ローマ人への手紙7章

先にパウロは、奴隷と主人の関係から説明したが、この7章では妻と夫の関係という観点から、律法からの解放について説明している。今やキリスト者は、イエス・キリストと結び合わされ、律法に対しては新しい関係にある。男と女が結婚をすれば、彼らは一生結婚についての法の定めに縛られることだろう。この関係を解消するのは死のみである。だから、もし、女性が男性の生きている間に別の男性と関係するなら、姦淫の罪を犯し、悪評にさらされるが、夫が死んでいれば、そうではない。同じように、私たちがキリストと共に死ぬのなら、律法との絆は断たれることになる。そしてキリストと共に復活した私たちは今やキリストに結ばれている。私たちにとって重要なのは、キリストとの新しい婚姻関係にある。神のいのちと愛に縛られて生きていること、つまり、神に愛されていることをうれしく思い、喜びに思い、そこから真心から神に仕える良い人生を味わうように生きていくことである。

ここで「律法」ということばを整理して理解しておこう。ペテロは、律法を「私たちの父祖たちも私たちも負いきれなかったくびき」(使徒15:10)という言い方をした。しかし、パウロは、律法と、ペテロが言い含めた「昔の人たちの言い伝え」(マルコ7:5)を区別している。それは、モーセがシナイ山で書かれた律法とともに受け取ったものと思われ、モーセはそれをヨシュアに手渡し代々受け継がれていき、当時の学者たちに受け継がれたものと考えられた。割礼や、食物規定、安息日といった民族主義的なもののことである。ガラテヤ書で問題になっているのは、この人種的な特定の行いとしての律法であるが、このローマ7章でパウロが問題にしている律法は、そうではなく、モーセが神に与えられて成文化された本来的な意味での律法であろう。

だから、パウロは、その本来的な意味での律法について、その機能について7節以降説明していく。キリストの恵みによる救いの原理が明確にされた以上、旧約聖書のモーセの十戒、いわゆる殺してはならない、盗んではならない、といった教えは、もう不要なものなのか。いやそうではない。第一に律法は罪を明らかにする。神の律法という光に照らすることで人間の罪が見えてくる。「人のものを欲しがるな」というおきてがあるからこそ、人は「人のものを欲しがっている」自分の罪人の現実を悟らされる。そして8節、律法は罪を明らかにするだけではない、罪を刺激する。実際には、罪へと誘惑する力となって働くことがある。人間の心は、不思議なもので、「だめだ」と禁止されればされるほどにしたい心が起こってくるものである(10節)。律法は、罪を誘発し、罪は人を死に至らしめる。これはパウロの経験に照らして語られているものの、人類一般に普遍化しうる真理である。

重要なのは、12節。問題は律法ではない、ということだ。律法は聖なるものであり、正しく、よいもので、霊的である。本当の問題は人間の心の中にある「罪」そのものなのだ(13節)。つまり前の厳しい夫の記憶に生きる自分自身の問題なのである。新しい関係に立ちえないでいる私たちの問題である。問題は罪である。普通罪といえば、具体的なもの、たとえば、人から物を盗むとか、人を殺すとかを考える。しかしここで言っている罪は、もっと心の奥深くに潜む、ある種の得体のしれない力のことだ。それが、私に自分でもしたくないことを行わせている。21節では、悪が宿っているという言い方をしている。それが、私たちを神の期待にそぐわぬ人生へと引き込んでいくのであり、パウロは「私は、ほんとうに惨めな人間です」(24節)と語り、自分がこの力にいかに無力であるかを正直に告白している。パウロは、自分の心の現実と向かい合い、心の聖さを得る戦い、愛や義において成長する戦いを意識している。実に、信仰生活というものは、それなりの心がけや覚悟がない限り向上することはない。どこかで腹を決めて、これに取り組み、神の導きに従っていこうという決断と従順がなければ成長はありえない。しかし、肉の力でその成長を達成することはできない。偽善的に勝利することはできても、神の期待に沿った歩みをしていないし、歩むこともできていない現実を思い知らされるのみである。

霊的向上の志も主に与えられるのだ、という遜りが必要なことは言うまでもないが、霊的向上を意識する時に、そこに古い自分と新しい自己のせめぎ合いというべき緊張関係に置かれざるを得ない。そこに勝利を与えてくださるのは、御霊の力である。8章でその恵みについて教えられることになるが、感謝すべきは、そのような私たちを見捨てることのない神の愛、十字架に示されたイエスの罪の赦しのためである。私たち見捨てられることはない。その主に助けられて新しい人生を、前に前にと歩ませていただくことが大切なのだ。