ローマ人への手紙3章

1節で、パウロは反論者を想定している。つまり1章で非ユダヤ人の罪を語り、2章でユダヤ人の偽善的な罪について語った。非ユダヤ人とユダヤ人は罪人であることにおいて変わりはない。となれば、神の選びの民ユダヤ人に、どんなすぐれているところがあるのだろうか?と。それに対して、パウロは意外にも「あらゆる点から見て、大いにある」という。ユダヤ人は、神にある種の特権を与えられたことは自明の理である。つまりユダヤ人は非ユダヤ人にはない神のことばを与えられ、それに従って生きる特権を授かっている。それは実に、素晴らしい栄誉である。しかし、ユダヤ人は、そのような神に真実に応答したわけではない。となれば「神の真実を無にする」(3節)ことになるのではないか。パウロはたとえユダヤ人が不真実であっても、神の真実さに変わりはない、と断言する(4節)。

しかし反論者は、まだ引き下がらない。もし人の偽りが、対照的に神の真理を光り輝かせるなら、神の栄光を高めることになる。そうであれば、どうして、私は罪人として裁かれなければならないのか。神の正義を表すためには悪を行えばよいのではないか!(8節)と。パウロは言う。そのような神の裁きを招く中傷は聞くに耐えない(9節)、と。

最終的にユダヤ人という民族にすぐれているところは一体あるのか、と言えば、それは全くない。なぜなら罪人という点において、ユダヤ人も非ユダヤ人も変わりはないからである。「義人はいない。一人もいない」(10節)のだ。パウロは旧約引用によって人間の現実を指摘する。彼らは無知、無関心、無益である(11、12節、詩篇14:1-3)、その悪は、破壊的、欺瞞的、悪意のある舌に現れている(13、14節、詩篇5:9、10:7)、また虐待、争い、不信仰の行動に表れている(15-18節、イザヤ59:7-8)と。これらは、まず何よりもユダヤ人に向けて語られており、適用されている。つまりユダヤ人は、非ユダヤ人同様に、道徳的に破たんしていること、神のことばの前に無力である事実を認めなくてはならない。こうして、すべての人は神の律法の前に、罪人であり、神の栄光に達していないことが明らかである。それは同時に、人を救う方法としての律法が機能していないことを意味している。つまり、人間には、神の栄誉を得るための新しい方法が必要ということだろう。

21節以降、パウロは、それを説明していく。ユダヤ人は律法を守ることによって神との正しい関係に入ると教えられてきた。しかし、人は律法のあらゆる戒めを守ることもできないし、守ることもない。むしろそれは、人間の弱さ、愚かさ、を明らかにし、罪意識を生じさせるだけである。しかし、キリストが現れてくださったことによって、弱さ、愚かさに嘆く罪人が、キリストに救いを見出すことができるのだ、とパウロは語る。恵み深い神は、用意されたキリストという宥めの供え物を、信仰によって受け入れることによって救われる方法を提供してくださった。 ユダヤ人も非ユダヤ人も、この神の恵みによって、イエスキリストを信じる信仰によって義と認められる。もはや、ユダヤ人という民族性も、与えられた律法の要求を満たそうとする個人的な努力も無意味である。こうして誰も自分の義を誇ることのできる者もいない。ただキリストの贖いの行為を、信仰によって受け止めるだけであり、その神の義を認めるのみである。実際、神はユダヤ人のみならず非ユダヤ人すべての神であり、こうして唯一の神は万人に義しいことをなさることを知る。

では、最終的に律法は無意味かと言えばそうではない。信仰によって救われるという原理によって律法は存在意義を保ち、神の意図をも実現する。さらにパウロはそれを4章で明らかにしていく。

煩雑な議論のように思えるが、大切なのは、全ての人は神の前に罪人である、という現実を認めることである。あなたはイエスと言えるか。イエスと言えるのならば、その罪人が救われる方法として、神の恵みによる方法、キリストの十字架での身代わりの死、つまりキリストにある罪の赦しを認めることである。イエスを自分の救い主として受け入れて歩ませていただこう。