ヨハネの福音書21章

ヨハネら、弟子たちがイエスに招かれるのは、これで三度目である。最初ヨハネは、自分の師バプテスマのヨハネに勧められて、イエスについて行きガリラヤ伝道を共にするが、しばらくして、また故郷に戻っている。そんなヨハネをイエスが、再び自分の弟子として招く場面がある。それがちょうど、この21章の出来事と同じような内容になっている。彼らは夜通し漁をしていて、魚が獲れず、途方に暮れていて、そこにイエスが現れ、イエスに勧められるままに網を下ろしてみると、大漁となった。そして彼らは、これからは人間をとる漁師になるのだ、とイエスに召される話である。なぜヨハネは、こんな初心に戻るようなエピソードを最後に加えたのだろうか。初心に戻る信仰的なチャレンジを与えたかったからなのだろうか。
この時、ペテロは復活のイエスと会いながらも「私は漁へ行く」と再び、自分の古巣へ戻ろうとしていた。復活のような大きな出来事に遭遇しながら、彼の心は約束の聖霊も主の宣教の使命にも向かうことはなかったのである。なぜか。それは、イエスが復活したという事実があっても、自分たちの師が十字架で死んだという事実の方が決定的であったからではあるまいか。復活は驚くべきことであったが、それが何になるという現実感覚が強かったからだろう。イエスは、現れたかと思えば消える。再び現れるが、結局は消えてしまう。そういう幻想的で空想的な、「信仰生活」をこのまま続けるわけにはいかない、そう思ったのかもしれない。
理解できることである。神は私たちに最善をなしてくださる、助けてくださる、と信じたとしても、現実は厳しい。どんどん現実は、私たちの生活を脅かしていく。神を信じたって自分の思い通りには物事は進まないことがある。だからといって神は最善を尽くしていないわけではない。後ろ向きな弟子たちの心を捉え、使命に向けるために、イエスはもう一度ご自身を現わされたのだ。彼らが空の網を引き揚げたのは、イエスから離れてしまったからである(ヨハネ15:5)。イエスを信頼し、イエスのおことばに従うなら、空ではない、確かに手ごたえのある網を引き揚げるようになる。イエスの復活が確実なようで定かではない、神の臨在がわかるようでわからない、そういう状況にありながらも、神に信頼を置いていく、信仰は目に見えないものを保証するのである。イエスは、ご自身を信頼するように導かれた。
そこにペテロが真っ先に反応した。ペテロは誰にもまして、この主のご配慮を感ぜざるを得なかったことだろう。ペテロとイエスの対話が記録される。老ヨハネにとってこの二人の対話は、ぜひ、イエスに信頼を失いかけている初代の苦難にある弟子たちに聞かせたい部分であった、と言える。新しい共同訳は、この対話をギリシャ語本文に忠実に訳し分けているが、もともとアラム語で話されたイエスとペテロの対話を、ヨハネが厳密にそのニュアンスを聞き分けて、書き留めたとはなかなか思われ難い部分でもある。参考程度と考えるべきなのだろう。
後ろ大切なのは、イエスがペテロに、「私の羊を飼いなさい」という使命に「愛する」という動機を三度確認されたことである。どの弟子よりも主に身をささげていると豪語しながら、主を否定し、その事実を眼差しで覚えさせられた記憶(ルカ22:61)も新しいペテロにとって、心は複雑で、イエスの期待にどこまで応えられるだろうか、という思いはあったかもしれない。しかし、救いと同様に主にある召しも恵みである。イエスは、いつまでもペテロが過去の失敗に拘ることを許さなかった。イエスは、ペテロをその戸惑いのあるままに召されていく。その愛に応えていく、いわゆる愛に愛を持って応答していく、これが私たちの使命の根幹である。キリストを愛するが故の奉仕であり、また従順である。
イエスの召しは、一方的な恵みによるものである。神がその目的を成し遂げられるために選ばれる人は、必ずしもエリートではない。エリヤ、ノア、ダビデ、ヨナ、アブラハム、モーセ、彼らは確かに偉大な人物であったが、いずれも落後者であり、失格者である。そして、彼らのいくつかの失敗は、私たちの社会では最低のことでもあった。しかし神は、彼らを捨てられることなく愛をもって育て、さらに偉大な働きへと導かれた。ペテロは「愛は多くの罪をおおうからです(1ペテロ4:8)」と語ったが、それはまさに体験されたことばである。ただ、イエスに従う道は、イエスの十字架の跡を辿る道でもある(18節)。イエスの召しに応じることは、狭い門から入ることであり容易いことではない。子の福音書の読者が経験していたことはまさにそういうことであっただろう。しかしそれは、イエスと共に生きる人生なのだから、たとえ苦難があろうとも辛さだけの人生ではない。23節は、明らかにヨハネが、晩年にあたり、正すべき誤解として取り上げたものなのだろう。確かに主にある者は、永遠に生きる。だが、地上のいのちは主の御心の中にある。主の御心にかなう限り、主にある務めを果たすことが、私たちの喜びでもある。