使徒の働き5章

初代教会に起こった出来事は、美しい模範的なことばかりではなかった(32節)。むしろ不幸な教訓的な出来事もある。バルナバの私利私欲を超えた姿と(4:36-37節)、アナニヤとサッピラというクリスチャン夫婦の偽善的な行為(5:1-11)が対比される。

彼らの行為は見せかけで、内側は卑しい根性で汚れていた。また、それは、サタンに心を奪われたものであった。「バルナバと同じように,教会員の尊敬の眼差しを得られるぞ」と語りかけるサタンの声に、彼らの心は揺り動かされていた。サタンはほえたける獅子(1ペテロ5:8)であり、光のみ使いに変装する者である(2コリント11:3,13-14)。惑わされてはいけない。最後にそれは、聖霊をあざむく罪であった。彼らの罪は、人ではなく、教会の群れの頭である神をあざむいたのである。つまりこの出来事は、教会に神が確かに臨在されることを示している。「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が、自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。(1コリント3:16,17)」とパウロが語ったことの実例である。神は、私たちの目に見える行為ではなく、私たちの心の中を見ておられる。その神の前にアナニヤとサッピラは、罪を犯し、裁かれ、死んでしまった。実に神は手厳しい、と思われるかもしれないが、これは、当時の特殊な事情を考慮する必要もあるのだろう。ちょうど、旧約時代に、荒野からカナンの地へと出て行ったイスラエルの民が、アカンの罪をイスラエル全体の罪として責任を負わされた出来事に似ている(ヨシュア記7)。彼らは本当のキリスト者ではなかったのだ、というのではない。初代教会の人々ですら完全なキリスト者ではありえなかった、ということだろう。だから、私たちもまた同様の罪に陥ることがある。しかし、そうであると気づかされるならば、悔改めて、神に立ち返ることである。私たちには矛盾が多い。聖書が語るような生き方はなかなかできないでいたりする。だからこそ、いつでも私たちは、十字架にある罪の赦しを必要としている。

さてペンテコステ後、イエスが復活したというメッセージは、エルサレム中に伝わった。というのも、聖霊に満たされた証人たちが、福音を積極的に分かちあったからである。そこにさらに不思議としるしが伴い、誰もが、弟子たちの宣教を認めざるをえなかった。12-16節は、先の2:43-37、4:32-35と同じ、要約的な説明であり、次の17節の新しい出来事を語る導入となっている。

つまり、教会のこのような成功を、誰もが歓迎したわけではないエピソードが続けられる。宗教的な指導者たちは、イエスに向けた同じ憎しみと敵意を使徒たちにも向けた(17節)。イエスが、かつて予告したとおりのことが起こっていた(ヨハネ15:20,16:2)。まず彼らは、使徒たちを逮捕し、留置場に放り込んだ。しかし、使徒たちは、その逮捕に対抗したり、デモを起こしたりもしなかった。ただ静かに、留置場で時を過ごしたのである。そこに神が介入された(19節)。留置場に閉じ込め奇跡を留めようとした大祭司たちの行動は、ますます主の奇跡を引き起こすことになってしまった。彼らは、再び使徒たちを拘束し、議会に立たせ、審問を開始した。使徒たちと、議会のメンバーが実に対照的である。

教育され、公認された議会には何の力もなかったが、ごく普通の人であった使徒たちには神の力が働いていた。また、死せる伝統に居座り守ろうとした議会に対して、使徒たちは、生ける神の言葉を分かちあうために、自らの命を危険にさらしていた。神は、彼らの勇敢さと信仰を祝された。ペテロは、イエスを「君とし、救い主」(31節)と呼んだ。「君」は、「開拓者、創始者として道を切り開く人」の意味がある。イエスは「救いの創始者」(ヘブル2:10)、あるいは「信仰の創始者」(ヘブル12:2)とも呼ばれている。しかし、大祭司たちは、どんな創始者にも興味は無かった。彼らは、ペテロの大胆な証しに怒り狂い、殺そうとした。冷静な使徒に対して感情的に制御不能な議会の姿があった。

そこにパリサイ人で律法学者のガマリエルが介入した。彼は当時非常に尊敬されていたので、「ラビ」(私の教師)よりもすぐれた尊称である「ラバン」(私たちの教師)で呼ばれていた。パウロは青年時代、彼のもとで律法を学んでいる(使徒22:3)。ガマリエルは、健全なパリサイ派の教えを繰り返した。つまり、神が万物を支配しみこころのままに制御しておられるのだから、直接的に手を下さず、事の成り行きと結末は神に委ねることがよい、神からのものでなければ、それはいずれ消え去ると諭した。神は彼の発言を用いて、使徒たちを死から救われた。ガマリエルの一声が彼らの暴力をやわらげた。使徒たちはむ鞭で打ち叩かれ、イエスの名で語ることを禁止されて釈放されるのである。ウイリアムテンプルは、語っている。「クリスチャンは、最も困難な義務に召し出されている。傷づけることなく戦わなければならない。敵意を持たずに抵抗しなければならない。そして終局的には、神が認めるならば、弁明なしに勝利しなくてはならない」弟子たちはまさにこうした困難に勝利した(41,42節)。神の福音を妨げる困難に立ち向かい、主の御業がなされることを願いつつ歩ませていただこう。