ローマ人への手紙6章

これまでの流れを少しまとめておこう。1-3章においては、すべての人間が罪人である現実が語られ、神の栄誉を受けることができない状況にあること、その状況からの救いに必要なのは、神の御前に善い行いを積むことではなく、神が備えてくださったキリストの十字架の贖いを受入れ信じること、つまりキリストの義を自分のものとすることが語られた。4章では、旧約聖書からアブラハムとダビデの例が、5章ではアダムの例があげられて、信仰による救いの理論とその本質が語られた。6-8章は、信仰による救いの教理に反論する諸説に弁証する内容となっている。

それは第一に恵みの教理そのものに対する嘲笑的な反論である。つまり神があわれみ深く、赦し続ける方ならば罪人のままでよいではないか(ローマ6:1-14)、人は罪を犯し悔い改める度に神の赦しの恵みをそれだけ多く経験するのだから、というわけである。そうなると罪を犯し続けた方がよいのではないか、(ローマ6:15-7:6)という極論も生まれる。

よく考えてみれば子どもの屁理屈のようなつまらぬ問いである。しかしこういう質問に対して丁寧に答えねばならなかったところに、当時の伝道のやっかいさがあったのだろうし、そもそも基本的な教理はしっかり理解しておく必要があった。キリスト者の生活は、キリスト者として日々何を心に留めているかにかかっている。真のキリスト者になるためには、みことばの真理全体を知り、行うことに全生涯を注がなくてはならない。

ここでパウロが教えている基本的な教理は、信仰者は、キリストの死、埋葬、そして復活と一体になった、ということである。私たちがちょうどアダムと罪と裁きにおいて一体であったように、今度はキリストの義と義認において一体となるのだ。だから、キリストの恵みが豊かであるから、罪を犯し続けてもよいと考えることは、大きな勘違いだとなる。そもそもキリスト者になることは、罪に死ぬことである。キリスト者になるためのバプテスマ(洗礼)という儀式を通過したあなたがたは、逆戻りできないのだ、というわけだ。バプテスマはお葬式である。古い自分にさよならをしたのだ(3節)。また入学式だ。逆戻りできない新しい歩みを始めたのだ(4節)。さらにそれは、キリスト共に、どんな苦労も分かち合う新しい関係を持つことを意味する、いわば結婚式を終えたようなものだ、と(5節)。そして、事実、私たちには、新しい命がある(7節)。これまで否定してきた神を認め、神に対して責任をもって生きている者なのだ、というわけだ。

そこにはパウロの実体験が反映されている。パウロは、自分自身の体験から、律法があっても人は堕落し、人間的成熟も達しえないだけではなく、神との平和を得ることもできないと知っていた。彼は復活のキリストにこそその解決があることを、恵みの経験によって悟らされていた。人が自分の人生を復活されたキリストと御霊の力にゆだねる時に、内なるものは根源的に変革されるのである。新しい性質が育ち、御霊の実が生み出されていく。だから、今まで不義の器として自分のために悪用していた手、足、目、耳などを、今度は義の器として、神と人の益になるように用いていくようにと勧める。「罪はあなたがたを支配することがない」「あなたがたは恵みの下にある」だから、そのように生きることだ、と。

15節以降、パウロは、これを奴隷市場のたとえを用いてさらに説明する。キリスト者は、もはや罪の奴隷ではない、かつてあなたは罪の奴隷であったかもしれないが、今は新しい主人、つまりキリストの所有に移されたのだ、という。かつては罪が命じるすべての悪を行うように強いられていた。あなたがたは奴隷だからそれを拒むこともできなかった。そして罪の奴隷の結末は「死」であった(16、21、23節)。しかし、今やあなたがたは違う主人のもとにいる。あなたがたは、今やキリストの奴隷なのだ。勘違いしてはいけない。もはや、取引は終了している。罪の奴隷であったのは過去のことである。今や、罪から解放されて、義が命じるすべての善を行うようにされているのだ。だから当然「聖潔に進みなさい」となるだろう(19節)。キリスト者は性格改造や生活改善を目指しているのではない。神の新しいいのちを与えられた者である。古い自分に一度死んで、新しい神の復活のいのちに生きている者である。バプテスマは私たちの葬りであり、復活である。私たちは生ける神、その神の新しいいのちに生きているのである。キリストの復活の力に信頼する新しい人生を積極的に歩ませていただこうではないか。