使徒の働き17章

パウロはギリシアに宣教を展開していくが、その行く所どこにでも、ユダヤ人が現れ、彼の働きを妨害した(1テサロニケ 2:2 )。それはパウロが、世界に点在する離散ユダヤ人を中心に宣教したのだから、当然の結果でもあった。つまり、離散ユダヤ人は、当時それこそ全世界に広がっており、会堂を持っていたのである(歴史的記録によれば、イエスの弟子トマスによってインドまで伝道がなされ、インドのケララ州には会堂が建てられていた)。そのような世界に広がるユダヤ人の会堂をパウロは、律法学者の資格を持って渡り歩いて宣教を進めたのであり、結果として迫害にもさらされたわけである。
ともあれ、パウロは、ギリシアへ入り込み、エグナティア街道を通ってテサロニケへ向かい、暴動に巻き込まれたので、即座に、ベレヤへと移動した。ベレヤは、エグナティア街道から南に離れたところにあるが、比較的繁栄した町でユダヤ人植民も多く、会堂があった。彼らは非常に熱心で、パウロが語ることを熱心に聴き、果たしてその言うとおりであるかどうかと聖書を調べたという。語られたことをきちんと受け止めて、反芻するように、聖書を読み調べる聞き手がいることは、敵意の目でテサロニケを追い出されたパウロにとっては励ましであったことだろう。
その後、パウロは、アテネに向かうと、なんとも、そこにいる人々は、「何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、日を過ごしていた」そんな人たちであった。イエスの種まきのたとえでは、道に種が蒔かれることにたとえられる、そんな人たちである。道は、踏み固められた場所である。たくさんの人が行き来し、種が落ちたとしても根を張ることができないほどに、堅く踏み固められている。結局は、カラスが飛んできて、種をついばんでしまう、そんな場所である。アテネの人たちの心も踏み固められた道のように、様々な耳新しい思想が通り過ぎる場であって、決して、根付くことがない。キリスト信仰に対する芽が出ることがない、そんな場所であった。
聖書は毎日読む必要がある。身体が食物を必要とするように、魂も霊の食物を必要とする。頭が知識を必要とするという以上に、心が養われる必要があるのだ。だからただ情報を吸収するように聖書を読むのではなく、霊的な糧を得るように、神のことばに耳を傾け、味わい、神とともに良き時を過ごすような読み方が必要なのである。アテネの人たちも聞く耳はあったが、パウロの話にキリストを見出すことはなかった。
さてルカは、パウロの説教を三つのポイントでまとめている。一つは、神は万物の主であり、神殿も人間の宗教的儀礼も必要とはされない方であること(24-25節)、人は神に造られたものであり、それゆえ神を必要としていること(26-27節)、最後に、そのような関係にあるからこそ偶像礼拝は愚かなことであること(28-29節)だ。そこで「神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石の像と同じものと考えてはいけません」(29節)と語り、悔い改めを勧めている。日本人も、アテネの人たちと同じように、偶像の神を拝む国民性を持っている。人間が手でこしらえたものを、神として大事に拝んでいるところがある。そして日本昔話を読めばわかることであろうが、神は、人間の手で作られながら、人間によい施しをし、人間と心を交わす存在として認識される。それはほとんど空想の世界である。だが、聖書の神は、確かに存在し、近代の神学者バルトが「人間は人間であって、神は神である」と語ったと言われるように、神は、人間と心を交わす愛のある存在であっても、人間に造られるようなものではなく、根本的に区別され、万物を超越した存在、むしろ人間をお造りになり、万物を有らしめたお方であることを理解すべきだろう。
「確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」とパウロは語る。この数年、毎朝5時に教会に出かけ、教会の執務室で聖書を読み、学び、祈ることを21年続けて来て感じることがある。この時期は、まだ夜が明けず、オリオン座が綺麗に見える。もう少したてば、もっと空の色が黒くなる。そして星明りがもっと綺麗に見える。しかし、あと数か月もたてば、春が来て、朝焼けが目を楽しませてくれるようになり、早起き鳥のシジュウカラが鳴き始める季節になる。そして夏になれば、もう空は青空で、早起き鳥のシジュウカラはとうに出かけていて、カラスや蝉がなく時期になる。そして色々な花々が移り変わっていき、また夜空が楽しめる季節になる。そういう季節の変化を感じながら、思うことは、私たちは神の中に生き、動き、また存在していることだ。私たちは自分が一人で生きているかのように思っているのだが、神の細胞の中に組み込まれて生きているというべきか、あるいは宇宙と連動して生きているというべきか、そんな思いにさせられることがある。人間というのは、もっと謙虚にあらねばならないのであろう。私たちは一部に過ぎない。私たちをお造りになり、世界をお造りになり、人それぞれに決められた時代とその住まいを定められた神を覚え、今日一日を歩む、そんな意識を持ちたい。