使徒の働き14章

キプロス島の各町を訪れた後、パウロは、現在のトルコ(当時のローマ帝国のパンフリア州)へ海路を通って移動、ペルガという町へ上陸した。パンフリア州は、険しいタウロス山脈と地中海に挟まれた地域で、平地であり、雨が多く、沼地を形成しており、マラリアなどの熱病も発生しやすい地域であった。パウロはガラテヤ伝道に関して「私の肉体が弱っていたためであった」(ガラテヤ4:13)と述べているが、それは彼がペルガでマラリアに冒され、ピシデヤのアンテオケに着いてから発病したことを指しているのだろう。パウロとバルナバは北に進み、タウロスの峠を越え、サガラッスス、イズバルタを過ぎ、その後、反対にあって、イコニオンへと向かっている。
イコニオンは、標高1000メートルの高原地帯で、気候もよく療養するにはちょうどよかったのだろう。しかしそこでも反対にあい、彼らはリステラへと向かった。そこで、パウロは、生まれながら足の不自由な人を癒す奇跡を起こし、これによって、町の人々から人間の姿を取った神と崇められる事件に巻き込まれている。それは、ゼウスとヘルメスが、町を訪れ、人々の冷遇に怒り町を滅ぼした故事を背景とする出来事であった。また町の人々は、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んだ。それは古代の美術品で、ゼウスが背丈のある、堂々とした仁慈にあふれた姿で、ヘルメスは、小柄で足の速い、神々と人間どもの父(ゼウス)の伝令官として形作られたことを背景としている。ともあれ、パウロは、ルカオニアの人々が自分たちを神とすることを許さなかった。人を神とするのは、「過ぎ去った時代」(15節)のことで十分である。日本にもそういう時代があった。私たちは歴史に学ばなければならない。聖書は、人間が人間に過ぎず、人間をお造りになった神を覚えて謙遜になって生きることを教えている。神の偉大さを覚えるならば、私たちはもっと神に聴かなくてはならない。
ところで、パウロは、称賛されたのも束の間、今度は石打ち、半殺しの目にあっている。ローラーコースターのような人生であるが、パウロは、一々そういうことに動じていない。翌日、パウロは、デルベへ向かった。デルベは、ルカオニア地方の南東部へ50キロほどの町である。現在では、古址に過ぎないが、パウロはそこにある期間とどまって伝道し、多くの信者を得た。ガイオは、その信者の一人である(使徒20:4)。パウロとバルナバはここからもと来た道を引き返し、リステラ、イコニオン、アンテオケの町々を再訪、信者を励まし、海港アタリヤに下った。なぜパウロは引き返したのか?一つにパウロは、入信したばかりの兄弟たちの信仰を励ましたかったのである。「励ます」は珍しいことばで、堅くする、補強する、を意味する。すでにあるものを強めていくことだ。既に述べたように、彼らの方針は、強まる宣教への妨害に対して、新しく誕生した教会の基礎を固めるために、できるだけ長く、その地に留まる、その地に関わるというものであった。パウロは、霊的な強化のために、彼らを正しく導き、補強するために戻っていったのである。
また、その先には、コンマゲネ王国があった。その王たちはミトラ教の保護者で、キリスト教の宣教を受け付けず、パウロはここからきびすを返して、西を廻って帰路につかざるを得なかった。さらにもう少し東に進んでタウロス山脈を越えれば故郷のタルソに帰ることができたのであるが、そこは厳しい山道であった。ルステラで、仮死同然の石打ちにあった傷だらけの体では厳しい山道を行く体力もなかったことだろう。ともあれ、パウロは言う。「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」(22節)と。傷だらけのパウロの姿を見ながら、このことばを聞いたならば、さぞ背筋を正される思いがしたのではあるまいか。パウロは、ピシデヤをとおって、パンフリヤへと到着した。アタリヤは、パンフリヤの海岸、ケストロス川の河口に位置し、小アジヤ最大の海港である。人口、2万五千を数え、風光明媚な港である。パウロとバルナバはこの港から乗船し、560キロの海路を東に進んで、シリアのアンテオケに帰り、ここに四ヵ年近くの歳月を費やした第一回伝道旅行を終えた。彼らは教会に伝道の状況、特に異邦人のために福音の門戸をひらかれたことを報告した。この旅で、パウロの指導的立場は確立した。バルナバとパウロという呼び方が途中からパウロの一行になり(使徒13:13)、パウロの名前が前面に出るようになる。以降、パウロの伝道旅行と称されるようになったのであろう。しかし、宣教は、個人プレーではない。パウロは常にチームで行動した。パウロは宣教を分かち合った。それは、私たちではなく、私たちの働きと共におられる主が、人を癒し、和解をもたらし、いのちを与えるからである。宣教が進むのは主の恵み故なのである。