ローマ人への手紙5章

パウロは、4章において、罪人がどのように、神の前に義とされるのか、旧約聖書における二つの事例をもとに明快に語った。それは行いによらず信仰によるのである。続いて、この5章では信仰によって義とされた人々に与えられる数々の祝福について述べている。

第一に、神と「和解」(10節)し、神の怒りから救われ(9節)、神との平和を持っている(1節)、既に実現した祝福である。素晴らしい慰めのことばである。神は、私たちをもはや罪人でも敵対者でもない。キリストの十字架によって、律法の告発も、神ののろいや罰も、そして宣戦布告もとりさげられたのである。

そこで第二に、今の私たちは、神の「恵み」(2節)の中に導かれ、深く愛されている(8節)。ユダヤ人は神殿の幕によって神から遠ざけられ、非ユダヤ人は「この壁の内に入る異邦人は誰でも殺される」と警告された神殿の壁によって神から遠ざけられていた。しかしイエスが十字架で死なれた時に、幕は引き裂かれ(ルカ23:45)、壁は打ち砕かれた(エペソ2:14)。キリストにあってユダヤ人も非ユダヤ人も区別はなく、皆、直接神に近づくことが許されるようになった(エペソ2:18、ヘブル10:19-25)。そして神の恵みの中に入れられたのである(エペソ1:7,2:4,3:8)。

それによって、私たちは、喜びを抱いている。一つは、栄光にあずかる望みの喜びである(2節)。確かに死ぬべき肉体にある人間にとって、やがて未来において神の栄光に与るとは、大いなる喜びである。それだけではない、意外にも意外、患難も喜びとなる。人生に試練は付き物である。苦しいことを通らない人生はない。しかし、キリスト者にとって苦難は、真のキリスト者のしるしであり、私たちを向上させるものである。苦難は忍耐を生み出し、忍耐は、練られた品性を加え、練られた品性は希望を強化するのである。神が、私たちを愛することができるようになるためにキリストは死なれたのではない。神の愛は、昔も今も変わらなく私たちに注がれている。キリストはその神の義の要求を満たし、神の愛の確かなことを確証したのである。

注目すべきはこれらのことが、私たちが、まだ弱く、不敬虔で(6節)、さらに罪人(8節)であり、敵(10節)であった時に与えられた祝福だ、ということだ。だから11節、最後に神を「大いに喜んでいます」となる。信仰によって始まった新しい人生は、見えない神への信仰によって守り導かれ、強められ、栄光へと至らされる。至極当然な喜びである。これは「誇っています」とも訳しうる。私たちが罪人であった時には、誇りはなかった(ローマ3:27)。神の栄光には達し得ない者であったからだ(ローマ3:23)。しかしキリストにある今の私たちは、神の変わらぬ愛と、その愛の要求を満たしたキリストの義と栄光を誇ることができる。

さて12節よりパウロは、再びこの祝福がいかに有効となったのか、その原理について旧約聖書から別の角度から論じようとする。既にパウロは、アブラハムとダビデの例により、信仰の原理について語った(4章)。今度は、アダムを例に、創造の起源に遡って語ろうとする。これはローマ人への手紙の核心部分となる。そこでいくつかの点に注意しよう。第一に、11回繰り返される「一人」ということばに注目しよう。私たちはアダムとキリストと一体に考えられている。第二に5回繰り返される「支配」ということばに注目しよう。アダムとキリスト、それぞれの世界がある。最後に、原語で5回繰り返される「それにもまして」ということばに注目しよう。これは、アダムにあって失った以上のものをイエス・キリストにあって得ることを語る。つまり、この箇所は、アダムとキリストが対照して語られている。アダムの不従順によって罪と死の支配が始まった。しかしキリストの十字架の死に至る従順によって新しい命の支配が始まっている。アダムの堕落がその子孫に罪の影響をもたらしたが、キリストの義はキリストを信じる者に与えられる。アダムと連帯し、アダムと共に生き続けるか、それとも、キリストと連帯し、キリストと共に新しい人生を生きていくのか、それは大きな違いをもたらす。私たちは今既に、あるがままにおいてアダムと共に生きている。しかし、神はもう一つの人生を備えてくださった。キリストと共に生き、アダムののろいを退ける人生である。アダムの罪によって、全ての人類は、裁きと死に定められた。しかし、キリストはアダムが罪を犯したがゆえに失われたすべてのものを回復したのみならず、「それにもまして」私たちを神の子とする偉業を成し遂げたのである。

ただ、アダムとキリストについての議論全体において、モーセはどう位置付けられるのか?旧約聖書においては、重要なポイントである。アダムとモーセ(律法)と、キリスト(福音)と三つの要素を、キリスト教信仰はどのように理解すべきなのか。パウロは、20節において簡潔に語る。モーセ(律法)は、救済の歴史において、一時的な意味を持った。救済史の始点(アダム)と終点(イエス)の間にあって、それは、人間の違反を明確にする実際的な意味があった。律法は罪を明らかにし、人間の罪の実態をはっきりと認識させる。そしてそこに神の恵み、いわゆるキリストの福音の必要性を理解させるのである。アダムとキリストの関係を一層明らかにするため、モーセが挿入されたのである。神の救済の歴史の体系が明確にされている。アダムからもモーセからも自由にされた歩みをしたいところであろう。