ローマ人への手紙4章

キリスト教信仰は、神の恵みを信じて生きることである。私たちをお造りになられた憐れみ深い神を、どこまでも信頼して生きていくことにある。罪人である私たちは、そのような神に愛されるような者ではないが(1,2章)、神がキリストの十字架において、神と私たちとの間を隔てる罪の壁を取り除いてくださったので、私たちはその神に恐れることなく近づくことができるし、行いによらず、信仰によって、神に受け入れられ、共に生きることを確信できるのである(3章後半)。パウロは4章において、これがユダヤ人の歴史の中で明らかにされた真理であることを二つの事例を通して語ろうとする。アブラハムとダビデである。

まず、アブラハムであるが、彼は旧約では義人の代表である。旧約に記された義人の中で、アブラハムを超える者はない。しかし新約では、キリストを「信じる者のすべての父」(11節)と呼ばれている(ガラテヤ3:1-18)。というのも、アブラハムが神に受け入れられたのは、行いによるのではなく信仰による、という理解があるからだ。4章で11回「みなされた」あるいは「認められる」と訳されたことばがある。このことばには、「口座に入れる」という意味もある。アブラハムが働いたことに対して、それにふさわしい報いが口座に振り込まれるというわけだ。しかし、アブラハムは、自分の救いのために働いてはいない。ただ自分を導く神の働きに単純に信頼しただけである。むしろ神が色々と働いてくださったのである。神の働きに対する報いが、アブラハムの口座に振り込まれたのである。同じように、私たちの罪の赦しのために働いてくださったのは十字架につかれたイエスである。そのイエスに対する報いが私たちの口座に振り込まれたのだ。私たちは、ただで口座に他人の報酬を受けたのだから、それは恵みとしかいいようがない。5節は、これを補強する。「神が不敬虔な者を義としてくださる」と。律法の教えは決して悪者を正しいとはしない。しかし神は不敬虔な者を義とされる。神は私たちの罪をキリストの口座に振り込み、キリストの義を私たちの口座に振り込んでくださった。

 

第二にパウロイスラエルの王ダビデの例を挙げる。ダビデはイスラエルの王であったが、自分の部下の妻を召しいれ、姦淫の罪が発覚することを恐れて、部下を戦争の前線に出し戦死させる大変な罪を犯した。彼はまさに救われる値打ちのない罪人である。そんな者を神は義とされる、とパウロは、ダビデの詩を引用する(詩篇32:1)。ダビデは、アブラハムと対照的に悪人が信仰によって義とされる例としてあげられていいる。

さて9節から、パウロは、再びアブラハムの例を取り上げ、アブラハムの信仰義認と割礼の関係について論じている。彼はユダヤ人読者をなおも意識していたのであろう。ユダヤ人にとって割礼は神との契約の目に見えるしるしであり、重要なものであった。となれば、信仰の原則は割礼の民だけに当てはまるものだろうか。パウロの答えは明確である。信仰によって義と認められた時に、アブラハムは無割礼であった。割礼の契約はアブラハムの生涯の後半で起こったことである(創世記17:10-14)。神が初めからアブラハムに求められたのは割礼ではなく信仰である。つまり信仰による義はユダヤ人に限定されず非ユダヤ人にも開かれた、神の恵みなのである。このように割礼が神に義と認められることと関係がないとすれば、アブラハムへの神の約束の430年後に与えられた律法はさらに関係がない、と言えるだろう。そして律法の性質は、「御怒りを招く」ところにある。つまり、律法は、それを守る者に祝福を宣言し、同時にそれを破る者にはのろいをもたらすのであるが、実際だれもそれを守ることはできないのだから、結局のろいが、神の御怒りを招く性質が、顕著となるものだからだ。律法は、罪を指摘し、キリストの十字架による救いへと人を招くのである。

さらに17節よりパウロは、アブラハムの信仰が意味していた重要な側面について読者に理解を促す。私たちが持つべき信仰は、死者をよみがえらせる神への信仰、いのちの信仰である。アブラハムとサラにはなかなか子どもが与えられなかった。その理由の一つは、彼らの自然の力が衰え、消え去ることを許すためである。99歳の高齢の男性が、89歳の妻の胎に子供をもうけるなど考えられないことだ。生殖能力からすれば、彼らは老人ではなく、死人そのものである。 しかし、アブラハムは信じた。その信仰が、死せる体にいのちを宿らせたのである。これは救いの実質を語っている。神は罪人が、もはや自分で自分を助けることができない状態になるまでご自身の救いの力を及ぼすことができない。失われた罪人が、自分には力があり、神を喜ばせることができると考えている限り、神の恵みにより頼むことはない。アブラハムの肉体に神の力が働いたのは、アブラハムが自分は死んでいると認めた時であった。同様に神が人をお救いになるのも、失われた罪人が自分は霊的に死んでおり、自分を助けることはできないと告白する時なのである。私たちが、神の祝福なくして一歩も踏み出せないと思う時にこそ、神に祝福してください、と素直に祈るべき時である。神は死せる体にいのちを与え、希望を与えてくださる。私たちがどうであったかなどとはおかまいなしに、神は、私たちの人生の流れを変えてくださるのである。

そしてそれは、ただ、キリストの働きによる。キリストが、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められ、神の愛顧を受けるために、よみがえられたのである。キリストがしてくださったことを信頼することが、私たちにとって全てである。主イエスを信じよう。