなのだろう。神の支配にある日々を歩ませていただこう。